飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

ドクトペッパズ『うしのし』

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日時:
2017年2月11日(土)~12(日)

場所:
東京都北区文化芸術活動拠点ココキタ
3F ドクトペッパズスタジオ









 
 

大人の「ごっこ遊び」

ドクトペッパズ『うしのし』を見た。
 
ココキタは元小学校であった建物を改修した文化施設。ドクトペッパズも教室のような一室をレジデンススペースとして利用している。上演は、このスペースで行われた。
『うしのし』はうしの「死」をめぐってお爺さんが旅をする人形劇。かわいがっていた牛(はなこ?)がある朝、死んでいた。そこから物語は始まり、お爺さんは牛の姿に誘われて死後の世界(というより三途の川がある生と死の境目)を旅する。最後には、牛と分かれて、一人歩く。
 
単純な物語に比べて、用いられる舞台の仕掛けは多数に渡りとても込み入っている。彼らの特徴とも言える「ありものを組み合わせる」ブリコラージュの技法と、子どもの遊びの延長のように展開される遊戯的な時空間の組み立ては、日常的なものをポエジカルな要素へと変容させる「見立ての美学」を出現させる。
 
例えば、エンデ作『モモ』の子どもたちは、何もない空き地を想像力の力を使って様々な世界に変容させる。想像力のトリガーになるのは、「見立て」のごっこ遊びだ。そうした想像力がドクトペッパズが設える空間に演劇的な楽しみを呼び込んでくる。
 
客席は二面に別れ、そのあいだに挟まれるように黒いゴミ袋を開いてつなげたのであろうビニールが床いっぱいに敷かれる。右手と左手にはそれこそ人形劇によくある幅3メートルほどのプロセニアム型の台座が向かい合うように据えられる。上演がはじまると、牛とお爺さんの人形が教室の扉からトコトコと出てきて、左手から右手の台座にかけて一本の道のように布がかけられ、彼らはやはりトコトコと歩く。
 
そこで使われるビニール一つとっても、彼らの遊戯的な想像力はいかんなく発揮されている。床に敷かれたビニールは話の進行とともに何度も剥がされ、次々と別の表情を持った床面が現れる。
 
牛が死んだ後の場面では、床面の黒いビニールが剥がされ、白いビニールが現れる。牛を探してそのまっさらな大地をうろつくお爺さん。そしてこのビニールがまた剥がされると、今度は緑や黄色やピンクといったカラフルな色彩が重なり合う、天国のような風景が現れる。お爺さんは牛と出会うのだけれど、ビニールの下から扇風機かなにかで風が送られてビニールが勢い良く波打ち、お爺さんはよたよた。
 
見つけた牛をまくらに(?)に眠るお爺さんの夢を示すように、左手のプロセニアムにはビニールがはられ、そのうしろで牛の形をした赤青黄色などなどのビニールが舞う。ものに光を当てると影ができる。ビニールを光源に近づけると牛は大きくなり色彩が強調され、光源から離すと黒い影になる。こういう効果を使ってエキセントリックな映像を見ているようなシーンを作り出す。その後も、床のビニールが今度は大津波が起こったかのようにお爺さんを巻き込みくるんでいったり、布団乾燥機でビニールの袋に空気を送り込むと、それが牛の形に造形されていったり、驚いたのはプロセニアムの上部の枠からサランラップを取り出すみたいにビニールが取り出され突如として天井が出来た、さらに天井に実はイルミネーションライトが散りばめられ夜空に輝く星星のようにピカピカ光る。
 
ぼくは光とビニールを使ってエキセントリックな画面が作られる様に象徴的だと思うが、「あれ、こんなことも出来るんじゃない?」という言ってみれば他愛もない、しかし「手で発見されている」演劇的な要素に新鮮な子どもの感覚を思い起こす。手作り感のある舞台セットが「未完成なもの」と感じさせないのは、そうした子どもの視点が織り込まれた遊戯的な時間が、この舞台の本質を象っているからだと思う。
 
ここで触れたもの以外にも、気づいてみれば些細なことで「プロフェッショナル」を感じさせはしないのだが、ビニールをパっとスクリーンのように貼りたい時にどうするか? という問題に対して、「ビニールとプロセニアムにあらかじめマグネットを取り付けて貼る」という(ぼくにとっては)意外なというか小気味の良い仕掛けの作り方がなぜだか楽しい。そうした「ごっこ遊び」の延長線上にある演劇的な手触りがドクトペッパズの真骨頂のように思う。
 
最後に付言しておくと、『うしのし』は『へそのお』や『ダンボーレ』といった諸作品の経験がそこかしかに散りばめられているのがわかる。彼らの作品を作品単体としてよりも、そうしたクリエイションによって遊び道具が豊かにストックされた「おもちゃ箱」の製作活動のように見てみると、その活動の意義がよりよく理解されるかもしれない。