飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

偶然と踊る、ダンシーな〈身ぶり〉、の祝祭について/五十嵐耕平・ダミアン・マニヴェル『泳ぎすぎた夜』

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映画『泳ぎすぎた夜』オフィシャルサイト

Ⅰ.〈子ども〉の世界へ

 通学路を抜けて一面雪に覆われた小さな森の中に入る。深雪に足が埋もれるたびに残される足跡。自分の存在が確かにあったことにいくばくかの不思議を覚えて立ち止まり、次の瞬間にはまっさらな雪原へ一気に倒れ込む。見上げられた空は冷たく青く自分と世界のピントがずれてしまったかのようにうすぼんやりと広がっている……。
 というような体験を雪国育ちの誰もがしているのか、それとも僕しかしてないのか(そんなわけないだろうけど)わからないが、例にもれず『泳ぎすぎた夜』に僕もそんな風な幼いときの記憶を呼び起こされたりしたのだった。五十嵐耕平ダミアン・マニヴェルが共同監督で企画して、五十嵐が雪を、ダミアン・マニヴェルが子どもを撮りたいといったことから本作が誕生したとヱクリオのインタビューでユーモラスに語られている*1。それが本当なのかわからないが、確かに本作からは雪と子どもの二つの想像力が絡み合う独特の詩情をたたえた世界が立ち上がっていた。

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 父親に会いに行くために魚市場へと冒険する少年の話と一行でまとめられるほどに物語はシンプルで、全編を通して台詞を使ったコミュニケーションが描かれることなく、唯一明晰に発話される台詞は吠えかけられた少年が犬に「アン!」と吠え返してみせるシークエンスだけ、ということからもわかることだが、本作は徹底して世界が未知なる迷宮としてあるであろう〈子ども〉の感覚に寄り添うことで成立している。つまり、この映画体験の肝は誰がどうしてこうなった式の物語性になんかなくて、ただとにかく起こっているとしか言いようのない〈子ども〉の運動から継起されていく未然形の「ダンシー」な時間にあるわけで、そのことにまず驚いてしまう。
 その運動性については後で触れるとして、まずは誰もがすぐさま気づくであろう子どもの目線より低いローアングルで固定されて下からあおるように撮影される本作のカメラワークに着目してみよう。例えば冒頭の「絵」のシーンでは冒険に出る男の子の家の階段がまさに下から上にあおるように撮影されていため、その奥の窓から見える空は全然手の届かない異世界に伸びているようにも感じられる。そこでは〈子ども〉が世界に対して抱く空間の感触がそのまままるごと観客の内なる〈子ども〉性を刺激してくる。逆に、極めて対称的な構図として印象付けられる俯瞰で撮られるまちのロングショットからは、なにか得体の知れない複雑で不可思議な迷宮―つまり〈子ども〉時代のまち―の感触が呼び起こされるのである。

Ⅱ.山下論考への疑問

 ところで、先の五十嵐監督のインタビューで主演の鳳羅少年(6歳)は青森・弘前へのロケハン中に出会ったとあるが、どうも映画に出てくる家や魚市場は実際に鳳羅くんの住む家やお父さんの職場であるらしく、ヱクリオWEBのレビューで山下研は五十嵐映画においてはドキュメンタリーとフィクションが同時に成立しているということを指摘している(「夢よりも深い覚醒を――五十嵐耕平論」)*2アンドレ・バザンの映画論を参照して山下が言うには、映画は機械的・光学的に現実を転写して記録する。しかしそれは単なる外界の記録ではない。現実を糧としながら想像力がそれに取って代わろうとせめぎあう二重性をまとったイメージである。それが現実の信憑性を持ちながら隠れた真の意味を捉える「真のリアリズム」を可能にする。いわば映画は現実の詩的な位相を捉えると山下≒バザンは言っているのだと言い換えることもできるだろう。そして、俳優ではない鳳羅少年を観察するドキュメンタリーであり、なおかつ父に絵を届けに行くフィクションでもある『泳ぎすぎた夜』は「現実よりも深い覚醒」へと観客を導くのである。
 このように展開される山下の分析は―その後段に「夢よりも深い覚醒」の議論が続くがその点については山下の本論を参照していただくことにして―すこぶる説得的だ。しかし、疑問もある。現実と虚構の二重性が隠された現実の意味を捉えるというときに、どうして現実と虚構は重なることができるのだろうか? これは依然として謎のままなんじゃないか。と同時に、その両者の重なりを可能にする「蝶番」的な役割を果たすものから本作の魅力を語り直すこともできるということを本稿では言ってみたいと思う。
 では、その「蝶番」に位置するものとはなにか。それはとても単純にそこにあるものとしてあるもの、つまりは鳳羅くんのとにかく気づけば動いてしまっている〈身ぶり〉である。

Ⅲ.〈子ども〉は〈身ぶり〉する

 彼はとにかく寄り道して逸脱してよく動く*3。そもそもお父さんに会いにいく「小さな冒険」は通学の最中に校庭へ入っていったと思ったら戻ってきて、そのまま雪の下に埋めていたみかん―だから冷凍みかん!―をぽんと口に放り込んでフェンスを超えて脇道へ逸れるところからはじまるのだから。それからも、彼は停止するということがなくて、例えば階段で一休みするシーンなんかでも、その左手の指はもぞもぞ動いていて、ずるっと階段からお尻を落としてしまったりする。昨晩一生懸命描いた魚市場の絵も気づけば手から離れて地面に落ちている。このときの落とし方が重要である。それは鳳羅くんの注意が前方へ向いたと思ったら思いがけず、いわば不随意的に落ちてしまっている、という落とし方だ(ここに犬と子どもの差異がある。犬は思わず落としてしまっていたのようなズレをもたらす不随意運動を知らない)。このほかにもストーリーのレベルではほぼ不要に思われる寄り道・脇道・逸脱していく彼の運動性はまさに五十嵐監督が「僕たち大人が考えた子供のイメージではなく、彼についていこう、彼の世界に行ってみようと思いました」とインタビューで語る通りにスクリーンに立ち現れる。それゆえに、僕はこれを〈身ぶり〉の映画だと思うのだ。
 前意識的に不随意的に起こってしまっている、生じてしまったという風にしてしか意識できないー岸井大輔の言い方を借りればーポストコンテンポラリー(後-現在)な行為、それを僕は〈身ぶり〉と呼んでいる。〈身ぶり〉は計画したり企てたりすることのできない主語を欠いた述語的行為であり、そのためにわたしが行為することから生じる出来事ー例えば電車に乗るという行為から因果的に帰結する目的地に着くということーと世界の側で生じている出来事ー例えば電車が走りA地点からB地点に複数人の身体が運ばれていたということ―のあいだの区別を溶解させてしまう。
 例えば、電車がやってくるのを待つ鳳羅くんは待合室でごろりと寝転がっているわけだけれど、続いて電車がやってきてホームに停車するショットでは待合室の中は見えなくて、あれこの子、寝ちゃってるんじゃない? 電車来てるのに気付いてなくない? と思わされてとてもハラハラするというのは、次にこうするだろうという安定した未来への軌道を予測できない存在としての〈子ども〉の時間を象徴的に示している。
 このとき、鳳羅くんは「電車に乗ろう」として電車に乗ったのか、それとも―常識的には奇妙な言い方になるが―世界の側で生じている偶々の出来事のひとつとして鳳羅くんが「電車に乗る」ことが起こったのか、その違いが限りなく零に近づく。結果的に自然に起こった現象と鳳羅くんの行為はどちらも生じてしまったと事後的に理解される〈身ぶり〉の次元に移行して合流する。この地点において、世界に起こることと、鳳羅くんの内面=気分=身体に起こることは同じ一つの実在として理解しうる視野が開かれる。噛み砕いて言えば、スクリーンに映し出される鳳羅くんは次に何をするのかわからない予測不可能性という点において、次に何が起こるかわからない世界の側の自然現象にすごい近いということだ。
 それゆえに、父親のもういない魚市場にたどりついたのち頭の部分だけをつけて壁によりかかる鳳羅くんのくにゃっとしたユーモラスな姿勢の〈身ぶり〉のうちに、彼の内面への感情移入とは異なる、いわばすでにいつも起こってしまっている官能的質感としてのポエジーが感じられるのであり―もしもあのクニャっとした感じの生起がなかったならば台無しだ―、その後に訪れる猛吹雪を私たちは鳳羅くんとなった世界に生起してくる情動的なクライシスであるように受け止めることができるようになる。ここで鳳羅くんの寄りかかる姿勢に立ち上がる質感と天候が変わり荒れ狂う猛吹雪の立ち上げる質感は、どちらも自然に起こってしまっている同一の現象的な〈身ぶり〉として知覚されうるのである。(ただし、猛吹雪が感情を説明するための書き割りではないことに注意したい)。

Ⅳ.「映画」と〈身ぶり〉はよく似ている

 だから通年に反して〈身ぶり〉をするのは人間(主体)ではなく世界なのだ。人間が〈身ぶり〉するのではない、世界が〈身ぶり〉するのである。より正確に言えば、人間に起こってくる〈身ぶり〉は、主体の意志とは無関係に世界の側で勝手に起こってくる現象的な実在/マテリアルとしての人間=身体があったことへの事後的な認識をもたらす。
 だとするならば、この〈身ぶり〉の機能は現実よりも深い覚醒をもたらす「真のリアリズム」のそれとよく似てはいないだろうか? 「映画」が現実と虚構の二重性をまとったイメージから気づくことのなかった現実の他者性を知覚させるのだとしたら、〈身ぶり〉は意識したときには起こってしまっている時差を孕んだ二重性から現実の他者性を知覚させることを可能にする。
 ここで「現実/虚構」の位相的な対立軸は「起こっている/起こっていた(ことに気づく)」の時間的な対立軸とパラレルな関係を持っている。「映画」も〈身ぶり〉も、私たちが日常を過ごすなかで普通に知覚しているそこかしこで実は生じている直接的な「実在」に私たちの感覚を開かせる機能を持っているという点では変わらないのだ。
 ところが、そこには重要な違いもある、ということを僕は言いたいわけで、仮に〈身ぶり〉という視座から『泳ぎすぎた夜』を解釈することが許されるなら、山下が言うような「『役を演じるその人自身が映画という虚構世界のなかに“実在”する』という両義性」は、観客が映画を見ている知覚される現在ー〈身ぶり〉的現在ーにおいては特に機能していないと言いうるからだ。
 例えば山下においては、現実と虚構の両義性は鳳羅くんが素人か俳優かという軸に重ねて理解されている。しかし非常に素朴に言って、もし仮に鳳羅くんがドキュメンタリーと見紛うばかりのものすごく「自然な」演技ができる天才児であったとしても、本作の魅力はいささかも損なわれない。結果的にそこに現実への深き覚醒を開くなにがしかが起こっていればよいのだし、鳳羅くんが本職の俳優であってもなくても観客としてはどっちだってかまわないわけだから。したがって一方に転写される現実ー弘前市に住む6歳の少年ーがあって、もう一方に想像上の虚構ー冒険する少年ーがあるというのは不要な前提であり、むしろ本作はそういう現実と虚構、フィクションではないものとフィクションであるものという二項対立そのものを無化する〈身ぶり〉の地平を開く、というのが僕の見立てだ。
 すなわち、現実と虚構があたかも重ねられているかのような錯覚を作り出す蝶番が〈身ぶり〉であり、裏を返せば現実/虚構の二項対立を無化して知覚される現在へとひたりつき一元化するのが〈身ぶり〉なのだ。しかし、なぜそのように言えるのか。その対立はいったいなぜ生じるのか。

Ⅴ.〈身ぶり〉と時間―現実/虚構/実在

 〈身ぶり〉は現実/虚構の二項対立を無化する一元的な実在の地平を開く。そのことの意味を明らかにするために、ここで「現実/虚構」の二重性についても「時間」との関係から論じてみよう。
 現実と虚構が重なっていると言いうるためには、〈いま・ここ〉ではないどこかで記録された「過去」なるものがあり、それがあるプロットに即して配置されていると言わねばならないだろう。そのときに観客は、①記録された現実、②再配置された現実、③スクリーンを見ている現実の三つの位相を映画館で体験することになる。本論の文脈からすると①がドキュメンタリー、②がフィクション、③が劇場体験である。山下が言う重なり・せめぎあいは、つまり①記録された現実と②再配置された現実の重なりを意味している。ところが〈身ぶり〉において問題になるのは③の地平である。③の現実はドキュメンタリーでもフィクションでもない、端的にスクリーンに何がしかが映写されるというそこに起こってしまっている出来事の体験、観客とスクリーンのあいだに起こる直接的官能の地平である。
 これを「時間」の視点からパラフレーズしてみよう。①記録された現実は「記録された過去」なわけだから、「起こっていたこと」であり、ドキュメンタリーとは「起こっていたこと」が起こったままに提示される(とみなされる)観察の時間を構成する。②再配置された現実は「再構成された過去」であるから「起こっていたこと」にプロット的な秩序を与えて物語の時間を構成する。とはいえ、山下が峻別した「弘前市に住む6歳の少年」/「冒険する少年」のどちらにしても、どこかにかつてあった「記録された現実」の転写、つまり「起こっていたこと」に立脚している。
 しかし、③スクリーンを見ている現実だけは、「起こっていたこと」でもなければ、「起こっていたこと」に統一的な秩序を与えたものでもない。意味的な秩序を欠いて「起こっていること=現在」そのものなのであり、ここに「現実/虚構」という枠組みを相対化する根本的な対立軸が潜んでいる。
 なぜこの違いが生じるのか。「起こっていたこと」によって立つ①/②のフレームは、カメラで撮影して編集するクリエイションの立場からスクリーンに映写された出来事を捉えたときに生じるパースペクティブだからだ。撮影・編集されて「映画」というコンテンツに落とし込む作業は、当然、観客が「こう見るだろう」という予期をもとにしてしかありえない。したがって、観客の視点を先取りして時間を構成するというクリエイションの立場が「起こっていたこと」に立脚する①/②の条件となるのであり、ひるがえって、転写される現実と観客の視点の分裂が①と②のあいだの「/」を生じさせるのだ。
 それに対して③のフレームはおよそ観客の視点を先取りするという前提を放棄することからしかありえない。なぜなら「起こっていること=現在」の徹底は、観客がどういう予期をするのかとは無関係に端的にそこで勝手に起こっていることでなければならないからだ。もし観客の予期を繰り込んでしまったら、それは①/②の方へとずれ込んでしまうのは自明の理だろう。つまり、クリエイションの側が想定する観客とは無関係にいつもすでに生じてしまってしまっている、そして生じてしまったあとにしか認識することのかなわない「実在」の地平を顕わにするのが③のフレームである。〈身ぶり〉は映画を「機械的に転写された過去を編集したもの」としてではなく、「いまここで生起している実在」として理解するパースペクティブを開くのだ。

※ここでいう「生起している実在」は、超越論的に認識される「現実」とは異なる、それはあったと事後的にしか開示されることのない不可視のモノの位相を指している。これは生成の働きにおいて生起する「存在」に非常によく似ているが、その「モノ」には生成の働きが開示する民族的/歴史的意味が顕れてくるわけでもない。個々人のバラバラな知覚を触発する存在論的位相である。そういう風に僕は「実在」という語を使っているわけだけれども、その具体的な展開は後日に譲らざるを得ない。

Ⅵ.偶然の祝祭へ―フィルムvs〈身ぶり〉

 さて、いささか恣意的であるかもしれないことを厭わずに、クリエイションの立場からなる「起こっていたこと」を中核とした①/②のフレームをフィルム中心主義と、徹底された〈現在〉の立場からなる「起こっていること」を中核とした③のフレームを〈身ぶり〉中心主義と呼んでおこう。フィルム中心主義は、観客の予期を繰り込みつつもフィルムの上で作品が完結するが、〈身ぶり〉中心主義は、観客の予期を繰り込まないがゆえにフィルムの上で作品が完結しない。
というと、その〈身ぶり〉中心主義というのはちょっと無理があるんじゃない? と疑問に思われる人がいるかもしれない。観客の予期を繰り込まないというのは、「記録された現実」であるはずの映画に「記録されていない現実」であることを要求する無茶振りだからだ。これは明らかなるパラドックスを構成しているわけで、端的に矛盾している。すでに何が起こるか決定している「記録」において事前の視点を徹底させるクリエイションの企てというのは不可能なのではないか。だとすれば、理念はどうであれ実際的にはフィルム中心主義に立たない限り、「映画」を撮ることも見ることもできない。
 しかし、その矛盾を解消するために用いられたのが、ほぼほぼ次に何をするのか予期できない鳳羅くんの〈身ぶり〉に寄り添うという方法だったのではないだろうか。これまで見てきたように〈身ぶり〉には虚構か現実かは無関係であり、起こっているかいないかしか基準がない。何が起こるか予期できないー常にズレが生じるー〈身ぶり〉の記録は、記録であると同時に〈現在〉に起こっていまっている出来事でもある。ゆえに、それは劇場の〈現在〉=実在の相とピタリと一致し、徹底された〈現在〉の知覚を可能にするのである。そうすることで、『泳ぎすぎた夜』は生起する〈現在〉ー記録されていない現実ーを捉えることに成功した稀有な映画だと僕は思う。
しかし、それが確かだとしても、それは本作の魅力の「基礎」を探り当てたにすぎないとも言える。〈身ぶり〉の地平が可能にする『泳ぎすぎた夜』の真にセンスオブワンダーな魅力は、「都合がいい展開」ともとれるほど偶然が折り重なることから次の行路が開かれていくそのプロットに発露しているのだから。最後にそのことに触れてみよう。
まず「魚市場の父親に会いに行く」目的なんて本当はなかったんじゃないかというくらいに、鳳羅くんの運動する道行は寄り道・わき道する逸脱に彩られている。確かに彼は最終的に魚市場にたどり着くし無事に帰宅できるのだけれど、ではどうやってその冒険を無事に終えられたのかといえば、何もかもがすべて「偶然」の力によっているのだ。偶然に市場にたどり着けるのだし、偶然に帰宅できる。それはほとんど奇跡のようだ。だから、ともすれば作劇上の都合によった虫のいい展開だとそれを非難することだってできるだろう。
 しかし、その偶然が折り重なっていく展開が「都合がいい」と見えるのはフィルム中心主義からの物言いである。〈身ぶり〉中心主義からすれば、鳳羅くんの〈身ぶり〉が事細かく断絶されつつ持続する不連続の時間によって特徴づけられるように、その物語を構成する時間には、偶然の断絶と跳躍がギクシャクしたリズムを刻む不連続の時間が本質的に要請されているのだ。偶然に魚市場のトラックを見つけて、偶然にデジカメの写真データから魚市場を見つけ、偶然に荒れ狂う吹雪に直面して、偶然に―本当になぜか!―鍵のかかっていなかった車に乗り込み帰宅する。フィルム中心主義からは著しく因果的な必然性も隠喩的な意味合いも欠乏させているように見えるそれは、しかし事後的にしか知覚し得ないただ単にそこに起こっているとしか言いようのない「実在」に依って立つがゆえであり、そのレベルでしか起こりえない―西本ケンゴの言い方を借りれば―「偶然の祝祭」を巻き起こす。それは世界が偶々にあることをまるごと肯定してしまう〈子ども〉の時間、偶然と踊るダンシーな〈身ぶり〉の祝祭なのだ。『泳ぎすぎた夜』を〈身ぶり〉の映画と言うのは、まさにそれゆえなのである。

 山下の五十嵐耕平論を「踏み台」にしてここまできた。かといって僕が山下と別の結論に達しているというわけでは多分ない。「現実の他者性」や「現実よりも深い覚醒」と言われる事態を、僕は〈身ぶり〉の視座から「偶然の祝祭」と呼び替えたのだと言ってもいい。ただそこで現実/虚構の二項対立を想定してしまうことが、偶々に起こってしまっている「実在」という現実の水準を見えにくくしているように思われるのだ。その見えにくさの意味について、僕は主に演劇の側から探求しているわけなので、もしかしたら〈身ぶり〉の視座を確定できれば、映画と演劇の区別そのものすら不要になるかもしれない。あるいは、まさにそれをしているのがチェルフィッチュの映像演劇なのだと想像を膨らませることもできるだろうか。
 いずれにせよ、「泳ぎすぎてしまう」夜の時間はいつもすでにそこにある。本作は私たちにそのことをそっと告げている。

*1:ecrito.fever.jp

*2:ecrito.fever.jp

*3:子どもの身体的ノイズへの同期と言う視点は伊藤元晴のレビューが参考になる。

ecrito.fever.jp

演劇がこんなに”普通”でいいのかしら?/岸井戯曲を上演する in Osaka #0

岸井戯曲を上演する in Osaka #0

12月27日(水)

阿倍野長屋(大阪) 

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1,普通の演劇

 普通の演劇、という言葉で何を思い浮かべるだろう? 演劇関係者ではない一般人が観る演劇、あるいは誰にでも受け入れられるオーソドックスな演劇、または取り立てた特徴のない退屈な演劇。コンテクストいかんでもちろん意味は変わってくるが、大阪の「阿倍野長屋」で開催された「岸井戯曲を上演する in Osaka #0」は、「普通の演劇」という語が、まさにぴったりだと感じられるイベントだった。
 12月27日(水)の一日だけ開かれたこのイベントは、伊藤拓也・岸井大輔の共同企画で、岸井の戯曲6本を、関西圏のアーティスト6組が上演するというもの。横浜・blanClassの「岸井戯曲を上演する」シリーズ関西版とも言える。

 岸井大輔という劇作家を知らない読者もいるかもしれない。彼は1970年生まれの劇作家。とはいっても、彼の戯曲は何らかの意味で現実の模写であるようなリアリズム(写実主義)の形式をとらない。役名もないし、時にはドラマすらなく、ほとんど論考に近い〈戯曲〉すらある。それではポストドラマなのかというと、例えばベケット『クワッド』のように幾何学的な運動が指定されているわけでも、ハイナー・ミュラーハムレットマシーン』のようにト書きや台詞の区別がはっきりしない詩的なモノローグでも、イェリネク『光のない』のように小説との境界が極めて曖昧になった「テクスト」でもない。岸井は、それらを包括する一般形式を定義した上で、美術でいうところのインストラクション、あるいは企画書、論考やエッセイに属するとみなされるだろうエクリチュールも含めて、「戯曲」と呼ぶのである。例えば次のような戯曲がある。

『本当に大事なことはあなたの目の前でおこらない』

タイトルが「本当に大事なことはあなたの目の前ではおこらない」であることを明示の上、宣伝する。
観客が、タイトルを知った上で所定の上演会場に来られるようにする。
上演場所は、劇場などなるべく標準的な上演空間がよい。
上演場所の入り口の前に、中へ入れないように障壁を作る。
来た観客一人ひとりに、以下のメッセージを伝え、納得させる。言葉で伝えなくてもよい。

この中で起きていることはあまりにも個人的で大事なので、あなたに見せるわけにはいかない。

例えば、あなたは、恋人との別れや、友人との親密な会話や、子供に大事なメッセージを伝える瞬間を他人に見られてもいいのか。もし、よいとしても、他人に見られているときとそうでない時では違うことになるだろう。

今、この中で起きているのはとても大事なことなのだ。……(中略)あなたの目の前で行うにはあまりにも個人的で本当に大事なことなのだ。

 なぜこれを戯曲と呼びうるのかは、デュシャンの『泉』を前にして、なぜそれを美術と呼びうるのか困惑したように人は困惑する(ただし、岸井には制度破壊的な意図は薄いように思う。それよりはネオダダ的な構築性が色濃い)。岸井によれば、なにかをはじめるきっかけになるものはすべて戯曲である。そして戯曲をきっかけにいまはじめられた活動が「良い演技」であり、その活動に参加する人びとが互いにそれぞれの活動に納得している複数の人びと―集団―が「美しい演劇」である。だから、彼はハンナ・アレント『人間の条件』を戯曲として、東京に住む人々に「公共」を演じさせる「美しい演劇」―公共をはじめることに納得して活動する集団―を構想してみせたりもする(『東京の条件』)。
 奇しくもオウム真理教地下鉄サリン事件によってアングラ小劇場演劇運動に一つの終止符が打たれ、平田オリザの『東京ノート』が岸田國士戯曲賞を受賞した1995年。岸井は「ジャンルを定義することでジャンルを更新する」ジャンルの形式化へと歩を進めていった。戯曲の「日本語」を問い直すことで「近代演劇」のやり直しを図った「現代口語演劇」のムーブメントが本格化していったのと同時期に、岸井は平田とは別ルートで「戯曲」概念のアップデートを準備していった。

2,ポストインターネット演劇

 さて、最初に企画全体について触れつつ、その特徴を考察してみる。
 本企画は6本の岸井戯曲の上演からなるわけだが、阿倍野長屋は「劇場」ではないので、各上演は家屋一階の座敷や二階の居間といった複数の場所を使って行われる。そこで観客はまず①『メイド喫茶の条件』を一階で観劇したと思ったら、次の②『本当に大事なことはあなたの目の前でおこらない』・③『ふるまいのアーキビスツ』を二階で、次の④『東京の条件』は一階、⑤『文(かきことば)』は二階、そして最後の⑥『演劇は面白いものです』を一階で観劇、というように何度も場所を替えながら、家屋に散らばる戯曲の断片を渡り歩くように観劇することになる。しかも各上演はそれぞれ20〜30分程度だから、腰を落ち着けてじっくり見るような上演体験、というわけにはいかない。
 それに、観客の役割も上演によって異なる。例えば①では観客と舞台に切断が生じないような―だから観客もすぐにその輪に入れるような状態で―コーヒーを沸かして雑談をする4人の男たちに「聞き耳を立てる」同席者になる。②ではパソコンを持って20分間ただ立っているだけの「展示された男」を見る鑑賞者である。③⑤は半シアター形式、④に至っては、観客参加型のかるた大会が主であり、⑥では擬似的なワールドカフェ方式を採用したワークショップの参加者の役割が与えられる。
 だから、ここで観客は空間的にも立場的にも、文字通り自らの立ち位置を常に揺るがされていく。見知らぬ街が、いつのまにか暗号を孕んだ迷宮へと変わる体験をベンヤミンは「遊歩者」の陶酔として描き出しているが、まさに家の中を散歩しているうちに「迷宮」に迷い込んでいくようである。
 ここで、いわゆる劇場で興行されるシアター演劇が、現実と虚構を観客席と舞台に綺麗に割り振るのとは異なり、「迷宮」と化した家屋の中では現実と虚構の二項対立の枠組みそのものが機能しない。明らかに、シアター演劇とは別種の「関係性」が上演と観客のあいだに生じている。そう聞かされると、何か変わった演劇の企画なんだと理解されるかもしれない。しかし、シアター演劇の制度とはべつのところで慎ましやかに行われる本企画こそ、なんとも「普通の演劇」なのだと筆者は言いたい。どういうことか。

 その説明のためには、「シアター演劇」と、そうではない演劇を比較する必要がある、というのはもちろんのことだが、そうは言っても物理的にも制度的にも「劇場」の枠外にある上演とは何か? と聞かれても、あまりまとまった答えを出すことができそうにない。だからとりあえず、本企画の迷宮感覚から導かれる演劇の理念型を展開してみることにしよう。まずはその特性を羅列すると次のようになる。
 それは、どんなに上演をみても「岸井大輔」という作家のメッセージにたどり着くことはなく、逆に家屋に散らばった断片を観客が勝手につなぎ合わせてある想念を産んでいくようなアレゴリー的読解を特徴に持つ。あるいは演劇が「イマココ」で上演される作品として完結することはなく、断片化された複数の上演が相互に影響を与えあう創発的ネットワークそれ自体を上演とする。それどころか、あたかもインターネットに残された過去ログがコンピューター上では等価な「現在性」を持つように、過去の時系列が消滅し、あらゆる要素が無差別に組み合わされつつ着火する「瞬間の発火」を「演劇」と呼んでみたくなるような、そうした「上演」である。
 これをなんと呼べばいいか。言いあぐねているわけだが、ひとまず劇作家・演出・俳優・観客の自律した人格を前提にすることなく、ただ創発的な諸断片が接続と切断を繰り返しながら一回性を着火させていく上演を、「ポストインターネット演劇」と名指してみたい。「インターネット以後」的な人間やコミュニケーションの関係を見てとれるからだが、その「定義」については後日に譲り、そう呼んでおく。
 少なくとも「シアター演劇」が上演という虚構をプロニアムアーチで囲い込んで現実と切り離す形式だとしたら、ポストインターネット演劇は「現実」の方を虚構の一部に組み込んでしまう。一般的には、演劇が上演される非日常的な時間が「虚構」だと理解されているけれど、実は観客が普通に生活している日常こそ虚構であり、その日常の「虚構」へと深く潜るきっかけを与えることが「上演」である、といったように、現実と虚構の関係性が逆転するのである。
 現実こそが「実在」ではない「虚構」だ。そう考えるのは何も突飛なことではない。そもそも、現実の日常生活を振り返ってみても、日常の時間は確かな実在性を持つものではない。それが「実在」すると理解されるのは、流れていく時間を「人生」というリニアな物語の形式に当てはめて理解しているからだ。「人生」という形式を外してみれば、一体、どの記憶がどういう順番で並んでいたかなんて思い出せない。その意味で「過去」というのは、何だかよくわかないポツポツと断片的に思い出される「記憶」の集積と言える。
 だから、家屋に点在する上演は、そういう断片的な「記憶」のアナロジーだ。①〜⑥の上演を渡り歩く経験は、断片化された記憶を思い出していく時間でもあるのだ。日常の「実在性」を括弧にくくり、上演との関係でポツポツと思いだされてくる断片的な記憶イメージが、そこでは〈現実〉になる。
 例えば、本企画の上演から「京都っぽさ」とか「大阪っぽさ」とか「東京っぽさ/横浜っぽさ」みたいな、土地的な帰属性を全然感じないのは、「記憶」の水準において、土地の経験もそうした「記憶」の一断片に過ぎなくなるからだ。等価に水平的な記憶のメモランダムな共鳴体験が、ここでは「上演」になる。そうした土地の帰属性、言い換えれば「故郷」に根付かない根無し草になった人びとは、とても孤独かもしれない。でも、それは孤独を前提にとても自由でもある。
 そこで俳優と観客は、上意下達の関係にはない。こう想像してみよう。たまたまの人の集まりがあって、たまたまAさんが戯曲の「触媒」的な役割を果たしているだけだと。だから、俳優のAさんも戯曲を完全に理解しているわけでないし、それを観客のBさんに伝えようとするわけでもない。AさんもBさんも戯曲に対して平等な関係を持っていて、彼らは相互に立場を入れ替えることだって出来るし、あるところではBさんが俳優の役割を上演に対して果たすかもしれない。実際、本企画でも「赤ん坊」の俳優の泣き声は上演に介入して深みを与えているということがあった。
 空間のアトランダムな共鳴性は時間に対しても起こる。例えば、家でサボテンを育てることと、「イマココ」での上演体験は常識的にはまったく切り離された出来事であるとみなされる。だけど、ポストインターネット演劇の圏内ではサボテンを育てていることも、上演の時間に起こる出来事も「記憶」のレベルで全く等価な出来事であると理解される。そして、それらは内面や物語の根拠を欠いて無意味に接続されたりされなかったりする。だから上演ははじまりも終わりもなく、あらゆる要素が潜在的な接続可能性を持ち、瞬間瞬間に予測できない「記憶」を―真実であるか虚偽であるかは問題にならないような記憶を―生成していく。

 こういう風に、上演を社会的な「人格」の単位からではなくて、個人の「記憶素」のようなものを単位にすると考えるのは、ちょっとややこしい、変なことなんじゃないかと思えるかもしれない。でも、社会の一員として真面目に社会を発展させていくことを価値とする責任主体たる「人格」は、演劇みたいに「嘘ごと」の不まじめな行為を何も生産しない無価値なものとみなすだろうし、だからこそ逆に「演劇」は聖なる河原乞食がやるような、社会の日常から外れた「普通ではないこと」に位置づけられる。あるいは、なにかしら特殊な境地を目指さすことを「演劇」の制度が急き立てる。これは「普通ではない」演劇だ。
 それに対して、本企画の爽やかな自由さは、例えばご飯を食べることやちょっと旅行に出かけること、あるいは山に登ったり会社で仕事をしたりすることと変わらないものとして「演劇」を位置づけたことに起因する。かといって、演劇を等身大のものに引き下げたわけではない。逆だ。上演を「断片化」することで、ごはんを食べることや山にのぼることや……の方を、上演と等価の「記憶素」へと変質させていくのである。先の言い方で言えば、現実の実在を虚構の一部に組み込んでしまう。そうすることで、逆説的に演劇はなんら日常的な行為と断絶を持たない、夕飯を作るように行われる「普通の虚構」になったのである。
 社会的人格の解体が、「普通の演劇」へと至る逆説。それは多分、岸井戯曲の断片性―非完結性―と、外部の騒音や家屋の手触りが不可避的に上演に組み込まれざるをえない環境、そして明確なテーマや意図を持ったキュレーションの不在が良い塩梅に「緩い」空気感を醸成した結果の、偶然の産物なのだけれど、そういう場が整えられることで生まれる「普通の演劇」は、やっぱり結構素晴らしいことなんじゃないか?

※「ポストインターネット演劇」と言っているのは、あるいは「拡散した私演劇」と言える。「私演劇」が、あくまでも完結した「劇場」を前提していた演劇モデルであったとしたら、「ポストインターネット演劇」は、インターネットの疑似同期的なアーキテクチャを反映して、具体的な−それが抽象化・普遍化されたイタリア式額縁舞台であったとしても−場所性を成立要件としない、むしろTwitter的な「つぶやき=私性」の連鎖で形成される自己組織的ネットワークが、そのまま「劇場」と理解されるような、そうした演劇モデルである。だから、劇場の外縁は具体的な場所にしばられない。それ自体は肯定されるべきものでも否定されるべきものでもなく、一つの時代精神を反映した劇形式である。

※ひとつ留保しておくと、本企画が「劇場」ではない家屋を上演の場所としたことや、岸井戯曲の上演であることでポストインターネット的な相貌を見せたわけではない。例えば、家屋を用いた演劇であっても、そこに演出家の強いイニシアティブ、固定された観客席や、上演だけで完結する時間、表象に奉仕する演技が持ち込まれるならば、観客と上演の関係はシアターと同じように―世界観やメッセージの送受信装置として―機能する。

※また、いま肯定的に語られていることは、ひとつボタンを掛け違うと、自然の「成り行き」のなかに個人を融解させていく「みんな」の増幅装置へと反転する。人格の解体は、いわゆるポストモダン社会における自律性の解体とパラレルであるが、一方で、日本のように「自己」という概念を持たない文化圏では、単に「構築なき構築」という制度的閉鎖性を再生産するにすぎないとも言える。しかし、本企画が「なるようになる」を動力にする文化的自閉性に回収されないのは、個々の断片の強度と、各上演主体がなんら協働せずに勝手にやってる「孤立性」を要件とした接続であったからだ。上演と上演はあくまでも切れていて、そこを「渡り歩く」経験が「記憶の接続=コミュニティ」を生んでいく。

3、個別作品レビュー

 もうかなり長くなってるけれど、上演について個別にコメントしてみたい。
 (『メイド喫茶の条件』だけ、思い入れあってちょっと長くなってます。) 

①『メイド喫茶の条件』
演出:向坂達也
出演:肥後橋輝彦、山下ダニエル弘之、向坂達也、他

 戯曲は、ハンナ・アレント『人間の条件』を下敷きにして、「メイド喫茶」について考察する論考である。向坂達也が演出・出演。4人の男がコーヒーを沸かしながら雑談をする。彼らは最後に(向坂をのぞき)「メイド役の〇〇です」と名乗りを上げるのだから、彼らはメイドとしてコーヒーを沸かしていたのだろう。
 ところで、僕は大学時代、京都に住んでいた。向坂は大学時代の先輩に当たる。僕の通っていた立命館大学には月光斜・西一風・立命芸術劇場の三つの劇団が存在していて、僕は結局、西一風に入ったのだけれど、学生劇団を周って最初に入団の説明を受けたのは月光斜で、そこで僕を迎えたのが向坂だった。
 ということを僕は上演の最中、思い出さずにはいられなかった。そのとき、僕を迎えて何か下ネタ言ってシニカルにふざけていたこの先輩の姿が鮮明に脳裏に浮かぶ。もちろん6年ぶりくらいに顔を合わせたという事情もありつつ、大学卒業後に―東京の僕の知り合いは誰も知らないに違いない―京都ロマンポップを旗揚げしたものの、いまは解散公演をなぜか何度も繰り返しているこの先輩が、あのシニカルに「演劇なんて」と言いながらなぜか白塗りになりポップでドラマティックな、ぼくの目からは80年代小劇場演劇の延長線上で「小さな商業演劇」としか言いようのない上演をしていた彼が、コーヒーを沸かして雑談するさまを「上演」している!
 正直言って、僕はこうしたときに、演劇の力を感じる。彼らの話す内容はサイコパス診断がどうたら、コンビニのバイトがどうたら、「いる」だけで別に誰がやってもおんなじ仕事のことだとか、ローソンでの年末年始の時給が前の年までは500円増しだったのに、今年は1.2倍と言われて全く腹が立ったというような、そうしたくだらなくも、あえて言えば「悲惨な現実」である。
 『メイド喫茶の条件』はコスプレ、そしてメイドカフェが彼らの心から愛している「世界」を永続的なものとして製作・維持する場であり、私のユニークな正体が相互に現れ合う「活動」が仮設されていく場であるといった内容を持つ。しかし、彼らは心から愛する「演劇」という世界製作の場を明らかに奪われている。これは抗議に値する内容だ。彼らはそもそも「演劇」という手段を用いて経済に還元されない「私自身」のユニークな生の意味を明らかにしようとしていたはずだ。代替可能な労働力の交換価値に還元されていく「剥き出しの生」の悲惨な現実に対抗する手段が演劇だったはずだ。しかし実際には演劇活動が彼らを「悲惨な現実」の真っ只中に落とす。この矛盾に人は抗議せねばならない。しかし、誰に? 誰に抗議するのか? 資本主義に? そんなバカな。革命を起こせというのだろうか? わからないから、コーヒーを沸かす「場」を彼らはとにかく仮説せざるを得ない。
 ところで先日、京都の小劇場文化を長らく支えてきた「アトリエ劇研」の閉鎖が決まった。それが「良い」ことか、「悪い」ことかと聞かれれば当然「悪い」ことだったのだけれど、劇場を喪失することでジプシーを余儀なくされたものたちは−喫茶店を多数擁する京都文化のシンボルである−コーヒーを沸かす。あたかも「京都小劇場」が耐久性のある世界を構築すること叶わず残った「悲惨な現実」の廃墟から、「現れの場」のバラックを仮設するかのように。
 最後の「○○です」と名乗る時間が喩えようもなく美しいのは、劇場を喪失したことで逆にむき出しになった「私」の確かな存在を感じ取れるからだ。しかし、以前の「京都ロマンポップ」から僕はそんなもの感じたことはなかった(『沢先生』を別にして)。でも、ここにはそれがある。なぜなのか。
 だから、もしかしたら「小劇場演劇」という制度それ自体が、この確かな「私」、裏返せば他の誰とも似ていない「他者」の現れを隠蔽していたのかもしれない。より悪いことには、それを隠蔽しているということをも隠蔽しながら、つまりは、ただ小劇場を永らえさせるための小劇場を運営してきたのかもしれない。
 しかし「劇」は「劇場」からはじまるのではない。この名乗りから、「小さな宣誓」からはじまるのだ。この事実からはじめなければ、どんな劇場だって骨抜きにされてしまうことを忘れてはならない。『メイド喫茶の条件』に対して「京都小劇場の条件」を逆説的に生きることで応答した彼らの「活動」を、無視することはできない。

②『本当に大事なことはあなたの目の前でおこらない』
演出:繁澤邦明(うんなま)
出演:秋桜天丸、繁澤邦明(うんなま)

「見えないものは何もない」といった風情。部屋の角でノートパソコンを両手に持ち、画面にはその俳優のものであろう赤ん坊のころから成長して大人になるまでのスライドショーが淡々と流れる、というだけの上演である。①で盗み聞きしていた観客は、②では堂々とジロジロと彼を見る。確かに、コピー用紙に書かれた戯曲の文字がすべて壁に張ってあり、俳優の身体があり、そして俳優の過去=記憶がひとかけらの曖昧さもなくスクリーンに映し出されている。すべてが見えているのに、何を見ているのか、さっぱりわからない。ということ自体が「本当に大事なことはあなたの目の前で起こらない」をリテラルに遂行していた。

 しかし、こうして自律した「戯曲断片」の上演は無垢のままではいられない。断片のオープエンドな性質は、他の断片との関係を欲望する。現実にあふれる諸要素を、無数のシグナル=虚構に変えて受信してしまう。実際、昼間の上演では工事をしている隣の家の騒音が絶え間なく響き、赤ん坊の”観客”が泣き声をあげて、「戯曲断片」にフラジャイルな影響を与えていた。そして僕たちは、「見えないものは何もない、しかし世界に息づく誕生と死は(ここ)にある」と錯覚するのである。

③『ふるまいのアーキビスツ』
演出:和田ながら
出演:長洲仁美

俳優を「ふるまいをアーカイブするアーキビスト」と捉える戯曲。戯曲的には「ふるまい」の意義・状況の継承を目的とした俳優像の提示が記述されているが、和田・長洲はそこから「喫煙」のふるまいを観客にプレゼンテーションした。

 俳優は「未来人」のような設定を持ち、未来で「喫煙」がなくなったあとに、喫煙がどういうものであったのかを観客に伝承する。しかしそれも設定なので、観客はむしろ現在形における「喫煙」が置かれた政治的位置を意識することになったようにも思う。しかしここで重要に思われるのは長洲がそのふるまいを遂行することで、むしろそのふるまいの「意味」を学び取る時間を生きていたことだ。「演劇」は劇場の物理的・制度的な圏域に囲い込まれると、どうしても舞台の側に「正解」というか「出力の結果」があり、観客はそれを受け取るという構造を持つようにイメージされてしまうものだが、ここでは長洲自身が自身のふるまいによってふるまいの意味を学ぶ観客なのだ。長洲も、そのふるまいを見るものも、同様に「共同性」へとアクセスする観客である。ふるまいによって一時的に起こる共同性こそが、俳優がアーキビストであること固有の意義なのだ。 

④『東京の条件』
出演:住吉山実里

 「人が集まると場所ができる。人がいなくなれば、その場はなくなる。」の一文ではじまる『東京の条件』(抜粋)。住吉山の上演は「人が集まる場所」を作りつつ、集まることの意味を問うものだった。上演は次の手順で行われる。
 ①ではコーヒーを沸かすために使われたケトルが、④では湯たんぽにお湯を入れるために使われる。それから、湯たんぽを床の間に起き、おもむろに、かるた大会がはじまった。かるたをすべて取り終わると、参加者には湯たんぽがわたされる。湯たんぽを持った人の隣りに座っている人が、かるたの頭文字からとって、ことばをかける。例えば「は」だったら「はっきりした眼をしてますね」とか。それで、取ったかるたから連想したことばをすべてかけ終わると、ことばをかけられた人は湯たんぽを次の人にわたす。以下同様である。最後には、湯たんぽに入ったお湯をコップに入れなおし、住吉山が飲み干す。
 これが⑥と並んで、最も明確にオーソドックスな「上演」形式とは異なる観客参加型の「上演」であった。本作がただの「かるた大会」に終わらないのは、湯たんぽに湯を入れる→参加者でそれをまわして言葉をかける→湯たんぽの湯を(コップに入れて)飲みほすといった形式性が、上演の時間を一つの「儀式」へと変換するためだ。かるたを媒介にしてつかの間の「かるた共同体」ができる。そして、湯たんぽに蓄積された「言霊」=「お湯」を飲み干す。飲み干されたのは、もちろん「お湯」なのだが、①において蓄積された「悲惨な現実」も含みこみ、参加者の「穢」を浄化するかのようにも感じられるのである。

⑤『文(かきことば)』
構成・演出・振付・出演:古川友紀

 本作は、ぼくにとってはちょっと難しかった。戯曲は次の三行からなる。

日本語は漢字カナ混じり文であるなど、書き方においてまずその特徴を考えることができる。
だからか、日本語の伝統劇は主に文章語でなされてきた。
ならば、現代日本語演劇を作るにあたり、口語より文章語を劇とする方法を考えることが必要ではないか。

 古川は、三行の文節に応じて上演を三段階に構成した、という。最初は文節を極端に区切った発語からはじまり、カルタをとるような身振り、それから踊り……と、ぼくには本作を上手く切り取る言葉がない。申し訳ない。

⑥『演劇は面白いものです』
演出・構成・出演:伊藤拓

「演劇は面白い物です。とっても。」の一文からはじまる戯曲。これに伊藤は、ワールドカフェ形式のワークショップで応答した。France_panの活動休止後、伊藤はそれこそ迷い込むように「演劇」との微妙な距離感を保ちながら活動を続けているのだが、本作には、伊藤の演劇に対する戸惑いと信頼が直接的に反響しているようであった。

 机に用意された冊子を「演劇」の掛声とともに開封しながら、観客(?)は「演劇を面白いと思いますか?」といった問いに答えていく。最後に、同席した3〜4人と感想を言い合う。最後に、伊藤が「演劇は面白い物です〜不幸で暗い時代においてこそ、演劇は輝きをますでしょう。今までもそうでした。人類は、何もかも失っても演劇をもっています。最後の日まで」と、戯曲を朗読する。
 これは、本来であれば、①〜⑤を思い返しながら「演劇」について思考する時間になったのかもしれないが、①〜⑤が「演劇」というよりは「演劇未満」の断片であったからなのか、そんなことは頭をよぎることもなく、ぼくの参加したテーブルでは「問いが曖昧でわかりにくい」という感想を言い合って、終わった(笑)。とにかく最後の朗読もそうなのだが、伊藤はある種の「茶化し」ともいえるユーモアが何をやっても付随してくる。例えば、参加者が冊子の問に答えているあいだ、なぜか伊藤は−朗読に備えて−準備体操と発声練習を小声でしていたりする。しかも、ほとんどの参加者は気付いていない。なんとも可笑しい。
 しかし、伊藤は、France_pan名義で最後の作品である『ありきたりな生活』(2010)から俳優への「インタビュー」を再構成してプライベートな体験を公共化する試みを続けており、本作はそうした系譜のアップデート版とみることもできるだろう。数年前に「ボンバックス」という木を育てることを「演劇」と関係させて語っていた伊藤は、それこそ「普通に演劇をする」ことの普通でなさに、もしかしたらずっと戸惑っているのかもしれない。ボンバックスを育てるように、人生の記憶が演劇になる。そういう瞬間を目指しているのかもしれない。

 

筆:渋革まろん

係留地としての劇場/「演劇のデザイン」を書き留める

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飛田ニケ+瀧腰教寛『「むなしさ」の実演販売』

「演劇のデザイン」
日時:2018年4月28日(日)
場所:北千住BUoY
企画:村社裕太朗
インスペクター:村社裕太朗・内野儀

sinbunka.com

係留地

ヨットで島巡りをしていて困るのが、船の係留場所探しだ。
瀬戸内海は所によって、潮の干満差が3mにもなる。
岸壁に横付けして寝て、目が覚めて甲板に出ると、前夜またいで渡った岸壁が、頭上に聳えて見える事がある。
ひどいときには、潮が引いて海底にヨットのキールがつかえ、身動きできなくなる。
下手をすると、船体が横転、浸水して沈没事故になる。
幸い御手洗港では、港湾事務所の人が親切で、大長浜桟橋に帰港した連絡船の隙間を見つけ、われわれを係留させてくれた。
干満の心配がなければ、見張りもいらない。
全員が、桟橋のそばの小さなホテルで風呂に入り、酒と食事で夜の更けるのも忘れた。

http://www.fmkagawa.co.jp/yomu/shikoku/shikoku93.htm

 「演劇のデザイン」は新聞家の村社裕太朗が企画した30分程度の上演と1時間(!)ほどの(観客とアーティストによる)意見会を交互に行う演劇コンペティションで、3団体・個人が参加した。一組目は小林毅大『ディスプレイには埃がたまっている』、二組目に飛田ニケ+瀧腰教寛『「むなしさ」の実演販売』、三組目がキュイ『あなたが墓場まで持っていこうとしている出来事をわたしに教えてください』。個性豊かなどという言い回しでは全く追いつかないほどにバラバラな上演形態へのアプローチを仕掛ける三作品が揃うさまは、なんともはや痛快だった。
 ところで冒頭の引用は本企画とは全く関係がない。しかし、このFM香川のHPから拾ってきた一節が「演劇のデザイン」の試みをよくイメージさせてくれる。つまり船が破損・転覆する危険のある海で一時的な波止場となる「係留地」としての劇場である。この係留地に繋ぎ止められた3つの上演について簡単なレビューを寄せてみたい。

A.小林毅大『ディスプレイには埃がたまっている』

 小林は沖縄で米軍ヘリが小学校の校庭に「窓」を落下させた事件にインスパイアされて『ディスプレイには埃がたまっている』を創ったという。小林を含めた俳優の三人(小山哲央・末摘花)は終始BUoYの床に仰向けに寝転がり上空を見上げて断片的なニュース情報を交えながら誰に言うでもなく空中へ言葉を投げていく。それはコミュニケーションのために使われる言葉でもなく、モノローグ的な語り/騙りというのでもない。ときおり「周波数を合わせてください」と言われるように、受信された電波によって勝手に「鳴る」みたいな発話だ(少なくともそうした発話が目指されているように見える)。俳優同士の日常会話的なコミュニケーションや「〜君」「はい」という呼び掛けのシークエンスがコラージュ的に配置されていくので完全にそうであるとは言えないが、しかしやはりある意味では三つの無線ラジオから聞こえてくるニュースに耳を澄ませるような体験が構成されていく。
 注目すべきは沖縄・ヘリ・飛行機などなど聞こえてくるワードから飛行機と事故にまつわるいくつかの連想―9.11同時多発テロ日航機墜落事故オスプレイ問題―が派生していき、そこから彼らの身体が落下してぺしゃんこになった三つの死体であり同時に水平的なコミュニケーションによって成立する社会から落ちこぼれた有象無象であるとする想像力が喚起される点にある。自らの身体が具体的なモノ=死体であることと対話による合意形成がなされる「広場」に参与できないモノ=動物であることを重ねてみる視野が開けるわけで、それが非常にユニークだと僕には思えた。いかにして対話不能な「死体」の〈語〉を経験する場を設計することができるか? そうした問いの可能性が本作には胚胎しているのである。

B.キュイ『あなたが墓場まで持っていこうとしている出来事をわたしに教えてください』

 キュイの上演はそのタイトル通りに俳優から聞き取りした「墓場まで持っていこうとしている出来事」を劇作家の綾門優季が戯曲に書き起こして、それを演出家の橋本清(ブルーノプロデュース主宰)が演出した。四方客席の囲み舞台で、二人出てきた俳優は互いに目を合わすこともなく並置される。一方が父親についての記憶を語ったと思うと、他方はイヤホンを装着して相手方へのインタビューが録音されているであろうレコーダーを聞き模倣するなどしていくなかで、プライベートな記憶の共有可能性/不可能性が主題化されていく。
 キュイは綾門の主催するユニットだが、俳優のインタビューから作品創作をするというのは橋本が従来から行っている方法ということで、僕としては、綾門が意見会で語っていた「いかに観客を傷つけるか」という問題意識と上演の齟齬感が目立ったように思われた。なぜならプライベートなナラティブが綾門戯曲に特徴的な「これは演劇なんですよ」というメタ的身ぶりとともに語られると、語られていること以上の「わかってほしい」がパフォーマンスされてしまい「自意識過剰」の側面が際立ってしまうからだ。語られている内容が「事実である」かどうかは、こと上演のレベルではわかることがない―だから直接話法のナラティブが複数化することから語りの主体を不明化する方法も可能である―のだから観客からすれば「どちらでもかまわない」わけだ。つまり「事実性」(と理解されるナラティブ)が可能になるのはあくまでも演技の形式に依拠しているわけで、戯曲のレベルで演じていることが強調されればされるほど、上演における「現前性」と本当にあったことの「ドキュメント性」という「事実性」の二つの位相は解離していき、結果的に観念的なドキュメント性というわけのわからない地点に着地してしまう。
 この「文句」からもわかるように、僕自身の本作に対する「評価」は決して高くないが、しかしその一方で「実は演劇である」ことを先取りして上演に繰り込んでいくメタ化の自転車操業それ自体に綾門という作家固有のリアリティがあるようにも思う。そのリアリティとは私に固有の〈現実〉の喪失である。例えば綾門は『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』において、何度殺されても「夢から覚めても夢から覚めても夢から……」から抜け出せないループ構造をプレゼンテーションすることで〈現実〉の表象不可能性を露呈させた。裏返せば、固有の〈現実〉を担保する固有の〈死〉が常にすでに私とは無関係な非人称化された無名の「死」に置き換えられてしまうことへの不安、いわばブランショ的「死の空間」に対する鋭敏な感覚を綾門戯曲は分かち持っている。しかし、これはあくまでも推測であるが、演出の橋本は共訳不可能な固有の〈死〉というよりは、プライベートな経験が演劇を媒介にすることで集団的な記憶へと共在化される地平を目指しているように思えるので、そこには根本的な対立関係が孕まれている。果たして、来年1月にアップデートされて上演されるという本作が二人の緊張関係からどのような展開を見せるのか、いまから楽しみと言うにやぶさかではない。

C.飛田ニケ+瀧腰教寛『「むなしさ」の実演販売』

 小林・キュイの二作がひとまずは「演劇である」とカテゴライズすることができるのに対して、飛田ニケ+瀧腰教寛『「むなしさ」の実演販売』は、演劇ともパフォーマンスともつかない、村川拓也の『ツァイトゲーバー』や小嶋一郎の『No Pushing』への親近性を感じさせる「リテラルな遂行」によって生じる出来事の時間が生じるがままにただ提示される。仮に、あるいはあえて「ポスト・チェルフィッチュ」という言辞を使うのであれば、彼らの上演にそれはふさわしいと言えるかも知れない。チェルフィッチュは役を演じることに従属していた〈身ぶり〉を解放して代理=表象しえない役未満―主体未満―を無数の〈身ぶり〉の遂行から逆に生起させていった。それによって演劇は日常の無意識に介入して認識の転換を起こす演劇版の「4分33秒」を手に入れたとも言える。すでにいつも音は聞こえていてそれが音楽になりうるように、すでにいつも〈身ぶり〉は起こっていてそれは演技になりうる。しかしだとするならば、時空間に対しても同じことが言えるのではないか。つまり、すでにいつも〈現実〉は起こっていてそれは演劇になりうると。
 上演の概要を簡単に説明しよう。カメラマンとして自己紹介する「俳優の」瀧腰は「演劇を写真に撮ることはできるのか?」ということに悩んでいる、飛田と二人で会話してみるからそれを手持ちのスマホで撮ってみてほしいと言う。ピーターブルックの『なにもない空間』におけるモダンな演劇の定義が正当であり「見られる」ことで演劇が成立するなら、「見る―見られる」関係を設定して写真を撮れば「演劇」が撮影できるはずだからだ。しかし、二人で会話しているところを見る=撮影するだけだと、それが演劇であるのか現実であるのかは判断がつかない。それは「演劇の」写真ではない。だから、観客と俳優が同時に写り込んでいる写真を撮れれば「演劇の写真」と言えるんじゃないかと提案したのち、おもむろにとりだした「写ルンです」を観客に向けて「いいね〜」などと声かけしながら瀧腰が観客を激写しはじめる。最終的に、カメラで撮られた「演劇」の「作品」(演劇作品ではない)はオークション形式で競売にかけられ、見事とあるダンス批評家の方が1520円で落札するにいたった。
 このレクチャーパフォーマンス的でありながらおよそ「メッセージ」に値するものが見当たらないイベントが、しかしすぐれてロジカルに構造化されていることに誰もが気づくだろう。ここではまず「演劇は表象されない」ということが「演劇は写らない」ということで示され、さらに「観客を撮影する」ということで観客と俳優の存在論的な身分が等価なものであることが示され、さらに「演劇が収められたフィルムを販売する」ということで〈いま・ここ〉に現前する時間が脱臼させられる。つまり、彼らは写真に写し出されないものに注意を促し(表象の不可能性)、瀧腰がファインダー越しにのぞく〈現実〉を〈演劇〉の内部に取り込み(認識の転換)、商品化され得ない一回的な〈現実〉を商品化する(〈現実〉の脱現実化)。この3つのステップを踏むことで、単にそこに全く無意味に〈現実〉が起こっていることを観客と「シェア」しようとするのである。
 だから上演ではドラマへの共感が促されるわけでも、身体を媒介にして多様な歴史的イメージが立ち上がるわけでも、あるいは日常の微視的な関係性への気づきがもたらされるわけでもない。ここでは字義通りなにも起こってはいないがすでにいつも存在しているほかない、これが夢であろうが悪霊に騙されていようがあるとしか言いようのないデカルト的懐疑ののちに発見される〈現実〉という出来事が指示されている。そして、飛田はその〈現実〉そのものを「むなしさ」と呼ぶのだ。チェルフィッチュの『三月の5日間』が上演された後にはしばしば「帰り道で見かけた人がまるでチェルフィッチュの俳優のように見えた」という感想が聞かれたが、本作が上演された後には「現実がまるで〈現実〉のようにむなしい」という全く自明なつぶやきを聞くことができるだろう。



 結局、第一席を決めるはずの「コンペ」である「演劇のデザイン」は第一席が決められない(「なし」ではなく)とする「驚き」の結末を迎えた。「演劇のデザイン」というタイトルがゆえか、上演された3作品は「よさ」の基準そのものを違えているのだからその結論もむべなるかなというところだが、逆に言えば、まさにその「よさ」を再設定/再設計する試行錯誤を「演劇のデザイン」と呼ぶのだろうから。
 ところで、本企画が開催された(そしてこれからもされる)ことにどのような意義があるだろうか? 別に意義なんてなくてもちろんかまわないのだが、村社がいささかの留保付きでありながらも具体的な「かたち」を中心においた「『異なるケースの発見』と『複数の回答』が待たれるような『場』」を通じた教育の必要性を説くコンセプトには、やはり何らかの企てと期待を読み取れる。少なくとも、ネーションへの自生的な同調圧力―お前は国民か―を喚起し続けるネトウヨ的・サヨク的排外主義の対極にある「あーでもないこーでもない」をウダウダと思考し続けることをとりあえずやめないための係留所として、あの場があったことは疑い得ない。これを対話的な公共圏を開く試みであると言えないこともないが、そもそも一方では小劇場サーキットをサヴァイブし続けることへの倦怠感が、もう一方では具体的な対話の積み重ねがパブリックな意思決定に跳躍することへの信じられなさがこの時代のポスト・トゥルース的局面であるとするならば、私たちは〈いま・ここ〉に集い語り合うことへの原動力を持ち得ない時代にいる。しかしだからこそ村社がいう「断定し得ぬ具体」への係留をとりあえずやめないこと、つながりつつ/つながらないことを可能にする時間を具体的に放下しておくことは、それでも可能な演劇の場を思考/試行するための試金石になりうるだろう。これを、多様性の観念を無批判に受け入れるのでもその反動から疑似的ナショナリズムに回帰するのでもない、事実的な「多数性の場」からなる公共圏の仮設と言ってもいいかもしれない。
 とにもかくにも本企画の意義ということを言うなら、やはり「語らい続ける」ことの愉しみを確かにもたらしてくれたことにある。それは端的な愉悦であり、そうした場が生まれたことを僕は素直に歓びたい。

 

筆:渋革まろん

Google Mapのエロティックな誘惑―関優花「うまく話せなくなる」

 関優花個展「うまく話せなくなる」をrusu「ナオナカムラ」に見に行って、これは言葉にしなければならないと思い書かれるこの感想には特に結論はないが、彼女の作品の少しばかりの紹介になればと思う。

関優花 press release.pdf - Google ドライブ

うまく話せなくなる

 彼女はこれまで歌舞伎町24時間マラソンをしたりチョコレートの塊を自分と同じ体重になるまで舐め続けたり、グループ展(かな)開催中に太陽へ向かって走り続けたりしてたみたいにとってもフィジカルでハートフルなパフォーマンス・アーティスト。今回実際にパフォーマンスされたのは13-21時の個展開催中ひたすら「話し続ける」というもの。僕が見たのは30分ほどなので「うまく話せなくなる」の全部はもちろんわからないが、少なくともその時はグーグルマップで検索したどこかの風景の事物ひとつひとつを超微細に言語化し続ける、そういうことをやっていた。 

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 ギャラリーの奥へ入ると椅子に座った彼女。足元にはお茶。鑑賞者と目を合わせることはなく、パソコンの画面を見ながら風景描写を語り続ける。はたして「うまく話せなくなる」というタイトルがあまりにも長時間に渡って喋り続けると「喋り続けることができなくなる」という意味なのか、それとも言葉にし続けることで「言葉にしえないものに出会っていくプロセスが現れる」ことを意味するのか、もしくはもっと個人史的・美術史的なコンテクストがあるのかわからない。しかしともかくここでは一年前に仙台で観劇した短編一人芝居『「愛の配分」と「たまたまの孤独」について』(作/演出:小森隆之)を思わせるエロティックな私秘性が濃密な磁場を創り出していた。
 その短編について僕は当時こんな感想を寄せていた。

彼女と相対する観客は、とても不思議な迷い路に入り込んでしまった気分になる。おおよそ対話不能に見える彼女とのあいだには炉端の石ころを見ても取り立ててそれと関係しようとは思わないように、コミュニケーションの回路が何もかも遮断されているように思える。わたしとの関係の回路は開いていかず、石をずっと見てはいられないように、次第に退屈さが忍び寄ってくる。ところが、その関係性が強要されない関係はとても自由で、彼女とのあいだにはあらゆるコミュニケーションへ向けた回路が開かれているようにも感じられる。そういうアンビバレントな回路が観客と彼女のあいだに開かれる。……鳥居さんはプライベートな内容を、誰の反応もうかがわない、誰に合わせて喋ることもしないで、淡々とゆっくりと自分の速度で言葉を紡いでいく。そうして語られる言葉に触れていると、なにか彼女そのものの実質に触れているような気になってくる。たとえばハイパースローモーションの映像から、物体の官能的で柔らかな質感が浮かび上がってくるみたいに、鳥居さんの《スローナラティブ》が彼女の中の官能的でセンシティブな領域を浮き立たせていくように感じられる。

 あらゆる情報を検索可能なビッグデータの一部へと還元していくグーグルのアーキテクチャは、「どこにでもある風景」からノルタルジックな響きを剥ぎ取って、時空間の制約を超えてアクセス可能な「情報化された風景」に変化させた。それは固有の記憶や身体性といったローカルなものをデータベースに登録された情報に還元していくことを意味するわけだが、しかし関はそうして「情報化された風景」に官能的な負荷をかける。つまり、その風景をネットメディアから「声」というメディアにトランスレートすることからエロティックな情報へと置換していくのである。ゆえに、なのか、さらに、なのか、ともかく彼女が鑑賞者と目を合わせないということが、ここでは客観的な事物として身体を「展示する」という文脈においてではなく、プライベートな親密さを生じさせるための選択として機能している。彼女の声と目線が情報を官能化する。だからぼくらは彼女そのものの実質に触れてしまうような、彼女の身体に隠された「秘密の小部屋」に迷い込んでしまったような、そんな気分になってくるのだ。
 かなり長くなるけれど、その時に録音した言葉の一部を大まかな精度ではあるが書き起こしてみる。

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「細い電線がいくつかあって、その電線の本数なんですけど電線何本あるかなって思って……28本くらいあるんじゃないかなって思うんですけど多分違くて、電線の向こうには空が見えるんですよね、で、その日、は、その日はおそらく晴れなんですけど、大部分が雲に覆われているようなそんな空で、雲があるんですけどその雲は白くて、でもえっと白いんですけど灰色がかっているような部分もあったりして、それで、どっからどこまでが一つの雲だって分かるような雲ではなくて、その境界が曖昧な雲が広がっているようなそんな空なんですけど、で、青い部分も見えるんですよね。でもその青っていうのはかなり白味がかっていて、さっき言った交通標識の青とはまた違う青なんですよね。それでえとその青い交通標識なんですけど、その青っていうのはもっと深い、深くはっきりした青をしていて、その標識の青を地にして左を向いた矢印が書かれている。そんな標識があるわけなんですけど、その標識は白いポールにつながっていて白いポールにつながっていて、えと,さっき言った2階建ての灰色の建物、黒い屋根を持っている2階建ての建物のまわりには植物がうわってるよって話なんですけど、その植物、その植物、のと同じ高さくらいに、その……青い交通標識、があるんですよね、それでえと、その木が、いろいろうわっているわけですけど、細い木とか背の低い木とかあって、それでその木の葉っぱの色なんですけど、もっと深めの緑だとか、そのもっと赤みかかったようなそんな色をしていたり、黄色みかかったようなそんな色をしていたりするんですよね。その灰色の2階建てがあって、その2階建ての建物には玄関があって、その玄関部分にはそこには影が落ちていて、何があるのかってよくわからなくて、ドアがあるんだろうなとかインターホンがあるんだろうなとか思うんですけど、それでえとそのなんというか……植物がうわっているわけなんですが、その表札があるんですよね、その2階建ての住居の玄関部分の知覚には小さい塀が立っていて、その塀は90度に曲がっていてL字型の塀で、その表札は濃いグレーをしていて、その表札が二文字で漢字でその家に住んでいるヒトの名字とかが書いてるんだろうなって想像がつくんですけど、なんて書いてあるかってここからは読めなくて、そのL字型の塀は少し濡れているような濃い茶色をした部分と、乾いた白い茶色の部分があって…………」

 この部分でまず注目すべきは、色に関する言葉が何度も重ねられていくというところにある。ぼくは絵画に対する知識をほぼ持ち合わせていないのだけど、少なくともそこでは「絵画」の表象が支持体を持たない状態でむき出しの触感によって描かれているように感じられる。それはまったく連想的にではあるが、ハイナー・ミュラーの「画の描写」というテクストを想い起こさせる。発語された言葉は定着する支持体を持たないが、しかし観客とパフォーマーのあいだに触感的なイメージを立ち上げていく。そうした行為に、これはとてもよく似ているのだ。
 そして描かれていく触感的なイメージを可能にするメディウムは、ロラン・バルトが〈きめ〉と呼ぶ声に独自の誘惑的な物資性に置かれているというのはまず間違いない。

《きめ》とは、歌う声における、書く手における、演奏する肢体における身体である。私が音楽の《きめ》を知覚し、この《きめ》に理論的な価値を与えるとしても……その評価は、多分、個人的なものであろう。なぜなら、私は、歌う、あるいは、演奏する男女の身体と私との関係に耳を傾けようと決意しているからである。そして、この関係はエロティックなものであるが、全然《主観的》ではないからである(耳を傾けるのは、私の中の、心理的《主体》ではない。主体が希望する悦楽は主体を強めはしない――表現はしない――。それどころか、それを失うのだ)。(ロラン・バルト「声のきめ」)

 《きめ》の質感は定められた意味のコードに主体を同一化させる情緒的な表現に宿ることはない。むしろそうした情緒的な感情移入によって抑圧されたエクリチュールの見る夢であり、その物質性においてその都度ごとに新たな意味を産出していくエロティックな官能である。関優花はまさに声の《きめ》が持つ官能性からわたしたちをイメージの受胎へと誘惑する。オフィシャルな場ではネガティブな価値を持つであろう「うまく話せなくなる」ことは、ここで新たな意味―官能的な意味―を生み出していくためのポテンシャルへと反転する。〈どこにでもある風景〉は、どこにでもある性をそのままに〈どこにでもないわけではない風景〉へと、つまりは「三丁目の夕日」に沈む夢や希望やあたたかい人情へノスタルジックに浸ってみせる癒やしのふるさとに退行していくのではない、無関係化したその場所をみずからの〈身ぶり〉において私秘的な経験へと導く方法を提示するのである。
 結論はないと言いながら、ひとまずの結論めいたことを言ってしまった。しかしぼくに「私秘的」と感じられた彼女の官能的なイメージは、感覚されたリアリティを準拠点にしながらもプライベートに閉じることのないある種の公共圏を想像させる〈身ぶり〉へとつながる回路を持つというところまで言えればいいのだが、ひとまずのところ言葉足らずにもつれる舌に身を任せるままこのつたない感想の幕引きとしよう。

昔はよく雑記風に自分の内面を整理していたことを思い出した

「昔は情緒がとても不安定だった。感情のうねりに僕自身ついていくことができなかった。その感情はたまっていくばかりで、捨てる場所を見つけられずにいた」と昔の日記にあった。

確かにそうかもしれない。というよりそうなのだろう。とにかく沸き起こる感情のうねりが自分自身を支配してしまい、にっちもさっちもいかずに泣き出してしまい、まわりのものを手当たり次第に破壊してしまう。比喩ではなく、字義通り、机を放り投げ椅子を放り投げ、教師の車をイシツブテでボコボコにして、定規を男子生徒のこめかみに命中させ、コンパスの針で女子生徒の手を串刺しにして、自分の倍はあるかのような同級生に体当りした。

昔の昔であるから小学生や中学生の時期に当たる。彼はその時期を混濁した無意識の海を泳いで過ごした。冷静になり感情をコントロールすることが課題ですと小学校の卒業文集に書かれている。怒らないように怒らないように。怒りで我を忘れてしまわないように。そう願っていた。

いまとなってその願いはある程度叶ったのだと言ってよい。なにしろ、低所得フリーターの身でありながらも、ものに当たり散らすこともなく眼の前のパソコンを壊してしまうこともなくおとなしく日々を消化して生きているのだから。

どうしてその願いは叶ったのだろうか? 振り返ってみると、彼の体が小さく弱かったというフィジカルな理由が思い当たる。もし仮に傍若無人に振る舞ったとしても誰ひとり止めることの出来ない巨躯を持っていたとしたら、大変まずいことになっただろうというのは火を見るよりも明らかだ。多動気味ですぐにキレる彼の暴走を止めたのは、自然が与えた小さい身体だった。結局のところ、彼のまったくあずかりしらぬところで自然の定めた二つの生物学的な偶然がその身体を闘技場にして相争っていたのである。じゃあ、あのときの悩みはいったい何だったんだよと思うと少しばかり可笑しい。

そうしたエモーションとフィジカルの衝突のあとには二つの副産物が残された。ひとつは井戸の底に沈んだ小さな〈子ども〉であり、もう一つは生きることの無気力であった。祭りのあとに訪れる鬱の期間であったのか知らないが、その後にいろいろとあってうねりをあげる感情の暴走が鎮火するに至って以来、何もかも無意味に感じられる無気力が襲った。やる気が出るというのはとても不思議なことだ。気力は湧いてくるものであって意図的に企てるものではない。だとすれば、気力が湧いてくるかどうかは運次第ということになる。もちろん実際には気力が湧き出てきやすい環境を整えるという間接的なアプローチはありうるが、しかしそれが仮初めの応急処置ではないとどうして言えるだろうか。この失調感覚がハイデガーの著書で世界を開示する根本気分であると著されていたことに蒙を啓かれ哲学を専攻した―わけではもちろんないが、人間が陥りやすいひとつのパターンに彼も嵌ってしまったのであった。

井戸の底で声を挙げる〈子ども〉の形象は、もう少しわかりにくいものだった。なにしろいまでもよくわからないのだから。それを言葉にするのはなかなかに骨が折れることで、ひとまずのところ祭りのあとに振り返られた時間のなかに顕れてくるなにがしかを「井戸の底に沈んだ〈子ども〉」とイメージしてみるのだが、やっぱり何を言っているのか自分でもよくわからない。わたしたちは井戸の底に沈んだ〈子ども〉の声を振り切ることで日常の時間を維持しえていると思えてくるのである。

昔はよくこうやって雑記風のブログを書いて、自分の内面を整理するということをやっていた。だからなんだということはないが、最近はそうした内面の吐露もめっきり減った。

返答:評論文盗用疑惑について

追記(2018.4.6)

はどの氏には直接謝罪をし、参考文献として氏のブログを追記することでご了承いただきました。氏のブログにも本ブログ記事を追記でご紹介頂いております。

 

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批評再生塾第14回論文として投稿した「《私映画》の運命―黒沢清『CURE』の問いかけ」に、「盗用疑惑」のご指摘がありました。「映画批評ブログ「映画を書くと頭が疲れる」管理人の「はどの」氏より、ブログからの盗用が疑われるという指摘を受けました」というかたちで、当該論文に、経緯が記載されております。

 

批評再生塾第14回論文「《私映画》の運命―黒沢清『CURE』の問いかけ」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/2614/

はどの氏の指摘は以下にまとめられております。

http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2018/03/26/182004

はどの氏のブログに、いくつかの疑問点が挙げられております。
その点について、ご返答いたします。

 

なぜ友人から着想を授かり、その着想元だと思われるブログを確認したにもかかわらず、講師に引用の必要性などを相談しなかったのか。

この点については、意識が低いと言われて仕方がないのですが、大きな問題じゃないと思っていてた、というのが事実です。

もともと、小説でも音楽でも演劇でも「独我論」を背景にして、それを徹底させたかたちで従来的な見方を裏切る、ということを僕は批評再生塾の論考で繰り返し論じていました。僕自身が「私=世界」しかないという感覚で生きているということがあり、『CURE』はそうした感覚に非常によくマッチするものだと感じられました。『CURE』を観た時点で「高部―映画―世界―観客(私)」が「感染」をキーに同一化するというアイデア……までいかないくらいの感覚、「感染=私しかない」という直観を持っていました。

そして、初発の直観が自分自身のものであれば「オリジナルだ」くらいの、いまから思えば傲慢としか言えない気持を抱いていたと思います。友人から聞いた話も、そうした「高部=世界=観客(私)」という直観の補強材料くらいの意識です。それで、はどの氏のブログを確認して「これは聞いた話が混じっている可能性が高い」と理解しても、初発の着想である(と僕が理解した)「高部=世界=観客」は、僕が『CURE』から感じ取ったことが先だ、とその時は考えていました。

友人に示唆された「映画史の反復→映画=高部」から、すべて逆算的に『CURE』を解釈していったので、「着想の重複」が生じたというのはまったくそのとおりです。ただ、僕の意識の中で『CURE』を観た時に僕もそれを直観した、と言いたいエゴがありました(もちろん「映画史の反復」等の話を聞いて、それを確信したという経緯があります)。

だから、ブログを見たときにも―強く言えば―「元ネタ」のような意識はありませんでした。僕も同じように考えてる、くらいに思っていました。それで、これは面白いなと思って、読者登録をした・・・というような話です。特に、なにも問題はないと理解していたのです。

しかし、はどの氏が仰るように、ブログをチェックした段階で参照元にあげるべきでした。

僕自身に「盗用」のような意識はありませんでした。しかし、意識の問題ではないので、はどの氏の言う通り、「盗用」と疑われて仕方がありません。実際上、参照元であるのに変わりはないのですから。

僕のエゴで、はどの氏には大変不愉快な思いをさせてしまいました。
猛省しています。

ゲンロン側には、参照元として、当該の論考に「はどの氏のブログ」を表記させて頂くように依頼しようと考えております(すでに依頼済みです)。はじめから、そのような対応をとらなかったことを謝罪いたします。

時系列を捏造した理由。なぜ隠す必要のないことを、あえて隠したのか。

8日にブログのURLを友人から送られたことは証明可能な事実だったので、それを持ち出せば疑われる余地がない、と考えていました。はどの氏に指摘されるまで「問題がある」と思っておらず、指摘されて初めて「問題なんだ」と恐ろしくなり、絶対に否定しようという、そういう態度でゲンロン側に返信をしました。なぜ隠したかと言われると、「絶対に否定する」と過剰に反応をして、(今から思えば)深夜のファミレスでちょっとどうかしている状態になっていました。 

沈黙していたことについて

ブログを確認した段階で「参照元」にあげなかったこと、時系列を捏造したということ、これはまったく僕が悪いし、本当に悪いと思っています。時系列の捏造は公文書の改ざんと変わらないと、あとで思いました。人間のクズとはこういうことを言うのだなと思い詰めていました。

批評再生塾の最終課題締切の直前でしたので、最後に書き残しておきたいことを書いて、それまでは黙ろう、それからあとは自分がどうなっても仕方がない、という意識でした。実際にそうだと思います。

しかし、少なくとも、はどの氏の疑問に答える必要があります。
それで、このような返答をさせていただきました。

不十分な点もあるかもしれませんが、以上が正直なところです。
再三となりますが、はどの氏には不快な思いをさせてしまったこと、深くお詫びいたします。

また、ゲンロンにも、批評再生塾にも、多大なご迷惑をおかけしたこと、深く反省しております。

以上となります。

「わたしがいる。山がある。」―烏丸ストロークロック『まほろばの景』

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公演データ

日時:2018年3月1日(木)〜4日(日)
会場:東京芸術劇場 シアターイース

作・演出:柳沼昭徳
音楽  :中川裕貴
出演:阪本麻紀 澤雅展 角谷明子 小菅紘史(第七劇場)
小濱昭博(劇団 短距離男道ミサイル)松尾恵美

www.karasuma69.org

烏丸ストロークロック『まほろばの景』を見た。

 烏丸ストロークロックは京都を拠点に活動する劇団である。だから僕は京都にいたときに烏丸ストロークロックを見ている。そして衝撃を受けている。2008年にアトリエ劇研で上演された『六川の兄妹』だ。2005年から10年まで続く「漂白の家」シリーズの2作目だ。当時、「メモ」と呼ばれる短編の試作/思索を1年や2年といった単位で繰り返し、積みかさねていった結果として長編を上演するという創作スタイルをとっていたことからも窺い知れるように、彼らは一貫して「共同体の喪失」をテーマにして活動を展開していたと記憶しているし、今回の『まほろばの景』は、そうした「共同体」への問いをより熟成発酵させた、つまりはよりどうしたらいいのかわからなくなるほどに根源的な秘密へと迫ったドキュメントである。

 いまからちょうど10年前に僕はこんなことを書いている。

 いつまでも忘れられない作品に出会うということがあります。それはほとんど事件として体験される出来事ですが、柳沼さんが烏丸ストロークロックで作・演出した『六川の兄妹』は僕にとってまさにそういう作品でした。びっくりしちゃったわけです。(柳沼さんに直接おはなしを伺うと、どうも僕の勘違いらしいのですが)共同体がなぜ必要なのか、そしてそれはどうしたら可能なのかを証言形式で描き切り、劇構造を二転三転し観客を不気味な場所へと引き連れる……衝撃的な作品でした。
 びっくりしちゃっている。このときの僕はびっくりしちゃっていて、なににびっくりしちゃったかというと、およそ社会的な秩序を維持する上では禁止されている「言葉」を言っちゃってる、というか、その秘密を暴いちゃっている、ということにびっくりしちゃったわけです。

 手元に台本がないので、もしかしたらちょっと間違っている可能性もあるのだけれど、『六川の兄妹』はとあるニュータウンで殺人事件が起こり、探偵(?)がその事件を解決すべく住人から被害者にまつわる証言を聴取していく……というドラマトゥルギーでもって進行していく。それから最終的に住人全員で「彼」を殺害していた(らしい)ということが明らかにされ、殺害された彼(か彼女)を埋める場面でyammyさんという歌手の叫びにも似た声が、まるで死に際の動物が鳴き声をあげるように空間を劈き切り裂き、この無味乾燥な歴史性を欠如させたニュータウンの共同体が、実は血の生贄によって生成されたのだという、その秘密の現場が観客に突きつけられる。
 しかし、この作品はそれだけで終わらない。こうした証言の報告それ自体が、ある宗教の啓発セミナーであったことが、劇の最後で明らかにされるのである。つまり、この共同体が生成されるために必要とされた「秘密」は、「演劇」という形式が隠蔽してしまうのだ、という自己言及。君たちの見たもの、それは「嘘」なんですよ、「フィクション」なんですよというアイロニー。私たちは演劇という代理=表象の芸術形式において、二重に「秘密」を隠蔽してしまうのである。がゆえに−逆説的に−演劇はかくも「不気味」なのだ。
 と、すごく長くなっちゃったけど、そういう劇に出会い、僕は震えました。長くなっちゃったのは、そうした「共同体の秘密」へとアプローチする烏丸ストロークロックの主題系は、『まほろばの景』でも健在である、どころか、さらなる探求がなされていたからに他なりません。
 はっきりいって、僕は物語を記憶する能力が欠如しているので、あらすじをふくめた上演の雰囲気を知りたい方は、高尾さんの劇評を参考にしてください。いわゆるネタバレありですが、よくまとまっております。

高尾さんのレビュー

http://scenario.episode.jp/gekihyo/20180302111523

 そのドラマを非常に簡潔にまとめると、失踪した「カズヨシ」を探して福村が現実であるのかどうか定かではない「まほろば」ではない、「まぼろし」の記憶を旅していき、自らが抱えた「傷」と直面する、というもの。「謎を解決するミステリー」という点で『六川の兄妹』とドラマトゥルギーのレベルではほぼ同じと言ってよいが、しかし、探求されるのはニュータウンが隠蔽した「歴史」よりも壮大な領野。神道山岳信仰、あるいはアニミズム柳田國男的な祖先崇拝といった「日本」という共同体の輪郭を作り出す死生観・歴史観・社会観、つまりは伝統の総体が、いかなる理由において生成されてきたのか? を烏丸ストロークロックは「問題化」するからだ。
 もちろん、そこには2011年に起きた突発的なカタストロフィー、つまりは「3.11」が創作の背景を成しているということは出来るし、本人が語っているとおり、2017年に行われた仙台での滞在制作から始まった作品であるのだから、東日本大震災が直接的なモチーフになっているのは間違いない。だが問題は、ではなぜ東北から遠く離れた京都を拠点にする烏丸ストロークロックが、当事者性の隘路を超えて「3.11」の中心部へと入り込むようにして身を投じたのか? ということだ。
 観劇を終え、僕はこう考えた。それは「3.11」がまさに自然と社会の関係性を問い直す出来事だったからではないか。「3.11」は過剰に自意識を発達させたホモ・サピエンスの「人間中心主義」、つまりは自然を有用な資源として搾取する近代社会の自然観になんらかの「ひび」を入れる出来事だった。自然を有用な「資源」として管理する近代社会では、人間が豊かで幸福な生活を営む「ユートピア」を建設するために自然があるんだという「素材=自然」のイデオロギーが支配的になる。しかし、そこには過去と現在を結びつける「神話」が欠落している。生者が「死者」となり、また「死者」の魂が現世へと戻ってくる生命の循環を為す場が自然だ、という「生命=自然」の含意はなく、「死者」たちの記憶=魂が「共同体」にリアリティを与える−柳田國男的な−先祖崇拝の神話も喪失される。いまや生者は「死者」を弔い祀る術を持たず、生命を生い茂らせる力へと融合した「死者」から新たな「生」のエネルギーを受け取ることもできない孤独な根無し草となってしまった。つまり、「故郷」を喪失した。「3.11」は、そうした事情を逆照射する出来事であり、だからこそ「共同体の喪失」に私たちの「生きにくさ」の根源をみてとり格闘する烏丸ストロークロックの関心を招き寄せたのではないだろうか。
 しかし、烏丸ストロークロックの魅力は、「だから自然を回復せねばならない」というエコロジスト的主張に単純化することなく、むしろ「自然」との関係性の回復を願い乞いながらも、そこに安住する地はないことを「問題化」する点にある。つまり、彼らの演劇は「主張の演劇」(作家の自意識)ではないし、かといって社会的な人間関係を冷静に「記述」することで「現在形」を批判的に描き出す(社会主義リアリズム)ものでもない。あくまでも生成の始原へと遡行しながらも、その始原に潜む暴力性をどうしたって露呈させてしまう「問題劇」なのだ。

 福村が捜索する「カズヨシ」は、実は知的障害を抱えている。その彼を探す道の途上で、福村は山伏に出会う。ところが彼らはすでに死者であり、みずからの「罪−後ろめたさ−」を祓い清めるために山を登り歩くのだという。それから33年にわたる時間を経ることで、いずれ意識も消滅して山の神になるという。そこで福村はカズヨシの姉と出会った記憶の「まぼろし」を見せられる。カズヨシはまだ失踪しておらず、失踪のきっかけになった場面が福村の口から語られていく。いわく、カズヨシは諏訪神社の前で「イー」と声を立てて、頑としてその場を動かなくなったから、彼の気を逸らそうと「セミ」についての冗談を言った。だからカズヨシは失踪してしまったのだと福村は証言する。それが、実は真っ赤な嘘であることは山伏に誘われさらに山を登り、「父」から教わった神楽を踊れと命じられる劇の終盤で明らかになる。
 福村に「過去のまぼろし」をみせる山伏たちは、彼の記憶の中の人物であると同時に亡霊である。亡霊となった父が福村に神楽を踊らせるというのは、福村にとっては拭いきれない「過去」に憑かれる体験であることは言を俟たない。「過去」に憑かれ踊らされる彼は、「イー」という声がカズヨシという個体性を超えて神的なるものへと変質し、同時に空間が生と死が混在した「幽界」へと変貌するなか、「カズヨシ」が失踪した真実の記憶へと遡行する。「カズヨシ」は冗談を言ったから失踪したわけではもちろんなく、諏訪神社の前で「イー」と言うばかりでどうやっても動こうとしない彼を置いて施設に戻った隙に失踪したのだった。つまり、福村はカズヨシを見捨てた。そこで「傷」が刻まれた。だから、彼は半年も前に失踪した「カズヨシ」を探さずにはいられない。彼が彼自身の「現在」を回復するためには、「カズヨシ」にもう一度会う必要があるからだ。
 しかし、それは叶わない。叶わないから「父」から伝承された神楽を上手く踊ることが出来ない。確かに劇の序盤でも、熊本の被災地で上手く神楽を踊れなかったよというエピソードが語られるが、それは単に忘れていたから踊れなかったということで、「自然」との関係が喪失されたことを象徴している。だが亡霊の父と出会い「自然」との関係を回復させる契機となるはずの「伝承」の場面でも彼は踊れないのだ。なぜか?
 傷を抱えているからだ。傷を抱えた福村は「母なる自然」と合一する絶対的幸福の境地へと還ることが出来ない。つまり、神楽を踊り記憶=自然=始原をどうしてもその身に宿すことが出来ない。舞台上に溢れ出す水で服を濡らしながらのたうちまわり、「悔しいなぁ」と何度も口にするシーンは象徴的だ。多様なシンボルの系−津波・汚染水・忘れたい記憶・生命・羊水−を喚び出す「水」はこんこんと湧き出る。人間はその溢れ出す「水」の流れを制御することも、ましてや抗うことも出来ない。過去は変えられず、「傷」は癒やされない。
 だが、本作の結論は、先に述べたように「だから自然を……」ではない。「傷」を癒そう=水で身体を満たそう、というベクトルへ向かうことはない。舞台上に吊るされていた紗幕の布が山伏の手で左右に分かたれ、舞台上には擬似的なプロセニアムが作られる。そして、その奥には工事現場の足場のように組まれた台がそびえ立ち、福村は落っこちそうになりながらも頂上にたどり着き、真正面を見据えながら言うのだ。
 「わたしがいる。山がある。」
 「わたし」は「山」ではない。そして、「わたし」は山のように「ある」のではなく「いる」。人間は人間であり、自然は自然だ。その境界線がはっきりと引かれ、上演は「傷」が癒やされることもなく、かといって「自然」が拒否されることもない、宙ぶらりんの状態で幕を閉じる(いや閉じる幕はないんだけど)。
 だが、その結論は単に「人間は自然には戻れないよね」という至極単純なメッセージなのだろうか? 僕にはそうは思われなかった。ここで、吊り下がる紗幕の布が左右にまとめられプロセニアムが前景化する点に着目すれば、「わたしがいる。山がある。」と自然と人間が分かたれたところから、「傷」が癒えぬと深く了解された地点から、そこから「劇」が始まることを告げているからだ。つまり、共同体の伝統に根付いた〈芸能〉が生成する秘密は、この「傷」にある。この「傷」から「私たち」の文化的な営みは始まり「まほろば=故郷」が夢見られるようになる……という、まさにそのこと自体を烏丸ストロークロックは「問題化」する。
 烏丸ストロークロックは「漂白の家シリーズ」で、共同体の喪失を問題にして、その生成の秘密を探った。そして、『まほろばの景』にて、「まほろば=美しい日本の故郷」は何度も繰り返し回帰してくる不気味なもの−傷−との関係から生じてくることを露呈させた。それは、希望でも絶望でもない。また、「傷」を隠蔽するのが「まほろば」であるのか、回復させるのが「まほろば」であるのか、その答えもない。その答えのなさが、『六川の兄妹』から変わらぬ烏丸ストロークロックの「倫理」であると、僕には思えてならない。
 あるいはこういう風に言いたくもなる。「わたしがいる。山がある。」という語は、安定した世界の秩序をいつも常に揺らし続ける〈潜在現実〉である。安定した世界の深層には「潜在」する無数の「傷」が隠されている。それに触れることで、わたしたちの現実は脅かされ、世界は謎を孕んだ暗号へと姿を変える。「わたしがいる。山がある。」と宣告された世界は、もう「わたしがいる」だけの世界(人間中心主義)には戻れず、また「山がある」だけの世界(アニミズム)にも戻れない。『まほろばの景』は観客にそうした問いを突きつけ、その問いから組み替えられた現実へと観客の知覚−身体を変性させてしまう。「秘密」は世界を魔術的に書き換える。そこに、本作の言い知れぬ不気味さと魅力が潜んでいる。

 もっともっと書けることはあるはずだが、ぼくの記憶力は鳥より悪いので、何度も肯首したはずの様々な事がらがまったく思い出せない! 戯曲を読んで思いだしたいところだが、販売はしておらず。とにかく10年たっても烏丸ストロークロックと柳沼昭徳は深くて広大な世界への妄想力と想像力の射程を持っていることを体感できたのは僥倖だったし、久方ぶりの「観劇の歓び」をもたらしてくれた。なにより、微温的な表現に留まることなく、現実の襞をめくるようにして世界を汲み尽くし得ぬ「謎」−「他者」−へと変貌させる姿勢は、まったくもって貴重であると断言して差し支えない。
 また、個人的に知っているという事情もあり、福村を演じた小濱さんの演技には、感動を禁じ得なかった。感動、という言葉は当たらないかもしれない。彼は仙台を拠点に活動する俳優だが、「震災直後、僕たち若手演劇人は、なにもできなかった」(HPより)という問題意識をもとに集まった仲間と「劇団短距離男道ミサイル」を結成し、「仙台に、東北に、日本に活力を注入するため、我々は服を脱ぎ続けます」という決意のもとに「祝祭劇」を引っさげて東北ツアーを敢行している(そして、比喩ではなく服を脱ぎ続けている)。その彼が口にする「震災」の記憶は、観客とともに彼自身の「現在」を解体させ続けてしまう言葉のはずだ。それを聞くというのは聞こえない言葉を「聴く」体験であると感じられるし、それが本作の強度につながっているとぼくは確信している。
 上演は身体を想像力の媒体に、「現在」を正当化する時間を解体して無意識に沈む記憶の時間を顕在化させる。つまり、見ることも聞くことも出来ない歴史を「いま」へと継起させる。そこで身体とは歴史のプールであり、私たちの「いま」が忘却させる他者を想起させ、「歴史」を共に生きる倫理にリアリティを与える。言葉と身体と記憶が交差する演劇の力が十二分に発揮された『まほろばの景』が、まさに故郷喪失した「孤」が集う「トーキョー」で上演されたことの意義は、とりわけ大きいのではないだろうか。