どうでもいい他者のリアリティ/ttu『会議体』
ttu vol.7『会議体』
岸井戯曲を上演する#6 場外編
*TPAM2017フリンジ参加作品
作 岸井 ⼤輔
構成/演出 ⼭⽥ 真実
出演
大木 実奈(noyR)
大間知 賢哉
瀧腰 教寛(重力/Note)
⽇程
2017年2月11日(⼟)〜15日(⽔)
会場:
artmania cafe gallery yokohama
(〒231-0064 神奈川県横浜市中区野⽑町 3-122)
1、ttu『会議体』を見る。
撮影:Tani Ayami
『会議体』は岸井大輔が執筆した数ページほどの〈戯曲〉。内容は、岸井が2010年(だったと思う)に都内の喫茶店で150日間、Twitterで「会議するので○○に来てください」と呟いて、そこに集まった人たちで、どんな内容でも―別れ話でも、家族との不仲でも―会議で解決する『会/議/体』というプロジェクトをもとにしたもの。プロジェクト終了2日前に突如、書き上げてしまったというテクスト。*1
実際の上演は、ttuの演出家・山田真実が2015年から「街を身体化する」ことをコンセプトに、喫茶店で聞こえてくる会話の内容をレコードして書き起こす活動がドッキングされたような内容。彼女がレコーディングした喫茶店の「会議」が時系列に沿って淡々と、まるで展示されるように上演の時間軸に並べられていく。
観客はレコードされた様々な会議が3人の俳優によって繰り広げられていくのを、ただただ見る。そしていま、ぼくは確かに上演されたはずの会議の内容がぜんぜん思い出せない。かろうじて覚えているのは、口紅を塗った男優2人が何かしらの会話をしていたことや、途中で電車の窓から見える東京(?)の光景が映写されたこと、水の張られたボールに入れらたレモンが3階に運ばれていったこと(上演会場はいわゆる劇場ではなく、非常にコンパクトな空間。はじめは2階で上演が行われ、上演中に3階に移動して、続きを見る)。類人猿の歴史が記された文庫本が読まれ、ホモ・サピエンスが肉食へと退行した種であったらしいこと。3階に移動するとコーヒーを挽いた粉を手にする女優が立っていて、その粉がパン生地みたいに床で円形に伸ばされ、島に見立てられていたこと。最後にその粉でコーヒーを入れて飲んだこと。ぼくの記憶力がすこぶる悪い可能性を念頭に置いても、しかしこの忘れ方は普通じゃない。これはどうしたことだろう?
上演会場となった桜木町のギャラリースペース
2、没交渉のコモンセンス
撮影:Tani Ayami
ところで、東京にいると、わたしの行為がわたしたちの社会に何の影響も与えないように思える。都市は共同体と違って明確な境界線で囲われた場を持たないからだ。共同体は、民話や伝承の形で共通の記憶のプールを持っている。それにアクセスすることは、わたしたちの物語を基盤にしたコモンセンスをもたらす。コモンセンスは共通するリアリティの場を構成し、わたしのリアリティとわたしたちのリアリティを一つのものにする。そうしたリアリティの基盤を立脚点にして、わたしの行為がわたしたちの社会にバイブレーションを起こしているのだと感じられる。
しかし、喫茶店は、複数のコモンセンスが没交渉的に折り重なりたたまれていく場である。わたしの行為は没交渉的なテーブルに切り分けられ、眼には見えるのにバイブレーションを伝播させることの出来ない多数の人達に囲まれていると感じる。それは都市的なる場の意味を象徴的に示している。
もしもわたしたちが共有された物語によって結びつき、世界の意味をコモンセンスに重ねて理解できないのだとしたら、世界は喫茶店のように現れてくる。つまり、コモンセンスがリアリティを産まない、リアリティを異にする人びとの寄せ集めとして。では都市のリアリティを、わたしたちはどのように触知することが出来るだろうか?
ウォーホルの映像作品「エンパイア」(1964年)が明らかにしたように、カメラやレコーダーのような機械技術は、何の意味もない現実を、何の意味もないままうつしとることを可能にした*2。都市のリアリティを対象化しようとするならば、何の意味もないままうつしとるような機械技術が適している。ttuはまさに、そうした機械技術を介在させることで、都市のリアリティに光を当てる。ぼくがレコードされた会議の内容をまるっきり覚えていない理由の一端には、会話の内容がおよそ何が起こるかわからない出来事を構成することがなく、その会議に参加した人びとの正体を明かさないからだ、といえる。出来事にさらされるとき、人は正体(Who)を現す。アレントはそれを「物語」という。しかし、都市という場がリアリティを異にした正体不明な人びとの寄せ集めであるならば、正体を明かす物語という記憶装置を必要としない。だからぼくも会話の内容を記憶することが出来ない。会議で彼が何を喋っていたかなんて言うことは、僕にとってはリアリティを産まない、まったくどうでもいいことだからだ。実際、喫茶店で行われているであろう会話の断片を記憶にとどめようなんて、しないだろう。
しかし、山田真実はそれをした。
3、どうでもいい他者への通行路
※上演とはまったく関係のない、皇居の前を通りかかったので、撮影した皇居の空。
なぜそんなことをしようとしたのか、ぼくにはわからないが、少なくとも、彼女の企てが正体不明な人々からなる都市のリアリティに光を当て、さらには、まったくどうでもいいように思われる他者の意味に耳を澄ませたことには、大きな意味がある。
思うに、喫茶店はアナクロなTwitterである。それぞれのテーブルはおよそ交渉が不可能なほどに隔たっているかもしれないが、その間に大きなテーブルが用意されることで、散りばめられたリアリティの寄せ集めから、星々のあいだに星座が発見されるように何らかのリアリティが発見されるかもしれない。
ttuの『会議体』は、収集された多数の会議を大きなテーブルの上にのせる。ぼくがかろうじて覚えていた上演の時間は、多数の会議がその多数性を保ったままに関係し合う光源を示していたのではないか。多数の会議のあいだに関係はないが、そこに一つの光を当てることで、どうでもいいように思える内容が、どうでもいいような質を保ったままで(だから正体不明のままで)記憶される出来事へと変換される。これはドキュメンタリー演劇のように注目されるべき現実の出来事を指し示すこともなければ、自然主義演劇のように、世界を意味的に構成することもない。そうした企てからはこぼれ落ちてしまう、抑圧された都市のノイズ的な位相である。
都市は確かにノイジーな群衆のようである。機械技術によってうつしとられたノイズを出来事に変換する編集装置を介して、こうしたリアリティをすくい取ろうとした結果がttuの『会議体』に結実したのかもしれない。この企てが果たして成功しているかどうかはわからない。レモンやら何やらが〈会議群〉にどのような光を当てるかは、それこそ人によるのかもしれない。しかし、どうでもいいように感じられる異なるリアリティとのあいだへ通行路を敷く試みなしに、〈演劇〉の醍醐味も生まれないだろう。
(渋革まろん)
ドクトペッパズ『うしのし』
場所:
大人の「ごっこ遊び」
ドリフトするマレビトたち/玉城企画『戎緑地』観劇スケッチ
2017年2月2日(木)~5日(日)
東京都 アトリエ春風舎
作・演出:玉城大祐
出演:岩井由紀子、中藤奨、永山由里恵、横田僚平
1、京都⇔東京は夜行バスで3,500円
わざわざこうしたことに触れるのは、玉城のこうした来歴が『戎緑地』という作品に大きな影を落としているように思えるからだ。『戎緑地』の背景に、京都を離れ東京へと移住した「根無し草」的な視点から見える「東京の姿」が通奏低音のように流れているのを、筆者はどうしても感じてしまう。それは同郷の士だからという事情もあるだろうし、作品を矮小化してしまう危険もなくはないのだが、そんな風に読む人もいないだろうし、ここはあえて演劇形式の分析を通じて『戎緑地』から見える〈東京〉の意味を探索してみたい。*1
2、こんな作品だった
右手に大きなタコを模した滑り台がある。子どもが二人、そこで遊んでいる。左手には池。池と言っても水は少なく沼に近い。大人の胸の位置程の高さの柵で覆われていて入る事はできない。「ここに大きなシジミが住んでいる」、以前、この緑地に住む誰かからそんな話を聞いた。・・・ ふと、足元に文庫本が一冊落ちているのを見つける。カバーが外されいかにも文庫本然としたその本に手を伸ばす。本は朝霜に濡れていた。・・・ この緑地は広い。私はいまだ役目を終えていないこの手紙達を、ここに住む宛先不定者たちに配らなければいけない。*2
同時に観客は、どこか朗読を聞いているような感覚で持って、言葉が指し示す風景と、登場人物の内面をイメージするように仕向けられ、広大な緑地を彷徨う人々が残したのかもしれない手紙の数々を聞きながら、まるで小説を脳内で立体化し劇場空間に重ねて見るように緑地で起こっている出来事や緑地に住む人々の生態系をつぶさに観察して《見る》ことになる。
3、手紙は何を意味するか?
4、マレビトの会の「分断された演技態」
俳優がその登場人物を演じる「ドラマ演劇」に対して、いわゆる「ポストドラマ演劇」というか、俳優という「身体」と「語り」とがどんどん離れて、ずれきってしまったのが、2012年のフェスティバル/トーキョーで上演した『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』でした。俳優たちがただ、立ったまま、かつて演じた劇を想起していて、観客はその姿を眺めるだけ、という。
5、玉城企画の「多数化された演技態」
「宛名」は常に「宛先」より多く、この言葉たちは「宛先」を求めて、私の元に届けられる。そして緑地に集まる人々は「宛名」を求め、徘徊し続ける。いつか誰かが自分を見つけてくれる。そう思いながら何処までも何処までも歩き続けるのだ。そしてこの緑地から出ていくことはない。*5
マレビトの会(少なくとも2012年まで)が上演形式のレベルでは、あくまでも一対一対応のキャラクターと身体が分断される次元、言ってみれば「実存」の位相を開示するのに対して、「手紙を届ける」形式は、確かにキャラクターは届けられるが、たまたま偶然この身体へ届けられたというだけで、そのキャラクターは「私じゃない」。こうした多対一対応の「偶有性」の位相を開示するのだ。このような「偶有性」によって特徴づけられる演技態を〈「身体」に対して「キャラクター」が多数化される〉という含意を込めて「多数化された演技態」と呼ぼう。*6
「多数化された演技態」において前面化されるのは「何者性への問いかけ」ではなく、偶有的な世界感覚であり、これほど大量のキャラクターがばらまかれていながらたまたまなぜか〈私〉が〈コレ〉であることへの違和なのである。手紙に書かれたキャラクターを「たまたま割り振られた」としか感じられず、〈私〉そのものにすることが出来ない人々。それがゆえに、いつか誰かが〈私〉の〈本当の名〉を見つけてくれることを切望し、手紙=キャラクターを求める人々。そうした者たちが徘徊する場、自分が何者であるかを支えるアイデンティティが常に浮遊し続ける根無し草たちの住むところが「戎緑地」なのだ(Twitterで「ニュータウン」を思い起こしたという感想が散見されたのは、それがゆえだろう)。
6、ドリフトするマレビトたち
一応留保しておくのだけれど、京都での演劇活動は先が見えない。というよりは、その演劇活動を意味づけてくれる審級が存在しないため、この活動が果たして何らかの意義ある活動なのかがわからない。それだから「東京に行けばなんとかなるんじゃないか」という謎の神話も生まれるのである。これは馬鹿らしいことだろうか? 筆者はそう思わない。どのように生きるとしても、社会の総体を代表しているであろう「物語」によって私を「何者か」として意味づける「大きな物語」を求め振り回されてしまうのは、僕達の精神史に刻まれた深い傷だと思うから。*7
*1:実際、上演を見ている最中にはそうした連想は全くなかったのだけれど、アフタートークで玉城が「東京にいることの違和感」をかなり赤裸々に語っていたからか、その内容を補助線にして脳内で『戎緑地』の再演/再編が起こった、ということを付け加える。
*2:玉城大祐『戎緑地』より。
*3:ここで柄谷行人『日本近代文学の起源』を思い浮かべるのは、多分適切なことだと思う。柄谷が内面と風景は言文一致の透明な文体によって初めて作られた(捏造された)ものだと言うように、玉城の自然主義的な筆致は、内面と風景が観客のうちで捏造されるように働きかける。ここで僕はどうしても、坪内逍遥がシェイクスピアとの格闘からついには文語体から口語体への翻訳を成し遂げたように、耳で聞いて明快に理解できる意味を求めた新劇運動への回帰の匂いを嗅ぐ。匂い、とは全く明快ではないのだが、新劇からアングラへいたる演劇史的なコンテクストを念頭に置くと、例え、玉城の劇作がカフカ的なシュルレアリスム調の展開を見せたとしても、演劇についての演劇を反復してみせる自己言及的な手法によって、結局のところアングラが批判した新劇の本質を露呈させるだけではないか? 例えば、手元にたまたま「別役実の世界」に寄稿された管孝之の「あまりに方法的な―ことばの前衛・別役実」があるので、引用してみる。
「新劇の作家は、台本を、小説やエッセイや論文を書くように、不特定多数の読者に向けて書く。その台本を上演する俳優も、あくまで読者の中の一部分」であり、「書き手と読み手とは同一のコードを共有しており、こちらのことばとあちらのことばが同じ”日本語”でありながら全くちがったコードをもっていて、ひょっとすると同じ用語が全く別の心情や行為を示すことがあるかも知れないなどという危惧が、入り込んでくる余地はほとんどないのである」
言葉が観客に、それどころか俳優にも、自分自身にも通じているのかわからない、そうした言葉の意味への不信が、アングラ世代が特権的な身体性を重視した理由だった。しかし、『戎緑地』においては、言葉の意味は字義通りに俳優を動かし、字義通りに風景をイメージさせる。上演が言葉を裏切ることがないのだ。こうした言文一致が前提とされた透明な表象言語による演劇をこそ転覆させることが68年以後の小劇場演劇運動だったのではなかったか。このあとの論述を完膚なきまでに先回りしてしまうが、筆者が本稿で展開する読解は、ある程度理念化されたものであることを告白しておきたい。筆者の最大の不満は上演において「手紙が誤配される可能性が予め禁じられている」ところであり、そのための手立てがほとんど講じられていない点に尽きる。それは、太田省吾が「劇を意識化することはやさしくない」と言ったように、結局のところ「劇を意識している普通の劇」に終止してしまうように見えるのであり、「歩くこと、立つこと」それ自体がなにごとかであり得るような「直接性の場」を押し開くことがない。手紙はおよそ手紙にかかれていたとは思えない「何事か」へと身体を介して変異しなければ、「普通の劇」であることを免れ得ないのではないか。あれほど大量の手紙がばらまかれていたことの意味も単なる絵解きで終わってしまい、「あー、セリフ覚えてるよね、それは装飾だよね」と観客は見透かしてしまう。
とは言っても、太田省吾が身体を「コレであるもの」として露呈させる『水の駅』が、高度情報化社会における「複数の情報によって空洞化する身体」を批評することが敵わないのに対し、『戎緑地』はそうした「大量の情報に浮遊する身体」に触れようとしていると、筆者には思われる。だから、言葉の意味で全てが一義的に決定される(ように見える)上演のあり方は、玉城自身が実現したい位相を裏切っているように感じられるのである。
*4:近年のメタシアターの傾向については綾門優希「疑心暗鬼的メタシアター」に多くの事例が挙げられているので参考になるかもしれない。http://school.genron.co.jp/works/critics/2015/students/ayato/647/
*5:玉城大祐『戎緑地』より。
*6:東浩紀『存在論的、郵便的』で展開されたクリプキとデリダの対立―否定神学vs散種―を思い起こすので、そのあたりのコンテクストを引き寄せたかったのだが、筆者がこの本を誰かに貸したまま手元にないので、出来ない。
*7:だからこそあえて、そんな物語に振り回されるのは馬鹿らしいと筆者は言いたい。意味付けなんてものは必要がない。筆者自身は、東京での演劇活動を通じて、むしろ京都に内在する「意味付けなんて無視して各人てんでバラバラに活動する」あり方に演劇の可能性を見る。それを批評的にフレーミングしてみることを、なんとか足掻いてやってみたいと思っている。その方向での「足掻き」は「仕事と自事―私的なものからなる公共圏」をご参照ください。
仕事と自事―私的なものからなる公共圏
「今回のイベントと、ずれてしまっているかもですが。
なんか、この話をきいたときに、
こんなことを思い出したのです。たとえば大学生。
就活にヘロヘロになっている学生に、
どうして就職するの? ときくと、
仕事してお金稼がないと生きていけないし、とこたえる。
ので、仕事って何?
ときくと、
お金を稼ぐこと、とこたえる。
お金って稼がなきゃだめ?
ときくと、
お金がないと何もできないし、とこたえる。ので、おおよそ以下のことを伝えたり、やりとりをする。
仕事ってのは、字のごとく、仕える事だよねえ。
はい。
じゃあ、誰に仕えるの?
ときくと、
社長、企業、などとこたえる。
中にはカンのいい学生もいて、
社会に仕える、なんてこたえりもする。そう、一般的な意味での仕事ってのは、
おそらく社会に仕える事なんだろうねえ。
そして、その対価として、
「社会のみで通用する」お金をもらえる。
みんなで社会に仕えて、
みんなで社会からお金もらって、まわして、
みんなで社会に生きていこう。一方、じゃあ、お金がもらえなくてもやる事ってある?
ときくと、
寝ること、食べる、アイドルの追っかけ、などとこたえる。
さらには、
犬の散歩、とか、カラオケ、とか、ダンス、とか、
おたく、とか、芝居とか、瞑想、とか、ネット、
なんてこたえる学生もいる。
さらには、
お母さん、弟と遊ぶ、お年寄りに席を譲る、などなど。
そこで、僕は、
じゃあ、そういったことを
「お金もらえないならやらない」ってなったらどうなる?
妊婦さんに「500円で席譲りますけど、どうします?」
みたいになったら、
ときくと、
多くの人は「終わりだよねw」みたいなことをこたえる。じゃあ、お金にならないけどやる事を、
仕事をもじって自事(じごと)とよんでみよう。みずから行う事、おのずとやってしまう事。
自事は、それをどれだけやってもお金はまったくもらえない。
極端に言い換えれば、
自事は社会から報酬を、評価をまるでもらえない。
なぜなら、それは仕事ではないから。でも、みんな知っている。
自事がなくなったら「終わり」だってことを。
自事は社会には認められないかもしれないけど、
自事は世界を根底から支えている。
「お金もらえないならやらない」ってなったらどうなる?妊婦さんに「500円で席譲りますけど、どうします?」みたいになったら、ときくと、多くの人は「終わりだよねw」みたいなことをこたえる。
*1:僕が理解する《公共》の概念については、下記の記事をご参照ください。
「トマソンのマツリ」赤裸々稽古場レポート
①稲垣、口にブラックホールというインストラクションでぶらんこを読む。途中で止める。
② 稲垣、ぶらんこのセリフの一つ一つの単語が違う意味をするように発語する。例 昨夜はね素敵な夢を見たよ。→裂く、矢、輪、根、捨て、来な、有名、oh、みた 、YO。
③稲垣、やる。
④稲垣、セリフの俺と言う部分でタメたり、何かを吐き出す様に言う。最初の方は、自分を指すという意味で胸をポンとたたく仕草から、話が夢に入っていくと、俺が膨らんでいく、足を差して俺と言ったり、上を差して俺と言ったり、ていうようなことをする。
⑤稲垣、机の上に顔を乗せて、指人形がしゃべる感じを、後ろの顔が見てる。という感じ。
⑥稲垣、登場して、机の前に礼儀正しく靴を置き、机に座る。指人形ならぬ、足指人形さながら足をしゃべらせる。 そして、夢の話に入るとどんどん足が高くなり、最終的に寝そべりながら、足を高々と掲げる。
⑦稲垣、フロイトに出てくるらしい糸巻き遊びをする赤ちゃんのように、言葉をポンと投げるように発話し、それを聞いて喜ぶ、という無邪気な赤子のようにしゃべる。
⑧稲垣、やる。稽古場の放送アナウンス
2016年を振り返る
レビュー企画 第3回 高田斉ーーー『とまる。』書き留めの先人
http://kyotostudentstheaterfestival2016.blogspot.jp/…/blog-…
コンクール直前インタビュー!(6)<トマソンの祀り>のための集まり
http://sengawagekijo.tamaliver.jp/e426164.html