飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

東京デスロック『再生』はなぜ「多幸感」へ行き着くのか―批評再生塾No.9より

批評再生塾で提出した課題論考と、そのヴァリアントとしての『再生』論です。

論考は、『けものフレンズ』と東京デスロック『再生』を重ね合わせつつ書きました。多分、あまり語られたことのない角度で小劇場史を語ろうとしているーはずです。

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ここでは「課題」の枠を離れ、前提知識への配慮をせずに、ストレートに語り直す作業をしておこうと思います。東京デスロック『再生』の概要に触れると長くなるので触れません。論考の方で簡単に書き留めてありますので、参照してもらえればと思います。



80年代後半から90年代にかけて平田オリザ氏が『現代口語演劇のために』を皮切りに『演劇入門』などを通じて提唱した現代口語演劇は「口語日本語」からありのままのリアルを突き詰めていった。しかし、日本語が「関係性の言語」であるために、「私」が「みんな」の一部としてしか確かめられないヌエ的な集団性を抱え込まざるを得なくなる。そのため、後続世代が00年代を通じて「現代口語演劇の形式化」を推し進めていくと、必然的に「みんな」を増幅していく「日本的情緒共同体」を劇形式のレベルで反復せざるを得なくなってくる。

その象徴的な作品が、J−POPに組織され踊らされる「みんな」を組織する東京デスロックの『再生』である。この作品は、舞台上で「みんな」を描くだけでなく、そこから外れてかろうじて「凝視」の座にいた観客の自律性を麻痺させる。なぜなら、爆音のJ−POPは劇場をクラブ化し、俳優と観客の「見る/見られる」階層的関係を解体して、「踊ってるか/踊っていないか」の水平的関係に変換するからだ。

ここに至って、劇場に組織される日本人的な「みんな」性は、批判的に距離を置く自律した観客を失い、ただ自分があるがままの「みんな」であるかないかが存在の基準であるような排他的なムラ性を再生産する方向に傾く。みんなと同調しない存在はなかったことになり、「日本」の文化複合体的な雑種性を想像的に隠蔽する「ニッポンの球体」はそこから離脱しようとすれば「死ぬ」しか選択肢がない完璧な調和性を獲得する。『再生』は、そうした「ニッポンの球体」から離脱する戦略を、「多幸感」へと突き抜けることで果たそうとした。しかし、その意図は結果的に裏切られる。なぜか。


確かに『再生』は、反復の構成から身体を実在の根を持たない虚構ーシミュラクルーとする「JPOP/Jシミュレーション」に、その場で実際に踊るアクチュアルな身体を対立させる。ところが、そのさらなる反復において、「組織されるニッポン」と「現前する身体」は「みんな」から離脱する乖離的不安の宙吊りに留まることなく、(具体的には照明が徐々に明るくなり、音量のレベルを上昇させることで)多幸感へとトリップしていく。この多幸感は一方で生を断念させる絶望を永劫回帰する生の肯定へと変容させるが、もう一方で「ニッポンの球体」を再生産する「みんな」の増幅装置として働く。


多幸感へ溶け出す俳優の身体は組織化への抵抗の拠点にはならず、さらに観客の身体も多幸感のうちに場の集団性へと溶け出し、結果的にただあるがままの「ニッポン」だけが残る。「あるがままの現実」を描く現代口語演劇の課題は、「あるがままの現実」を組織するネオ現代口語演劇として深化した。

もともと幻想の「終末」を捏造することから逆に「実体のない現在」をムードで肯定する80年代小劇場がとったニッポン的祝祭性の戦略は、そこから「ムード」を差し引き「あるがままに凝視する」戦略を用いた90年代小劇場が悪魔祓いしたはずだった。ところが、「多幸感」をキーワードに舞台と観客の垣根を取り払い、「あるがままのリアルな現在」を多重化する戦略をとった00年代において想像的な「ニッポン」の共同体が回帰してきたのだ。


この構図から抜け出し、みんなしかいない共同体とは異なる「他者たち」からなるパブリックな場を組織することが、ポスト現代口語演劇の課題である。



論考では、そこまで言ってないのですが、そういうような歴史認識が僕にはあります。

ポスト、という語には抑圧されていた雑多な文化的トポスの無造作な躍動という、ポストモダンと同様の意味あいがありますので、単に現代口語演劇の「次世代」という意味ではありません。

また、ポストモダンにはモダンも含まれているので、自分で考えて判断する自律した個と、他者と関係することから生成される流動する孤、その両者の乖離的な主体を引き受けうけるという固有の課題があるように思います。いうなれば、集団で夢を見ながら醒めているといった矛盾する場を足場にしたパブリックコモンズ。

演劇は、その場で人々の「関係性」を組織する芸術であるがゆえに、アレントによって「唯一の政治的な芸術」とも言われました。ユニークな個と共同体の関係を問うことが演劇の課題であるとすれば、「みんな」でも「私」でもない乖離的な宙吊りの場を組織/非-組織することが、
「みんなの生成」へとどうしても傾いてしまう日本演劇固有の課題ではないでしょうか。

批評再生塾に通いはじめ、この1ヶ月くらいでなんとなくこれまで感じていた違和感を掘り当てつつありますが、まだ説得的に議論を組み立てきれていません。まだまだアップデートしていく予定ですので、ぜひ批判的なご意見などいただけるとありがたいです。