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飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

『わたし達の器官なき身体』インタビュー No.2

立本夏山(1982〜)
―技術は何のため? 生きること・表現すること

(聞き手:渋革まろん

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立本は動く、尋常じゃなく動く。まるで自らのカラダを痛めつけ自分自身の存在を受難しようとするかのように。両親が所属する劇団の稽古場に出入りもしていたという幼少期。その影響もあり高校から演劇を始め、その後、文学座劇団四季俳優座、流山児事務所・・・と新劇からミュージカル、アングラ演劇とジャンルを超えてさらなる技術を求めてマッチョな研鑽を積んできたように見える彼は、しかし「生き様が表現に現れる」と考えるに至った。そのきっかけには「脳死のカラダが強烈に残ってる」と語られた父親の死があった。彼は、技術を持つことの意味を深く反省するようになる。現在、2児の父。もうすぐ3人目も産まれる。「結婚」をインスピレーションで決めたという語りは面白く、子供と遊ぶことも誰かと一緒になることも、立本の「生き様=表現」の一つであるのかもしれない。  

公演情報はこちら(2017年3月24日(金)〜25日(土)・中野テルプシコール)

立本夏山×田村泰二郎 「わたし達の器官なき身体」 - ホーム

 

 田村泰二郎インタビュー

『わたし達の器官なき身体』インタビューNo.1 - 渋々演劇論+α

 

イントロダクション(渋革まろん

『わたし達の器官なき身体』インタビューNo.0 - 渋々演劇論+α

 

2017年3月12日(日)21:00   @けいこ場

―生まれはどちらですか?
 
立本 生まれは静岡県清水市。静岡で生まれて、どうでしょうね、あんまり小さい頃の記憶ってほとんどないんですけど、清水市草薙ってところで、地方都市、のどかな山とかあって、公園とか美術館とかあって、そういうような街でしたね。清水なんでサッカーとか盛んでしたけどね。清水エスパルスは出来てなかったけど、みんなサッカーやってるみたいなイメージがありましたね。ぼくは小学校二年までしかいなかったから。二年でもうちょっと田舎の榛原郡吉田町っていう静岡だけど、引っ越して、これは海のそばで。歩いて100メートルくらいで海だったかな。津波来たら一発で終わりだよってずっと言われながら。東海大地震ずっと来るって言われて来てないけど、来たら一発で津波で終わりみたいなところでしたね。
 
―意識したり?
 
立本 言われるから、来たらやばいんだろうなって思って、高いところもほとんどないから。海のそばだから。逃げるのは大変だなって思ってたけど。
 
―近くは海で、山がないのか。
 
立本 山がない。畑と海。でもそんなにきれいな海じゃなくて、養豚場が風上にあって、その糞の匂いとかするし、その風上にゴミ処理場があって、そのさらに風上に原発がある、浜岡原発っていう(笑)。だから三重で風に乗って色んな物が飛んでくる。(嫌な感じ?)だから、あんまり良いイメージはないですね。地方の田舎なんだけど自然が綺麗じゃないっていう。そのまぁ静岡から静岡に引っ越したんだけど、静岡のなかの都会から田舎に引っ越したみたいな感じだったんだけどね。あんまり良いイメージってなかった。
 
―海で遊んだりは?
 
立本 したけど、なんだろうな、すごい気持ちいい海とかきれいな海じゃなくて、ゴミとかがやっぱ、海岸線ってゴミとかいっぱい打ち上げられてて、結構砂利とかも多いし怪我するし、裸足になったら。だからあんまりねぇ。潮風とかでベタベタするし。きれいな海じゃないと遊びたいと思わない。夜になるとヤンキーとかが溜まってたりするしね。
 
―小さい頃から、お芝居への興味を?
 
立本 両親が演劇、地方で劇団やってて出会って結婚したっていうカップルだったんで。小さい頃、稽古場とか行って舞台裏とか遊びに行ってた記憶はある。だから両親は演劇やることに反対しなくて応援してくれたんでそこはありがたいですよね。
 
―ご両親の印象的な芝居はありました?
 
立本 『ブンナよ、木からおりてこい』っていう有名な、青年座とかがよくやってた。ブンナっていうカエルが・・・どんな話だったかな、蛇とか出てくる、だからカエルの天敵で。ミュージカル、半分音楽劇みたいなことになっていて。ぼくも子供の頃の記憶なので・・・なんかね、その、先生が、まぁ、なんだったかな、名前「きんちゃん」って呼ばれてた先生がいたんだけど、その先生に高校の頃、ちょっとだけ演劇を習いに行ってて、その頃の記憶といろいろ混同してるんだけど・・・いわゆる社会派演劇。左翼的な流れの、そういったイメージの演劇だったと思われます。総合すると。高校の頃はそんなことはっきりわからなかったんだけど。思い返せば。
 
―小さい頃の原風景ってあります?
 
立本 最初産まれたところか、吉田町かで結構違うの。清水市は公園とか美術館とかきれいな木とかよく覚えているけど、吉田町はなんだろう・・・畑から飛んでくる砂とか原発とか汚い海とか、なんかそういうイメージ。
 
―田村さんは?
 
田村 やっぱ呉服屋やってて、潰れちゃって潰れかけてる何もない店でぐるぐる走ってたって感じかな。畳の上を一人で遊んでたって感じ、広い感じなんだけどね。寂しい風景しかないんだねぇ(笑)。
 
―田村さんの故郷にも海があったんですよね?
 
田村 海あったけど・・・溺れかけたけどね(笑)。溺れかけたイメージはあるよね。幼稚園の頃、助けてくれなくて、怖くてさ。友達と行ってたはずなんだけど、はぐれちゃってね。最後は助けられたけどね。
立本 テトラポットで転んで頭から血を流した記憶とかありますね(笑)。テトラポット結構あぶないんですよ。
 
―海辺あるある。
 
立本 窓がすぐ錆びるとかね。洗濯物が砂だらけとかあると思うけど。窓を開けるとジャリジャリジャリっていう砂が。
 
―そんなことあるんですね。
 
立本 そんなことあるっていうかそうなる自然と。砂が飛んでるからさ、常に、飛んでくるから。目に見えないけど。だからそれをずっと吸い込んでるんですよ。ふっはっは(笑)。だから別に気にしなければいいんだけど、潮の香りとかも、潮が飛んでるからさすぐ錆びる。自転車とかね。
 
―ぼくは北海道だから、雪でしたね。
 
田村 雪っちゅうのはないんだよな。雪の想い出がないから。イメージっていうのはね、ガキんころ。だから、吹雪で埋もれて雪が積もって死にそうになったとかさ、そういうのはないよな。溺れ死にしそうになったことはあるって感じだけど、雪に窒息させられて死にそうになったとかはないな。
 
―田村さんのところも風吹く感じですか?
 
田村 うちなんかはね、逆に凪。夏なんか。無風状態になるんですよ。ジトーっと汗かいてね。寒いっつっても、雪が降ったっつーのはあんまり記憶になくて、氷は張ってたんですけどね。雪合戦したとかさ、なくて。でもまだ俺らがガキの頃は寒かったよね。寒いは寒かったけど。でもせいぜい、「さざんかさざんか咲いた道」とかいって焚き火の歌あるじゃん、あのへんだよ。君らみたいに吹雪くとかさ。うちなんか瀬戸内海だったけど、島根とか鳥取とか裏日本に行くと、雪結構降ってるよね。
 
―いまでも海は好き?
 
田村 好きっていうか、イメージのとこで出て来ることはあるんだよね。おれなんか題名「とんぼうお」っていうんだけど、これ飛び魚なんだよ。
立本 舞踏公演の題名が「とんぼうお」っていうのでずっとやってるんだよ。田村さん。
田村 自分の踊りやるときの題名はずっと変えていないんだよ。
 
―ずっと海のイメージが踊りの時にある?
 
田村 最近はわからないけど、昔はモロに「伝馬船」みたいなことやってたからね。
 
伝馬船
 
田村 こうやって(船を漕ぐ動作)漕ぐやつ。これ舞台の上で10分くらいやってた(笑)。それで気入れていくわけよ。で、これね、なんかあるらしいんだよ、「行」みたいなやつで。これでこう・・・海から気もらうのか、大地から・・・こうやって気をもらって。それから踊るとかさ。そりゃやっぱり、あったよね。船とか海のイメージってのは。海ってぇのは、俺んちの方は綺麗だったしね。工業地帯のちょうど狭間あたりにあったから、きれいなんですよ。船ちょっと出しちゃ、友達と釣りに行って。(略:太平洋と瀬戸内海の違いの話)
 
―いきなりですけど、おふたりは家系図たどれます?
 
田村 たぶんあるんじゃないですか。遡っても、多分、江戸時代くらいで終わっちゃいますけどね。うちもほどなく百姓になる感じだからさ。そんなに上の方のアレじゃないから、そんなに残ってないからさ。
立本 母方のはね、あんまり聞いたことないんだけど、父方はね、父のお母さんが「村上さん」っていうんだけど。その「村上さん」は瀬戸内海で有名な村上水軍のお姫様の家系だって話でしたよ、なんか。もともとはお金も結構ある家だったらしいっていう話はよく聞いたけどね。
田村 そう聞くと顔がちょっと・・・
立本 なんですか、海賊っぽいですか。
田村 偉い人みたいな(笑)。
立本 でもなんか、父方の愛媛の人たちの瀬戸内海あたりの感じはなんとなくあるけどね。身体の感じとして、父親も含めて、おじいちゃんとか。おじいちゃんとかラグビー連盟の副会長だったらしいんだよね、四国の。
 
(略:田村さんの先祖が武士で食えなくて畑耕していた話、自分は百姓だと思う話)
 
―立本さん、東京に来たのはいつ?
 
立本 高校卒業してすぐ。18歳の時に。文学座の研究所に入って、こっちに出てきた。高校の夏に、さっき言った演劇の先生のところにちょっと行ったりとか、両親の知り合いの演劇の人に演劇やりたいんだけどみたいな話した時に、まぁ、文学座のワークショップあるよって言われて、高三の夏に東京に出てきてワークショップ受けて、演劇って楽しいなって思って。それで試験があったから受けて受かったから出てきた。そんな感じですね。
 
(略:東京の印象)
 
文学座にどれくらい通ってた?
 
立本 一年ですね、一年で落とされたんですよ。真面目にあんまり行ってなかったんで(笑)。なんかね、高校時代から真面目に授業受ける癖がつかなかったから、その流れでね。授業中寝てたりとか寝坊したりとか、それで残るわけはないなって思い返せば思うんだけど、なんか色々ナメてたんだろうなって思い返せば思いますね。
 
―でも演劇はやめないで。
 
立本 演劇が好きだったっていうのはあるから。やりたいって意欲はあったんだよね。文学座って別になんだろう、体力・・・カラダ鍛えたりとかそういうのがあんまりないんですよ、体操、野口体操みたいなのがあるんだけど。それですごくカラダの基礎が足りないみたいに思って、一年終わって。で、なにか歌とかダンスとかやらなきゃいけないみたいな、それだったらミュージカルだろうって思って、それからミュージカルの学校に行ったんですよ。池袋ミュージカル学院っていう。すごい端折るけど、ミュージカル行ったらやっぱり劇団四季だろうみたいな。劇団四季東宝ミュージカルくらいしかないからさミュージカルの世界って。だから劇団四季受けて受かったから。その専門学校も途中でつまんないって言って、11月か12月くらいにやめたんだけど。試験がその前の夏くらいにあって受かってたから行ったんですけどね、そのあとに。劇団四季
 
―それで劇団四季に入って。
 
立本 研究生みたいなのがあって、毎日朝からバレエとジャズダンスとタップダンスとかレッスンして。あの四季の母音法「あんいおうおうえ〜♪」ってこう・・・知ってる? 見たことある?
 
―見たことないです。
 
立本 なんかバレエのバーがここにあったとしたら、こうやって斜めに立って。「ワン」っていうあの、『コーラスライン』の歌知らないかな? 「ワン! 一つの夢〜胸にいだいて〜♪」ってやつね。それを母音法で、あの、だから「おはようごうざいます」ってあったら「おあおうおああいあう」って母音だけにする。だから「あん! いおうおうえ〜うえいいあーいえ〜♪」って、そういうのを40分間くらい集団でやり続けるって発声練習・・・(笑)。やってましたね。でこれをやるとみんな歌が下手になるって文句言いながら(笑)。ただ、はっきり言葉が聞こえることが劇団四季ではね、最優先の事項で、演劇は90%脚本だと、脚本が聞こえないなんてありえない、そういう教育でしたね。
 
―とにかく基礎を積み上げていった?
 
立本 文学座も基礎を教えるというか、新劇の戯曲とかさ、シェイクスピアとか・・・演技の基礎を教えるってことはあんまりないんだよね。(略:文学座の教育の話)高校卒業したてでさ、演技上手くなかったから、これどうしたら良いんだろうみたいな感じに。だってすごいね、文学座で挫折感を味わったわけよ、俺の演技全然ダメだみたいな。声が良いっていうことしか言われなくてさ。昔から声が良いって言われると芝居はダメだって言われているみたいな、その当時ね、ひねくれた感じになっちゃってさ。だからカラダを鍛えなきゃダメだなと思って。演技はよくわからないけど、カラダを鍛えればなんとかなるみたいな。声とかね、歌とかね。できればなんとかなるんじゃないか、はあったんだと思うんだ。
 
―結構、マッチョに鍛えてた?
 
立本 高校時代とか、腹筋500回やってたよ(笑)。結構時間かかるんだよ、500回やるの(笑)。やりすぎてさ、あんまりやりすぎると皮がむけるんだよ。いや、訓練しなきゃいけないみたいなことって周りに言われるんだよね。自分で思ったかどうかってわからないんだけど、両親も演劇やってたし。(略:声楽で音大にいこうとした話)両親にもそう言われるし。技術を習得しろとか。なんか、そういうものがねまわりから入ってくると、やらなきゃいけない。何しろ芝居は上手くなかったから、俺(笑)。高校時代、演劇部だったけど、とりあえず勢いみたいなものはあったよ。高校時代から叫んでた記憶はある(笑)。文学座時代も自分で一人芝居作るみたいなのが、3分くらいかな、宮本研の台本で、台本の中で俳優それぞれが自分で持ち寄った題材を一人芝居で作ってくみたいな。そういうシークエンスがあって、その中で作った一人芝居が、蜘蛛・・・自分が蜘蛛だ、みたいな。最初のセリフがこうやって(両手をクマのように前に出して)「俺は蜘蛛だ」みたいな一人芝居を作った記憶がね。で、最後にぶっ倒れて、ここを床に打ちつけて、顎を切ったっていう、勢いはあるんだけど(笑)。その当時からそんな感じだったから。
田村 俳優座はなんで行ったの?
立本 さっきの流れで行くと、劇団四季はすぐやっぱりちょっと・・・色々と大変なんですよね。(略)すぐ嫌になっちゃって辞めて。そのあとやっぱりアングラも好きで、そのときは唐組だったけど、唐十郎の芝居も見てたし。それで流山児事務所が面白そうだって思って行って、流山児さんのところでアングラやってても、まぁそれも途中で嫌になって一年持たずに辞めたんだけど。その後に、やっぱりもうちょっと芝居やんなきゃダメだって思って。ミュージカルもアングラもやったけど、もっと芝居勉強しなきゃダメだと思って、俳優座受けたんですよ。俳優座は三年いた。
田村 三年いたんだ。
立本 三年目に、お前は一人芝居しすぎるって言われて切られた(笑)。俳優座は一年ごとに査定はあるんですけど。主に一年と三年時にあるんで。
田村 みんなでアンサンブルとるのが下手だって言われて。
立本 そうそう(笑)。何が悪いんだと思ったんだけど、言われたとき。
 
(略:ニューハーフのショーパブで働いた話)
 
―技術を追い求めるところから、現在の活動は変わってきている?
 
立本 技術は何のためにあるのか? って考えるじゃん。技術があると。ある種、技術って伝えるってことだと思うんだけど。伝えるためには技術いるけれど、何を? っていう問題にぶち当たるわけだよね。シンプルにそういう話だと思うんだけど。何を? っていうのを考え出してるってことかな。そういえば生活史って話だったけどさ、生きる、自分の人生を生きるとかさ、生きるってどういうこと? 人と関わるってどういうこと? とかさ。そういうことを考えていると、だんだん、交わってきているってことになってきてるんじゃないかな。
 
―結婚したときくらいから「生き方」を意識しはじめた?
 
立本 考えていたのは、もっと前からで。俳優って何かを考えると、人間って何か、自分って何かになるんだけど。なんか、良い俳優とか、このひとのココに心動かされる、というのは、その人が・・・最初は何でかわからなかったんだけど、その人の生き様がさ、生き方、その人の存在そのものがガンと強く出てくることなんじゃないかなってことに、思ってきたわけですよ。そうなった時に、自分は何をしているのかな。だって、一人でバイトして、特に両親が生きている頃、父親は死んでいるんだけど、父親が死ぬまでは結構仕送りとかもあって、家賃とかも出してもらったり、楽な生活していたんですよね、多分。だから、結構ね、怠けられるわけ、楽な生活していると。そんなに勉強をしないでも、なんだろう、それなりにちょっと働いとけば、お小遣いも結構あったりするし。でも、そんな人間を見てても面白くなくない? って思った(笑)。単純に。そんな人間に何も救われないでしょ。なんかね。
 
―結婚は大きい出来事だった?
 
立本 生き方を考えた結果、そうなったってことになるんだと思うんだけど。父親の死っていうのが、結構でかいんだけど。父親はあの、中国で一人で自分で商売やってたんだけど、中国で工場作って、そこで色々作って輸入するみたいな仕事。向こうで手術ミスでさ、胆石の手術でお腹切ったんだけど、手術ミスで、あの、脳死になっちゃって。脳死期間が半年? 何ヶ月かあって、こっちに運んでくるのは何千万もかかるから無理だとか。向こうに愛人がいて。
 
―え?
 
立本 隠し子もいて。中国とタイに愛人がひとりずついて、ひとりずつ隠し子がいてさ。相続問題とか借金とか色々と大変だったんだけどさ。そういうこともありつつ、生きるってなんだ? ね。母親は大変だしさ、そうなると。そうなると考えざるを得なくなってきたわけだよね。脳死のカラダっていうのもすごく、俺の中で強烈に残ってるしね。器官なき身体に近いと思うんだけど、意志がなく動いているカラダっていうね、生理だけで動いている。ある種、器官があるから動いているんだけど、意志はない。意志はなく器官だけで動いている。最初、重力/Note(現代演劇を思考する東京の劇団)にいた頃は、すごくそれに囚われていた。脳死の身体というもの。
 
―演技に反映させたい?
 
立本 させたいというか、だから自分にとって大きな問題だったから。なんか、なにかしら解消したかったんじゃないかと思うんだけど。最近は自分にとって大きな問題かどうかって言うより、人間にとってというか、自分と関わっている人たちにとって・・・とっての・・・なんだろうね、とって良いことであるように舞台上であろうと思っている、生きようと思っているけれど。だから全然その頃とは違うんだけど、最近は。
 
―お父さんの脳死をきっかけにして、自分の中で「生きる」ことへの何かが発生した?
 
立本 だから生きるってことを考える強烈なきっかけだった。それまではのほほんと生きてたから(笑)。怠けられるだけ怠けてのほほんと生きてたなっていう。
 
2017年3月19日(日)21:00   @けいこ場
 
―前回、お父さんが脳死された話を聞きました。立本さんのご両親はどんな人だったんですか? 演劇一家という感じもします。
 
立本 演劇一家だったというより、ぼくがもう小学校上がった頃には辞めてたのかな。幼稚園の頃くらいに(両親は)やってたんですよ。母親は絵が好きで、絵が好きというか、もともと、美術の短大かなんか出て、建築の設計事務所かなんかで働いていた人で。なんとなく美術とか芸術に興味のある、なんだろう、ピアノとか幼稚園の頃からやってたりとか。だから、演劇一家ってわけじゃなくて、父親は普通に物心ついてた頃は、ビデオレンタルで働いてた。田舎の。何ていう名前だったか忘れたけど。
 
―経営してた?
 
立本 部長だったから、帰ってこなかった、うちに。朝、俺が寝てる頃に出てって、違うか、そうか、出てって夜中に帰ってくる。だからほとんどうちにいなくて、休みの日はうちで寝てるみたいな。そんな感じだったから、あんまり父親と遊んだ記憶とか、すごい優しい人だったけど、怒られた記憶もないし遊んだ記憶もない、みたいな。そういう感じの人だからね。特に、うーん、すごくなにか面白いエピソードあるかって言われると困っちゃうんだけど・・・だから死んだときが・・・すごく、このあいだどこまで話したかわかんないけど。
 
―中国で会社作ったと。
 
立本 独立して会社作って、海外の工場作って、自分で会社やってたんだよね、40くらいに、脳梗塞やって。一瞬、半身不随になりかけて、リハビリして、なんとか直して独立したみたいな、脱サラしてみたいな。
 
―立本さんがいくつのとき?
 
立本 高校のころのかな、中学か高校の頃、あ、中学かな。多分それくらい。だから母親は大変だったみたいだけど。
 
―演劇はご両親の影響かと思ってました。
 
立本 影響あったんだけど、だから、中学バスケ部で、高校入る時になんかもうバスケが辛くて、運動部辛いから文化部入りたいなと思って。で、吹奏楽部に、なんとなくピアノとか音楽は好きだったから、吹奏楽部入るか演劇部入るか迷って、なんとなく昔の記憶がやっぱり、子供の頃、稽古場とか行ったりした楽しい記憶があったから、ちょっと演劇やってみようかなという気になって、はじめたっていう。でも一回辞めて、バレー部に入ってすぐまた戻った経緯もある(笑)。
 
―一回演劇部辞めたんですね。
 
立本 そうそう、一年の頃、途中でなんか嫌になって辞めて。だけど、バレー部の先生が、学校のクラスの担任でさ、どうでもいい話だよこれ(笑)。そう、で、成績が悪すぎて、次のテストで赤点取ったらバレー部クビだって言われて、赤点取って実際クビになって、演劇部、男いないから戻ってきてよって言われて戻ったって言う(笑)。ほんとうにどうしようもない感じでしょ。
 
―お父さんは演劇を見に来たりとか?
 
立本 ぼくが俳優座にいるときに死んじゃったから。帰って来て、見てくれたりはしてたけど、でもあんまり、ああだこうだ言われた記憶はないかな。
 
―今の話を聞くと、お父さんとの想い出が薄いみたいな。
 
立本 そう、薄いの(笑)。だから死んだときの衝撃がね、強かった。死んだときの衝撃が、脳死で死んだっていうのと・・・(色々と問題があって)・・・。
 
―お父さんの死はどんな風に知った?
 
立本 脳死っていう状態が、日本に連絡きて、どうしようってなって行ったわけ、母親と一緒に中国に。最初、母親が行ってて、すごい中国の田舎だからさ、すごい汚い病院だったらしいんだけど、最初。それでもその街で一番良いところにうつったんだけど、それでも、病室の外にみんなこうやっていっぱい座ってるみたいな、毛布敷いて。そこで一番良いところだった。本当にここで腹切ったら皆死ぬんじゃないみたいなところで最初は手術したらしい。腹切ったら、死ぬ人は半分くらい死ぬんだって。胆石の手術だと。衛生環境が悪すぎるから。
 
―なんで日本に帰ってこなかったんですか?
 
立本 胆石って、ひどいと相当痛いらしいの。で、多分、ぼくが思うにある種、死を覚悟しているところもあったんじゃないかって気もする、本人が。だって、ねぇ。中国にもタイにも愛人作ってさ、どこまで隠し切るつもりでいたんだか知らないけど(笑)。一回、脳梗塞になってなんでも良いからもう好きなことやるみたいになって、自分で商売やりはじめて行ったからさ、なんか、うん。ある種死んだら死んだでいいやって思ってたんじゃないかって気がするけど。
 
―お父さんが亡くなられたのが?
 
立本 22か23。俺がいたのは1週間とかで、帰ってきちゃったけど。やんなきゃいけないこともあったから。それから半年くらいかな、植物人間の状態でいて、最後は延命治療をやめるって選択をして、そのまま亡くなったんだけど。
 
―それをどんな風に受け止めた?
 
立本 だから、それまで普通に両親がいてそんなに苦労していない生活だったから、まぁ強烈に「死」っていうものは意識するし、生き方とか、そうだね、家族とか愛とかね。結婚とかそういうことも何なんだみたいに考えるしね。母親も相当大変だったから。そうなっちゃうとね。どういう夫婦関係が理想かとか考えるようになった気がする。
 
―死についての考えが変わったということは?
 
立本 変わったっていうか、そもそもあんまり考えてなかった。意識しだしたってことだと思う。うん。でも葬儀屋やってたんだけど、そう言えば。二十歳のころから五年くらい葬儀屋やってたんだけどさ。ある種、死は身近にあったし死体は触ってたんだけど、身近な人の死ってまた別だからね。死体、そうね。その当時、相当、死体に囚われてたよ。死体も触ってたし、脳死父親の死体にすごいなんかこう、なんか頭のなかで囚われてた気がする。
 
―それから結婚したのが?
 
立本 28のとき。だから、なんだろう。うんと、やっぱりこう、俳優は・・・技術を見せるとか何かを見せるって言うよりも生き様を見せるしかないみたいな。そういうところに考えれば考えるほどなってくると、なんだろう、独り身でただ演劇だけやって、例えば筋トレとか発声練習して。すごい良い声が出るとか。滑舌ハッキリして言葉がしっかり伝わるとか、それが何になるの? みたいになってくると・・・。どう生きるかを考えるしかない。ときに、あ、この人と結婚したらいいんじゃないかみたいなプッと思ったんだよね、今の奥さんと。インスピレーションだけどね、結婚したのは。よし、これだ、みたいな。それで結婚して、結婚したら子どもを作りたいと思って、よし子ども作ろうと思って、子ども作って。二人目も欲しいなってその流れだったね。
 
―今日、お子さんいらしてますけど、生活ってこういうものだな、と。自分で制御できない。一人だったらなんとでもなるし、観念にいける。超越できる。
 
立本 今日も昼間に子供と公園で遊んでたんだけどさ、駅からここまで歩いてくるんのも、一人だと10分で着くところ30分かかるよね(笑)。家帰ってセリフ覚えようとしても別に覚えられなかったりとかさ、(子供が)遊んでとか本読んでとか来て。結局それが悪いことじゃないというか、それが生きることにしっかりつながる・・・っていうか、そういうものだなっていう感じはしてるかな。それが演劇とつながるというか人間とつながるていう感じは、何ていうんだろう、でも結婚しなきゃいけないとか、別に子供がいなきゃいけないとか、そういうことでもないんだと思うけどね。うーん、だから、自然と・・・なんていうのかな、でも奥さんが言ってたんだけど、誰かの言葉で「誰でも良いから結婚しろ」って言ってる人がいて、たしかに誰でも良いから結婚したらぜんぜん変わる。本当に(笑)。誰でも良いのは確かにそうだなという気がするけど、運命の出会いとかあるかもしんないけど。子供も、とりあえず産んじゃえばね、動いてくるみたいな、あるような気がするけど。
 
―俳優として純粋に技術で自律しようとしても、それは一人のものだから。
 
立本 だからこう・・・うーんこれだけ多様化してるとさ、あの、なんとかひねり出したいわけだよね。なんとかひねり出したい、新鮮なものを。だから結婚とか子供というのもすべて含められるんだけど、これもやってあれもやってこれもやって、どうだ、みたいな(笑)。そういう感覚は。一つのことを突き詰めるっていうのが純粋に出来ない感じがある。あれもこれも全部含みこんで、そうしたときに、なんか納得出来るみたいなね。そういう感じがすごくあって。
 
※『わたし達の器官なき身体』上演会場にて配布する〈ライフヒストリーブック〉より転載。