飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

批評再生塾2017 渋革まろん論考まとめ

ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾(三期)にて執筆した論考をまとめました。

f:id:marron_shibukawa:20180223012610j:plain 下読みコメントつき。リンクで論考に飛べます。
 【10】でチェルフィッチュ、【16】で地点について論じていて、その二つがやはり核になっています。【8】・【9】は【10】で議論した〈私演劇〉と公共性の問題を追いかけているので、(断絶していますが)続きもので読める。〈私演劇〉の
時代精神的な考察が【6】の「演劇化するセカイ」になります。

 また、【9】の東京デスロック『再生』論は【16】の地点論と「表象の演劇」から「上演の演劇」を切り離して、別のパラダイムとして提示する点で通底しています。要するに、『再生』を『水の駅』に連なる「みんな(同一性)の増幅装置」として、初期の地点を「みんな(零記号)の暗号化」から〈私〉を他者化する方法として対称的に描き出す、ということを【9】と【16】は結果的にやっているように思えます。最終論考では【15】で仮説立てた「イナゴ的な群れの可能性」を敷衍して、地点の演劇よりもさらに「私演劇」を徹底させた〈私的なものの公共圏〉を構想する予定です。

 しかし、それは結果的に【2】の尾形亀之助論に回帰してくる、ということかもしれません。なぜなら別役実の「尾形亀之助も、そうした原理体系がないがために、『おおやけ』と『わたくし』が相互に入り組む事情の中に或る空洞を見出し……しかし彼は、その空洞に於て、障子紙一枚の厚さに於て、『手足をバタバタさせる』事によって可能な一つの方法を、我々に示唆したのである」とする言葉への応答が【2】であり、亀之助の詩にはすでに言葉を「暗号」と、主体を「空洞」とすることで、逆に〈私〉の所在を確かめようとする地点的な欲望の系譜を確認できるからです。裏返せば、別役実の言語感覚が大きな影響を与えたアングラ小劇場に〈私演劇〉への「問いかけ」はすでに胚胎していたと考えられるわけで、〈私演劇〉の徹底はアングラ小劇場の「手足のバタバタ」が徹底されたところにある、ゆえに【2】の論考へと螺旋状に回帰してくることになるだろう、と言うのもやぶさかではないわけです。

 その試みの失敗が【8】の平田オリザ論になるのですが、さて、最後はどうなることやら、です。

 

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2 大澤聡「三度目の正直」(登壇)

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面白かった。尾形亀之助の語法と人生との結びつきはもう少し説得的にできたのではと思うが、長い文章にありがちな詰め込みすぎもなく、対象も傍証も絞られていて論旨がクリアーなので、苦にならず読める。強いて言えばもうすこし全体に(特に柄谷の風景論の要約と、実質「5」と「6」の二章にまたがっている結論を)切り詰めたいのと、時折挟まれる「ぼく」視点がやや鼻につくこと、長さの割に結論のパンチが弱いことは気になったが、いずれも好き嫌いの範疇か。次回も期待。あと一般的に一重鈎が外で二重鈎が中なので、これはなおした方がいい。

 

3 渡部直己「小説の『自由』度について」(登壇)

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問いを提示しつつ読者の興味を駆動させながら読ませるスリリングな文章は、前回に引き続き見事。議論の前提を丁寧に読者に共有しているのもよい。だが、「Ⅲ」における人称法をめぐる議論は恣意性を感じる。また約7,ooo字の論考に三度の転調があるため、議論の筋道を読者が追いづらくなっている。もう少し議論を整理する、もしくはテーマ自体を絞ってしまってもよかったかもしれない。とはいえ、前回に引き続き筆者の力量をたしかに感じさせる出来。

 

4 保坂和志についての評論を執筆せよ

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冒頭から前置きなくテーゼとそれを例証する引用文が示され、読者を引き込む手際は流石。「『なる』への力学」「『猫』の語が要請する意味のベクトル」「猫的運動性のリズム」等々、言葉のチョイスも上手い。また、3章4段落や6章の最後から3段落目など、論全体を引き締めダイナミズムを与える間の取り方や断定口調の挿入も効果的。一方、最終段落でヤコブソンの換喩を引用するまで、固有名(および概念)が挿入されないのは、批評文としてはやや物足りなさを感じた。また、言い回しが巧みで読者を納得をさせたまま最後まで読み進ませる力があるのだが、今回は各章の議論が少々思弁的/抽象的過ぎ、輪郭が曖昧な印象も。

 

5 斎藤環「アニメ『この世界の片隅に』を"批判"せよ」(登壇)

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ブロックごとに様々な概念や固有名が飛び交いながらも、しっかりと議論を追うことができ、かつスリリングな読み応えもある。導入での問題提起も短い字数で読者を引き込むものになっている。「内面の声の前景化」も作品の細部を捉えているし、「換喩の隠喩化」といったフレーズも外連味があって好ましい。結論部はやや凡庸な地点に到着しているが、その過程には筆者の力量をたしかに感じさせる。

 

6 さやわか「『10年代の想像力』第一章冒頭を記述せよ」(登壇)

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「本書は~」という構えで、一冊の書物の冒頭への擬態意識が非常に高いのは、個人的には好印象。議論全体を通してもクオリティが高いのは疑いないところ。文字数に関しても、議論が良く整理されているためか、17,000文字という見た目ほどに長さを感じることもなかった。SEALDsと初音ミクという新しい切り口で語ることを求められる対象に正面から対峙する姿勢は好感が持てたし、初音ミクが思い入れのある対象であることは分かるのだが、それを論じる「初音ミクAKB48」以降の後半部分が「10年代の作品(群)を取り上げ」という課題に対して期待するものだったかというと、疑問も残る。「リアリティの二側面」と「一人歩き始めること」のふたつの章での暴走Pの歌詞の読み解きに、読者を置いてけぼりに先走る感があり(まさに「暴走」すること自体は全く悪くないし、「ある種、陳腐にも〜」と自己言及もしているが)、問題は先走られた読者に対し、「初音ミクAKB48」の最後で言及している「文化的想像力」の輪郭をクリアに提示することなく議論が収束してしまっていることではないだろうか。それから細かい点だが、役者の動きをCG化するのが「3次元の2次元化」というが、そのCGが仮想3D空間の中で制作されると考えると、2次元化というのは少々腑に落ちないところがあった。

 

7 最終講評会模擬試験

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※爆死。1665字。何も論じられていません(笑)。

8 黒瀬陽平「『日本文化論』は可能か」

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思想家などの概念の引用を接続しながらまとめられているためか、これまでと比較して議論が整理されている印象。それらの積み重ねの末に辿り着く、自身の専門分野である演劇分野での見立てが最も興味深く、「今風に言えば「悪い場所」は「キャラ化」を強制する」という指摘も冴えている。しかし逆に言えば、思い付いたことへ話が流れていく印象がない分、従来の魅力が失われている感も禁じ得ないのが悩ましいところ。前回講評で佐々木さんからも同様の指摘があったが、両者がトレードオフの関係にあるのだとするなら、個人的には、従来のあちこち寄り道する議論にこそ筆者の文章の引力があると感じる。

 

9 鴻英良「21世紀初頭の身体表象……」

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基本的には面白いのだが、中盤から議論が駆け足になり、思考をリアルタイムでお届けしている感が出てしまっている。肝である『再生』のJ-Popの役割も、「踊りたくなる(分かる)」→「いま踊っているか/いま踊っていないか(まあ分かる)」→「判断する主体が存在しない(!?)」と、やや強引。そして『ケモフレ』にあまり触れられていないので、「フレンズ的身体」という語がいまいち効いてこない。というか最後を見る限り書くべきだったのは地点論なはずで、ちょっと今回は全体的な(分量&時間の)配分に失敗したか。あらかじめ、これくらいの字数でこれくらいの要素に触れる、という目算能力(というか感覚)を獲得したい。とはいえ最後、問題の指摘から一歩進もうとしたことは評価したい。

補論

『再生』論だけに絞って簡単に論じ直したもの。
東京デスロック『再生』はなぜ「多幸感」へ行き着くのか―批評再生塾No.9より - 飛び地(渋々演劇論)

 

伏見さんによる批判的な応答。

iwasonlyjoking.hatenablog.com

 

10 岡田利規についての評論を執筆せよ (登壇)

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長い。しかし以前のように脱線に伴う長さではなく、純粋に議論に必要な長さだ(通読に集中力を要する長さでもあるが)。「公共圏」の要否と「上演」の要否を重ねるパラフレーズは問題設定として分かり易いし、『三月』の「多人称」と『現在地』の「多時制」的という解釈もクリア、各時制での「天使/幽霊/人間」への/からの「まなざし」の分類にもJ=ジャンクの解釈とベンヤミンの引用が効いているし、「役割語」や「考現学」といったスパイスの挿入も単に特殊効果を狙ったものではなくロジック構築に寄与しているため破綻がない。ひとつひとつの議論を丁寧に追うのは骨が折れるが(プレゼンの様に図表やマトリックスが欲しくなる)、今回はロジックの通りが貫徹されているためある種パズルゲームの解法を目撃するような快楽を覚えた。しかしこの評価には、本稿筆者のこれまでの議論の蓄積により問題意識を共有しえているという、下読み委員特有の事情も影響していると思われ、筆者の論考初見の読者と問題意識をいかに共有しえるかという課題に対しての検討は必要かもしれない。

 

11 蓮沼執太についての評論を執筆せよ

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著者の新しい書き方を見た気がする。短く内容もまとまっていて、いいのではと思った。が、まだ拙い。例えば中盤以降國分功一郎に頼り過ぎてしまい、「中動態」という便利ワードに自身の「未成の時間」というキーワードが負けてしまい、最初から「中動態的な時間」でよかったのではという気分になる。また、最後の田崎の論が補助線として引かれる必然性が担保されていないため、終盤は自分の興味にむりやり引き付けたように見えてしまう(翻って途中で「例えば神」と出てきたのも強引に見える)。論自体はうまく纏まっているので、あとは分量を膨らませないまま、文献を過不足も異物感もなく援用する技術を身につけたい。

 

番外編 「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー」

11月14日に開催され大きな反響を呼んだ、ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾「岡田利規についての評論を執筆せよ」を受け、『三月の5日間』リクリエーション公演とのコラボレーションが決定。受講生によるレビューの公開、それを踏まえての公開討論会チェルフィッチュのホームグラウンドSTスポットで開催します。

chelfitsch20th.net

 

www.youtube.com

討論会のための私的整理

https://chelfitsch20th.net/genron/1087/

12月10日(日)STスポットにて開催された、ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション 公開討論会。塾生によるレビューを踏まえ、司会進行の佐々木敦氏と13名の批評再生塾3期生による白熱した議論が行われました。塾生渋革まろん氏による『三月の5日間』リクリエーションレビューまとめとともに、公開討論会の全編が見られるアーカイブ動画・写真も合わせて当日の様子をお届けします。


13 宮台真司「蓮實重彥の功罪」

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2章までの映画的時間、演劇的空間の議論はクリアなのだが、その後の展開がぼやけてしまっている印象。章分け、かつABCで区切っているのだから、本来は易くて然るべきなので、著者が思っている以上にシンプルに各ブロック最後でまとめる、かつブロック毎の接続を明確にするという作業が必要なのだろう(提出後のTwitter上のやり取りが補足となって本論の理解が進む感があったので、本論に予めそのクリアさを盛り込んでおきたい)。蓮實の句点を排した文体が映画の「瞬間の運動」の模倣なのだとする、これまでにも数々見られた(であろう)見立ての理由にも説得性はあった。しかし4章の冒頭で自ら記述しているように、蓮實が映画そのものを模倣したから演劇的空間を論じられなかったという点は「自明」である点に論全体が回収されてしまっているように見え、この構成であれば読者はその後の数パラグラフでその転覆あるいは説得性のある説明の提示を期待してしまわないだろうか。演劇という主題に引き寄せるのであれば、やはりトーキー的映画館の空間=演劇的空間を取り上げ蓮實の論じ方を考察するのも手だったか。

 

14 黒沢清についての評論を執筆せよ (登壇)

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『CURE』の印象的なシークエンスを配した導入がいい。扱われる問題設定もおよそ黒沢作品のほとんどすべてに通底しているテーマなのだが、記述自体はほぼ『CURE』の作品評と呼ぶべきものになっている。手マティック的な『CURE』読解はおもしろく読み応えがあるのだが、それを敷衍するべく配された「4」はやや恣意性が高い。というよりもそこでの主張が真っ当であるがゆえに、ほぼすべての映画は「私映画なのではないか?」という問いを導いてしまう。結論部で述べられる「おそろしさ」を前面に打ち出しつつ、作家評としてまとめるなどの手もあったかもしれない。とはいえ読者の興味を駆動する文体、レトリックは論者の実力をたしかに感じさせるものになっている。

 

15 東浩紀「批評とはなにかを定義せよ。」(登壇)

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面白く読んだ。普段のように、考えを突き詰めていった末に過度に抽象的な話に陥っていないのがいい。ただそれに似た構図は今回も見られ、3までの明晰といっていい東浩紀読解のあとに、「使えない批評」の記述が急に印象ベースになり、論理の代わりに「イナゴ」という隠喩=イメージで語られるようになる。今回に関してはまだ存在しない未来の批評を語るのだからしかたないとはいえ、やはり急に根拠が弱くなった印象は否めない。それに拍車を掛けるのが4以降短い間隔で二度使われる接続詞「ところで」。これは前の文章とどの程度つながり/切断されているのかが曖昧な接続詞なので、読者が迷子になりやすいだけでなく、「あれ、ここ筆者のなかでもつながってないのでは」という印象まで持たせてしまう。今回はそれが論理が弱くなるところと重なるので、話題の接続に苦しんだように見える。とはいえそういう細かい点を指摘したくなる程に、全体はしっかり読めた。

 

16 大澤真幸「『言葉は存在の家である(Die Sprache ist das Haue des Seins)』ハイデガーのこの命題を(批判的に)解釈しつつ、言語と思想の関係について論じなさい。」(登壇)

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地点を正面から論じただけあって、岡田利規回で見せてくれたような議論の掘り下げ方で面白く読んだ。ハイデガーとの格闘で一部込み入った思索が入り混むものの、今回はより広い読者に向けて目線をチューニングしたであろう、比較的高いリーダビリティがポイントか。「X=存在」の捉え方について、ハイデガーの「運命の歴史」と地点の「デタラメな暗号」を対置したことで論にダイナミズムが生まれ難解さをほぐしているが、これが論者の持つパーソナリティとも符号しているようで腑に落ちた。積極的に援用すべき方向性かも。気になったのは「沈黙」を「零記号」と見立てる箇所について、見えない句点、つまり発語/発話の後の空白を「零記号」とするなら、沈黙劇の沈黙については別の捉え方が必要ではないだろうか。とはいえ、前半に提示されていたソーニャのセリフのカタカナ表記が時枝の零記号で読み解かれる様は、これまでの論者の文章の中でも特に構成面で成功していると思う。

 

17 國分功一郎についての評論を執筆せよ

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まず1章の人との出会いにより思考をもたらす/思考がせり出すという読解まで丁寧に進むが、1章末の「國分功一郎とは、生成変化を運動させる欲望機械の別名である」というテーゼには少し違和感を覚えてしまった。というのも、仮にドゥルーズニューアカの読者層も想定すれば「盛りすぎ」の表現に思われたからだ。今回は論者にしては珍しく少し國分という人物/テクストの紹介/ダイジェストの分量が多い印象もあるが(特に2、3章の「暇と退屈の倫理学」を取り上げた部分)、ものごとを楽しむ在り方=生成変化の欲望における「楽しさ」が退屈の病から来ているという指摘には納得。続く開き直ったような『少女終末旅行』の突然の挿入もあって、3章自体が構造的な断絶感が強いが、「國分的楽しさ」と「退屈から生まれたセカイ系」、あるいは「終わりなき日常」と「終わりしかない日常」の対比は面白く、これが論者が書きたかったことなのだと納得する。その反面、この断絶感を埋めるためにも、國分の退屈論の延長としての議論から、國分の提示するなんらかの概念に本結論部の絶望を切り開く端緒を見出すなりすることで議論が國分に戻ってくる手もあっただろうし、そうすることで『少女終末旅行』の挿入の必然性も担保できたのではないだろうか。