飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

重力/Note「現代演劇のために考えている身体WS」に行った(3/21)

ワークショップについて

重力Noteが東京ではじめて開催する「現代演劇のために考えている身体WS」に参加してきた。 私たちが「共に生きる」ことをお題目ではなく、あたかも一つの社会実験のようにその場で具体的に構想していくようなワークショップで、現代演劇そのものはもとより、「共に生きることを考え続ける身体」への機知に富んだ内容だった。

ちょっとメモなどないので、記憶している限りになりますけど、最初は「現代演劇」「考えている」「身体」「WS」のそれぞれの言葉に対して演出の鹿島さんの考えを参加者に手渡すところから始まりました。納得したのは「ワークショップ」の考え方の歴史をたどりながら当時(00年代中盤)、日芸に所属していた鹿島さんの周辺でその言葉が知られるようになったエピソードを敷衍しつつ「規律訓練型の技術教育」から開かれた「ワークショップ」への移行が、実は現代演劇の方法と深い関係があることを描写してみせたところ。今回のワークショップも、劇団の「この方法でいくから会得してね」という技術の伝達を目的としているんじゃなくて、各々の身体の個性を損なうことなく、共に共存し何事かを考えていくことを目的としている、とのこと。 そうした前提を補助線に、今回のワークショップも、「作る身体」の引き出しを増やすことではなくて、「考え(てい)る身体」を実践してみることに主眼が置かれました。

後半戦では、一人ひとりが前に出て「何かをしてみる」ところから、各々の「劇的だと思うもの」をパフォーマンスし、さらにそれを積み重ねることで一つの舞台面での共存を実践的に試行錯誤していきました。それぞれが持っている世界の感じ方が行為する身体に不思議と開示されていくさまは、非常に刺激的で、「なるほどなるほど」と頷くばかり。拍手で迎えるルールは単純でありつつ「共に」には「尊敬しあう」ことが内在されていることを思わせます。なにより他人を見て大いに笑える・笑われる経験は愉快でした。

そして、考えたこと

私たちは、社会的な、もしくは会社的なルールに沿って日々をやり過ごすことが出来るものですが、そうしたルールをカッコに入れることの出来る「舞台」という場は、とても豊かで、逆説的に私たちが社会的・会社的ルールの中でいかに自由に身体で感じる=考えることから疎外されているか。会社で僕は、後ろ向きで架空の誰かとじゃんけんする行為が出来ません。それが当たり前のように思えるとしたら、何らかの強制−利益をあげる役に立たない、管理する上で役に立たない−が働いているのを僕たちはたやすく見過ごしてしまうのだ、ということ。私たちの社会的・会社的生活の上では、「利益追求」と「安全(リスク)管理」以外の尺度で目の前にいる人を測ることが出来ない。そのゲーム的側面を楽しむことはできるけれど、ゲームのルールをその場で自ら創りあげつつ、他者と共存する場を思考=試行することの価値は、想像することすら出来ないようになっているのではないでしょうか。

僕の尊敬する演劇人の一人でもある平田オリザさんのWSは、非常にうまく「イメージを共有する」演劇の面白さを理解させてくれます。僕の先生でもあった高尾隆さんのワークショップは、がんばらないこと・相手を尊敬することで生まれる共同作業の面白さ(逆に言えばなぜ共同できないのか)を伝えてくれます。しかし、自らのルールを携え、その場で共存を「考えていく」ことを実践していくスキームは、そこから排除されているようにも見えます。

こうした隠れた疎外は、現代美術のエピソードを一つ想起させます。90年代においてブリオーの「関係性の美学」が持ち上げられた際に、その代表格のように言われたティラバーニャの「タイカレーを来場者に振る舞う」美術作品を批判してクレア・ビショップは「敵対するものが予め排除されている」構造を指摘しました。敵対性を排除しない、つまりは「いつでも反対意見を述べることが保証されている」ことが民主主義の原理にはあることを措定しつつ、一見、民主的な公共圏を構築していくように見える「関係性の美学」に隠された排除の構造を批判したのでした。その場で共に考えていかざるをえない他者ぬきの公共なんじゃないか? と。

重力/Noteが構想する「共存する場」の特徴は、敵対する他者との共存を含み込んでいる点で、制度化される以前の「ワークショップ」の本来的な意味を思い起こさせるとともに、演劇の現代が、他者と身体と関係の現在を絶えず運動させていく場の重要性へ目を向けさせてくれるように思います。