飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

等価空間の出現/ヌトミック『Saturday Balloon』

f:id:marron_shibukawa:20170219132244j:plain 

ヌトミック『Saturday Balloon』

日程:

2017年2月17日(金)〜19日(日)

会場
BankART Studio NYK 1F kawamata hall

脚本・演出:額田大志

出演:宇都有里紗、鈴木健太、平吹敦史、藤井祐希、藤倉めぐみ、深澤しほ

ヌトミック — English ・・・・・・・・・・・・・・・ Saturday Balloon...


早速だが、まずはおさらいをしよう。
(読むのが面倒であれば、飛ばしてもらってもかまわない)

前作『ジュガドノッカペラテ』は俳優の主体が徹底的に排除される剥き出しの環境管理型権力が前面化し、逆から言うと他者が徹底的に隠蔽される構造になっていた。「音の演劇」と標榜されていたように、最初から音楽が予定されているならば、わたしではないあなたはいらない。相手がいてもいなくても、相手が音を出すマシーンであったとしてもわたしに何の影響も与えないからだ。他者が予定されていないのだから、言葉はすべてモノローグになる。それどころか自らの身体も予定されていなければ、演劇的に言えば、言葉はすべて台本の棒読みと変わらない。にも関わらず、音の生み出すグルーヴは時間進行を管理統制し、あたかも時間が進行しているように見える。主体の現れが徹底的に排除されつつも音楽の時間に劇の進行が仮託されることで、あたかも管理するものはいないかのような表情で俳優の主体性がどこまでも管理され、表に出ないよう自然に抑えつけられる。これが前作『ジュガドノッカペラテ』に対する僕の分析だった。

そして今日、横浜にあるBankART Studioという劇場で、ヌトミック『Saturday Balloon』を見た。

戯曲はミキサーにかけられてグチャグチャ

f:id:marron_shibukawa:20170220204829j:plain
出典:Space | BankART1929

Bank Art Studioは折り重なるスノコ状の木枠が壁一面を覆っているせいか、中に入ると鳥の巣に入ったような気分になる。対して、床はコンクリート打ちっぱなしの硬質な表情で、外部が内部に織り込まれたように、中へ入ったのに外へ出たかのような体感を与える。こうしたフィジカルに強く作用するサイトスペシフィックな場所を活かして、舞台美術といえるようなものは置かれず、砂鉄の(だから黒い、爆薬の粉にも見えるような)砂で描かれたサークルが舞台に五つ描かれてあるだけ。サークルの大きさはそれぞれ違い、完全な円形ではなく少し歪んでいる。

暗転のような切断を置くことなく、男優と女優が一人ずつ右手の袖から出てくると、描かれたサークルの中に入り「おはよう」「おはようございます」のやりとりがリフレインされる。繰り返し繰り返し、多彩な声色や音域が使われ、まるでラジオのチューニングがされるように二人は「おはよう」を交わす。

パンフレットに掲載された「戯曲全文」を読むと、どうやら銀座に開店した100円ショップを舞台にしたお話らしい。お話といっても、オープン日・一ヶ月後・三ヶ月後、と切り取られた短い日常スケッチに近く、起承転結もない。しかしそんなことは上演にあまり影響なく、わずか二ページばかりのスケッチは見る影もなく引き裂かれミキサーで粉々にされたようにかき混ぜられる。戯曲の言葉は、短縮、置換、接木、反復、省略されることで語のフラグメントに解体されていく。言葉だけではない。リニアな時間を構成していたシークエンスも分解され、何度も反復されることもあれば、一瞬だけ姿を見せて消えることもある。そのままやれば五分で終わりそうな戯曲は、こうして1時間以上のヌトミック時間に変貌を遂げる。

この上演に立ち会っている最中、本当にいくつもの疑問がわいてきた。

この形式によってしか開示されないような現実はあるのか? 物語の時間どころでなくて、リニアな時間そのものが解体されているのは、なにか良い効果を生んでいるだろうか? なぜ解体されねばならないのか? その根拠はなんだろう。前作に比べて関係性が導入されたな、身体性も導入された。何故そう見えるのだろう。そのことで何かが確実に変わっている。何が変わっているのだろう。

こうしたことに思考を巡らせる時に、物語分析やキャラクター分析はまったく役に立たない。その役に立たなさに、なぜヌトミックが純粋な音楽形式にではなく演劇にこだわるのか、その理由が隠されているように思う。もちろん、上演形式がそのまま内容であるモダニズムのコンテクストを踏んでいるとはいえ、形式美学に還元されない次元が確かにある(逆にないなら大した作品じゃない)。

演劇だからできる音楽?


注目したいのは、キャッチコピーが変わったこと。些細なことのように思えるが、多分、ヌトミックのキャッチコピーはそのまま上演コンセプトを示している。前作では「演劇の音から音の演劇へ」を標榜していたのが、今回は「演劇だからできる音楽」を唱える。音で演劇を作るのではなくて、演劇という媒体によって可能な音楽を作るんだ、ということ。事情はちょうど逆さまになる。

20世紀初頭は諸ジャンルが音楽に憧れた時期だった。音楽のような絵画や音楽のような舞台を創出することに躍起となった。

しかし、カンディンスキーの絵画に僕たちは音楽を見るかもしれないが、だからといって実際に音を聞くわけではない。フルクサスのインストラクションのスコアから、僕たちは音楽を体験するかもしれないが、実際に音を聞く……こともあるかもしれないけれど、そうでないものもある。では、僕たちは何を音楽だと言っているのだろう。

その問いの答えを僕が用意することはできないし、その能力もないのだけど、「演劇だからできる音楽」を企てるヌトミックの作品が、実際に音を聞くわけではない音楽を聴く、あるいは見る、あるいは体験する音楽を志向しているとは言えると思う。それはどんな音楽だったのか。この問いには、答えることができる。

それは、生活の音楽である。
『Saturday Balloon』は、生活が鳴っていることをわたしたちに告げ知らせる。

等価空間の出現

100円ショップには(最近はそうでもないが)何でも100円で売っている。あらゆるものがと言ってもいいくらい、パンツも、ガムテープも、ハサミも、風呂桶も、洗剤も、ビニール傘も、自転車のライトだって売っている。見方を変えれば、100円ショップの棚に並べられた途端、すべてのものは100円に圧縮される。この圧縮の操作が100円ショップの可能性の条件であり、ヌトミックの俳優たちの言葉が、すべて音に圧縮されることとパラレルな関係にある。

抽象化されてはいるが、商品をスキャンして横に置くような身振りをしながら108円108円108円……と言い続ける女性の存在はとても象徴的だ。すべてのものは等価な108円として処理され続けるが、ヌトミックの音楽的アプローチも同じようにすべての言葉を等価な音として処理し続ける。ヌトミック変換器が間に挟まった途端、俳優の言葉はすべて等価な100円に圧縮されてしまう。

等価なものへの圧縮操作は、それだけではポジティブにもネガティブにも提示されるわけではない。しかし技法と物語の重ね合わせは、次のような問いかけを観客に投げかける。〈等価なものの積み重ね〉によって、〈非−等価な価値〉へ到達できるのだろうか?

この等価性を積み重ねるように、舞台には、社長と社員とアルバイトの価値はみんな同じであることが言われ、社員教育のようにみんなで一斉に「いらっしゃいませ」を復唱し、ある女は「わたしは○○さんのようになりたい」と、そのひとの真似をして(利き手じゃないのに)左手で領収書を書く。リミックスされ反復されるシークエンスも、まったく同じように反復される等価な日常を暗示する。この100円ショップでは、それぞれの人がまったく等価であり、商品もまったく等価であり、対応するように言葉の音もまったく等価値なものとして扱われ、結果、舞台には極限的な「等価空間」が出現する。

〈わたし/わたしたち〉

なぜ本作では「リニアな時間」が破産していたのか、その理由は「等価空間」の出現にある。リニアな時間は、過去と現在と未来が一応区別され、時にわたしたちは、もう戻れない過去を悔やんだり、まだ見ぬ未来に胸を膨らませたり出来る。しかし100円ショップの等価空間では、そうした意味付けが禁じられる。過去と未来の区別は融解し、それどころか、わたしとあなたの区別も、意味と非-意味(つまり音)もすべて同じように区別なく〈これ〉になる。〈これ〉はいくら集まっても〈これ〉としか言いようがない。劇の中盤で、「明日は良い日だと良いですね」という男の願望は絶対にかなわない。100円ショップには、昨日も今日も明日もないからだ。ここでは時間が流れない。

すると、とても興味深い現象が起こる。

例えば、ぼくたちが「主体」と名指している、〈わたし〉と〈あなた〉のあいだに境界線を引く「まとまり」。すべてが等価に〈これ〉へならされると、わたしは確かに身体を持ってここにいるにもかかわらず〈わたしたち〉と半分同一化してしまう。なぜなら、わたしもあなたも〈これ〉であることに変わりはなく、その意味では、同じ〈わたし/わたしたち〉であるのだから。

奇妙に思えるかもしれない。しかし出現する等価空間に触れることで、〈わたし/わたしたち〉であるような場面は、かなりオーソドックスで日常的な出来事であったことに、ぼくたちは気付かされる。確かに会社へ出社し朝礼をするさなか、ぼくたちは〈わたし/わたしたち〉であるし、コンビニのバイトで「いらっしゃいませー」と言うのは、別にわたしじゃなくても良い、それは〈わたしたち〉の一部が露出しているに過ぎないし、誰かがいじられキャラに認定されるようなごくありふれた場面でも、「いじる―いじられる」関係があるだけで〈わたし〉は〈わたしたち〉の思惑どおりに動かされる操り人形みたいなもの。政治的な場面でも、自民党の議員は自民党の「党是」を体現する〈わたし/わたしたち〉としてしか現れることが出来ない。

これら自身の生活を紐解けば幾千と出てくるであろうシチュエーションを根底で支えるのが、すべての異他性が圧縮され等価な〈これ〉へと還元する空間、等価空間である。ヌトミックはありふれた100円ショップという日常的空間を素材に、上演レベルの等価性を徹底的に突き詰めることで、実は知っているのに見えていない現実の様相を暴露する*1

演劇=音楽の魔術的位相

「等価空間」のどこが「生活の音楽」なのか、と人は訝しむだろうか。しかし、これこそが資本主義下の生活そのものであり、ポストモダンを土台にした都市的生の実質そのものであることに、疑問をはさむ余地はない。等価空間のもとで生活は確かにこのように鳴っている。あるいは、生活はそのように成ったのだ。

「おとづれる」「おとなふ」と言ふ語は、元は音を立てると言ふ義であつた。其が訪問するの意を経て、音信すると意義分化をして来た。音を立てるが訪問するとなつたのは、まれびとなる神が叩く戸の音にばかり聯想が偏倚した為で、まれびとのする「おとづれ」が常に繰り返されたのに由るのである。
折口信夫「まれびとの歴史」
青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47201_37074.html

見るものの変性意識を促すフィクショナルな場がセットアップされることで、なんでもない日常の意味(いらっしゃいませー)が、その意味を保持したまま体感的な音へと変容する。マレビトの音を立てるが訪れへと転移したとは、そのような演劇的事情のありかを示している。折口の考察は、非日常的なフィクションの場が起こること、何者かが出現すること、そして音が鳴ることは、同じ一つの事態の別なる側面だったことを明らかにしている。

ぼくが感じ取った「生活の音楽」は、等価空間というフィクショナルな場の出現とともにやってくる。日常の―私たちが日々過ごす生活の―意味は体感的な音の次元へと変質する。ここで課題は、通常のドラマ演劇のように「キャラクターの内面をいかにリアルに想起させるか」といったところにはなく、「言葉そのものをいかに触知可能な音へ変質させるか」に置かれる。大昔に「コトダマ」とも言われていたであろう演劇の言葉=音の魔術的な位相とはこうしたものだったのではないか。ヌトミックが目指すべきゴールを「音の演劇」ではなく「演劇だからできる音楽」へ置くことで、そもそも演劇に内在していた音楽=演劇の所在が浮き彫りになる。

〈関係性の演劇〉が抱える巨大な無性

ヌトミックの音楽性を、地点の発語が持つ音楽性と比べてみよう。(いまは変質しているだろうが)彼らの発語は、徹底的に戯曲を解釈することで逆説的に主体意識をフラグメントの集まりへと解体する作用を狙ったものだった。言葉を語のフラグメントに解体していくところに両者の共通点が見出せる。ところが、ヌトミックにおいては、地点の上演がとにもかくにも前提にしていた主体意識そのものが、ない*2

ところで一時期、三浦基は青年団に所属していた。平田オリザと三浦基が袂を分かつのは、人間を「関係性の産物」ととらえるのか、逆に「関係性を生産する主体」ととらえるのか、の違いにあった。三浦基は主体を断片化させる発語の形式を用いることで一旦は言葉の意味を分解しつつも、語と語の衝突から新たな意味を産出し、背後に控えているであろう無意識的な次元での主体を暴露する(彼が本当−嘘のフレームに囚われるのはそれが理由だ)。一方、平田オリザ別役実が〈孤〉と呼んだ関係性の中で役割を機能させるしかできない主体―みんなの意見がわたしの意見であるかのように錯覚する主体―を、だから非−在のわたし(内野儀)を前提としたリアリズムを企てた*3。「関係性を産出するような独立した主体」なんて日本にはいないのだから、そんな主体を前提とした演劇はリアルじゃないよ、と彼は言った(とみなせる)*4。平田は三浦が前提としているような主体意識を-つまり、わたしの存在を-否認するところから自らの方法を練り上げたと言える。

だから、平田オリザの流れをくむヌトミックの演技態に主体意識が欠如しているのは、日本の現代演劇史を念頭におけば当然の帰結だった*5。三浦基の視覚からは、語の等価なフラグメントへの解体が背後に予定されているはずの〈わたし〉を露出させるように思える。しかし、平田オリザが構想した「関係性の演劇」の背後には、予定されるはずの〈わたし〉が端的に存在しない(平田がアンドロイドで俳優は置き換えられると言うのは、字義通り受け取るべきだろう)。その系譜を引き継ぐヌトミックが〈わたし〉を露呈させろうとすると、現れてくるのは巨大な無である。何しろ〈わたし〉はゲル状に溶け出して〈わたしたち〉に融解してしまっている。等価空間ではわたしを確かめようとすればするほどゲル化した〈わたしたち〉だけが確かめられ、〈わたし〉が姿を現すことは、ついにできない。

www.youtube.com

www.youtube.com

他者?

これは大変困った問いかけだと思う。90年代にプレゼンスを高めた平田オリザの〈関係性の演劇〉を前提に現実をうつしとってみても、実は巨大な無を抱え込み続けるしか出来ないんじゃないか? もちろん彼らはそんなこと言ってないけれど、〈関係性の演劇〉の土台をむき出しにしてみせる等価空間の出現は、そのようにしか演劇を立ち上げることが出来ない〈わたし〉と〈わたしたち〉の所在を問いただす。子が親を困らせるような〈子どもの問い〉をぬトミックは投げかける。

しかしこれは、演劇業界内部の特殊な演劇形式の話ではないことに注意したい。実際、舞台となるのは100円ショップだ。これは100円ショップ化したわたしたちの現実だ。わたしたちが、どうしても現実へのリアリティを欠いているように感じられた時、そこには等価空間を媒介にした巨大な無が広がっているのである。ヌトミックはそのことを教えてくれる。少なくとも、僕はこの舞台を、そのようにしか受け取れない。

劇の終盤、一人の女が「わたし/たち」と発語し、砂鉄のサークルの縁を手で払い除けて、その境界線を壊す。彼女はサークルから脱出し、どこかへ姿を消してしまう(カーテンコールにすら現れない)。これはほとんど説明に近い猫写であるが、本作の主題を端的に示している。では、それで彼女は等価な〈わたしたち〉を抜け出すことが出来ただろうか? 〈等価なものの積み重ね〉は〈非-等価な価値〉、つまりは〈他者〉を発見できたのだろうか? *6

*1:長くなるので本文では触れないが、等価空間の出現を誘発したいくつかの効果を分析しよう。例えば、言葉の意味が「音」へと退行することも、〈わたし〉を〈わたしたち〉の〈これ〉へと同一化させる装置として機能している。こんな風に考えてみよう。「火事」は「火事!」とすることで単語ではなく意味のまとまりを持った文になる。「!」とはなにかといえば、主体意識。つまり主体意識が単語を文にする。音への分解とは、この作業をちょうど逆回しにしたようなものなので、「!」で示された主体意識がフラグメントの集まりへと解体される。また、俳優たちの衣装も、等価空間の輪郭を際立たせる。役者たちは役を演じる時に、役であることを示すためレインコートのような衣装を着る。半透明に透けたそれの意味することは二つある。第一に役者と役が半透明に入り混じりどちらとも決められない半分フィクションの位相を示すため。第二に〈わたし〉の境界線が〈店員たち=わたしたち〉と半透明に入り混じり、どちらとも決められない半分主体を示すため。舞台美術も五つのサークルが役者を孤絶させることで、その等価性を強く示していた。

*2:その違いは戯曲を徹底的に解釈する身振りを介在させる地点に対して、戯曲のコノテーションを作成するように語をバラしていくヌトミックの手法の対比から理解できる。解釈は「意味付け」を付与する主体化の技法である。地点の場合は、語単位で妄想的とも言える解釈を差し挟むことで、逆説的に主体を解体する。この「逆説」がヌトミックにはない(これはネガティブな評価ではなく、単にそうなっている)。

*3:リアリズムが社会変革を促す対話からなる劇形式だとすれば、対話の概念が成り立たない非-在のわたしによるリアリズムとは語義矛盾なのだが

*4:それは語順の問題へ巧妙にすり替えられたことに注意せよ。ここで彼は演劇がリアルじゃない理由を単に語順のレベルだけで指摘していたのではない。語順の問題と人間の主体意識の在り処は同時にちゃぶ台返しにあったのだ。

*5:ヌトミックの側から見れば、事態は真逆かも知れないが。つまり、音楽を企てていた額田がたまたま偶然平田オリザの演劇論に触れたことで、演劇プロパーから見ると「主体のない主体」としか言いようのない主体が発見された。そのあたりの事情はよく知らないが、いま筆者が強引に歴史を創作していることには注意を促したい。

*6:前作では感じられなかったヌトミックの劇形式の意味がどうして今作では体感できたのか。そのために用いられた技術的な道具立てが確かにあるのだが、あまりにもマニアックに猥雑になるし長くなるので、このレビューでは触れない。また、例えば玉城企画『戎緑地』が企てていた「多数化された演技態」との比較も、ヌトミックの演技形式の輪郭線を明確にするには有用だし、そこには確かに意味があるのだけれど、これにも触れている余裕がない。即興スケッチのルールに則って、これ以上書く時間を費やすことが出来ないので、このあたりで筆(というかパソコン)を置こうと思う。