飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

現代演劇の罠/mooncuproof#6『ワタシタチにとって十分な時間について』

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●日時
1/13(金)~1/15(日)

●会場
十色庵
東京都北区神谷2-48-16 カミヤホワイトハウス B1F

●脚本・演出:萩谷 至史

●キャスト:
奥 綾香
坂本 華江
篠原 沙織
田口 ともみ
丹澤 美緒

〈宇宙〉に重ねる

萩谷至史脚本・演出『ワタシタチにとって十分な時間について』を見に行った。

作品は、タイトルが示すとおり、「十分な時間」について、演劇的な時空間を設計することで、その意味と感触を確かめてみようとするものだった、と思う。

上演は、私の小さな「物語の断片」が、私とは無関係に進行する「社会の時間」と重ね合わされるように編まれ、いくつかのストーリーがコラージュ的に散りばめられていく。小学校を舞台にしたストーリー、少女が女教師に恋するストーリー、街に爆撃があった前後のストーリーなどなど。そうした断片のあいだで、宇宙に広がる星々に「星座」を発見するようにして、観客が自分なりのストーリーを紡ぎ出していくことが目論まれていたように思う。*1

そうした物語の断片の中でも中心となるのが「爆撃があった前後のストーリー」で、私たちにとって「十分な時間」とは、一つに、この爆撃を如何にして受け止めるのか、を自分なりに納得するために必要な時間という意味があるだろう。だから、この作品は戯曲のレベルにおいて、明らかに3.11後を意識させるものであった。急いで付け加えるなら、ポスト・クライシスへ対応していく物語は全て3.11に対するスタンス(政治性)を背負わされる。観客は、いつでも・どこでも「そのように」見てしまう。舞台で起こる現象が常に政治的な意味へと変換されてしまうがゆえに、逆に出来事性が捨象されて無害化する逆説が生まれてしまう。*2

しかし「少女が女教師に恋をする」という個人的で小さな物語が対になるようにコンポジションされていることも見逃してはならない。そこでは「爆撃を受け止める」とは違ったレベルで「意外な恋心を受け止めるまでの十分な時間」が提示される。「小さな時間」と「大きな時間」は「受け止める」という行為を介して重ね合わされる。

違った角度から、本作の「重ね合わせ」について分析してみよう。「爆撃」というタームには、20世紀の日本に起こった歴史的な〈危機の時間〉が刻まれている。生まれる前に起こった危機、経験された危機、これから起こるかもしれない危機。リニアな時間を放棄しフラジャイルする戦略*3は、過去・現在・未来にまたがるクライシスの時間を重ね合わせる想像力のトリガーを引く。

あらゆる時間・場所が舞台上の〈いま・ここ〉に重ねられていく。どうして、そのような重ね合わせができるのか? 〈わたし〉も〈社会/世界〉も〈過去・現在・未来〉も大きな宇宙の時間からすれば、同じ一つの時間だからだ(宇宙では、過去と未来は相対的なものなので、過去であり未来である時間が矛盾なく共存する)。だから、この舞台のコアは、全てが重ね合わされていく〈宇宙的時間〉をいかにして〈いま・ここ〉に立ち上げることが出来るのか? という課題に置かれることになる。

太田省吾と〈宇宙〉の制約

そうした視点からすると、〈宇宙的時間〉を舞台へと反映させるのに、俳優の身体を規定・限定する舞台装置は邪魔になる。宇宙とは無限の広がりと無限の時間を持つのだから、それに対応するためには無限の時間と無限の空間を暗示させねばならない。実際に、本作の俳優は時空間を無根拠に移動するし、環境からの規定・限定を受けずに自由に演技を謳歌する。彼らは無限定の〈宇宙的時間〉を介在させることで、文字通り世界を軽々と飛び越えて夢を見るように〈フィクションの時間〉を幻想する。

役者は、しかし地面に立っている。床の上に、わたしたちは立つことを強制されている。重力があるからだ。いくらフィクションへ飛び立とうとしても、必ずこの忌まわしき重力は働いている。いくら重力を振り切りあらゆる時間・空間へ飛翔しようとしても、なんてことのない単なる現実に引き戻されてしまう。

太田省吾の言葉を借りよう。

頽廃とは、自己を問えなくなった、あるいは問わなくなった自己の状態を指すと言ったが、まだ深い頽廃がある。それは自己を問題にする頽廃者のそれだ。ところで、こう述べるものこそ、さらにたちの悪い、いい気な頽廃者である。そうだ。こう述べるわたしはさらに、天空へ、天空へ、だれよりも高く上昇している。

失語。

発語するためには足に錘を装備しなければならない。地上を歩けるように。ひたひたと。(『飛翔と懸垂』p.28)

自分が埋め込まれた関係性から自由であるような立場、実際に問題の渦中に立たされていないような立場、そういう安全地帯から人はそのことについて何とでも言える。「おもり」とは「なんでも言える」とイイ気になることを禁じる制約である。*4自己を問題にする自己は、結局のところ自己を晒さない。人間関係の網の目の中でもがき苦しむようには、自己が何者であるかを問題にしない。

わたしではないものによってわたしが振り回され、制約される。太田省吾の傑作『水の駅』は、壊れた水道の蛇口から流れ出る水に制約され振り回される人間の姿を描いた。そうした具体的になにごとかと関係し、振り回され、現実とわたしが鋭い緊張関係に置かれたときにこそ、人間はその人自身が何者であるのか、その正体を開示する。

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出典:『太田省吾の世界』パンフレット(DVD,京都造形芸術大学舞台芸術研究センター)

太田省吾も確かに〈宇宙から見えるわたし〉の存在を問題にしたと言える。彼が繰り返し確認するように、この広大な宇宙の中で人間は塵芥に過ぎない。しかし彼は現実の時空間を飛び越えるために宇宙的時間を利用したのではなかった。それよりは宇宙的時間を具体的な「流れ落ちる一筋の水」に仮託することで、人間に襲いかかる〈宇宙の制約〉をこそ問題にした。彼の視覚からすると、〈演技〉が必要とされるのは日常では意識されない特異な制約を意識化する術だからである。

制約によって人間の存在が明かされていく―演技が必要とされる―事情を、本作は一足飛びに飛び越えてしまっているのではないか。重ね合わせの手法そのものには、一挙に人間の多数性を直感させるポテンシャルが備わっているのだが、重ね合わせが制約ではなく自由―なんでも出来る―のために用いられたとき、つねに人間を捉えて離さない〈重力〉が都合よく忘れ去られてしまうのではないか。そして、観客はそれを見抜くのではないか。なんだ、嘘じゃないか、という具合に。

スタニスラフスキーと床面

太田省吾の劇形式とはかけ離れているようにみえるリアリズムの巨匠・スタニスラフスキーの『芸術における我が生涯』から次の一節を引いてみたい。

実際問題として、私の後ろに、役者としての私の背後に最大の巨匠の筆になる後景がかかっていたとしても、俳優としての私に何の利益があろう。……彫刻家、そして一部は建築家も、前舞台にさまざまな物体や凹凸を与えてくれるので、私たちは、人間精神の生活を具象化するさいに、創造的・表現的な目的でそれらを利用することができる。……劇場の平らな床面、その何もない巨大な広場で、プロンプターボックスを前にして終始木偶のように突っ立っていなくともすむ。……彫刻家には、私たちが舞台上の生活をやる床面が必要である。(『芸術におけるわが生涯』(著:スタニスラフスキー、訳:蔵原惟人・江川卓岩波文庫、1926)下巻 p.208)

スタニスラフスキーはここで「床面」の必要を強調する。彼のリアリズムはそもそも「なんでも出来る」と思い込むナルシシズムを肥大化させた役者の演技に対抗する形で構想された。俳優が立つ「どこ」がなければ、劇場で観客に向かって己の自己表現欲求を見せびらかすしかなくなるじゃないか、という問題意識が、公開の孤独のうちに力技で「どこ」を確定させるリアリズムのジャンルを開拓した。

どうして私たちを、私たちのうちに作られるすべてのことを、私たちがそのなかに住み、人間の心理が実に強くそれに依存している、光と音と物の世界から、切りはなすことができよう? (同上、中巻p183)

太田省吾と同じようにスタニスラフスキーもまた、人間が逃れることの出来ない重力の制約を意識化するところから演劇を立ち上げていった。演劇様式の違いを超えて、20世紀の演劇は「神」から、もしくは「共同体」から切り離された人間たちが直面した〈無意味な宇宙〉にいかにして立つかを問題にしている。出力された舞台の結果は、問題に対する答え方の違いに過ぎないとも言える。

ここで詳論はできないが、宇宙的な孤独の場にいかに立つのか、という問いを震源地に、演劇は一大転換を迫られたのではないだろうか。場との関係から発展してきた演劇にとって驚異ともいうべきもので、その悪戦苦闘の軌跡が20世紀演劇の土台を形作ってきたように思う。宇宙は無限定であるがゆえに人間に〈重力〉のような制約を与えない。しかし現代演劇は「制約がないという制約」を具体的に可視化し関係することを要求されるという、とんでもない苦境に立たされた*5


そうした問題から生じた〈演技〉の形式が、単なる美学上の効果のようにみなされたとき、換言すると「宇宙的孤独」が問題ではなく単なる常態にスライドしたとき、「制約のなさ」はなんでも出来る全能空間を出現させる。宇宙の制約は、全能の宇宙に変質する。mooncuproofの舞台は、そうした現代演劇の罠の所在を体現している。

これはもちろん、批判である。批判であるが、彼らがはまっているようにみえる罠はくぐり抜けることが容易ではない、演劇の作り手であれば誰もがはまる罠である。「制約がないという制約」はすぐさま「制約がない全能感」へと反転する危うさを秘めている。そこからどう抜けていくのか(あるいは僕のパースペクティブではまったく捉えられない領域を突き進むのか)、次回作を待ちたい。

*1:僕が使う星座の比喩はベンヤミンに由来している。「星座を見つける」という喩/遊びが、とても好きなので、劇を見るときの物差しの一つになっている。

*2:90年代に流行した「PCアート」が、政治的正しさ(PC)を以て作品価値を担保しようとしていたのとは違って、「ポリティカル・ターン」以後の現代美術は、どのような内容であろうと、自動的に社会的、政治的メッセージに変換されることになる。そして、問答無用でポリティカル・コレクトネス・チェックを受けることになるのだ。http://school.genron.co.jp/gcls/

*3:「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。それは、繊細でこわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりをするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである。その不可解な名状しがたい奇妙な消息を求めるうちに、私の内側でひとつの感覚的な言葉が、すなわち「フラジャイル」(fragile)とか「フラジリティ」(fragility)とよばれるべき微妙な概念が注目されてきたのであった。(松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』)

*4:この「おもり」はのちに「身体の工作」と呼ばれ、演劇史に大きな足跡を残した沈黙劇『水の駅』へと結実した。その意味で、太田省吾は終始一貫して制約の芸術家だった。

*5:制約なき制約を原理的な意味で可視化したのはサミュエル・ベケットゴドーを待ちながら』に出てくる一本の木だろう。別役が非常に良く説明してくれるように、一本の木は同心円状の無限定な空間を予感させるように働く。まるで四方を壁に囲まれたリアリズム空間の箱がパカリと開いて、タブラ・ラサの場が開けてくるかのように。しかし素舞台ではないことに注意しよう。素舞台は結局のところ劇場の壁を感知させるように働く。それでは箱は開かないのだ。箱を開くためには仕掛けと戦略が不可欠である。