飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

偶然と踊る、ダンシーな〈身ぶり〉、の祝祭について/五十嵐耕平・ダミアン・マニヴェル『泳ぎすぎた夜』

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映画『泳ぎすぎた夜』オフィシャルサイト

Ⅰ.〈子ども〉の世界へ

 通学路を抜けて一面雪に覆われた小さな森の中に入る。深雪に足が埋もれるたびに残される足跡。自分の存在が確かにあったことにいくばくかの不思議を覚えて立ち止まり、次の瞬間にはまっさらな雪原へ一気に倒れ込む。見上げられた空は冷たく青く自分と世界のピントがずれてしまったかのようにうすぼんやりと広がっている……。
 というような体験を雪国育ちの誰もがしているのか、それとも僕しかしてないのか(そんなわけないだろうけど)わからないが、例にもれず『泳ぎすぎた夜』に僕もそんな風な幼いときの記憶を呼び起こされたりしたのだった。五十嵐耕平ダミアン・マニヴェルが共同監督で企画して、五十嵐が雪を、ダミアン・マニヴェルが子どもを撮りたいといったことから本作が誕生したとヱクリオのインタビューでユーモラスに語られている*1。それが本当なのかわからないが、確かに本作からは雪と子どもの二つの想像力が絡み合う独特の詩情をたたえた世界が立ち上がっていた。

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 父親に会いに行くために魚市場へと冒険する少年の話と一行でまとめられるほどに物語はシンプルで、全編を通して台詞を使ったコミュニケーションが描かれることなく、唯一明晰に発話される台詞は吠えかけられた少年が犬に「アン!」と吠え返してみせるシークエンスだけ、ということからもわかることだが、本作は徹底して世界が未知なる迷宮としてあるであろう〈子ども〉の感覚に寄り添うことで成立している。つまり、この映画体験の肝は誰がどうしてこうなった式の物語性になんかなくて、ただとにかく起こっているとしか言いようのない〈子ども〉の運動から継起されていく未然形の「ダンシー」な時間にあるわけで、そのことにまず驚いてしまう。
 その運動性については後で触れるとして、まずは誰もがすぐさま気づくであろう子どもの目線より低いローアングルで固定されて下からあおるように撮影される本作のカメラワークに着目してみよう。例えば冒頭の「絵」のシーンでは冒険に出る男の子の家の階段がまさに下から上にあおるように撮影されていため、その奥の窓から見える空は全然手の届かない異世界に伸びているようにも感じられる。そこでは〈子ども〉が世界に対して抱く空間の感触がそのまままるごと観客の内なる〈子ども〉性を刺激してくる。逆に、極めて対称的な構図として印象付けられる俯瞰で撮られるまちのロングショットからは、なにか得体の知れない複雑で不可思議な迷宮―つまり〈子ども〉時代のまち―の感触が呼び起こされるのである。

Ⅱ.山下論考への疑問

 ところで、先の五十嵐監督のインタビューで主演の鳳羅少年(6歳)は青森・弘前へのロケハン中に出会ったとあるが、どうも映画に出てくる家や魚市場は実際に鳳羅くんの住む家やお父さんの職場であるらしく、ヱクリオWEBのレビューで山下研は五十嵐映画においてはドキュメンタリーとフィクションが同時に成立しているということを指摘している(「夢よりも深い覚醒を――五十嵐耕平論」)*2アンドレ・バザンの映画論を参照して山下が言うには、映画は機械的・光学的に現実を転写して記録する。しかしそれは単なる外界の記録ではない。現実を糧としながら想像力がそれに取って代わろうとせめぎあう二重性をまとったイメージである。それが現実の信憑性を持ちながら隠れた真の意味を捉える「真のリアリズム」を可能にする。いわば映画は現実の詩的な位相を捉えると山下≒バザンは言っているのだと言い換えることもできるだろう。そして、俳優ではない鳳羅少年を観察するドキュメンタリーであり、なおかつ父に絵を届けに行くフィクションでもある『泳ぎすぎた夜』は「現実よりも深い覚醒」へと観客を導くのである。
 このように展開される山下の分析は―その後段に「夢よりも深い覚醒」の議論が続くがその点については山下の本論を参照していただくことにして―すこぶる説得的だ。しかし、疑問もある。現実と虚構の二重性が隠された現実の意味を捉えるというときに、どうして現実と虚構は重なることができるのだろうか? これは依然として謎のままなんじゃないか。と同時に、その両者の重なりを可能にする「蝶番」的な役割を果たすものから本作の魅力を語り直すこともできるということを本稿では言ってみたいと思う。
 では、その「蝶番」に位置するものとはなにか。それはとても単純にそこにあるものとしてあるもの、つまりは鳳羅くんのとにかく気づけば動いてしまっている〈身ぶり〉である。

Ⅲ.〈子ども〉は〈身ぶり〉する

 彼はとにかく寄り道して逸脱してよく動く*3。そもそもお父さんに会いにいく「小さな冒険」は通学の最中に校庭へ入っていったと思ったら戻ってきて、そのまま雪の下に埋めていたみかん―だから冷凍みかん!―をぽんと口に放り込んでフェンスを超えて脇道へ逸れるところからはじまるのだから。それからも、彼は停止するということがなくて、例えば階段で一休みするシーンなんかでも、その左手の指はもぞもぞ動いていて、ずるっと階段からお尻を落としてしまったりする。昨晩一生懸命描いた魚市場の絵も気づけば手から離れて地面に落ちている。このときの落とし方が重要である。それは鳳羅くんの注意が前方へ向いたと思ったら思いがけず、いわば不随意的に落ちてしまっている、という落とし方だ(ここに犬と子どもの差異がある。犬は思わず落としてしまっていたのようなズレをもたらす不随意運動を知らない)。このほかにもストーリーのレベルではほぼ不要に思われる寄り道・脇道・逸脱していく彼の運動性はまさに五十嵐監督が「僕たち大人が考えた子供のイメージではなく、彼についていこう、彼の世界に行ってみようと思いました」とインタビューで語る通りにスクリーンに立ち現れる。それゆえに、僕はこれを〈身ぶり〉の映画だと思うのだ。
 前意識的に不随意的に起こってしまっている、生じてしまったという風にしてしか意識できないー岸井大輔の言い方を借りればーポストコンテンポラリー(後-現在)な行為、それを僕は〈身ぶり〉と呼んでいる。〈身ぶり〉は計画したり企てたりすることのできない主語を欠いた述語的行為であり、そのためにわたしが行為することから生じる出来事ー例えば電車に乗るという行為から因果的に帰結する目的地に着くということーと世界の側で生じている出来事ー例えば電車が走りA地点からB地点に複数人の身体が運ばれていたということ―のあいだの区別を溶解させてしまう。
 例えば、電車がやってくるのを待つ鳳羅くんは待合室でごろりと寝転がっているわけだけれど、続いて電車がやってきてホームに停車するショットでは待合室の中は見えなくて、あれこの子、寝ちゃってるんじゃない? 電車来てるのに気付いてなくない? と思わされてとてもハラハラするというのは、次にこうするだろうという安定した未来への軌道を予測できない存在としての〈子ども〉の時間を象徴的に示している。
 このとき、鳳羅くんは「電車に乗ろう」として電車に乗ったのか、それとも―常識的には奇妙な言い方になるが―世界の側で生じている偶々の出来事のひとつとして鳳羅くんが「電車に乗る」ことが起こったのか、その違いが限りなく零に近づく。結果的に自然に起こった現象と鳳羅くんの行為はどちらも生じてしまったと事後的に理解される〈身ぶり〉の次元に移行して合流する。この地点において、世界に起こることと、鳳羅くんの内面=気分=身体に起こることは同じ一つの実在として理解しうる視野が開かれる。噛み砕いて言えば、スクリーンに映し出される鳳羅くんは次に何をするのかわからない予測不可能性という点において、次に何が起こるかわからない世界の側の自然現象にすごい近いということだ。
 それゆえに、父親のもういない魚市場にたどりついたのち頭の部分だけをつけて壁によりかかる鳳羅くんのくにゃっとしたユーモラスな姿勢の〈身ぶり〉のうちに、彼の内面への感情移入とは異なる、いわばすでにいつも起こってしまっている官能的質感としてのポエジーが感じられるのであり―もしもあのクニャっとした感じの生起がなかったならば台無しだ―、その後に訪れる猛吹雪を私たちは鳳羅くんとなった世界に生起してくる情動的なクライシスであるように受け止めることができるようになる。ここで鳳羅くんの寄りかかる姿勢に立ち上がる質感と天候が変わり荒れ狂う猛吹雪の立ち上げる質感は、どちらも自然に起こってしまっている同一の現象的な〈身ぶり〉として知覚されうるのである。(ただし、猛吹雪が感情を説明するための書き割りではないことに注意したい)。

Ⅳ.「映画」と〈身ぶり〉はよく似ている

 だから通年に反して〈身ぶり〉をするのは人間(主体)ではなく世界なのだ。人間が〈身ぶり〉するのではない、世界が〈身ぶり〉するのである。より正確に言えば、人間に起こってくる〈身ぶり〉は、主体の意志とは無関係に世界の側で勝手に起こってくる現象的な実在/マテリアルとしての人間=身体があったことへの事後的な認識をもたらす。
 だとするならば、この〈身ぶり〉の機能は現実よりも深い覚醒をもたらす「真のリアリズム」のそれとよく似てはいないだろうか? 「映画」が現実と虚構の二重性をまとったイメージから気づくことのなかった現実の他者性を知覚させるのだとしたら、〈身ぶり〉は意識したときには起こってしまっている時差を孕んだ二重性から現実の他者性を知覚させることを可能にする。
 ここで「現実/虚構」の位相的な対立軸は「起こっている/起こっていた(ことに気づく)」の時間的な対立軸とパラレルな関係を持っている。「映画」も〈身ぶり〉も、私たちが日常を過ごすなかで普通に知覚しているそこかしこで実は生じている直接的な「実在」に私たちの感覚を開かせる機能を持っているという点では変わらないのだ。
 ところが、そこには重要な違いもある、ということを僕は言いたいわけで、仮に〈身ぶり〉という視座から『泳ぎすぎた夜』を解釈することが許されるなら、山下が言うような「『役を演じるその人自身が映画という虚構世界のなかに“実在”する』という両義性」は、観客が映画を見ている知覚される現在ー〈身ぶり〉的現在ーにおいては特に機能していないと言いうるからだ。
 例えば山下においては、現実と虚構の両義性は鳳羅くんが素人か俳優かという軸に重ねて理解されている。しかし非常に素朴に言って、もし仮に鳳羅くんがドキュメンタリーと見紛うばかりのものすごく「自然な」演技ができる天才児であったとしても、本作の魅力はいささかも損なわれない。結果的にそこに現実への深き覚醒を開くなにがしかが起こっていればよいのだし、鳳羅くんが本職の俳優であってもなくても観客としてはどっちだってかまわないわけだから。したがって一方に転写される現実ー弘前市に住む6歳の少年ーがあって、もう一方に想像上の虚構ー冒険する少年ーがあるというのは不要な前提であり、むしろ本作はそういう現実と虚構、フィクションではないものとフィクションであるものという二項対立そのものを無化する〈身ぶり〉の地平を開く、というのが僕の見立てだ。
 すなわち、現実と虚構があたかも重ねられているかのような錯覚を作り出す蝶番が〈身ぶり〉であり、裏を返せば現実/虚構の二項対立を無化して知覚される現在へとひたりつき一元化するのが〈身ぶり〉なのだ。しかし、なぜそのように言えるのか。その対立はいったいなぜ生じるのか。

Ⅴ.〈身ぶり〉と時間―現実/虚構/実在

 〈身ぶり〉は現実/虚構の二項対立を無化する一元的な実在の地平を開く。そのことの意味を明らかにするために、ここで「現実/虚構」の二重性についても「時間」との関係から論じてみよう。
 現実と虚構が重なっていると言いうるためには、〈いま・ここ〉ではないどこかで記録された「過去」なるものがあり、それがあるプロットに即して配置されていると言わねばならないだろう。そのときに観客は、①記録された現実、②再配置された現実、③スクリーンを見ている現実の三つの位相を映画館で体験することになる。本論の文脈からすると①がドキュメンタリー、②がフィクション、③が劇場体験である。山下が言う重なり・せめぎあいは、つまり①記録された現実と②再配置された現実の重なりを意味している。ところが〈身ぶり〉において問題になるのは③の地平である。③の現実はドキュメンタリーでもフィクションでもない、端的にスクリーンに何がしかが映写されるというそこに起こってしまっている出来事の体験、観客とスクリーンのあいだに起こる直接的官能の地平である。
 これを「時間」の視点からパラフレーズしてみよう。①記録された現実は「記録された過去」なわけだから、「起こっていたこと」であり、ドキュメンタリーとは「起こっていたこと」が起こったままに提示される(とみなされる)観察の時間を構成する。②再配置された現実は「再構成された過去」であるから「起こっていたこと」にプロット的な秩序を与えて物語の時間を構成する。とはいえ、山下が峻別した「弘前市に住む6歳の少年」/「冒険する少年」のどちらにしても、どこかにかつてあった「記録された現実」の転写、つまり「起こっていたこと」に立脚している。
 しかし、③スクリーンを見ている現実だけは、「起こっていたこと」でもなければ、「起こっていたこと」に統一的な秩序を与えたものでもない。意味的な秩序を欠いて「起こっていること=現在」そのものなのであり、ここに「現実/虚構」という枠組みを相対化する根本的な対立軸が潜んでいる。
 なぜこの違いが生じるのか。「起こっていたこと」によって立つ①/②のフレームは、カメラで撮影して編集するクリエイションの立場からスクリーンに映写された出来事を捉えたときに生じるパースペクティブだからだ。撮影・編集されて「映画」というコンテンツに落とし込む作業は、当然、観客が「こう見るだろう」という予期をもとにしてしかありえない。したがって、観客の視点を先取りして時間を構成するというクリエイションの立場が「起こっていたこと」に立脚する①/②の条件となるのであり、ひるがえって、転写される現実と観客の視点の分裂が①と②のあいだの「/」を生じさせるのだ。
 それに対して③のフレームはおよそ観客の視点を先取りするという前提を放棄することからしかありえない。なぜなら「起こっていること=現在」の徹底は、観客がどういう予期をするのかとは無関係に端的にそこで勝手に起こっていることでなければならないからだ。もし観客の予期を繰り込んでしまったら、それは①/②の方へとずれ込んでしまうのは自明の理だろう。つまり、クリエイションの側が想定する観客とは無関係にいつもすでに生じてしまってしまっている、そして生じてしまったあとにしか認識することのかなわない「実在」の地平を顕わにするのが③のフレームである。〈身ぶり〉は映画を「機械的に転写された過去を編集したもの」としてではなく、「いまここで生起している実在」として理解するパースペクティブを開くのだ。

※ここでいう「生起している実在」は、超越論的に認識される「現実」とは異なる、それはあったと事後的にしか開示されることのない不可視のモノの位相を指している。これは生成の働きにおいて生起する「存在」に非常によく似ているが、その「モノ」には生成の働きが開示する民族的/歴史的意味が顕れてくるわけでもない。個々人のバラバラな知覚を触発する存在論的位相である。そういう風に僕は「実在」という語を使っているわけだけれども、その具体的な展開は後日に譲らざるを得ない。

Ⅵ.偶然の祝祭へ―フィルムvs〈身ぶり〉

 さて、いささか恣意的であるかもしれないことを厭わずに、クリエイションの立場からなる「起こっていたこと」を中核とした①/②のフレームをフィルム中心主義と、徹底された〈現在〉の立場からなる「起こっていること」を中核とした③のフレームを〈身ぶり〉中心主義と呼んでおこう。フィルム中心主義は、観客の予期を繰り込みつつもフィルムの上で作品が完結するが、〈身ぶり〉中心主義は、観客の予期を繰り込まないがゆえにフィルムの上で作品が完結しない。
というと、その〈身ぶり〉中心主義というのはちょっと無理があるんじゃない? と疑問に思われる人がいるかもしれない。観客の予期を繰り込まないというのは、「記録された現実」であるはずの映画に「記録されていない現実」であることを要求する無茶振りだからだ。これは明らかなるパラドックスを構成しているわけで、端的に矛盾している。すでに何が起こるか決定している「記録」において事前の視点を徹底させるクリエイションの企てというのは不可能なのではないか。だとすれば、理念はどうであれ実際的にはフィルム中心主義に立たない限り、「映画」を撮ることも見ることもできない。
 しかし、その矛盾を解消するために用いられたのが、ほぼほぼ次に何をするのか予期できない鳳羅くんの〈身ぶり〉に寄り添うという方法だったのではないだろうか。これまで見てきたように〈身ぶり〉には虚構か現実かは無関係であり、起こっているかいないかしか基準がない。何が起こるか予期できないー常にズレが生じるー〈身ぶり〉の記録は、記録であると同時に〈現在〉に起こっていまっている出来事でもある。ゆえに、それは劇場の〈現在〉=実在の相とピタリと一致し、徹底された〈現在〉の知覚を可能にするのである。そうすることで、『泳ぎすぎた夜』は生起する〈現在〉ー記録されていない現実ーを捉えることに成功した稀有な映画だと僕は思う。
しかし、それが確かだとしても、それは本作の魅力の「基礎」を探り当てたにすぎないとも言える。〈身ぶり〉の地平が可能にする『泳ぎすぎた夜』の真にセンスオブワンダーな魅力は、「都合がいい展開」ともとれるほど偶然が折り重なることから次の行路が開かれていくそのプロットに発露しているのだから。最後にそのことに触れてみよう。
まず「魚市場の父親に会いに行く」目的なんて本当はなかったんじゃないかというくらいに、鳳羅くんの運動する道行は寄り道・わき道する逸脱に彩られている。確かに彼は最終的に魚市場にたどり着くし無事に帰宅できるのだけれど、ではどうやってその冒険を無事に終えられたのかといえば、何もかもがすべて「偶然」の力によっているのだ。偶然に市場にたどり着けるのだし、偶然に帰宅できる。それはほとんど奇跡のようだ。だから、ともすれば作劇上の都合によった虫のいい展開だとそれを非難することだってできるだろう。
 しかし、その偶然が折り重なっていく展開が「都合がいい」と見えるのはフィルム中心主義からの物言いである。〈身ぶり〉中心主義からすれば、鳳羅くんの〈身ぶり〉が事細かく断絶されつつ持続する不連続の時間によって特徴づけられるように、その物語を構成する時間には、偶然の断絶と跳躍がギクシャクしたリズムを刻む不連続の時間が本質的に要請されているのだ。偶然に魚市場のトラックを見つけて、偶然にデジカメの写真データから魚市場を見つけ、偶然に荒れ狂う吹雪に直面して、偶然に―本当になぜか!―鍵のかかっていなかった車に乗り込み帰宅する。フィルム中心主義からは著しく因果的な必然性も隠喩的な意味合いも欠乏させているように見えるそれは、しかし事後的にしか知覚し得ないただ単にそこに起こっているとしか言いようのない「実在」に依って立つがゆえであり、そのレベルでしか起こりえない―西本ケンゴの言い方を借りれば―「偶然の祝祭」を巻き起こす。それは世界が偶々にあることをまるごと肯定してしまう〈子ども〉の時間、偶然と踊るダンシーな〈身ぶり〉の祝祭なのだ。『泳ぎすぎた夜』を〈身ぶり〉の映画と言うのは、まさにそれゆえなのである。

 山下の五十嵐耕平論を「踏み台」にしてここまできた。かといって僕が山下と別の結論に達しているというわけでは多分ない。「現実の他者性」や「現実よりも深い覚醒」と言われる事態を、僕は〈身ぶり〉の視座から「偶然の祝祭」と呼び替えたのだと言ってもいい。ただそこで現実/虚構の二項対立を想定してしまうことが、偶々に起こってしまっている「実在」という現実の水準を見えにくくしているように思われるのだ。その見えにくさの意味について、僕は主に演劇の側から探求しているわけなので、もしかしたら〈身ぶり〉の視座を確定できれば、映画と演劇の区別そのものすら不要になるかもしれない。あるいは、まさにそれをしているのがチェルフィッチュの映像演劇なのだと想像を膨らませることもできるだろうか。
 いずれにせよ、「泳ぎすぎてしまう」夜の時間はいつもすでにそこにある。本作は私たちにそのことをそっと告げている。

*1:ecrito.fever.jp

*2:ecrito.fever.jp

*3:子どもの身体的ノイズへの同期と言う視点は伊藤元晴のレビューが参考になる。

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