飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

《公共性》は単に必要とされていないのでは? 250km圏内京都公演で思ったこと。

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この冬、小嶋一郎・黒田真史による劇団「250km圏内」の京都公演『妻とともに』に同伴し、主にコンセプトブックの製作作業を担った。そのなかで、《公共》について、自分なりに腑に落ちることがあったので、書き留めておきたい。

※ただし、小嶋一郎の唱える劇場論・対話論とは重なりつつ無関係である。
 
 
 
 
 

「私たちが一緒に食事をとるたびに自由は食席に招かれている。椅子は空いたままだが席はもうけてある」

(ハンナ・アレント『過去と未来の間』)

 
ハンナ・アレントはそう言う。椅子は空いたままだが、席はもうけてある。「自由」の座る席が、というのを「あなたの座る席が」もうけてある、と理解するならば、これは端的に《公共》の輪郭を言い当てている(と思った)。つまり、「あなた」の存在が認められていること、そして食卓を囲んで言葉を交わす用意があること。こうした事態を指して《公共の場》と言うのだろう。
 
一般論としてはそれで納得なんだけど、だが「あなたの席がある」「あなたと言葉を交わす用意がある」と、ことさらに言わなければならないとは、一体どんな状況なのか? これってかなり特殊な状況なんじゃないか。なぜなら、僕らは僕らの席がそこにあるのは普通のことだと思っているし(居酒屋で友達とテーブルを囲む)、言葉を交わすことに何か困難があるとも思えないからだ。
 
そんなことはない、この社会に席を持たない人はいるし、彼らと言葉を交わす場を設えることは常に課題なんだ、とは言える。しかし僕が指摘したいのは、日常的に実感できるレベルで「あなたの席はある。あなたと言葉を交わす用意は出来ている」なんて意識することがどれほどあるだろうか? 飛躍させて、こうも言える。観客席に座るときに「わたしはここに座らざるをえない」または「わたしの席がついに用意された」なんて特別な感じを持つことなんてあるか?  そりゃチケット予約してお金を払ったんだから座れるでしょ、って思うんじゃないか。
 
しかし、その席に何か特別な必要性を感じられる空間が《公共空間》なんじゃないでしょうか。
岸井大輔が『東京の条件』で次のように書いていた。
 
去年の十二月に、フィンランドの友人とした会話
 
「会議をしないで、大勢でどうやって問題を解決するんだい?」
「・・・スープをシェアするんだよ。・・・三時間くらいシェアスープ(つまり、鍋)をすると、問題が解決しているのさ」
・・・
「それで本当に問題は解決するのか?」
「賭けてもいいけど、ここに日本人が十人いたとして、問題の解決に、ディスカッションとシェア・スープのどちらが有効か、と聞いたら、まあ、八人くらいは、鍋と答えると思う」
 
※『東京の条件』は「公共という芝居を演じるのが上手くない日本という劇団にあてがきした、公共を演じるための戯曲」ということのようです。
 
小嶋さんもまた、似たような対比を出している。居酒屋で話せればそれでいいのだけれど、僕はそれが出来ないから対話する劇場の場を必要としているんだ、と。居酒屋が「シェアスープ」であり、対話する場が「ディスカッション」である。岸井が言う「日本という劇団は公共を演じるのが上手くない」というのを、小嶋の語り口で言い直すと「役割や立場からでなくて《個》として問われる経験、それはとても困るけど非常にスリリングなものです。そういうほんとうの意味での《他者》に出会いたいんです。」になる。
 
つまるところ、日本は居酒屋談義/シェアスープで《みんな》の席を用意しているんだから、難しく考えないで楽しく飲もう、そしたら同じ釜の飯を食った仲間、まぁお互い大変だけれども頑張っていきましょうで万事解決OKと思える国なのであって、わざわざ「あなたの席を設ける」必要なんてどこにもない。しかし、こうして用意された《みんなの席》とアレントが「席は設けてある」という席の間には、埋めがたい溝が広がっているように思える。
 
僕たちが巨大なシェアスープを囲んでいると想像しよう。
スープの具材は、わたしたちが抱えている様々な問題である。これは巨大な鍋なので、僕の目の前にある具材に手を付ければ、他の具材は他の人が手を付けてくれるだろう。いや、そもそも、この具材は鍋のスープに溶け込んでしまっているかもしれない。それを僕の見えないところで誰かがお玉ですくっているかもしれない。ワイワイ楽しくやっている内に、どうせいつか鍋は食べきられるのだから《わたし》がそれに手をつけなくても誰かが手を付けてくれるだろう。鍋は《みんな》で楽しむものなのだ。
 
しかし、スープが全て飲み干されたとき、実はまだまだ具材が底に沈んで転がっているのかもしれない。それは果たして具材だろうか? もしかしたら、人間の姿をしていないだろうか? いつの間にか《みんな》で楽しむ宴会からスープの中に突き落とされてしまった、席を持たない人間がこちらを見つめてはいないだろうか? 僕たちは彼/女に対して、どのような言葉をかけるのだろうか? 
 
こうした想像力が働くときに、《他者》が開示されるのだろうと僕には思われる。この時、わたしが見ないようにしていたソレ、スープを囲んで楽しく一杯やるための肴にはなっていたのだが、実は見たことも聞いたこともなかったソレ、と向き合うことは大変しんどい。出来ることなら対面したくはないだろう。しかしそれでもなお宴会の賑わいを切断する声が聞こえたならば、もしくは《わたし》がいつの間にか宴会の席から転げ落ちていたのであれば、そんな切羽詰まった状況があってしまったなら、「席はもうけられねばならない」。こうして他者が招かれた《公共空間》が設えられる。ここでも食事は行われるだろうが、それはあくまであなたを歓待するために用意された食事である。
 
こうした《公共空間》はもちろんどこにでも出現しうる。公共ホールと《公共空間》が等号で結ばれないのは、周知の通り(民間劇場でも《公共空間》は可能だ)。しかし、僕たちが公共ホール・公共を自認する小劇場がよく言う「公共は広場だ」との主張に実質のなさを覚えるのは、広場の機能はわかった、だが、なぜ他者が開示され、わざわざ自分のアイデンティティが揺さぶられなければならないのか、反対になぜわたしを他者として開示せねばならないのか、を理解できない=必要としていないからではないか。
 
250km圏内の上演の後に用意される《対話の場》は、馬鹿みたいに字義通り、《公共空間》を設える試みだった。その賛否(企画のクオリティ)は置くとしても、その意味が理解できないというのであれば、劇場の《公共》的な役割が単に必要とされていないからじゃないか? 逆に言えば、他者が開示され、他者と対話することの切羽詰った必要性が生じなければ、劇場が《公共空間》の性質を帯びることはついにないんじゃないか? 僕たちは居酒屋・カラオケ・カルチャーセンターがあれば、まぁOKなのだから。
 
※250km圏内の京都公演で思ったことではあるが、小嶋一郎は僕のようには考えていない。なぜなら小嶋一郎は僕やあるいは岸井のように、公共は演じられる=公共は倫理的な「ねばならない」から生じる、とは考えないからだ。逆に小嶋は「公共は欲望されている」という。わたしは話したい、「わたしはこう思う」を話したいし、「あなたがこう思う」を聞きたいんだ、それはスリリングで楽しいことだ、みたいなふうに。というかここで想定されている《対話》は常識的なそれではなくて、わたし固有の声=音、わたし固有の身体=エロスを介在させた動物的なコミュニケーションの次元であって、演じられた公共の「ねばならない」が剥ぎ取られた後でなお現れる特異な《公共空間》である。ヨーロッパ思想の伝統からいって厳密な意味での《公共性》ではないかもしれないけれど、それでも僕には何か好ましいものに感じられる。岸井と小嶋のこの違いは大きな違いだと思うけど・・・これは余談ですね。