飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

光へ/情熱のフラミンゴ「ピンクなパッション」

f:id:marron_shibukawa:20170304235814j:plain

2017年3月3日(金)~5日(日)
東京都 小金井アートスポット シャトー2F

作・総合演出:島村和秀
作・振付:服部未来
作・映像:川本直人

作・出演:島村和秀、服部未来、川本直人、秋場清之、
                   岡部ナノカ、坂口天志、後藤ひかり、稲垣和俊


ゲスト:MARK、Y.I.M、山山山

 

オッティーリエの最期をめぐるゲーテの深い思いのうちにあったのは、この蝉のような生と死以外に何が考えられよう? (『ゲーテの「親和力」』ベンヤミンコレクションp168)


これが即興スケッチであることを断っておきたい。語るべきことは多々あるが、それに追いつくように何かを書くことは、残念ながらぼくの力の範囲を超えている。しかし、何らかのスケッチが必要とされているのかもしれないと妄想して、何かを書こう。

情熱のフラミンゴは、多摩美術大学の卒業生で2012年に結成された、演劇・ダンス・映像の壁を融解させるジャンルボーダレスな劇団である。

「ピンクなパッション」は武蔵小金井にあるギャラリー&カフェスペース「小金井アートスポットシャトー」にて上演された。11演目からなる「ピンクなパッション」は、わかりやすく言えばオムニバス形式のライブパフォーマンス・イベント。飲み食い自由で観客はビール片手に観劇する。演目一覧は次の通り。

第一部

①落語      坂口天志『落語とは(パッション落語)』
②パフォーマンス 後藤ひかり『現代口語演劇入門 ゼロ年代編』
③ダンス     服部未来『ふくろうは海を見たか』
④上映      川本直人『潮汐の窓』


第二部

①落語   坂口天志『落語とは(パッション落語)②』
②歌    秋場清之&服部未来『モグラップ』
③ゲスト  MARKライブ
④演劇的マイクパフォーマンス系私的儀礼
      稲垣和俊『サンシャインデイイズララバイフォーミー』
⑤歌    秋場清之『はじまりのうた』


第三部

①落語   坂口天志『落語とは(パッション落語)③』
②映画   川本直人「フェイクドキュメンタリー」
③演劇   島村和秀『頑張れ!アニマルガード』
④歌    『アダルトチルドレン

彼らの第一の特徴は、ジャンル・リミックスな境界性(リミナリティ)にある。2時間40分の上演時間にもボーダレスな彼らの特性が顕著に現れている。演劇として考えれば長く感じるかもしれないが、音楽ライブとして考えれば全然短い、といったように。

とは言うものの、演目一覧を見ればわかるように、舞台にあげられる表現は多岐にわたり、わたしたちはこのイベントをなんと形容して良いのか途方にくれる。

セミの詩学

途方に暮れて、ぼくはこう言う。

演劇は蝉に似ている。

演劇は、それが羽化するために充てられる製作の時間よりも、それが人々の前に現れて消費される時間の方が圧倒的に短い。蝉が7年もの時間を地中で過ごしながら、一週間という限られた時間を使って他の蝉を求めて鳴くように、演劇もまたいるかいないのかわからない誰かに向けて鳴いている。複数の演目からなるオムニバス的なレビュー形式は、たくさんの蝉たちが地中から這い出てきて、一斉に鳴き始める夏のひと時を思い起こさせる。

ところで、なぜぼくたちは、蝉の亡骸に「もののあわれ」的な感覚を覚えるのだろう? もしくは一夏の輝きを「蝉のけたたましい鳴き声」とともに思い出すのだろう? 蝉の亡骸と夏の終わりはセットで連想されるのだろう?

蝉が瞬間の生を燃焼していると感じられるからだ。まるで地中の膨大な時間が打ち上げ花火のように地上に現れた一瞬に凝縮されていると感じるからだ。蝉は出現と同時に「死」を予感させる。求愛する蝉の鳴き声の裏には常に「もう鳴いていない」が張り付く。存在=非在。これが蝉の詩学である。

そして、情熱のフラミンゴとは〈蝉の詩学〉を空間に定着させる活動である(と理解できる)。

光ある方へ

f:id:marron_shibukawa:20170304235906j:plain
左から川本直人・服部未来・岡部ナノカ・島村和秀・フラミンゴ

例えば、島村和秀「頑張れ!アニマルガード」動物愛護団体がチキンナゲット工場で「三日以内に肉を食べたものを死に至らしめる」毒ガスをばら撒こうと計画する物語であるが、「動物愛護」の光り輝く理念に反して彼らのサークルが瓦解するのは恋愛関係のいざこざといった身も蓋もない、ある意味でくだらないクソ現実が原因になる。それを「頑張れ!」と応援する島村のアイロニカルな態度は、理念に奉仕する欺瞞への皮肉ともとれるが、理念が燃焼される〈一瞬の輝き〉への挽歌を捧げているようでもある(切望のアイロニー)。*1

また、服部未来「ふくろうは海を見たか」では、名前を喪ったふくろうが、幻想の中で故郷を旅する(背景にはどこまでも続く森林が映写される)。そこに「見えないイメージ」とシャドーボクシングで戦う川本が加わり、服部は両手にふくろうのマペットをつけ、踊る。「わたしの右手にはイメージがあります」「わたしの左手にはイメージがありません」・・・と言われる両手はぶつかり、イメージは消滅する(ように見える)。呼応するように川本直人「潮汐の窓」のシークエンスが舞台に重ね焼きされ、海辺の家の窓から見える打ち上げ花火について語られる。窓から見える花火は本当にあるんだろうかと窓を開けると、花火の輝きが彼の目に飛び込む。炸裂。銃撃のような音を立てカラフルな図像が幼児の描く絵のように映写される。つまりは「窓」に映る。同時に、服部はふくろうのマペットを映写面=窓ヘ向けて何度も投げつける。夢に幼児退行的な無意識が反映されるように、映像とダンスが交差する夢幻的なコラボレーションは、わたしたちの始原的な記憶を呼び起こし、いつの日にか喪われた〈光〉を、言葉によって象徴化される以前の〈現実〉を描き出そうとする。

まだまだ、ある。

秋場清之「モグラップ/はじまりのうた」について触れよう。随所に挿入される秋場の歌/ラップのリリックの一節を引く。

もぐらー アンダグラウンドアンダグラウンド・・・ 衝動が突き動かしている 掘っているというよりもがいてる あこがれの見たことない危ない光にいま向かってる 掘り進めろ 掘り進めろ メロウな音楽かけんじゃねぇ 掘り進めろ 掘り進めろ 第六感を研ぎ澄ませろ (モグラップ)

もぐらはアンダーグラウンドで地上に出ようとするのではない。掘る。真下へ。吉本隆明は何かで「自分の真下に垂直の穴を掘れ」と言ったそうだ。川本が打ち上げ花火に〈光〉を見出そうとしたのとは反対に、秋場はマントルまで掘り進めることで逆説的にわたしだけに見える〈光〉へと到達しようとする。

二部のラストで、秋場=もぐらくんは「はじまりのうた」を歌う。観客の目の前ではない。ガラス窓越しに外を見ると、青いイルミネーションライトをまとって、もぐらくん。劇場の外からBluetoothを経由して劇場内のスピーカーに歌声を届かせる。しかし、声は宇宙無線がそうであるように途切れ途切れにしかわたしたちに届かない。もぐらは地球の裏側に突き抜けてしまったのか? 宇宙もぐらとなった彼の眼には何が見えているのか? わたしたちは地球のように青く光るもぐらを見ながら、掘り進めた先にある光景を思い浮かべる。*2*3

まだある。

後藤ひかり「現代口語演劇入門」は00年代を代表する記念碑的な戯曲・岡田利規『三月の5日間』のリーディング・パフォーマンス。小劇場の演劇人にはなじみ深いかもしれない「ミッフィーちゃん」と呼ばれる役のセリフを朗読する。彼女の隣には、スナックを食べながら棒立ちする秋葉。彼は戯曲通りの受け答えをしないので、必然、彼女らの会話はちぐはぐなディスコミュニケーションに終始する。そういう異化要素はあるものの、一見したところ単なる『三月の5日間』の紹介のようにも思える。しかし、朗読が終わった後、ミッフィーちゃんの日記が書かれた3月20日はブッシュが「サダムフセインが48時間以内にイラクを離れなければ、イラクを攻撃する」としたタイムリミットの迫っていた時だったことが明かされる。ぼくは、そのことを覚えていないことを思い出す。もしかしたら『三月の5日間』はただただ記念碑=モニュメントになってしまったのであり、そうすることで、わたしたちは何かを記憶しているふりをしているだけではないか? だから、忘却に抗ってみること。彼女のパフォーマンスは、ポッカリと空いた記憶の隙間を軽やかに逆なでする。

稲垣和俊「サンシャインデイイズララバイフォーミー」は、「だーれだ?」という目隠し遊びを換骨奪還することで、自らが何者であるのかを拡散的に膨張させていく。しかし、彼を「目隠ししているもの」の正体とはなんだろう? 心臓のビートを刻むように穿たれる単音に着目しよう。ハンナ・アレントによれば「誰(Who)」とは、同一なものに還元されないユニークな固有性である。一人として同じ場所を占めることは出来ない。ところが「ドッドッドッドッ」という単一のリズムは、「誰」を同一の「コレ」へと還元してしまう。彼がいくら「誰だ?」を唱えたとしても、すべては同一の「コレ」に变化してしまい、どう足掻いても〈誰〉へとたどり着くことが出来ない。タップダンスさながら右足・左足と交互に踏まれるマラソン的ステップをいくら踏んでも、彼が前に進むことはないのだ。すべての「誰」は同じ場所に滞留して「一」になる。彼を目隠ししているものの正体とは、すべてのものが等価値に均される「等価空間」なのである。*4

まだだ。

坂口天志「落語について」は第一部から第三部の前座を務める。彼の落語は人呼んで(というか自分で言うのだが)パッション落語。とにかくパッション、パッション、パッション! 3分間という制限時間内にお客さんからもらったお題を使って即興落語を作る(映像で、「まどか☆マギカ」に出てくる猫っぽいものが時計代わりになんか回ってる)。ぼくが見た会では、1回目のお題はナイキ、2回目のお題はナイキ、3回目のお題はトマトだった。これについては隠喩的な裏読みが出来ない。そんなことを言ってもしゃーないだろうと思う。ある意味、坂口天使は「これで良いのだ」を地でいく。ベタなパッションが、一服の清涼剤的な効果をあげている。

蝉は一斉に鳴く

さて、これですべてのパフォーマンスについて触れた。いや、プラスしてゲストライブがあるが、これはすみません、割愛する。とにかく、これでもか! という具合にてんこ盛りなイベントだったせいで、このレビューもすっかり長くなってしまった。読者の読みやすさを考慮すれば、パフォーマンスのいくつかをピックアップして紹介すれば良かったじゃないか、なんて思わないで欲しい。「ピンクなパッション」の本領発揮されるのは、ピックアップ的紹介の不可能性にこそあるからだ。

ピックアップ的紹介の不可能性は、なぜ彼らがソロで活動しないのか? という問題と直結している。演劇作家・映像作家・ダンサーとくれば、しかも彼らはそれぞれに特異な才能を持ち合わせているのだから、独自に活動したら良いし、活動することはできる。しかし、そうはしない。なぜ?

〈蝉〉が一人で鳴いているなんてオカシイよ、とぼくは言う。これだけ異なる音色を持つ蝉が、一斉に鳴くから美しいということを、彼らは知っているのではないだろうか。燃え盛る炎に投げ込まれたモノモノは分解されて炭と化すだろう。同時に、それらは気体となって混ざりあい、火花を散らし、強烈な〈光〉を放つだろう。*5

勇気(さよならなんて)

ここまで読んでくれた人がいたとしたら(ありがとう)、情熱のフラミンゴはえらく哲学的で実存的な思考を持った劇団なのだなと思うかもしれない。しかし、パフォーマンスの一般的な印象を語るならば、ポップにセンス良くまとめられ、その場の観客を楽しませることを忘れないエンターテイメント性にあふれた作品群であることは疑い得ない。ぼくのとても貧弱な語彙では、パリピ的なノリとして言いようがないのだけれど、全体の雰囲気はそういうハイテンションで貫かれている。

単にそのように、つまりは快快や革命アイドル暴走ちゃんに見られるような消費社会のめくるめくスピードを体現する、どころか追い越していく刺激と速度がハイパーリアルな現実をぶっちぎって見果てぬ「その先」を幻想させてみせる、未来派的戦略の潮流に彼らのコンテクストを編みこむことも出来るだろうし、そういう側面も確かにあると思う。

だが、情熱のフラミンゴは、消費社会的な生を浮き彫りにするような、そういう志向性を実は持っていないのではないかという気がしている。ぼくはレビューで決して誰も褒めないことを信条として3ヶ月ほど立つのだけれど、早速破るのだけれど、消費社会でんでん、じゃない、云々といったコンテクストとは別なところを情熱のフラミンゴはまさぐっていると思えて、端的にそれが好きだ。これはレビューではなく感想になるが、彼らの活動から、ぼくは〈一瞬〉であることを恐れない勇気をもらったように思う。ぼくはどうしても別れを惜しんでしまう。〈蝉の詩学〉のような〈一瞬〉を恐ろしく感じてしまう。オザケンは歌う。

左へカーブを曲がると
光る海が見えてくる

僕は思う!
この瞬間は続くと!
いつまでも

小沢健二「さよならなんて云えないよ(美しさ)」

同時に「本当はわかってる。2度と戻らない美しい日にいると」とも。確かにわかっている。これが2度と戻らない美しい日であると。しかし、これこそが生の実質的な意味であると。彼らのように一瞬へと跳躍してみることも悪くないのかもしれない。アレントの「勇気」とは別の意味で、パッションを奮い立たせ・・・はしないが、一瞬を楽しむ勇気を持ちたい、と思わされる。

*1:裏読みをするなら、これは平田オリザが『演劇のことば』で「劇団解散の理由は、大きく分けて金か女に尽きる」(44)と身も蓋もない指摘をした劇団論のパロディであるとみなすこともできる。しかし、そう読むことは面白くない。いや、端的にぼくの趣味ではない。

*2:一方で、二部最後のパフォーマンスは、こうした劇場の外部に〈外部〉はないことが、図らずも露呈する側面を持つ。現実なんてものは所詮、象徴体系のWEBネットワークにすぎない。象徴体系そのものを転覆させなければ〈外部〉へ到達することは出来ない。マニアックな話になるが、秋場(と服部)のパフォーマンスから〈外部〉がほのかに感知させられたのは、その伏線として二部の最初、秋場が外へと出て行く前に行われる秋場と服部によるLINEの通話が壁に反響し「ほりすすめろ」の言葉にエコーをかけることで、劇場内が地中に沈んだような体感をかすかに与えるからだろう。

*3:外部についての補足。〈外部〉とは、もちろん瞬間的に垣間見える〈光〉のことであるが、〈外部〉とか〈光〉とぼくがひとまず呼び名を与えたからと言って、それがどんな〈外部〉であるのかは、まったく多数的な出来事であり、むしろ〈外部〉とは記号的な一元化に抗する〈弧の現れ〉なのである。

*4:稲垣のアクションはアレントが『人間の条件』で描き出す活動と労働の相克をそのまま体現しているようにみえる。労働は生命の必要性を条件とする活動力であり、労働の生産物は生産された時間に比してあまりにも短い時間しか永らえることが出来ず、消費される。例えば、数ヶ月かけて生産されるパンは5分やそこらで消費されてしまう。そして、生命の消費過程には終わりがなく、にも関わらずいつも切迫した必要性に駆られている。そう考えると「ドッドッドッ」という単音が心臓のビートに聞こえたのは故なきことではないことがわかる。心臓の音は生命そのものであり、わたしの正体(誰?)は生命の終わりなき消費過程の胃袋にすっかり食い尽くされてしまい、ユニークな現れを示すことがついに出来ないのである。私たちが「誰?」を喪う契機となったそもそもの根本は、国家が巨大な胃袋と化し、生命を継続させるか否かのものさし(つまり金銭)だけが唯一の価値になってしまったからかもしれない。

*5:坂口天志のパフォーマンスが一服の清涼剤だと、本文中で語るまろんは間違っている。あれは着火剤だ。火種がなければ薪も燃えない。坂口天志はフラミンゴを着火する。