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飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

死体は生きているとしか言えないー250km圏内『妻とともに』稽古

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さて、250km圏内である。その稽古場である。
かなり久しぶりの稽古場訪問。それにしても、250km圏内の稽古は大いに「謎」を含んだ魅力的な場だな、と思う。
 
今日は「テキストをほぐす」ウォーミングアップのあとで、通しのリハーサルが行われました。
あまり事前情報なくパッと通しを見たわけですが、色々な妄想が刺激される変な上演だったのは疑い得ない(笑)。
 
これは小嶋さんが250km圏内のページですでに言ってることですけど、『妻とともに』は、ある介護記録をもとにして「介護される側」の視点から組み立てられたパフォーマンスです。そうそう、この間、家族会議があって熱海に行ってきたんですけど、熱海の来宮神社に樹齢2,000年の楠があるということで、訪れたんです。そこには想像を超える巨大な楠がありました。その楠を僕はジッと見つめていたんです。僕は何か、神の宿る御霊代たる自然を前にした時、そこに宿るエネルギーに対して身体を開いて、その力を受け止めるように佇む体験を大事にするところがあるのですけれど、そうした自然を前に佇む体験に、リハーサルで受け止めたパフォーマンスの体験はよく似ている、と思いました。
 
不思議なことですけれど、そうだった。
 
で、そこには単なる当てずっぽうではない理由があるように、思える。
どういうことか。
 
小嶋さんによると今回の作品は「老後の暮らしを考える」をテーマにして、老後の幸せについて考える演劇なんだとか。僕がリハーサルを見て思ったのは、老後の暮らしについて考えることは、人間が生きることについて考えることなんだ、ということ。実際、リハーサルの序盤で、ゆっくりと立ち上がるまふみさんを見据えた時には、人間が人間によって「生きられる時間」を見つめることが演劇の根源的な体験だと感じたわけで、つまり何らかの役を演じることでも役者が自分を開示することでもない演技のあり方があって、私の声としか言えない声、私の身体としか言えない身体を立ち上げていくような演劇のあり方があるんだってことを、僕は思う。
 
老いることは死体化していくことだ。
自分の意志で身体も記憶もコントロールできなくなって、というかどんどんその機能を停止していって、ついには、僕らは二度と動くことのない死体になる。それがはじまりだ。終わりじゃない。ほぼ死体、から僕の声と僕の身体は逆説的に発見されていくし、「生きている」としか言えない次元が開示され始める。
 
250km圏内は、どうやら、そういうことをやり始めたらしい。
僕は、これはもう過剰評価だと思うけど、人間と人間が出会い・コミュニケーションをするために必要な《根源的な何か》に彼らは触れようとしている気がする。前作は、コミュニケーションは《意味》ではない、働きかける身体行為であることを明らかにする試みだった。そして今作は、誰かと根源的に出会うために必要な《私》を再発見する試みであると言える・・・と思う。
 

f:id:marron_shibukawa:20161121003807j:plain 小嶋さん

 

 f:id:marron_shibukawa:20161121003822j:plain  リハーサル/まふみさん