飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

「健康な街」にイケボが鳴る。そして、石は沈黙している。

新芸術校グループB『健康な街』展 レビュー

 
 まろんです。
 簡単なレビュー、というか思いついたことを置いてみます。
 
 僕にとって一番、応答しやすいと感じられたのは、声と身体の関係を扱った―と僕には見えた―五十嵐さんの『人を尊敬するための装置』。用意されたレコーダーに録音されていたステートメントを読み上げる声が、いわゆるイケボだったからだ。「声」の問題系は、当然、身体の問題系と密接な関係がある。
 現代演劇の祖たるベケットは『ゴドーを待ちながら』で、「待つ」という能動的な受動的行為を提示することから、アクションの連鎖として構築される演劇のドラマトゥルギーに一つの楔を打ち込んだ。それまで名だたる演劇人は誰も「待つ」という受動性が能動的アクションになるとは思ってもみなかった。特にフランス演劇では戯曲の筋を「アクション」と呼び、それが同時に「法廷弁論」を意味しているように、語りの実践―演技―そのものが現実的に効力を及ぼす弁論術の一種だったわけだから、現実への「働きかけ」を持たない「待つ」ことが演技になるとは、常識的に考えてありえないことだった(もちろん、日本文化が育んだ「能楽」の伝統は、その逆に「待つ」ことそれ自体を劇的なものとする方法を磨いていったわけだけれど)。
 ところが、ベケットは「待ち続ける」不動の身体を発見することで、話者の自己同一性を前提した「働きかける発話行為」によって隠蔽されてきた「声」の位相を見出した、言い換えれば話者の自己同一性に亀裂-crack-を入れる「到来する声」の所在を見出したわけで、例えば、69歳となった老人が39歳の自分が吹き込んだメッセージを聴く『クラップの最後のテープ』(1958)ではテープレコーダーを用いて「過去の声」と「現在の身体」を分離・並置させ、現在の自己を脅かす過去の声を具体的に可視化してみせている。ベケットから現代演劇がはじまるとは、彼が「発話」のうちに隠蔽される「声」そのものの所在を徹底的に突き詰めていったからにほかならない。
 20世紀演劇のそういう「声」の転回を念頭に置いたときに、「イケボ」とはなにか? ということをやはり考えてしまうわけです。多分に、この思考のベクトルは「健康な街」を正確に(?)読解する行為とは縁もゆかりもないわけだけれど、僕自身は、そういうエラーが開く思考の回路がなんだか笑えて面白かった。続けよう。
 
 
 「イケボ」の録音機械は、声と身体を分離させる装置として機能するのだとしたら、イケボに対応する身体はどこにあるのか? やはり、ここで目の前に横たわるレントゲン写真を見てしまう。「横たわる肢体は埋葬/棺桶を思わせると同時に、照明の白い発光はダン・フレイヴィンにおけるモダニズムと宗教の遭遇を、そして悲劇的な最期を迎えた化け物にも見える肢体」とみなみしまが的確に描写するそれである。
 ベケット的な「待つ身体」に引きつけて、それでは五十嵐が提示した身体は「肉体」を脱ぐことで健康のリファレンスとして作用する「証明写真」のごとき「露光された身体」、あるいは健康=生の証明が同時に死を焼き付ける「埋葬された身体」であることをアイロニカルに示した身体だと言えるだろうか? 「健康な街」というコンセプトから光を当てれば、こうした読解はそれほど的外れではないだろう。だが、その一方で「イケボ」から光を当てれば、横たわる肢体/死体は「肉体を脱ぐ」身体=健康証明身体というよりは、むしろ「健康な骨を纏う」新しいファッションであるように見えてくるのである。
 どういうことかを言葉にしてみよう。ニコニコ大百科によればイケボとは「まるで容姿がイケメンであるかのような、人を惑わす」とある。確かに、一般的に考えて、イケメンは女性の欲望に準拠した理想的男性像を提示しているわけだけれど、「声」それ自体はイケメン―という属性を持った人間―ではない。イケメン的な「見かけ/シミュラクル」を仮構するバーチャルな声である。例えば、youtubeには「添い寝イケボ」とか「甘シチュボイス」みたいな動画が転がっているわけだけれど、それらは「耳が妊娠した」というコメントに象徴されるエロティックな場面と密接な結びつきを持っている。つまり、イケボはそういうエロティックなシチュエーションを「声」のみによってシミュレートするエミュレーターなのである。だとするならば、イケボは何らかの行為―働きかけ・待つ―の帰属先である実在する身体との関係を持たない、逆に身体そのものを捏造してしまうバーチャル・ボイスである。
 肉体を脱いで「骨」だけになったはずの身体が、あたかも「骨」を纏った新しいファッションであるかのように錯覚されたのは、多分にそういう事情がある。ステートメントを読み上げる「イケボ」が、「脱ぐ」というエロティックなシチュエーションを「纏う」かのような想像力を「骨」へと差し向けたのだ。
 実際、本作はフィルムの上にインクを垂らして「仮構された骨(もどき)」なわけで、そこには物理的に実在する身体の不在が刻印されている。だからそれは自己目的化した健康のための手段に貶められた「管理される身体」=「骨」というよりは、みずからが健康な身体であることをいつも常にシミュレートしていく「シミュラクル身体」=「骨」=「健康な骨」のファッションなのではないか、と思えてくる。 
 だが本作が、「イケボ」=「ヴァーチャル・ボイス」を(作家の意図にかかわらず)扱うことで、露わにされた「骨」の衝撃力を「生」のシミュレーションへとズラしてしまう体制は、それこそいつの間にか私たちを「健康な街」の一員としてしまうアーキテクチャの機制そのものであり、一種の現状追認の身振りを生み出してしまう。
 
 
 そこではむしろ、有地慈『スーパー・プライベート』において霊の依り代たる「磐境」のように転がされた「石」が、「健康な街」に亀裂を生じさせる「不気味さ」の可能性を胚胎しているように思えてならない。即座に思い浮かぶのは、もの派のコンテクストだけれど、それとどのような接続の系をもつのか、僕には―残念ながら―語るべき言葉がない。しかし、少なくともドゥルーズが『消尽したもの』のなかで、「さまざまな声があたかも黙りこむとき、ありふれた沈黙に乗じて、沈黙のうちにイメージはやってくる」といったベケットの第三の言語、潜在するイメージが凝縮された空間―沈黙―の位相を思い起こさせる。この凝縮された沈黙の言語にこそ、複層的な「他者の声」の触媒となる「身体」の所在が潜んでいる。
 別役実ベケット『行ったり来たり』の「黙りましょう」という台詞のうちに、言語的な意味の層をすべてはぎとったあとに顕在化する「異物」的な存在の世界を見て取った。秩序を維持する「健康」のシステム―生政治―に亀裂を入れるのは、掘り起こされた異物的な「石」の記憶をデコードする沈黙の言説であるのかもしれない。
 
 
 「声」と「作品」の関係を問いかける本稿の視点が、ほとんど妄想的な逸脱を孕んでいるのは疑い得ないにせよ、「演劇」における「声」の問題系を無視しえない僕の立場からは、やはり大きな―そして最も本質的な―問題であり、「健康な街」の二作品は、現代演劇における「声」と「身体」の関係を問い直す示唆―あるいは思いつき―をもたらしてくれるものだった。
  そして、この思いつきのおしゃべりが―9日目に―スクラップされた街の廃墟で何かしらの「囁き声」をエコーさせていると想像すると、なんとなしに楽しい。