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渋々演劇論+α

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

仕事と自事―私的なものからなる公共圏

評論

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1.自事≠趣味
 
仕事と自事、とは僕が考えたわけではなくて脚本・演出家の中野成樹氏が提起したフレームワード。藤原ちから氏が企画した「緊急ミーティング「政治、いや芸術の話をしよう」」の記録に出てくる中野成樹氏のメッセージで触れられた。
 
※以下、敬称略。
 
仕事と自事。これ、ものすごく優れた概念操作だと思う。
僕は、《私的なものからなる公共圏》と言い得る集まりのあり方を夢想しているわけなんだけど、その説明はちょっと置いておいて、中野成樹が何を言っているのか、引用します。
 

「今回のイベントと、ずれてしまっているかもですが。
なんか、この話をきいたときに、
こんなことを思い出したのです。

たとえば大学生。
就活にヘロヘロになっている学生に、
どうして就職するの? ときくと、
仕事してお金稼がないと生きていけないし、とこたえる。
ので、仕事って何?
ときくと、
お金を稼ぐこと、とこたえる。
お金って稼がなきゃだめ?
ときくと、
お金がないと何もできないし、とこたえる。

ので、おおよそ以下のことを伝えたり、やりとりをする。

仕事ってのは、字のごとく、仕える事だよねえ。
はい。
じゃあ、誰に仕えるの?
ときくと、
社長、企業、などとこたえる。
中にはカンのいい学生もいて、
社会に仕える、なんてこたえりもする。

そう、一般的な意味での仕事ってのは、
おそらく社会に仕える事なんだろうねえ。
そして、その対価として、
「社会のみで通用する」お金をもらえる。
みんなで社会に仕えて、
みんなで社会からお金もらって、まわして、
みんなで社会に生きていこう。

一方、じゃあ、お金がもらえなくてもやる事ってある?
ときくと、
寝ること、食べる、アイドルの追っかけ、などとこたえる。
さらには、
犬の散歩、とか、カラオケ、とか、ダンス、とか、
おたく、とか、芝居とか、瞑想、とか、ネット、
なんてこたえる学生もいる。
さらには、
お母さん、弟と遊ぶ、お年寄りに席を譲る、などなど。
そこで、僕は、
じゃあ、そういったことを
「お金もらえないならやらない」ってなったらどうなる?
妊婦さんに「500円で席譲りますけど、どうします?」
みたいになったら、
ときくと、
多くの人は「終わりだよねw」みたいなことをこたえる。

じゃあ、お金にならないけどやる事を、
仕事をもじって自事(じごと)とよんでみよう。

みずから行う事、おのずとやってしまう事。

自事は、それをどれだけやってもお金はまったくもらえない。
極端に言い換えれば、
自事は社会から報酬を、評価をまるでもらえない。
なぜなら、それは仕事ではないから。

でも、みんな知っている。
自事がなくなったら「終わり」だってことを。
自事は社会には認められないかもしれないけど、
自事は世界を根底から支えている。

 
社会に使える事が仕事で、自ずとやってしまうことが自事(じごと)であると、彼は言ってると思うのだけど、この概念操作によってはじめて趣味でくくられていた領域が、仕事の付属物の地位から脱出できる可能性が見えた。
 
私的なものの意味を理解する方途ってかなり限られていて、今までもなんとか、アレについて触れたいけれども言葉にできず、結局仕事でも趣味でもない領域みたいな形で、否定法によってしか言及できなかった。
 
ところが!
中野成樹氏が「仕事と自事」という概念を豊かに取り出してくれたことで、報酬を得られるわけではないがやっている私的なものの領域に「趣味である」以外の光の当て方が出現した。つまり、社会に仕えることー仕事ーと対比されるのは趣味ではなく、自ずとやってしまうことー自事であると。
 
趣味っていうのは社会が色んなものやサービスを生産していく合間の時間、再度、社会に仕えるための「リフレッシュタイム」すなわち「余暇」である。これでは仕事が《主》で趣味は《従》の関係を超えることが出来ない。〈私的なもの〉はいつまでたっても、社会に仕える従者の立場に据え置かれる。
 
しかし「自事」は、(中野が指摘するように)社会に使える「仕事」と全く同じ資格を持つことが出来る。私が社会に仕えるのではなく、むしろ社会のほうこそが私の「自事」に仕えるべきだ、とすら言える。もしくは、自事の集まりとして社会を再認識することも可能だ。つまり仕事の持つ意味領域から相対的に独立しているのだ、自事は。
 
だから、ひとまず次のように言えるようになる。僕にとって演劇活動は仕事ではなく自事であり、趣味はラブコメの漫画を読むことであると。
 
2.自事とパブリック事
 
中野成樹が的確に抉り出した「自事」こそ公共圏の土台なのだ、ということもできる。「緊急ミーティング」が公共の基礎概念と考えられる「自事」について言及していなかったのは不思議なことだ。なぜなら、自事がそのままパブリック事になるのが政治についてー大文字の政治であれマイクロポリティクスであれー語り得る条件になるからだ(ルソーの『社会契約論』そのままの意味で)。
 
問題は、自事がパブリック事に接続されない、もしくは、それぞれの自事を確認しあう場がー言い方を変えれば他者が開示される場が、だからパブリックな場がーそれほど必要とされていない、そういう関係性のメカニズムで私たちが社会を運営していることだ。*1

だから、自分のこと、自分はこうであるということが、政治的な要求である「権利の主張」として受け取られる場が用意されない。「私はこうである」が全て権利ではなく、利権の要求であるかのようにしか受け取られない。
 
そうなると、大文字の政治的イシューは「ある人たちの利権を拡大したいってことでしょ」と受け流され、マイクロポリティクスは「あなたの私的な感性の話でしょ」と黙殺される。どうやっても、自分のことが集まりの中で機能しないのだ。がゆえに、私たちは知らず知らず、対話をする必要性をそもそも感じることができない状況に埋め込まれていく。モヤモヤだけが個人の中に溜まっていく他ない。
 
どうもこのようなカラクリが、私たちの精神史の中に逃れ難く埋め込まれている。自事が問題にされる感性から、こうした議論が展開できるように思うのだ。
 
3.自事の二重性
 
しかし、仕事と対比される自事を”パブリック事"にそのまま対置させてしまっては、自事が持つ重要な含みが削がれてしまうとも思う。細かい話になっていくけど、自事は「自ずとやってしまうこと」と「自分がやりたいこと」「自分がやらなければならないこと」といった複数の位相を含む。
 
「お金もらえないならやらない」ってなったらどうなる?
妊婦さんに「500円で席譲りますけど、どうします?」
みたいになったら、
ときくと、
多くの人は「終わりだよねw」みたいなことをこたえる。
 
中野成樹は、「妊婦に500円で席を譲る」といった想定を上げて、こうやって全てが仕事になり報酬ありなしだけが行為の基準になったら、「世界は終わる」と言う。「自ずとやってしまうからやる」行為が実は世界を根底から支えている、と。その感覚は多くの人が共有するところだろう。
 
だが、例えばたまたま「自ずとネコを殺したくなってしまう」人がいたらどうだろう。もしくは自ずと「人をいじめたくなってしまう」人がいたら? その行為が世界を根底から支えていると言えるだろうか? この想定に、あまり多くの人の共感が得られないのだとしたら、世界を根底から支えているのは、「自ずとやってしまう自事」ではなく、「自ずとやってしまう自事」と「自分がやらなければならない自事」がたまたま一致しているからにすぎないということだろう。つまり「私は人をいじめないことをしなければならない」とか「私はネコを殺さないことをしなければならない」とか「私は妊婦に席を譲らなければならない」といった自事が「自ずと」されることで、世界の根底は支えられている。
 
自ずとなされることが、自ずとなさねばならないこととたまたま一致する、そういう前提からしか、パブリックな場を想定することはできず、それを一致させる理念が論理的な意味によってお互いを確かめ合うことができるような、つまり対話を成し得る理性を持った「主体」の概念である。主体は自ずとしてしまう自事を成し得る自由を有しており、なおかつ、別の主体の自事を自分の自事と同じように扱う平等の義務を負っている。
 
こうした主体のフィクション性によって支えられるのが、パブリックを内面化した民主主義社会であると、そのようにひとまず、確認することができる。《自事》が《パブリック事》に接続されるためには、自事の二重性が必ず要請されるのであって、主体の権利―自ずとなされること・自ずとせねばならないことが一致する私―が幻想されるところにしか、《パブリック》な場は成立していかない。
 
4.私的なもののうごめき
 
しかし、僕は(そしてもしかしたら、中野成樹も)「自事」をより純粋化して「ねばならない」との一致を差し引いてしまいたいのだ。自事を「自ずとやってしまう」という意味にだけ限定して「世界のあり方」を理解したい衝動にかられる。つまり、「自ずとネコを殺したくなる」ような自事が起こりうる可能性を含みこんだまま、「パブリック」な集まりを構想できないだろうか? と考えるのである。
 
本来、「自事」は制御不可能な「私のうごめき」のようなものであるはずだ。「ネコを殺したくなる」が過激すぎる想定だとしても、例えば「ひとつの机とふたつの椅子とシェイクスピア」で取り上げた羽鳥くんのポストパフォーマンストーク*2は、およそ「対話」によって理解可能な《意味》でもって確かめることが出来ない感覚的な余剰を含んでいたからこそ、異様なものに感じられた。「おのずとそうなってしまう」感覚が前面に出てくれば出てくるほど、人間は理解不能なものになっていく。しかし、それこそが世界の実質なのではないか? そうならないように、「主体」概念によって《自事》の最も根底的な意味を覆い隠しているのではないか?
 
このように、僕が少し入り組んだ事情を考えるのは、僕が擁護したいと思っている極私的なもの、それが集まりの中で現れ確かめられるような集まり方、つまりは《私的なものからなる公共圏》と名付ける集まり方が、こうした入り組んだ事情のうちに隠されてしまうからであり、こうした事情を考慮しないと、探り当てることが出来ない、と思うからだ。
 
僕が言う《私的なもの》は、二重に隠されている。第一に「仕事―趣味」の連合軍によって、第二にパブリックな場を形成する「主体」概念によって。報酬を得ない活動が全て「趣味(社会に再度仕えるためのリフレッシュタイム)」と名指されてしまうことについては指摘した。しかし、《自事》という概念を《仕事》に対置させることで、《私的なもの》は独立した領域を形成する可能性を見せるし、さらにはこうした《自事》と《パブリック事》が接続されることで、私たちの集まりにおいて《私》が集まりの中に現れる政治的可能性を担保できることが確認された。ところが、こうして現れた《私》は「自ずとなされること」と「自ずとせねばならないこと」が一致する《主体》概念によって支えられているのであって、自事が集まりの中に現れる可能性は、「あなたをわたしと同じようにあつかわねばならない」ことの条件をなす「論理的な対話によって行為の意味が確かめられる主体」の概念によって覆い隠されていくのである。
 
※「論理的な対話によって〜」の部分、平たく感覚的に言えば「ちゃんとした人間」です。
 
したがって、僕が言いたい意味での《私的なもの》をすくい取り、それら《私的なものからなる公共圏》を構想するためには、意味的に理解できない、感覚的なうごめきのようなものこそが、実は世界の実質であり世界を支える見えない原理であることを言わねばならないし、それを確かめあえるような場を設計してみせる必要がある。
 
これはかなり難しい作業だと思う。ここまでの説明が難しい話に見えると思うし。
ところで、《トマソンのマツリ》という実践は、実はそうした《私的なものからなる公共圏》を構想する実践である(ということに、この文章を書いていて気づいた)ので、《トマソンのマツリ》と言葉を用いた批評活動を両輪に、なんとか、このあたりをまさぐっていきたいものだ、と思う。

*1:僕が理解する《公共》の概念については、下記の記事をご参照ください。