飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

@chaghatai_khan @fuzzkeyさんへのツイッター返信/ゲッコーパレードについて

@fuzzkey @chaghatai_khan 横から失礼します。思うに、ゲッコーパレードの『ハムレット』は生活の場である民家に「戯曲が棲む」というより、「家を劇場として使った」演劇だったよね、ということなのではと。告知されたコンセプトにミスリードがあったんじゃないかと思います

 

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@z_z__z @fuzzkey コンセプトでは“かつて人が暮らした住宅を「戯曲の棲む家」へと変貌させる。”としか言っていないわけで、そこに何を期待するかは渋革さんも marron-shibukawa.hatenablog.com/entry/2017/04/… で言及されているとおり観客の先入観による部分が大きいかと。

 

@z_z__z @fuzzkey “民家で上演される演劇”という情報からある種の上演形態を思い浮かべる人種はかなりニッチな経験の持ち主なんです。観劇経験そのものが少ない方は「そんなところでやるんだ。珍しいね」と思いながらも多分普通に演劇を観に来ると思います。

 

@z_z__z @fuzzkey 当人たちの狙いが実際どうかわかりませんが、一定数の観客が期待する民家での上演とズレが生じることは覚悟のうえで、vol.1から一貫して「一軒家をどこまで劇場として使い尽くせるか」を試みているように見えていて、私はその試みを面白がっています。

 

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すみません、返答ありがとうございます。結論は似ている気がするのですが、ご指摘いただいたことをぼくなりに理解して打ち返してみます。ただ、ぼくはどうも文章が長くなってしまいますが・・・。多分こういうことかなと、戯画化して言いますと・・・

 

ゲッコーパレードの「戯曲の棲む家」に対して、特殊な演劇経験を持った一部の観客は民家ならではの特殊な劇を期待したため、ミスリードになった。でもゲッコーパレードは普通に演劇を楽しむ、より裾野の広い層を観客として迎え入れようとしている・・・。

 

そこで、ぼくの疑問はニッチな演劇経験ってどういう経験だろう? ということです。ぼくはどちらかというとアングラ期の演劇遺産を引き継いだ方が良いと思っていて、彼らの運動は、非常にニッチな領域を開いたと思うんです。

 

僕が理解する「アングラ的ニッチさ」は日常経験では見えない〈他〉の位相が日常へ挿入されることの驚きに由来します。驚きは、日常の体験のされ方をまるごと変えてしまう革命的な出来事。あまり出会うことが叶わないユニークな〈希少性〉を持っています。

 

たまたま聞いているので例に出すと、小沢健二が「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる。それで思うこの瞬間は続くと」と歌う「光る海」に直面したときの驚きと〈希少さ〉に似ています。今見えているのとは違う〈他〉の地平の存在。

 

だから、それは希少ゆえのニッチな経験となります。逆に既存の小劇場ではどうしても演劇的想像力が小劇場演劇的なもののイメージに拘束されてしまって、普通の演劇に、つまりは〈同〉の再生産に帰結してしまうのだと思います。

 

そうした〈同〉を〈他〉へ向けていかに開くのか? という問いの前で、物理的な場所の違いは戦略上の違いに過ぎませんから、旧加藤家でも普通の劇場でも目指される体験のコアは既存の想像力の枠を外しながら〈他〉を開くことに置かれます。(『三月の5日間』が与えたショックのように)

 

ただ旧加藤家は象徴的な意味で小劇場イメージの外部になりますから、「戯曲の棲む家」のコンセプトは「家」を仲立ちさせることで拘束された想像力の枠を外し〈他〉を体験する場になるはずだ、と期待できました。〈他〉を開くニッチな体験になるはずだと。

 

このニッチ=希少な〈他〉が開かれる〈驚き〉は、より多く劇を見ているか―いないか(見巧者かどうか)の基準とは無関係に誰にでも起こり得ます。劇場でなくても起こります。

 

その意味で(開かれた世界(他)への興味があるならば)誰もが潜在的にニッチな経験を求めているとも言える。それは小劇場の枠内からは「閉じた特殊な劇形式」に見えますが、枠を外すと、多様な新しい観客へと開かれた場を形成するように思えます。

 

逆に小劇場演劇の想定する「普通さ」は、〈同〉へと閉じていく経験にもなります。とある方が、旧加藤家での観劇体験を「家が劇性に塗りつぶされる」と言いましたが、まさにニッチ=希少な〈他〉を開くはずの想像力が、どうも〈同〉の再生産のために使われているらしい、という点にあったとも言える。

 

ぼくが思う「ミスリード」は、想定する劇形式に対してのものというより、〈他〉への期待が〈同〉へずれ込むことに対してで、だから、ご指摘の「ズレが生じることへの覚悟」は〈他〉を開かず〈同〉へ自閉する覚悟というようにも聞こえます。

 

しかし、一方で市民劇の視点を入れることで、「家を劇場として使い尽くす」ことが新しい面白さを持つようには思います。つまり、蕨市に住む演劇も出来る市民が、自発的な表現の場を作ろうとしていると見ると、これはすごいことではないか、と。小劇場演劇への同化へと向かうか、市民劇の自発的な「共」の拠点へ進むか、かなり分かれ道という感じがします。