飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

ホロロッカ『海に駆りゆく人々』

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[上演台本・演出]塩田将也(ホロロッカ)
[日時] 2016年9月30日(金)〜10月5日(水)
[会場] 新宿眼科画廊 スペースO

[あらすじ]
小さな島の、小さな家。老婆と二人の娘が暮らしていた。 この家の男たちは一人一人海で死んでいったからもういない。 亡骸が帰ってきた人もいたし、帰ってこない人もいた。 そして、最後に残った息子も海に出る準備をしていた。

[出演] 新田佑梨(ホロロッカ)・三浦こなつ・小室愛・松崎夢乃

 

ホロロッカ『海に駆りゆく人々』を見に行きました。

塩田君の「作」ではない演出作品を見るのは初めてでしたが、これが良い意味で予想を裏切られる作品でした。前衛へようこそみたいな。そんな風に言いたくなるほど前提的身振りにおいて演技と時空間が演出されていた。

僕的には京都時代から馴染み深い「マレビトの会」を筆頭とする00年代京都演劇の文法を用いた懐かしの上演とも言える。抑制された発語、シンプルな舞台空間、人物の配置だけのミニマルなセノグラフィ、サイトスペシフィシティを導入する小道具の採用(『水の駅』の水が滴る蛇口のような)マレビトの会・壁の花団・下鴨車窓・トリコ.A・France_pan・山口恵子・市川タロ・したため・京都ロマンポップ、もしかしたら相模さんや村川さんも。一括りにするのは乱暴だけど、ある種の共有前提としてあった文法が東京で見られるとは、なかなか感慨深い(?)不思議な感じだった。

そういう僕自身の来歴もあって、上演が前衛的な「身振り」に見えてしまうのは如何ともしがたいところ。僕はこうした作品群の評価軸を持つために批評の領域に足を踏み入れたこともあり、どうしても、その方法において目指される美学の細かい部分が気になってしまう。抑制された発語は、言葉を身体から突き放す必要があるし、それはそもそも身体を不透明な媒介として作用させることを目的とする。突き詰めていえば、身体をイリュージョンの代理=表象としてではなく、いま・ここに固有の媒体として扱う文法が、地点以降に起こった京都演劇の形式だった。そうした意味で、媒体それ自体による共振的想像力の喚起が、ホロロッカの今回の上演には弱い。

この形式は容易に「前衛っぽさ」を生み、演劇形式の実験として神秘主義的な「わかる人にだけわかる」教条主義へと着地してしまう。そのあたりをどれだけ理解しているのか、が疑問ではあった。そういうわけで(どういうわけだ)、塩田君固有の作家性を脇に置くとして、前衛の「身振り」に回収されていくところに危うさを感じつつも、チャレンジングで刺激的な上演だった。