飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

プリズマン『プリズマンの奇妙な冒険』/観劇スケッチ

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2016年12月10日〜11日
@十色庵
 
プリズマンは宮尾昌宏、竹田茂生による演劇ユニットである。処女作はクライスト『地震の話』を原作にした『ハピネス・イン・ザ・トゥルース』。これを2014年に発表。続く15年には観客席が取り払われ、茶会記というアートスペースの三つの部屋を用いた同時多発的パフォーマンス『脱出の時代』を発表。そして、今回は新たに笑いに焦点を当てた短編集『プリズマンの奇妙な冒険』のお披露目となった。僕はなんと、この三作品すべてをきちっと見ている。年に一度のペースで作品を発表しているプリズマンの作風は安定せず、一作ごとに全く別のテイストになっていくのが、何となく面白い。
 
しかし、プリズマンの脚本・演出を務める宮尾の視点は常に一貫している。視点というか、何だろう、「わからない」という感覚をとにかくなんでもかまわない、手法なんてどうでもいい、そのときたまたま興味を持った手法でもって観客とこの「わからなさ」を共有しようとする姿勢は、作風の違いを超えてプリズマンの通奏低音となる。
 
ちょっと取り急ぎなんで、あまり細かいことに言及しないけど、今回の三つの短編のうち、多分メインであろう最後の「シン・テトリス」は非常に不思議な質感を持った作品だった。この40分程度の短編のあらすじは単純で、なぜかある狭い場所に囚われた男が、なぜだかわからないけど落ちてくるテトリスをなんとか消していき、最後には解放されたと思いきや、なぜだかわからないけれどもう一度囚われて宇宙空間にロケットで飛ばされる、というもの。
 
まぁ、なんだかわからない。なぜ囚われたのか、そしてなぜ途中で落語調で俳優が話すのか、なぜ途中でいきなりラップを歌い出すのか、なぜ女子高生らしき女がやってくるのか、なぜ宇宙に飛ばされるのか・・・。脈絡が、ないのだ。そして、僕はドゥルーズガタリが唱える「リゾーム」の概念を思い起こす。
 
リゾームないし多様体としての操り人形の糸は芸人ないし人形遣いの、一なるものと仮想された意図にかかわるのではなくて、神経繊維の多様体にかかわるのであり、この神経繊維が今度は、はじめの諸次元に接続された別の諸次元にしたがってもう一つ別の操り人形を形作るのである。
 
ツリー的な一つの超越的価値によって組織していく有機体に対して、リゾーム的なうごめきが対置される。宮尾は、その劇団名(プリズマンー乱反射する男)からしても、活動の最初に(ドゥルーズガタリリゾームの最もたるものとして言及する)クライストを選択したところからしても、そして、脈絡なく複数の劇形式が串刺しにされていく時間の構成の仕方にしても、何かしら、リゾーム的な神経繊維の多様体を思わせる。というのはつまり、その劇があまりにも《私的》なものであるということを意味する。テクストを執筆した宮尾の「わからない、わからない」というつぶやきに、なぜ僕は囚われているのか、男はなぜテトリスを積み上げては消しているのか、テトリスが天井まで積み上がるとどうなるのか、男が抱えるテトリスを消していかなければならない言い知れぬ不安は何なのか、なぜ男は何らかの形式の力を借りて喋り続けなければいけないのか、一切答えがないこれらのわからなさに観客は延々と付き合わされる。
 
普通は、だ。一定の古典的なドラマトゥルギーを理解しているものからしたら、主人公は葛藤を生み出す問題に対して何らかの行動を起こしたり、そしてその問題の意味の解像度をあげてみせたりするだろう。この何ら答えの出ない、というかそもそも答えの仮設も立てられない、かといって不条理劇のような構造的に示される無意味さー例えば「ゴドーを待つ」構造から、その無意味さを暴いていくベケットのような―があるわけでもない、ただ「わからない」と言われ続ける体験は異常だ。しかしここには擁護されるべき《私的価値》があるのだと、僕は言いたくなる。
 
観客は、こうした一連の脈絡のない、そして答えのない「わからない」があの手この手で示唆されていく時間と付き合う内に、宮尾が抱える神経系に触れていくことになる。神経系は統御できない。とにかく信号があらゆる領域へと拡散し、例えば何かの危険を知らせる。まとまった意味が生じる以前の神経繊維に広がる危険信号。この、ビビビと走る信号を、観客は共有させられる。意味はわからない。しかし宮尾のカラダの内に広がる統御不能なイマージュのうごめきが、まるで自分自身が宮尾に同一化してしまったかのように察知させられるのである。
 
プリズマンは、もしかしたら公共的な、演劇の言説空間に位置付けられるようなポジショニングを持てないかもしれない。その《私的なもの》を客観的な表現に変換してもらわないと、どうにもならないよ、と思われるかもしれない。だが、そうした客観性の欠如を要件とした《私性》こそを、僕は興味深いと思ったし、何か非常に重要なことだとも、思った。