飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

日々是善―調和と切断―

今日は、立本さんと伊原さんと真史さんと目的のない稽古の日だった。

もとは小嶋さんと立本さんと真史さんで月に一回開いていたのだけれど、小嶋さんがメンバー脱退し、新メンバーとして僕が加わった格好。

 

第一期がどんな感じでやっていたのかは知らないけれど、前回も今回も最近興味を持っていることなどを話しつつ、最終的に何らかのテーマを決めて即興で何かしらをやってみる。その場に来るまで何をやるかも決まっていないし、とにかく集まる日だけが決まっている、とっても自由な会合だ。

 

前回は最終的に「生き様」がテーマだったが、今回は「超人間」がテーマだった。

最初はTPPの話からはじまり、農業の話があり、グローバリゼーションはグローバル企業による単一的な労働機械を生み出すみたいな話からアルトー器官なき身体の話が絡んで、トマソンへと話題は飛び火した。

 

トマソンってなに? って聞かれた。それは〈超人間〉なわけで、その特徴は脳みそが機能停止しているかのように自動化された身振りにあるって答える。ティッシュ配りのバイトが全然ティッシュを渡せなくて身振りが自動化されていく、みたいに。ただ、トマソンはそれだけでなくて、脳からの司令がシャットアウトされて具体的に立ち現れた身振りから超越を感じさせる(もしくは様々な妄想を換気する)存在でもある。記憶喪失(絵葉書みたいな記憶によってしか動かず)で、体験を全く欠いた中身のない人間。人間を超えて完璧に機能する〈超〉人間。

 

パーフェクトヒューマン。脳なし人間。もしかしたらただ資本を拡大するために機能するだけのグローバル化された身体。今まで、僕は基本路線としてトマソンをそういう感じに理解していたのだけれど、「トマソン」の観念を一旦脇において、「超人間」を捏造することを目的にした今日の即興から、トマソンのイメージが少し広がった感じ。

 

タイトルにある「調和と切断」は、今日、新しく発見した「トマソン」の可能性。

即興を見たりやったりして理解したポイントは・・・

① 舞台で何をしていいかわからなくなったときにそれでも何かした時に現れる
② その場にそぐわないズレにおいて現れる
③ 調和することからの逸脱において現れる
④ 二人舞台にいるときは、相手の文脈を殺すことで現れる 

といったところ。で、思ったのは、僕たち人間は自然にしていると調和していく性質を持っているということ。普通に生活していると、調和している。自分の身体も調和している。相手との関係も調和している。家族も調和している。都市も調和している。国も調和している。調和とは、多分、各要素間の関係性が何らかの「良さ」から最適に機能している、ということ。意識しなければ、僕たちは自然に調和する。

 

この調和から逸脱すること。
もしくは、この調和を切断すること。

 

ここに、自由を覚えているのだと思う。
トマソンは確かに何かに対して機能せずに無用化している。
しかし見方を変えると、人間を調和的に機能させる強制力からトマソンは自由なんじゃないか? そう考えると、自分のやっていることに強い整合性(調和!)が読み取れる。「集団にならない烏合の衆のような集まりを作品にする」と言っていたダダダダの活動も、「集団として調和する自然を切断することで、各々が自由を獲得するような集まり」それ自体が作品になるって言っていた。反射神経によって、幾つものバラバラになった人格や身振りを無秩序に(無根拠に)接合していく演技の方法も、調和する自然の切断から自由の体験を獲得しようとしていると考えれば合点がいく。(グローバル資本主義への同一化を拒む抵抗!)

 

ゴミの自由だ、と思う。

でもゴミになるのは難しい。

僕にとって今まで最もゴミだったのは稲垣くんの身体だった。そして、逆の意味で前田さんの身体。そんな感じで。

 

その他エトセトラ。

・即興で立ち現れた真史さんと立本さんのお互いの文脈と全く無関係に並置された身体の関係は、対面的緊張感でも力強い身体同士の緊張でもない、引き合う緊張感を持っていた。

・250km圏内のNo Pushingは、互いへ不調和な身体による遠慮のないコミュニケーションを示していたのが魅力的だったのだ。調和の切断によって現れるゴロンとした身体。

・新しい調和。3人(僕・立本さん・まふみさん)が全く自由に無関係なままで絵画的に(?)ある種の調和を見せていた、とのこと。僕が立本さんの服の匂いをかぎながらドアに頭をぶつけて、まふみさんが数字を数えながらびっこで歩き、立本さんが何をやっていたのかは知らない。