飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

京都芸術センター『式典』/演出:三浦基

上演データ

2010年3月27日 
京都芸術センター 講堂

演出 三浦基

式次第

開式のことば
作:門川大作京都市長
出演:石田大

祝辞

作:黒川猛(べトナムからの笑い声) 出演:山崎彬(悪い芝居)
作:柿沼昭徳(烏丸ストロークロック) 出演:田中遊(正直者の会)
作:山岡徳貴子(魚灯) 出演:広田ゆうみ(このしたやみ) 
作:山口茜(トリコ・Aプロデュース) 出演:武田暁(魚灯)   

制作室使用者代表のことば

作:土田英生(MONO)
出演:小林洋平

祝舞

片山伸吾[シテ](観世流能楽師
森田保美[笛]
吉阪一郎[小鼓]
谷口有辞[大鼓]
前川光範[大鼓]
田茂井廣道[後見]
味方團 深野貴彦 橋本忠樹 宮本茂樹[地謡

閉式のことば

作:富永茂樹(京都芸術センター館長)
出演:安部聡子

出典:式典|三浦基演出作品|アーカイブ|地点 CHITEN

 政治劇としてみる『式典』

 「申し遅れました。私が京都市長門川大作でございます。」会場にドッと笑い声。これは『式典』、「開式のあいさつ」での一場面である。京都市長門川大作を演じる俳優、石田大は舞台上をうろうろとせわしなく歩き回り、「開式のあいさつ」を舞台上に投げ出していく。俳優であるはずの石田が「門川大作でございます。」と言う「ズレ」がおかしく、笑いが起きる。立ち振る舞いや言葉の出し方もどこか滑稽に見えてくる。


京都芸術センター開設10周年を記念して催された『式典』は演劇として「式典」を上演するという前代未聞の試みだ。実際の京都市長のあいさつから、祝辞・閉式の言葉に至るまで俳優によって演じられた。

驚くべきは、京都市長のあいさつが(市長も観客席にいるのに!)笑いの対象となり、観客がその場をこともなげに受容していたということだ。「こんな場が許されるんだ!」と素朴に驚き、演劇の持つ力の一つに気づかされる。だが、この「力」とはいったい何なのだろう?

ところで、なぜこの「式典」は「演劇」として上演されねばならなかったのか? 例えば、普通に式典として開催されていたら、「開式のあいさつ」はどんな時間になっていただろう。容易に想像がつくのは、権力者による権威ある言葉を聴かねばならないという時間である。権威によって統制された時間がそこでは流れることだろう。

しかし『式典』ではそんな時間が流れてはいなかった。なぜなら、それは演劇だったから。「演じる」という行為が言葉から権威性を剥ぎ取ってしまったのだ。というのも、俳優が台詞を言うとは常に言葉を引用するという側面を持ち、「市長の言葉」にもまた引用符がつくことになるからだ。

この演劇的構造において、権威的な「市長のあいさつ」は脱権威化され、観衆はフラットな感覚で言葉を聞き届けられるようになる。そこには権威の脱権威化というズレが生じ、おかしみも生まれてくる。道化の登場だ。そして、道化の登場は同時に自由の空気を連れてくる。演劇の言葉が「引用」であるからこそ、そこには一種の無礼講的な無権力状態が出現し、権威からの自由が生まれるのである。すなわち、「~せねばならない」という権威が「引用」という方法によって遮断され、自由な時間が獲得されるのである。この時間を獲得しえたという事実こそ「式典」が演劇として上演された大きな意義だと言えよう。

したがって、『式典』とは京都市という権力に対抗する政治劇としてみることができる。それはまた、京都市に京都芸術センターが存在することの意義をも指し示すだろう。なぜなら、「この自由な時間こそ京都芸術センターに流れる時間なのだ」という宣言として読み解くことができるだろうから。京都芸術センターが10年の歳月をかけて育んだ「自由」の種は、今まさに芽吹こうとしているのかもしれない。