飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

C.T.T.vol.90 村川拓也+工藤修三『フジノハナ』

日時 2012年1月29日・30日
会場 アトリエ劇研

※このレビューは、『ツァイトゲーバー』の前身にあたる『フジノハナ』について書かれたものです。
  加筆修正を加えています。(2016年3月5日)

世界=時間の不気味な位相

社会的な生き物としての人間は、何らかの有用性によって計られる。最も分かりやすい文言は「働かざる者、食うべからず」だろう。有用でないものに価値はないというのが基本的な社会の仕組みである。しかしそれは本当だろうか? 本作はそんな疑問を喚起する。

本作を読み解く点で重要なのは、実際に上演されたバージョン(A)と―筆者が偶然リハーサルで目撃した―上演されなかったバージョン(B)があったという事実だ。両者ともその内容は変わらない。舞台にはイス(車椅子に見立てられる)とスピーカーと小さな机(?)が置かれている。介護者の男は被介護者に尿瓶を差出し、車いすに乗せ、ご飯を食べさせ、音楽をかける。ある介護現場の日常らしきものが淡々と進行する2つのバージョンでただひとつ違うのは、ver.Aが被介護者の役を観客がやるのに対し、ver.Bは無対象だったという点だ。

ver.Aでは村川が最初に「この劇は観客に参加してもらう劇だということを告げ、観客の中から無作為に一人の女性を選び出す。彼女は被介護者として、介護者の男から様々に介護を受ける。このやり方の面白い点は介護される人間がどんどんモノのように見えてくるということだ。

劇という状況において、人間を含めた全ての物事は機能するモノとして扱われる。それがゆえに「行為を奪われた観客」は舞台のネットワークから排除されモノとして浮かび上がってくる。それは社会において機能しない、つまり誤解を恐れず言えば役に立たない被介護者の比喩であり、想像力の上で「私たちもまたモノになりうる」ということを痛感させる。社会的存在であるわれわれは、常に機能不全への不安を抱えながら、なんとか社会のネットワークから排除されないように最新の注意を払って生きるモノなのだ。ver.Aはそうした「無用さ」への想像力を喚起する。ではver.Bはどうか。


普通に想像すると、ver.Bは失敗するように思える。観客が被介護者役としてあったからこそ、われわれはそこに想像力を働かせることができたからだ。だが、ver.Bの秀逸な点は介護者の男がドラマの演じ手として被介護者の場所に誰かがいることにしてしまうのと同時に、マイクを通じてセリフをしゃべることで、相手役との芝居の言葉を、劇全体を客観的に説明する言葉へと変貌させ、劇をドラマであると同時にドラマではなくした。つまり相手役を存在させるのと同時に消滅させたところだ。

このウルトラQによってソコへ何かを読み取ろうとする観客の想像力はすぐさま空転してしまう。ver.Aでは人間が「機能しないこと」によって観客の想像力とその時間は機能したが、ver.Bでは観客の想像力そのものが機能不全に陥る。ソコに何かをいくら見ようとしてもソコには何もないという〈無性〉が観客の想像力を空転させ、時間を不気味に吸い取ってしまう。この地点においてはあらゆる劇の時間の作為がバラバラに砕け散り内破することだろう。

機能しないことが問題提起になっているがゆえに意義深いver.Aと比べ、ver.Bは全くの無意義である。しかしだからこそ、それは社会的な価値を全く無化した単なる事実を、不気味さとともに現れる〈世界=時間〉を出現させる。

 

さて、わたしたちはこの不気味な時間をどう受け止めるだろうか?

光へ/情熱のフラミンゴ「ピンクなパッション」

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2017年3月3日(金)~5日(日)
東京都 小金井アートスポット シャトー2F

作・総合演出:島村和秀
作・振付:服部未来
作・映像:川本直人

作・出演:島村和秀、服部未来、川本直人、秋場清之、
                   岡部ナノカ、坂口天志、後藤ひかり、稲垣和俊


ゲスト:MARK、Y.I.M、山山山

 

オッティーリエの最期をめぐるゲーテの深い思いのうちにあったのは、この蝉のような生と死以外に何が考えられよう? (『ゲーテの「親和力」』ベンヤミンコレクションp168)


これが即興スケッチであることを断っておきたい。語るべきことは多々あるが、それに追いつくように何かを書くことは、残念ながらぼくの力の範囲を超えている。しかし、何らかのスケッチが必要とされているのかもしれないと妄想して、何かを書こう。

情熱のフラミンゴは、多摩美術大学の卒業生で2012年に結成された、演劇・ダンス・映像の壁を融解させるジャンルボーダレスな劇団である。

「ピンクなパッション」は武蔵小金井にあるギャラリー&カフェスペース「小金井アートスポットシャトー」にて上演された。11演目からなる「ピンクなパッション」は、わかりやすく言えばオムニバス形式のライブパフォーマンス・イベント。飲み食い自由で観客はビール片手に観劇する。演目一覧は次の通り。

第一部

①落語      坂口天志『落語とは(パッション落語)』
②パフォーマンス 後藤ひかり『現代口語演劇入門 ゼロ年代編』
③ダンス     服部未来『ふくろうは海を見たか』
④上映      川本直人『潮汐の窓』


第二部

①落語   坂口天志『落語とは(パッション落語)②』
②歌    秋場清之&服部未来『モグラップ』
③ゲスト  MARKライブ
④演劇的マイクパフォーマンス系私的儀礼
      稲垣和俊『サンシャインデイイズララバイフォーミー』
⑤歌    秋場清之『はじまりのうた』


第三部

①落語   坂口天志『落語とは(パッション落語)③』
②映画   川本直人「フェイクドキュメンタリー」
③演劇   島村和秀『頑張れ!アニマルガード』
④歌    『アダルトチルドレン

彼らの第一の特徴は、ジャンル・リミックスな境界性(リミナリティ)にある。2時間40分の上演時間にもボーダレスな彼らの特性が顕著に現れている。演劇として考えれば長く感じるかもしれないが、音楽ライブとして考えれば全然短い、といったように。

とは言うものの、演目一覧を見ればわかるように、舞台にあげられる表現は多岐にわたり、わたしたちはこのイベントをなんと形容して良いのか途方にくれる。

セミの詩学

途方に暮れて、ぼくはこう言う。

演劇は蝉に似ている。

演劇は、それが羽化するために充てられる製作の時間よりも、それが人々の前に現れて消費される時間の方が圧倒的に短い。蝉が7年もの時間を地中で過ごしながら、一週間という限られた時間を使って他の蝉を求めて鳴くように、演劇もまたいるかいないのかわからない誰かに向けて鳴いている。複数の演目からなるオムニバス的なレビュー形式は、たくさんの蝉たちが地中から這い出てきて、一斉に鳴き始める夏のひと時を思い起こさせる。

ところで、なぜぼくたちは、蝉の亡骸に「もののあわれ」的な感覚を覚えるのだろう? もしくは一夏の輝きを「蝉のけたたましい鳴き声」とともに思い出すのだろう? 蝉の亡骸と夏の終わりはセットで連想されるのだろう?

蝉が瞬間の生を燃焼していると感じられるからだ。まるで地中の膨大な時間が打ち上げ花火のように地上に現れた一瞬に凝縮されていると感じるからだ。蝉は出現と同時に「死」を予感させる。求愛する蝉の鳴き声の裏には常に「もう鳴いていない」が張り付く。存在=非在。これが蝉の詩学である。

そして、情熱のフラミンゴとは〈蝉の詩学〉を空間に定着させる活動である(と理解できる)。

光ある方へ

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左から川本直人・服部未来・岡部ナノカ・島村和秀・フラミンゴ

例えば、島村和秀「頑張れ!アニマルガード」動物愛護団体がチキンナゲット工場で「三日以内に肉を食べたものを死に至らしめる」毒ガスをばら撒こうと計画する物語であるが、「動物愛護」の光り輝く理念に反して彼らのサークルが瓦解するのは恋愛関係のいざこざといった身も蓋もない、ある意味でくだらないクソ現実が原因になる。それを「頑張れ!」と応援する島村のアイロニカルな態度は、理念に奉仕する欺瞞への皮肉ともとれるが、理念が燃焼される〈一瞬の輝き〉への挽歌を捧げているようでもある(切望のアイロニー)。*1

また、服部未来「ふくろうは海を見たか」では、名前を喪ったふくろうが、幻想の中で故郷を旅する(背景にはどこまでも続く森林が映写される)。そこに「見えないイメージ」とシャドーボクシングで戦う川本が加わり、服部は両手にふくろうのマペットをつけ、踊る。「わたしの右手にはイメージがあります」「わたしの左手にはイメージがありません」・・・と言われる両手はぶつかり、イメージは消滅する(ように見える)。呼応するように川本直人「潮汐の窓」のシークエンスが舞台に重ね焼きされ、海辺の家の窓から見える打ち上げ花火について語られる。窓から見える花火は本当にあるんだろうかと窓を開けると、花火の輝きが彼の目に飛び込む。炸裂。銃撃のような音を立てカラフルな図像が幼児の描く絵のように映写される。つまりは「窓」に映る。同時に、服部はふくろうのマペットを映写面=窓ヘ向けて何度も投げつける。夢に幼児退行的な無意識が反映されるように、映像とダンスが交差する夢幻的なコラボレーションは、わたしたちの始原的な記憶を呼び起こし、いつの日にか喪われた〈光〉を、言葉によって象徴化される以前の〈現実〉を描き出そうとする。

まだまだ、ある。

秋場清之「モグラップ/はじまりのうた」について触れよう。随所に挿入される秋場の歌/ラップのリリックの一節を引く。

もぐらー アンダグラウンドアンダグラウンド・・・ 衝動が突き動かしている 掘っているというよりもがいてる あこがれの見たことない危ない光にいま向かってる 掘り進めろ 掘り進めろ メロウな音楽かけんじゃねぇ 掘り進めろ 掘り進めろ 第六感を研ぎ澄ませろ (モグラップ)

もぐらはアンダーグラウンドで地上に出ようとするのではない。掘る。真下へ。吉本隆明は何かで「自分の真下に垂直の穴を掘れ」と言ったそうだ。川本が打ち上げ花火に〈光〉を見出そうとしたのとは反対に、秋場はマントルまで掘り進めることで逆説的にわたしだけに見える〈光〉へと到達しようとする。

二部のラストで、秋場=もぐらくんは「はじまりのうた」を歌う。観客の目の前ではない。ガラス窓越しに外を見ると、青いイルミネーションライトをまとって、もぐらくん。劇場の外からBluetoothを経由して劇場内のスピーカーに歌声を届かせる。しかし、声は宇宙無線がそうであるように途切れ途切れにしかわたしたちに届かない。もぐらは地球の裏側に突き抜けてしまったのか? 宇宙もぐらとなった彼の眼には何が見えているのか? わたしたちは地球のように青く光るもぐらを見ながら、掘り進めた先にある光景を思い浮かべる。*2*3

まだある。

後藤ひかり「現代口語演劇入門」は00年代を代表する記念碑的な戯曲・岡田利規『三月の5日間』のリーディング・パフォーマンス。小劇場の演劇人にはなじみ深いかもしれない「ミッフィーちゃん」と呼ばれる役のセリフを朗読する。彼女の隣には、スナックを食べながら棒立ちする秋葉。彼は戯曲通りの受け答えをしないので、必然、彼女らの会話はちぐはぐなディスコミュニケーションに終始する。そういう異化要素はあるものの、一見したところ単なる『三月の5日間』の紹介のようにも思える。しかし、朗読が終わった後、ミッフィーちゃんの日記が書かれた3月20日はブッシュが「サダムフセインが48時間以内にイラクを離れなければ、イラクを攻撃する」としたタイムリミットの迫っていた時だったことが明かされる。ぼくは、そのことを覚えていないことを思い出す。もしかしたら『三月の5日間』はただただ記念碑=モニュメントになってしまったのであり、そうすることで、わたしたちは何かを記憶しているふりをしているだけではないか? だから、忘却に抗ってみること。彼女のパフォーマンスは、ポッカリと空いた記憶の隙間を軽やかに逆なでする。

稲垣和俊「サンシャインデイイズララバイフォーミー」は、「だーれだ?」という目隠し遊びを換骨奪還することで、自らが何者であるのかを拡散的に膨張させていく。しかし、彼を「目隠ししているもの」の正体とはなんだろう? 心臓のビートを刻むように穿たれる単音に着目しよう。ハンナ・アレントによれば「誰(Who)」とは、同一なものに還元されないユニークな固有性である。一人として同じ場所を占めることは出来ない。ところが「ドッドッドッドッ」という単一のリズムは、「誰」を同一の「コレ」へと還元してしまう。彼がいくら「誰だ?」を唱えたとしても、すべては同一の「コレ」に变化してしまい、どう足掻いても〈誰〉へとたどり着くことが出来ない。タップダンスさながら右足・左足と交互に踏まれるマラソン的ステップをいくら踏んでも、彼が前に進むことはないのだ。すべての「誰」は同じ場所に滞留して「一」になる。彼を目隠ししているものの正体とは、すべてのものが等価値に均される「等価空間」なのである。*4

まだだ。

坂口天志「落語について」は第一部から第三部の前座を務める。彼の落語は人呼んで(というか自分で言うのだが)パッション落語。とにかくパッション、パッション、パッション! 3分間という制限時間内にお客さんからもらったお題を使って即興落語を作る(映像で、「まどか☆マギカ」に出てくる猫っぽいものが時計代わりになんか回ってる)。ぼくが見た会では、1回目のお題はナイキ、2回目のお題はナイキ、3回目のお題はトマトだった。これについては隠喩的な裏読みが出来ない。そんなことを言ってもしゃーないだろうと思う。ある意味、坂口天使は「これで良いのだ」を地でいく。ベタなパッションが、一服の清涼剤的な効果をあげている。

蝉は一斉に鳴く

さて、これですべてのパフォーマンスについて触れた。いや、プラスしてゲストライブがあるが、これはすみません、割愛する。とにかく、これでもか! という具合にてんこ盛りなイベントだったせいで、このレビューもすっかり長くなってしまった。読者の読みやすさを考慮すれば、パフォーマンスのいくつかをピックアップして紹介すれば良かったじゃないか、なんて思わないで欲しい。「ピンクなパッション」の本領発揮されるのは、ピックアップ的紹介の不可能性にこそあるからだ。

ピックアップ的紹介の不可能性は、なぜ彼らがソロで活動しないのか? という問題と直結している。演劇作家・映像作家・ダンサーとくれば、しかも彼らはそれぞれに特異な才能を持ち合わせているのだから、独自に活動したら良いし、活動することはできる。しかし、そうはしない。なぜ?

〈蝉〉が一人で鳴いているなんてオカシイよ、とぼくは言う。これだけ異なる音色を持つ蝉が、一斉に鳴くから美しいということを、彼らは知っているのではないだろうか。燃え盛る炎に投げ込まれたモノモノは分解されて炭と化すだろう。同時に、それらは気体となって混ざりあい、火花を散らし、強烈な〈光〉を放つだろう。*5

勇気(さよならなんて)

ここまで読んでくれた人がいたとしたら(ありがとう)、情熱のフラミンゴはえらく哲学的で実存的な思考を持った劇団なのだなと思うかもしれない。しかし、パフォーマンスの一般的な印象を語るならば、ポップにセンス良くまとめられ、その場の観客を楽しませることを忘れないエンターテイメント性にあふれた作品群であることは疑い得ない。ぼくのとても貧弱な語彙では、パリピ的なノリとして言いようがないのだけれど、全体の雰囲気はそういうハイテンションで貫かれている。

単にそのように、つまりは快快や革命アイドル暴走ちゃんに見られるような消費社会のめくるめくスピードを体現する、どころか追い越していく刺激と速度がハイパーリアルな現実をぶっちぎって見果てぬ「その先」を幻想させてみせる、未来派的戦略の潮流に彼らのコンテクストを編みこむことも出来るだろうし、そういう側面も確かにあると思う。

だが、情熱のフラミンゴは、消費社会的な生を浮き彫りにするような、そういう志向性を実は持っていないのではないかという気がしている。ぼくはレビューで決して誰も褒めないことを信条として3ヶ月ほど立つのだけれど、早速破るのだけれど、消費社会でんでん、じゃない、云々といったコンテクストとは別なところを情熱のフラミンゴはまさぐっていると思えて、端的にそれが好きだ。これはレビューではなく感想になるが、彼らの活動から、ぼくは〈一瞬〉であることを恐れない勇気をもらったように思う。ぼくはどうしても別れを惜しんでしまう。〈蝉の詩学〉のような〈一瞬〉を恐ろしく感じてしまう。オザケンは歌う。

左へカーブを曲がると
光る海が見えてくる

僕は思う!
この瞬間は続くと!
いつまでも

小沢健二「さよならなんて云えないよ(美しさ)」

同時に「本当はわかってる。2度と戻らない美しい日にいると」とも。確かにわかっている。これが2度と戻らない美しい日であると。しかし、これこそが生の実質的な意味であると。彼らのように一瞬へと跳躍してみることも悪くないのかもしれない。アレントの「勇気」とは別の意味で、パッションを奮い立たせ・・・はしないが、一瞬を楽しむ勇気を持ちたい、と思わされる。

*1:裏読みをするなら、これは平田オリザが『演劇のことば』で「劇団解散の理由は、大きく分けて金か女に尽きる」(44)と身も蓋もない指摘をした劇団論のパロディであるとみなすこともできる。しかし、そう読むことは面白くない。いや、端的にぼくの趣味ではない。

*2:一方で、二部最後のパフォーマンスは、こうした劇場の外部に〈外部〉はないことが、図らずも露呈する側面を持つ。現実なんてものは所詮、象徴体系のWEBネットワークにすぎない。象徴体系そのものを転覆させなければ〈外部〉へ到達することは出来ない。マニアックな話になるが、秋場(と服部)のパフォーマンスから〈外部〉がほのかに感知させられたのは、その伏線として二部の最初、秋場が外へと出て行く前に行われる秋場と服部によるLINEの通話が壁に反響し「ほりすすめろ」の言葉にエコーをかけることで、劇場内が地中に沈んだような体感をかすかに与えるからだろう。

*3:外部についての補足。〈外部〉とは、もちろん瞬間的に垣間見える〈光〉のことであるが、〈外部〉とか〈光〉とぼくがひとまず呼び名を与えたからと言って、それがどんな〈外部〉であるのかは、まったく多数的な出来事であり、むしろ〈外部〉とは記号的な一元化に抗する〈弧の現れ〉なのである。

*4:稲垣のアクションはアレントが『人間の条件』で描き出す活動と労働の相克をそのまま体現しているようにみえる。労働は生命の必要性を条件とする活動力であり、労働の生産物は生産された時間に比してあまりにも短い時間しか永らえることが出来ず、消費される。例えば、数ヶ月かけて生産されるパンは5分やそこらで消費されてしまう。そして、生命の消費過程には終わりがなく、にも関わらずいつも切迫した必要性に駆られている。そう考えると「ドッドッドッ」という単音が心臓のビートに聞こえたのは故なきことではないことがわかる。心臓の音は生命そのものであり、わたしの正体(誰?)は生命の終わりなき消費過程の胃袋にすっかり食い尽くされてしまい、ユニークな現れを示すことがついに出来ないのである。私たちが「誰?」を喪う契機となったそもそもの根本は、国家が巨大な胃袋と化し、生命を継続させるか否かのものさし(つまり金銭)だけが唯一の価値になってしまったからかもしれない。

*5:坂口天志のパフォーマンスが一服の清涼剤だと、本文中で語るまろんは間違っている。あれは着火剤だ。火種がなければ薪も燃えない。坂口天志はフラミンゴを着火する。

不可解な他者へ向けて/悪い芝居『らぶドロッドロ人間』

上演データ

2010年5月19日〜24日
@アートコンプレックス1928

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演出 山崎彬

出演
四宮章吾 きたまり(KIKIKIKIKIKI) 吉川莉早 仲里玲央
大川原瑞穂 西岡未央 植田順平 梅田眞千子 進野大輔 山崎彬

ART COMPLEX 1928 Power Push Company

芝居を観よう。芝居を観よう。どうせ観るなら悪い芝居を観よう。

愛によって生まれ、愛を注がれて生きる。
愛を注がれて生きて、愛を注ぎ返して生きる。
注ぎ返さず放っておけば、やがて容量オーバーになり、愛はドロッドロあふれだす!
あふれた愛は地面に落ちて、染み込んで染み込んで、地球の裏側へと行ってしまう!
愛はまわる!!世界に愛は一定量しかない!!
あるなら捨てる!!!ないなら奪う!!!

ある日、森の中、ハイガールちゃんに、出会った。
この世界にはハイ人とロウ人がいて、ジョウ人の僕は何だか、損だ。
ハイ&ロウでイカス非現実な逃避行。追いかけてくるのは、日常。
壮絶な世界あれど、その中にいれど、生活を大事にするしかない人間たちのらぶのお話。

らっぶドロドロ、らぶドロッドロ、悪い芝居vol.10めもりある本公演。
らぶドロッドロです。ご期待ください。

騙されるヤツがバカなんです、と思われたら、悲しい。

出典:悪い芝居vol.10『らぶドロッドロ人間』特設サイト 

不可解な他者へ向けて

www.youtube.com

悪い芝居vol.10『らぶドロッドロ人間』はさまざまなことを予感させる暴力的な雨によってはじまった。舞台は一階部分と二階部分に分かれており、二階部分にはリアルなワンルーム、一階部分は森という設定の場所として描かれる。ワンルームではどうやら三人の女性が一緒に(?)住んでいるらしく、その内の一人「愛」は元々その部屋に住んでいた「心」の彼氏と浮気している現場を目撃され、心は風呂の浴槽に頭をぶつけまくってこん睡状態、入院しているらしいことがわかってくる。同時に森の方ではオタクっぽい変人(口田口男)が「心ちゃん」という女を追って奔走する。これら関係があるんだかないんだかわからないドラマが並行して展開されていくのである。

これまでの悪い芝居でも心を追う「口田口男」のように、他者を求めるあまり他者にたどりつけない人間が執拗に描写されてきた。「心」を求めれば求めるほど、その溝は埋めがたく広がっていく。そして、この構造は舞台と観客の間でも同じように反復されるのである。

最も象徴的なのは同会場の初めての公演vol.7『東京はアイドル』で俳優が観客に殴りかかろうとするシーン*1。そこにある見えない壁を壊そうとするかのようなあの暴力は、「他者」へとつながろうとするあがきでなくてなんであろう。わかりあえない苛立ちは、暴力へと突き進むしかないのだ。しかし、殴ったところで結果は同じだったろう。なぜなら、観客の「他者性」は身体的接触によって解消される類のものではないからだ。その溝をパッションによって乗り越えようとすればするほど、観客は「よくわからないもの=不可解な他者」へと変質していくのである。他者を愛したい欲望の終着点である。だが、驚くべきことにvol.8・9の試行錯誤を経て、悪い芝居の舞台の質は大きな変容を遂げたのだ。

心がこん睡から回復し、大団円を迎えるラストシーンを見てみよう。ケーキを囲み心が退院したお祝いとして記念撮影がされる中、心は一人異様としか言いようのない暴力的身ぶりを繰り返す*2。ここで「心」のどんな意味にも回収されまいとする異質な身ぶりは、どんな想像をも投げかけることを可能にする不可解さとして立ち上がる。観客はその余白へ向けて、自らの想像力を投げ込むことになるのだ。つまり、ここで悪い芝居は観客に殴りかかるのではなく、観客が(想像力で)殴りかかれる余白を入れ込むことで、舞台の側を「不可解な他者」として提示したのである。

だから、ここでは舞台の側の想いをいかに伝えるか、ではなく、観客が舞台に何を欲望するのか・何を観たいのかが問われることになる。われわれは「心」の「背負えよ、一生」という言葉を背負い切れなかった口田の走り去る姿に何を観るのか。本当の彼について、われわれはなにもわからない。しかしだからこそ彼から目が離せないのだ。よくわからないあの子へ向かって、今日も走り続けている。私はそんな口田を想像するのである。

*1:この動画の2:05〜。とても〈好き〉なシーンだ、やはり。

www.youtube.com

*2:『らぶドロッドロ人間』youtubu映像の4:10〜

等価空間の出現/ヌトミック『Saturday Balloon』

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ヌトミック『Saturday Balloon』

日程:

2017年2月17日(金)〜19日(日)

会場
BankART Studio NYK 1F kawamata hall

脚本・演出:額田大志

出演:宇都有里紗、鈴木健太、平吹敦史、藤井祐希、藤倉めぐみ、深澤しほ

ヌトミック — English ・・・・・・・・・・・・・・・ Saturday Balloon...


早速だが、まずはおさらいをしよう。
(読むのが面倒であれば、飛ばしてもらってもかまわない)

前作『ジュガドノッカペラテ』は俳優の主体が徹底的に排除される剥き出しの環境管理型権力が前面化し、逆から言うと他者が徹底的に隠蔽される構造になっていた。「音の演劇」と標榜されていたように、最初から音楽が予定されているならば、わたしではないあなたはいらない。相手がいてもいなくても、相手が音を出すマシーンであったとしてもわたしに何の影響も与えないからだ。他者が予定されていないのだから、言葉はすべてモノローグになる。それどころか自らの身体も予定されていなければ、演劇的に言えば、言葉はすべて台本の棒読みと変わらない。にも関わらず、音の生み出すグルーヴは時間進行を管理統制し、あたかも時間が進行しているように見える。主体の現れが徹底的に排除されつつも音楽の時間に劇の進行が仮託されることで、あたかも管理するものはいないかのような表情で俳優の主体性がどこまでも管理され、表に出ないよう自然に抑えつけられる。これが前作『ジュガドノッカペラテ』に対する僕の分析だった。

そして今日、横浜にあるBankART Studioという劇場で、ヌトミック『Saturday Balloon』を見た。

戯曲はミキサーにかけられてグチャグチャ

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出典:Space | BankART1929

Bank Art Studioは折り重なるスノコ状の木枠が壁一面を覆っているせいか、中に入ると鳥の巣に入ったような気分になる。対して、床はコンクリート打ちっぱなしの硬質な表情で、外部が内部に織り込まれたように、中へ入ったのに外へ出たかのような体感を与える。こうしたフィジカルに強く作用するサイトスペシフィックな場所を活かして、舞台美術といえるようなものは置かれず、砂鉄の(だから黒い、爆薬の粉にも見えるような)砂で描かれたサークルが舞台に五つ描かれてあるだけ。サークルの大きさはそれぞれ違い、完全な円形ではなく少し歪んでいる。

暗転のような切断を置くことなく、男優と女優が一人ずつ右手の袖から出てくると、描かれたサークルの中に入り「おはよう」「おはようございます」のやりとりがリフレインされる。繰り返し繰り返し、多彩な声色や音域が使われ、まるでラジオのチューニングがされるように二人は「おはよう」を交わす。

パンフレットに掲載された「戯曲全文」を読むと、どうやら銀座に開店した100円ショップを舞台にしたお話らしい。お話といっても、オープン日・一ヶ月後・三ヶ月後、と切り取られた短い日常スケッチに近く、起承転結もない。しかしそんなことは上演にあまり影響なく、わずか二ページばかりのスケッチは見る影もなく引き裂かれミキサーで粉々にされたようにかき混ぜられる。戯曲の言葉は、短縮、置換、接木、反復、省略されることで語のフラグメントに解体されていく。言葉だけではない。リニアな時間を構成していたシークエンスも分解され、何度も反復されることもあれば、一瞬だけ姿を見せて消えることもある。そのままやれば五分で終わりそうな戯曲は、こうして1時間以上のヌトミック時間に変貌を遂げる。

この上演に立ち会っている最中、本当にいくつもの疑問がわいてきた。

この形式によってしか開示されないような現実はあるのか? 物語の時間どころでなくて、リニアな時間そのものが解体されているのは、なにか良い効果を生んでいるだろうか? なぜ解体されねばならないのか? その根拠はなんだろう。前作に比べて関係性が導入されたな、身体性も導入された。何故そう見えるのだろう。そのことで何かが確実に変わっている。何が変わっているのだろう。

こうしたことに思考を巡らせる時に、物語分析やキャラクター分析はまったく役に立たない。その役に立たなさに、なぜヌトミックが純粋な音楽形式にではなく演劇にこだわるのか、その理由が隠されているように思う。もちろん、上演形式がそのまま内容であるモダニズムのコンテクストを踏んでいるとはいえ、形式美学に還元されない次元が確かにある(逆にないなら大した作品じゃない)。

演劇だからできる音楽?


注目したいのは、キャッチコピーが変わったこと。些細なことのように思えるが、多分、ヌトミックのキャッチコピーはそのまま上演コンセプトを示している。前作では「演劇の音から音の演劇へ」を標榜していたのが、今回は「演劇だからできる音楽」を唱える。音で演劇を作るのではなくて、演劇という媒体によって可能な音楽を作るんだ、ということ。事情はちょうど逆さまになる。

20世紀初頭は諸ジャンルが音楽に憧れた時期だった。音楽のような絵画や音楽のような舞台を創出することに躍起となった。

しかし、カンディンスキーの絵画に僕たちは音楽を見るかもしれないが、だからといって実際に音を聞くわけではない。フルクサスのインストラクションのスコアから、僕たちは音楽を体験するかもしれないが、実際に音を聞く……こともあるかもしれないけれど、そうでないものもある。では、僕たちは何を音楽だと言っているのだろう。

その問いの答えを僕が用意することはできないし、その能力もないのだけど、「演劇だからできる音楽」を企てるヌトミックの作品が、実際に音を聞くわけではない音楽を聴く、あるいは見る、あるいは体験する音楽を志向しているとは言えると思う。それはどんな音楽だったのか。この問いには、答えることができる。

それは、生活の音楽である。
『Saturday Balloon』は、生活が鳴っていることをわたしたちに告げ知らせる。

等価空間の出現

100円ショップには(最近はそうでもないが)何でも100円で売っている。あらゆるものがと言ってもいいくらい、パンツも、ガムテープも、ハサミも、風呂桶も、洗剤も、ビニール傘も、自転車のライトだって売っている。見方を変えれば、100円ショップの棚に並べられた途端、すべてのものは100円に圧縮される。この圧縮の操作が100円ショップの可能性の条件であり、ヌトミックの俳優たちの言葉が、すべて音に圧縮されることとパラレルな関係にある。

抽象化されてはいるが、商品をスキャンして横に置くような身振りをしながら108円108円108円……と言い続ける女性の存在はとても象徴的だ。すべてのものは等価な108円として処理され続けるが、ヌトミックの音楽的アプローチも同じようにすべての言葉を等価な音として処理し続ける。ヌトミック変換器が間に挟まった途端、俳優の言葉はすべて等価な100円に圧縮されてしまう。

等価なものへの圧縮操作は、それだけではポジティブにもネガティブにも提示されるわけではない。しかし技法と物語の重ね合わせは、次のような問いかけを観客に投げかける。〈等価なものの積み重ね〉によって、〈非−等価な価値〉へ到達できるのだろうか?

この等価性を積み重ねるように、舞台には、社長と社員とアルバイトの価値はみんな同じであることが言われ、社員教育のようにみんなで一斉に「いらっしゃいませ」を復唱し、ある女は「わたしは○○さんのようになりたい」と、そのひとの真似をして(利き手じゃないのに)左手で領収書を書く。リミックスされ反復されるシークエンスも、まったく同じように反復される等価な日常を暗示する。この100円ショップでは、それぞれの人がまったく等価であり、商品もまったく等価であり、対応するように言葉の音もまったく等価値なものとして扱われ、結果、舞台には極限的な「等価空間」が出現する。

〈わたし/わたしたち〉

なぜ本作では「リニアな時間」が破産していたのか、その理由は「等価空間」の出現にある。リニアな時間は、過去と現在と未来が一応区別され、時にわたしたちは、もう戻れない過去を悔やんだり、まだ見ぬ未来に胸を膨らませたり出来る。しかし100円ショップの等価空間では、そうした意味付けが禁じられる。過去と未来の区別は融解し、それどころか、わたしとあなたの区別も、意味と非-意味(つまり音)もすべて同じように区別なく〈これ〉になる。〈これ〉はいくら集まっても〈これ〉としか言いようがない。劇の中盤で、「明日は良い日だと良いですね」という男の願望は絶対にかなわない。100円ショップには、昨日も今日も明日もないからだ。ここでは時間が流れない。

すると、とても興味深い現象が起こる。

例えば、ぼくたちが「主体」と名指している、〈わたし〉と〈あなた〉のあいだに境界線を引く「まとまり」。すべてが等価に〈これ〉へならされると、わたしは確かに身体を持ってここにいるにもかかわらず〈わたしたち〉と半分同一化してしまう。なぜなら、わたしもあなたも〈これ〉であることに変わりはなく、その意味では、同じ〈わたし/わたしたち〉であるのだから。

奇妙に思えるかもしれない。しかし出現する等価空間に触れることで、〈わたし/わたしたち〉であるような場面は、かなりオーソドックスで日常的な出来事であったことに、ぼくたちは気付かされる。確かに会社へ出社し朝礼をするさなか、ぼくたちは〈わたし/わたしたち〉であるし、コンビニのバイトで「いらっしゃいませー」と言うのは、別にわたしじゃなくても良い、それは〈わたしたち〉の一部が露出しているに過ぎないし、誰かがいじられキャラに認定されるようなごくありふれた場面でも、「いじる―いじられる」関係があるだけで〈わたし〉は〈わたしたち〉の思惑どおりに動かされる操り人形みたいなもの。政治的な場面でも、自民党の議員は自民党の「党是」を体現する〈わたし/わたしたち〉としてしか現れることが出来ない。

これら自身の生活を紐解けば幾千と出てくるであろうシチュエーションを根底で支えるのが、すべての異他性が圧縮され等価な〈これ〉へと還元する空間、等価空間である。ヌトミックはありふれた100円ショップという日常的空間を素材に、上演レベルの等価性を徹底的に突き詰めることで、実は知っているのに見えていない現実の様相を暴露する*1

演劇=音楽の魔術的位相

「等価空間」のどこが「生活の音楽」なのか、と人は訝しむだろうか。しかし、これこそが資本主義下の生活そのものであり、ポストモダンを土台にした都市的生の実質そのものであることに、疑問をはさむ余地はない。等価空間のもとで生活は確かにこのように鳴っている。あるいは、生活はそのように成ったのだ。

「おとづれる」「おとなふ」と言ふ語は、元は音を立てると言ふ義であつた。其が訪問するの意を経て、音信すると意義分化をして来た。音を立てるが訪問するとなつたのは、まれびとなる神が叩く戸の音にばかり聯想が偏倚した為で、まれびとのする「おとづれ」が常に繰り返されたのに由るのである。
折口信夫「まれびとの歴史」
青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47201_37074.html

見るものの変性意識を促すフィクショナルな場がセットアップされることで、なんでもない日常の意味(いらっしゃいませー)が、その意味を保持したまま体感的な音へと変容する。マレビトの音を立てるが訪れへと転移したとは、そのような演劇的事情のありかを示している。折口の考察は、非日常的なフィクションの場が起こること、何者かが出現すること、そして音が鳴ることは、同じ一つの事態の別なる側面だったことを明らかにしている。

ぼくが感じ取った「生活の音楽」は、等価空間というフィクショナルな場の出現とともにやってくる。日常の―私たちが日々過ごす生活の―意味は体感的な音の次元へと変質する。ここで課題は、通常のドラマ演劇のように「キャラクターの内面をいかにリアルに想起させるか」といったところにはなく、「言葉そのものをいかに触知可能な音へ変質させるか」に置かれる。大昔に「コトダマ」とも言われていたであろう演劇の言葉=音の魔術的な位相とはこうしたものだったのではないか。ヌトミックが目指すべきゴールを「音の演劇」ではなく「演劇だからできる音楽」へ置くことで、そもそも演劇に内在していた音楽=演劇の所在が浮き彫りになる。

〈関係性の演劇〉が抱える巨大な無性

ヌトミックの音楽性を、地点の発語が持つ音楽性と比べてみよう。(いまは変質しているだろうが)彼らの発語は、徹底的に戯曲を解釈することで逆説的に主体意識をフラグメントの集まりへと解体する作用を狙ったものだった。言葉を語のフラグメントに解体していくところに両者の共通点が見出せる。ところが、ヌトミックにおいては、地点の上演がとにもかくにも前提にしていた主体意識そのものが、ない*2

ところで一時期、三浦基は青年団に所属していた。平田オリザと三浦基が袂を分かつのは、人間を「関係性の産物」ととらえるのか、逆に「関係性を生産する主体」ととらえるのか、の違いにあった。三浦基は主体を断片化させる発語の形式を用いることで一旦は言葉の意味を分解しつつも、語と語の衝突から新たな意味を産出し、背後に控えているであろう無意識的な次元での主体を暴露する(彼が本当−嘘のフレームに囚われるのはそれが理由だ)。一方、平田オリザ別役実が〈孤〉と呼んだ関係性の中で役割を機能させるしかできない主体―みんなの意見がわたしの意見であるかのように錯覚する主体―を、だから非−在のわたし(内野儀)を前提としたリアリズムを企てた*3。「関係性を産出するような独立した主体」なんて日本にはいないのだから、そんな主体を前提とした演劇はリアルじゃないよ、と彼は言った(とみなせる)*4。平田は三浦が前提としているような主体意識を-つまり、わたしの存在を-否認するところから自らの方法を練り上げたと言える。

だから、平田オリザの流れをくむヌトミックの演技態に主体意識が欠如しているのは、日本の現代演劇史を念頭におけば当然の帰結だった*5。三浦基の視覚からは、語の等価なフラグメントへの解体が背後に予定されているはずの〈わたし〉を露出させるように思える。しかし、平田オリザが構想した「関係性の演劇」の背後には、予定されるはずの〈わたし〉が端的に存在しない(平田がアンドロイドで俳優は置き換えられると言うのは、字義通り受け取るべきだろう)。その系譜を引き継ぐヌトミックが〈わたし〉を露呈させろうとすると、現れてくるのは巨大な無である。何しろ〈わたし〉はゲル状に溶け出して〈わたしたち〉に融解してしまっている。等価空間ではわたしを確かめようとすればするほどゲル化した〈わたしたち〉だけが確かめられ、〈わたし〉が姿を現すことは、ついにできない。

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他者?

これは大変困った問いかけだと思う。90年代にプレゼンスを高めた平田オリザの〈関係性の演劇〉を前提に現実をうつしとってみても、実は巨大な無を抱え込み続けるしか出来ないんじゃないか? もちろん彼らはそんなこと言ってないけれど、〈関係性の演劇〉の土台をむき出しにしてみせる等価空間の出現は、そのようにしか演劇を立ち上げることが出来ない〈わたし〉と〈わたしたち〉の所在を問いただす。子が親を困らせるような〈子どもの問い〉をぬトミックは投げかける。

しかしこれは、演劇業界内部の特殊な演劇形式の話ではないことに注意したい。実際、舞台となるのは100円ショップだ。これは100円ショップ化したわたしたちの現実だ。わたしたちが、どうしても現実へのリアリティを欠いているように感じられた時、そこには等価空間を媒介にした巨大な無が広がっているのである。ヌトミックはそのことを教えてくれる。少なくとも、僕はこの舞台を、そのようにしか受け取れない。

劇の終盤、一人の女が「わたし/たち」と発語し、砂鉄のサークルの縁を手で払い除けて、その境界線を壊す。彼女はサークルから脱出し、どこかへ姿を消してしまう(カーテンコールにすら現れない)。これはほとんど説明に近い猫写であるが、本作の主題を端的に示している。では、それで彼女は等価な〈わたしたち〉を抜け出すことが出来ただろうか? 〈等価なものの積み重ね〉は〈非-等価な価値〉、つまりは〈他者〉を発見できたのだろうか? *6

*1:長くなるので本文では触れないが、等価空間の出現を誘発したいくつかの効果を分析しよう。例えば、言葉の意味が「音」へと退行することも、〈わたし〉を〈わたしたち〉の〈これ〉へと同一化させる装置として機能している。こんな風に考えてみよう。「火事」は「火事!」とすることで単語ではなく意味のまとまりを持った文になる。「!」とはなにかといえば、主体意識。つまり主体意識が単語を文にする。音への分解とは、この作業をちょうど逆回しにしたようなものなので、「!」で示された主体意識がフラグメントの集まりへと解体される。また、俳優たちの衣装も、等価空間の輪郭を際立たせる。役者たちは役を演じる時に、役であることを示すためレインコートのような衣装を着る。半透明に透けたそれの意味することは二つある。第一に役者と役が半透明に入り混じりどちらとも決められない半分フィクションの位相を示すため。第二に〈わたし〉の境界線が〈店員たち=わたしたち〉と半透明に入り混じり、どちらとも決められない半分主体を示すため。舞台美術も五つのサークルが役者を孤絶させることで、その等価性を強く示していた。

*2:その違いは戯曲を徹底的に解釈する身振りを介在させる地点に対して、戯曲のコノテーションを作成するように語をバラしていくヌトミックの手法の対比から理解できる。解釈は「意味付け」を付与する主体化の技法である。地点の場合は、語単位で妄想的とも言える解釈を差し挟むことで、逆説的に主体を解体する。この「逆説」がヌトミックにはない(これはネガティブな評価ではなく、単にそうなっている)。

*3:リアリズムが社会変革を促す対話からなる劇形式だとすれば、対話の概念が成り立たない非-在のわたしによるリアリズムとは語義矛盾なのだが

*4:それは語順の問題へ巧妙にすり替えられたことに注意せよ。ここで彼は演劇がリアルじゃない理由を単に語順のレベルだけで指摘していたのではない。語順の問題と人間の主体意識の在り処は同時にちゃぶ台返しにあったのだ。

*5:ヌトミックの側から見れば、事態は真逆かも知れないが。つまり、音楽を企てていた額田がたまたま偶然平田オリザの演劇論に触れたことで、演劇プロパーから見ると「主体のない主体」としか言いようのない主体が発見された。そのあたりの事情はよく知らないが、いま筆者が強引に歴史を創作していることには注意を促したい。

*6:前作では感じられなかったヌトミックの劇形式の意味がどうして今作では体感できたのか。そのために用いられた技術的な道具立てが確かにあるのだが、あまりにもマニアックに猥雑になるし長くなるので、このレビューでは触れない。また、例えば玉城企画『戎緑地』が企てていた「多数化された演技態」との比較も、ヌトミックの演技形式の輪郭線を明確にするには有用だし、そこには確かに意味があるのだけれど、これにも触れている余裕がない。即興スケッチのルールに則って、これ以上書く時間を費やすことが出来ないので、このあたりで筆(というかパソコン)を置こうと思う。

現代演劇の罠/mooncuproof#6『ワタシタチにとって十分な時間について』

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●日時
1/13(金)~1/15(日)

●会場
十色庵
東京都北区神谷2-48-16 カミヤホワイトハウス B1F

●脚本・演出:萩谷 至史

●キャスト:
奥 綾香
坂本 華江
篠原 沙織
田口 ともみ
丹澤 美緒

〈宇宙〉に重ねる

萩谷至史脚本・演出『ワタシタチにとって十分な時間について』を見に行った。

作品は、タイトルが示すとおり、「十分な時間」について、演劇的な時空間を設計することで、その意味と感触を確かめてみようとするものだった、と思う。

上演は、私の小さな「物語の断片」が、私とは無関係に進行する「社会の時間」と重ね合わされるように編まれ、いくつかのストーリーがコラージュ的に散りばめられていく。小学校を舞台にしたストーリー、少女が女教師に恋するストーリー、街に爆撃があった前後のストーリーなどなど。そうした断片のあいだで、宇宙に広がる星々に「星座」を発見するようにして、観客が自分なりのストーリーを紡ぎ出していくことが目論まれていたように思う。*1

そうした物語の断片の中でも中心となるのが「爆撃があった前後のストーリー」で、私たちにとって「十分な時間」とは、一つに、この爆撃を如何にして受け止めるのか、を自分なりに納得するために必要な時間という意味があるだろう。だから、この作品は戯曲のレベルにおいて、明らかに3.11後を意識させるものであった。急いで付け加えるなら、ポスト・クライシスへ対応していく物語は全て3.11に対するスタンス(政治性)を背負わされる。観客は、いつでも・どこでも「そのように」見てしまう。舞台で起こる現象が常に政治的な意味へと変換されてしまうがゆえに、逆に出来事性が捨象されて無害化する逆説が生まれてしまう。*2

しかし「少女が女教師に恋をする」という個人的で小さな物語が対になるようにコンポジションされていることも見逃してはならない。そこでは「爆撃を受け止める」とは違ったレベルで「意外な恋心を受け止めるまでの十分な時間」が提示される。「小さな時間」と「大きな時間」は「受け止める」という行為を介して重ね合わされる。

違った角度から、本作の「重ね合わせ」について分析してみよう。「爆撃」というタームには、20世紀の日本に起こった歴史的な〈危機の時間〉が刻まれている。生まれる前に起こった危機、経験された危機、これから起こるかもしれない危機。リニアな時間を放棄しフラジャイルする戦略*3は、過去・現在・未来にまたがるクライシスの時間を重ね合わせる想像力のトリガーを引く。

あらゆる時間・場所が舞台上の〈いま・ここ〉に重ねられていく。どうして、そのような重ね合わせができるのか? 〈わたし〉も〈社会/世界〉も〈過去・現在・未来〉も大きな宇宙の時間からすれば、同じ一つの時間だからだ(宇宙では、過去と未来は相対的なものなので、過去であり未来である時間が矛盾なく共存する)。だから、この舞台のコアは、全てが重ね合わされていく〈宇宙的時間〉をいかにして〈いま・ここ〉に立ち上げることが出来るのか? という課題に置かれることになる。

太田省吾と〈宇宙〉の制約

そうした視点からすると、〈宇宙的時間〉を舞台へと反映させるのに、俳優の身体を規定・限定する舞台装置は邪魔になる。宇宙とは無限の広がりと無限の時間を持つのだから、それに対応するためには無限の時間と無限の空間を暗示させねばならない。実際に、本作の俳優は時空間を無根拠に移動するし、環境からの規定・限定を受けずに自由に演技を謳歌する。彼らは無限定の〈宇宙的時間〉を介在させることで、文字通り世界を軽々と飛び越えて夢を見るように〈フィクションの時間〉を幻想する。

役者は、しかし地面に立っている。床の上に、わたしたちは立つことを強制されている。重力があるからだ。いくらフィクションへ飛び立とうとしても、必ずこの忌まわしき重力は働いている。いくら重力を振り切りあらゆる時間・空間へ飛翔しようとしても、なんてことのない単なる現実に引き戻されてしまう。

太田省吾の言葉を借りよう。

頽廃とは、自己を問えなくなった、あるいは問わなくなった自己の状態を指すと言ったが、まだ深い頽廃がある。それは自己を問題にする頽廃者のそれだ。ところで、こう述べるものこそ、さらにたちの悪い、いい気な頽廃者である。そうだ。こう述べるわたしはさらに、天空へ、天空へ、だれよりも高く上昇している。

失語。

発語するためには足に錘を装備しなければならない。地上を歩けるように。ひたひたと。(『飛翔と懸垂』p.28)

自分が埋め込まれた関係性から自由であるような立場、実際に問題の渦中に立たされていないような立場、そういう安全地帯から人はそのことについて何とでも言える。「おもり」とは「なんでも言える」とイイ気になることを禁じる制約である。*4自己を問題にする自己は、結局のところ自己を晒さない。人間関係の網の目の中でもがき苦しむようには、自己が何者であるかを問題にしない。

わたしではないものによってわたしが振り回され、制約される。太田省吾の傑作『水の駅』は、壊れた水道の蛇口から流れ出る水に制約され振り回される人間の姿を描いた。そうした具体的になにごとかと関係し、振り回され、現実とわたしが鋭い緊張関係に置かれたときにこそ、人間はその人自身が何者であるのか、その正体を開示する。

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出典:『太田省吾の世界』パンフレット(DVD,京都造形芸術大学舞台芸術研究センター)

太田省吾も確かに〈宇宙から見えるわたし〉の存在を問題にしたと言える。彼が繰り返し確認するように、この広大な宇宙の中で人間は塵芥に過ぎない。しかし彼は現実の時空間を飛び越えるために宇宙的時間を利用したのではなかった。それよりは宇宙的時間を具体的な「流れ落ちる一筋の水」に仮託することで、人間に襲いかかる〈宇宙の制約〉をこそ問題にした。彼の視覚からすると、〈演技〉が必要とされるのは日常では意識されない特異な制約を意識化する術だからである。

制約によって人間の存在が明かされていく―演技が必要とされる―事情を、本作は一足飛びに飛び越えてしまっているのではないか。重ね合わせの手法そのものには、一挙に人間の多数性を直感させるポテンシャルが備わっているのだが、重ね合わせが制約ではなく自由―なんでも出来る―のために用いられたとき、つねに人間を捉えて離さない〈重力〉が都合よく忘れ去られてしまうのではないか。そして、観客はそれを見抜くのではないか。なんだ、嘘じゃないか、という具合に。

スタニスラフスキーと床面

太田省吾の劇形式とはかけ離れているようにみえるリアリズムの巨匠・スタニスラフスキーの『芸術における我が生涯』から次の一節を引いてみたい。

実際問題として、私の後ろに、役者としての私の背後に最大の巨匠の筆になる後景がかかっていたとしても、俳優としての私に何の利益があろう。……彫刻家、そして一部は建築家も、前舞台にさまざまな物体や凹凸を与えてくれるので、私たちは、人間精神の生活を具象化するさいに、創造的・表現的な目的でそれらを利用することができる。……劇場の平らな床面、その何もない巨大な広場で、プロンプターボックスを前にして終始木偶のように突っ立っていなくともすむ。……彫刻家には、私たちが舞台上の生活をやる床面が必要である。(『芸術におけるわが生涯』(著:スタニスラフスキー、訳:蔵原惟人・江川卓岩波文庫、1926)下巻 p.208)

スタニスラフスキーはここで「床面」の必要を強調する。彼のリアリズムはそもそも「なんでも出来る」と思い込むナルシシズムを肥大化させた役者の演技に対抗する形で構想された。俳優が立つ「どこ」がなければ、劇場で観客に向かって己の自己表現欲求を見せびらかすしかなくなるじゃないか、という問題意識が、公開の孤独のうちに力技で「どこ」を確定させるリアリズムのジャンルを開拓した。

どうして私たちを、私たちのうちに作られるすべてのことを、私たちがそのなかに住み、人間の心理が実に強くそれに依存している、光と音と物の世界から、切りはなすことができよう? (同上、中巻p183)

太田省吾と同じようにスタニスラフスキーもまた、人間が逃れることの出来ない重力の制約を意識化するところから演劇を立ち上げていった。演劇様式の違いを超えて、20世紀の演劇は「神」から、もしくは「共同体」から切り離された人間たちが直面した〈無意味な宇宙〉にいかにして立つかを問題にしている。出力された舞台の結果は、問題に対する答え方の違いに過ぎないとも言える。

ここで詳論はできないが、宇宙的な孤独の場にいかに立つのか、という問いを震源地に、演劇は一大転換を迫られたのではないだろうか。場との関係から発展してきた演劇にとって驚異ともいうべきもので、その悪戦苦闘の軌跡が20世紀演劇の土台を形作ってきたように思う。宇宙は無限定であるがゆえに人間に〈重力〉のような制約を与えない。しかし現代演劇は「制約がないという制約」を具体的に可視化し関係することを要求されるという、とんでもない苦境に立たされた*5


そうした問題から生じた〈演技〉の形式が、単なる美学上の効果のようにみなされたとき、換言すると「宇宙的孤独」が問題ではなく単なる常態にスライドしたとき、「制約のなさ」はなんでも出来る全能空間を出現させる。宇宙の制約は、全能の宇宙に変質する。mooncuproofの舞台は、そうした現代演劇の罠の所在を体現している。

これはもちろん、批判である。批判であるが、彼らがはまっているようにみえる罠はくぐり抜けることが容易ではない、演劇の作り手であれば誰もがはまる罠である。「制約がないという制約」はすぐさま「制約がない全能感」へと反転する危うさを秘めている。そこからどう抜けていくのか(あるいは僕のパースペクティブではまったく捉えられない領域を突き進むのか)、次回作を待ちたい。

*1:僕が使う星座の比喩はベンヤミンに由来している。「星座を見つける」という喩/遊びが、とても好きなので、劇を見るときの物差しの一つになっている。

*2:90年代に流行した「PCアート」が、政治的正しさ(PC)を以て作品価値を担保しようとしていたのとは違って、「ポリティカル・ターン」以後の現代美術は、どのような内容であろうと、自動的に社会的、政治的メッセージに変換されることになる。そして、問答無用でポリティカル・コレクトネス・チェックを受けることになるのだ。http://school.genron.co.jp/gcls/

*3:「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。それは、繊細でこわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりをするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである。その不可解な名状しがたい奇妙な消息を求めるうちに、私の内側でひとつの感覚的な言葉が、すなわち「フラジャイル」(fragile)とか「フラジリティ」(fragility)とよばれるべき微妙な概念が注目されてきたのであった。(松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』)

*4:この「おもり」はのちに「身体の工作」と呼ばれ、演劇史に大きな足跡を残した沈黙劇『水の駅』へと結実した。その意味で、太田省吾は終始一貫して制約の芸術家だった。

*5:制約なき制約を原理的な意味で可視化したのはサミュエル・ベケットゴドーを待ちながら』に出てくる一本の木だろう。別役が非常に良く説明してくれるように、一本の木は同心円状の無限定な空間を予感させるように働く。まるで四方を壁に囲まれたリアリズム空間の箱がパカリと開いて、タブラ・ラサの場が開けてくるかのように。しかし素舞台ではないことに注意しよう。素舞台は結局のところ劇場の壁を感知させるように働く。それでは箱は開かないのだ。箱を開くためには仕掛けと戦略が不可欠である。

京都芸術センター『式典』/演出:三浦基

上演データ

2010年3月27日 
京都芸術センター 講堂

演出 三浦基

式次第

開式のことば
作:門川大作京都市長
出演:石田大

祝辞

作:黒川猛(べトナムからの笑い声) 出演:山崎彬(悪い芝居)
作:柿沼昭徳(烏丸ストロークロック) 出演:田中遊(正直者の会)
作:山岡徳貴子(魚灯) 出演:広田ゆうみ(このしたやみ) 
作:山口茜(トリコ・Aプロデュース) 出演:武田暁(魚灯)   

制作室使用者代表のことば

作:土田英生(MONO)
出演:小林洋平

祝舞

片山伸吾[シテ](観世流能楽師
森田保美[笛]
吉阪一郎[小鼓]
谷口有辞[大鼓]
前川光範[大鼓]
田茂井廣道[後見]
味方團 深野貴彦 橋本忠樹 宮本茂樹[地謡

閉式のことば

作:富永茂樹(京都芸術センター館長)
出演:安部聡子

出典:式典|三浦基演出作品|アーカイブ|地点 CHITEN

 政治劇としてみる『式典』

 「申し遅れました。私が京都市長門川大作でございます。」会場にドッと笑い声。これは『式典』、「開式のあいさつ」での一場面である。京都市長門川大作を演じる俳優、石田大は舞台上をうろうろとせわしなく歩き回り、「開式のあいさつ」を舞台上に投げ出していく。俳優であるはずの石田が「門川大作でございます。」と言う「ズレ」がおかしく、笑いが起きる。立ち振る舞いや言葉の出し方もどこか滑稽に見えてくる。


京都芸術センター開設10周年を記念して催された『式典』は演劇として「式典」を上演するという前代未聞の試みだ。実際の京都市長のあいさつから、祝辞・閉式の言葉に至るまで俳優によって演じられた。

驚くべきは、京都市長のあいさつが(市長も観客席にいるのに!)笑いの対象となり、観客がその場をこともなげに受容していたということだ。「こんな場が許されるんだ!」と素朴に驚き、演劇の持つ力の一つに気づかされる。だが、この「力」とはいったい何なのだろう?

ところで、なぜこの「式典」は「演劇」として上演されねばならなかったのか? 例えば、普通に式典として開催されていたら、「開式のあいさつ」はどんな時間になっていただろう。容易に想像がつくのは、権力者による権威ある言葉を聴かねばならないという時間である。権威によって統制された時間がそこでは流れることだろう。

しかし『式典』ではそんな時間が流れてはいなかった。なぜなら、それは演劇だったから。「演じる」という行為が言葉から権威性を剥ぎ取ってしまったのだ。というのも、俳優が台詞を言うとは常に言葉を引用するという側面を持ち、「市長の言葉」にもまた引用符がつくことになるからだ。

この演劇的構造において、権威的な「市長のあいさつ」は脱権威化され、観衆はフラットな感覚で言葉を聞き届けられるようになる。そこには権威の脱権威化というズレが生じ、おかしみも生まれてくる。道化の登場だ。そして、道化の登場は同時に自由の空気を連れてくる。演劇の言葉が「引用」であるからこそ、そこには一種の無礼講的な無権力状態が出現し、権威からの自由が生まれるのである。すなわち、「~せねばならない」という権威が「引用」という方法によって遮断され、自由な時間が獲得されるのである。この時間を獲得しえたという事実こそ「式典」が演劇として上演された大きな意義だと言えよう。

したがって、『式典』とは京都市という権力に対抗する政治劇としてみることができる。それはまた、京都市に京都芸術センターが存在することの意義をも指し示すだろう。なぜなら、「この自由な時間こそ京都芸術センターに流れる時間なのだ」という宣言として読み解くことができるだろうから。京都芸術センターが10年の歳月をかけて育んだ「自由」の種は、今まさに芽吹こうとしているのかもしれない。

「戦争戯曲集」三部作(2016年版)/私たちの外側へ《私》を運ぶ

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〈戦争戯曲集・三部作〉第3部『大いなる平和』(2015年) 撮影/宮内勝
佐藤信氏に聞く──〈戦争戯曲集・三部作〉8時間完全上演 | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイスより

劇場創造アカデミー6期生修了上演
エドワード・ボンド作『戦争戯曲集』三部作・完全上演
Aプロ:第一部『赤と黒と無知』(演出:佐藤信)&第二部『缶詰族』(演出:生田萬
Bプロ:第三部『大いなる平和』(パート1・2演出:佐藤信、パート3演出:生田萬
日時|2016年2月21日(日) 〜25日(木)

「戦争戯曲集」の紹介

「戦争戯曲集」三部作は、イギリスの劇作家エドワード・ボンドの描く上演時間8時間を超える大作。第一部『赤と黒と無知』、第二部『缶詰族』、第三部『大いなる平和』の相互に独立しつつも一貫して「核戦争後の世界」をあつかった戯曲からなるシリーズ。

本作が執筆された1980年台初頭は、米ソ冷戦を背景に核戦争がリアルな想像力を喚起させた時代。先制攻撃を仕掛けると自分たちも核攻撃を受けてしまい共倒れとなってしまう、相互確証破壊の抑止力が世界の均衡を保っていた。そのなかで、エドワード・ボンドは、実際に核戦争が起こったとしたら・・・そういう想像力を現実にぶつけてみることで、〈現実の世界〉の暴力性や非人間性を逆照射する。ボンドは核戦争後の世界を描き出すことで、実はすでに起こっている〈核戦争後の想像力〉が規定する現実の姿を描き出し、わたしたちに〈問い〉をもたらす。

ボンドはパレルモ大学で「もし自分の子供と他人の子どものどちらかを殺すように軍から命令が下ったとしたら、どちらの子どもを殺すか?」という究極の選択を迫るインプロを行った(パレルモインプロと呼ばれる)。参加した生徒たちの多くは、他人の子供を殺すのではなく、自分の子供を殺すように選択したという。一見したところ、常識と真逆の選択が成されたように思えるが、ボンドはそこに「人間性」の意味を見て取る。「戦争戯曲集」の第一部『赤と黒と無知』、第三部『大いなる平和』(Part1)は、実際にパレルモインプロがストーリー上に組み込まれ、そこに孕まれた〈問い〉を展開するように進む。第二部『缶詰族』は核戦争後の世界に出来たコミュニティを描く。大量の缶詰が残され食うには困らないが、なぜか子どもが生まれない「缶詰族の人びと」のところに、荒廃した荒野を渡って一人の男がやってくる。第三部『大いなる平和』(Part2,Part3)では、核戦争後の荒野を彷徨う「女」を通じて「大いなる/平和」の意味が問い直される。 

私と公共は何の関係もない

身の回りで起こっていることを超えて何かを決定することができる力、それが知性なのだろう。公共を内在化することなのだろう。公共が演じられるものだとしたら、それは半径5mを超えた世界を考慮に入れて振舞われるに違いない。だから公共は自然主義では演じられないのだ。公共が極めて反自然的なフィクションであるゆえに。

信じることのできない信念、価値がないと感じられる価値観を考慮に入れること。それが公共的であるということだ。これは全く自然に反している。非−人間的である。しかし公共とは心地良いものを受け入れず、生理的に嫌悪するものを受け入れる。知性。そうした反自然的な《知性を有した人間による共同体》を公共体と言う。

例えば右翼が多民族の受け入れを考慮に入れた愛国者でなければならず、左翼が民族の自決を考慮に入れた世界市民でなければならないような、矛盾。それを抱え持つ場。公共体である。

『戦争戯曲集』は、いま実現するとは信じられない未来、そんな振る舞いをしたとは思いたくない過去、を扱う。今、日々の生活の中で考慮の内側には入ってこない時間を扱う。公共を扱う。軍隊や兵士のことはどんなに頑張っても想像できないからやらない、と言った演劇人がどこかにいたが、彼は演劇の公共性を知らない。演劇が極めて公共的であるのは、想像し得ないものを想像する知性を必要とするからだ。彼にはそうした知性が足りないことになる。想像できないから想像するのだ。知性を働かせるのだ。

むべなるかな、こうした知性を持つことは実際、かなり特殊なことではある。私たちは日々の労働に忙殺され、何かしら今ここにないものを想像する暇もないのだから。これはわかる。僕もそうだ。第一部『赤と黒と無知』が強烈なのは、僕がいま勤しんでいる生活からは想像し得ない「問い」をリアルに感受させるからだ。兵隊として自分の家族を殺すか、隣人の家族を殺すか、なんて選択は起こりえない。起こりえないからこそ、それは演じられる必要がある、強く感じる。僕の身の回りで今、起こりようがないからこそ。

そして、それが起こりうる状況に置かれたら、もう手遅れなのだ。状況は状況から脱することを許さない(死を持つ以外)。こんな選択しか許されない状況が現に起こる前に、それを考慮に入れなければならない。いや、誤解なきように。戦争反対を叫ばねばならないと言うのではない。戯曲で語られるように、民主主義とは投票権のことではなく、知る権利なのだ。反対・賛成を言う前に、知り得ないことを知る機会を持つこと。

ハイパーリアルな現実

『缶詰族』からは、缶詰に依存することで「ごっこ」でしかありえなくなる社会、というものを感じた。それこそボードリヤールが指摘する現実のリアルをリアルだと感じられず、(例えば、理想化されたネズミであるミッキーマウスなどの)理想化された記号性にしかリアルを感じられない「ハイパーリアルな社会」そのものだろう。

戯曲の設定では「子どもがどうしても生まれない」のであるけれど、「缶詰族」の共同体では単に子どもが必要とされていなかった、のかもしれないと思う。四季のリズムは生産のリズムでもあることは、古代から引き継がれる祭祀が春を呼び込み、世界を刷新していくための儀式であったことからも明らかであるけれど、逆に言えば、生産の必要性が想像力のうちから消え失せれば、時間は止まる。永遠が始まる。そうした状況のカリカチュアなのかもしれない。そう感じられたのも、一昨年の上演が人々の宗教的とも思える共同体的な一体感から人間のアンサンブルが描かれていたのに対し、今年の上演は関係性を必要としない記号化された人間像を前面化いていたからのように思われる。関係性のアンサンブルよりも個別化されたキャラクターが際立ったために、コミュニティが崩壊し、土を耕すことに戻った人々の、土を共有することで初めて生まれる「コミュニティ」が強調された。僕たちは手を動かすことで初めて、「私にとっての現実」を学び、感知できるようになるのかもしれない。

歴史のプレゼント

昨年(2015年)の『大いなる平和』では特に後半のPart.3において、核戦争後の荒野をさまよい歩きながら、ついに救出の手が差し伸べられたにも関わらず、荒野にとどまり続ける女に、神話的な根源から私たちを見つめ続ける「女」を想像させたのだが、今年はそれが真逆になっている。女は「私たちを見つめる」それではなく、私たちが眼差さなければ風化し消え去ってしまう死者のように思えた。最後の全員で骨と化した女を見つめる演出が利いている。

今回、初めてそう思ったのだけど、荒野に残る女とコミュニティに引き入れようとする男の対話は、ある種、擬人化された未来と過去の対話のように見えて、女が「一方は黒、一方は白」と語る核戦争後の荒野の風景が、過去から逃れることの出来ない女と今から初めて学ぼうとする男にとって相貌を変える現実の比喩のように思えたのだ。ナイフは自殺する道具にもパンを切る道具にもなるんだと男が語るように、私たちの現実を作り出す「道具」を決まりきったコードに埋め込んでしまうんでなくて、常にどんな目的にも使いうることを理解することが、希望として語られているように見える。

もちろん、こう単純な図式化は出来ないというか、ボンドは意図的に(だと思うけど)複数の立場の一つに肩入れすることなく並列的に描き出しているからで、「娘」からすれば、男は荒野を体験していないがゆえに、ほんとうの意味で爆弾を作り出す道具の恐ろしさを見落としているだけなのであって、この新しいコミュニティがどうなるかはわからない。荒野に残る女は「死者たち」を忘れられない。殆ど弔いの旅をしていたように思えるその「土地」を忘れることが出来ない。一方で男は「忘れろ」と言う。この対称性のせいで、僕はずっと「歴史を忘却する愚かさ」みたいなのを実際感じていたんだけど、でも今回の上演で「女」は男との対話を通じて憑物が落ちたように、最後、とても穏やかな声を出すのだ。なにか、どちらが正しいというおとではなく、この対話のプロセスを失わないことこそ人間の強さであり、女の言葉は新世代に対して贈られる最後のプレゼントのように思えた。

 

「戦争戯曲集」情報リンク

2017年の劇場創造アカデミー「戦争戯曲集」三部作の公演情報
日時 02/20(月) 02/21(火) 02/22(水) 02/23(木) 02/24(金) 02/25()
11:30
15:30

過去の「戦争戯曲集」の記録