飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

C.T.T.vol.90 村川拓也+工藤修三『フジノハナ』

日時 2012年1月29日・30日
会場 アトリエ劇研

※このレビューは、『ツァイトゲーバー』の前身にあたる『フジノハナ』について書かれたものです。
  加筆修正を加えています。(2016年3月5日)

世界=時間の不気味な位相

社会的な生き物としての人間は、何らかの有用性によって計られる。最も分かりやすい文言は「働かざる者、食うべからず」だろう。有用でないものに価値はないというのが基本的な社会の仕組みである。しかしそれは本当だろうか? 本作はそんな疑問を喚起する。

本作を読み解く点で重要なのは、実際に上演されたバージョン(A)と―筆者が偶然リハーサルで目撃した―上演されなかったバージョン(B)があったという事実だ。両者ともその内容は変わらない。舞台にはイス(車椅子に見立てられる)とスピーカーと小さな机(?)が置かれている。介護者の男は被介護者に尿瓶を差出し、車いすに乗せ、ご飯を食べさせ、音楽をかける。ある介護現場の日常らしきものが淡々と進行する2つのバージョンでただひとつ違うのは、ver.Aが被介護者の役を観客がやるのに対し、ver.Bは無対象だったという点だ。

ver.Aでは村川が最初に「この劇は観客に参加してもらう劇だということを告げ、観客の中から無作為に一人の女性を選び出す。彼女は被介護者として、介護者の男から様々に介護を受ける。このやり方の面白い点は介護される人間がどんどんモノのように見えてくるということだ。

劇という状況において、人間を含めた全ての物事は機能するモノとして扱われる。それがゆえに「行為を奪われた観客」は舞台のネットワークから排除されモノとして浮かび上がってくる。それは社会において機能しない、つまり誤解を恐れず言えば役に立たない被介護者の比喩であり、想像力の上で「私たちもまたモノになりうる」ということを痛感させる。社会的存在であるわれわれは、常に機能不全への不安を抱えながら、なんとか社会のネットワークから排除されないように最新の注意を払って生きるモノなのだ。ver.Aはそうした「無用さ」への想像力を喚起する。ではver.Bはどうか。


普通に想像すると、ver.Bは失敗するように思える。観客が被介護者役としてあったからこそ、われわれはそこに想像力を働かせることができたからだ。だが、ver.Bの秀逸な点は介護者の男がドラマの演じ手として被介護者の場所に誰かがいることにしてしまうのと同時に、マイクを通じてセリフをしゃべることで、相手役との芝居の言葉を、劇全体を客観的に説明する言葉へと変貌させ、劇をドラマであると同時にドラマではなくした。つまり相手役を存在させるのと同時に消滅させたところだ。

このウルトラQによってソコへ何かを読み取ろうとする観客の想像力はすぐさま空転してしまう。ver.Aでは人間が「機能しないこと」によって観客の想像力とその時間は機能したが、ver.Bでは観客の想像力そのものが機能不全に陥る。ソコに何かをいくら見ようとしてもソコには何もないという〈無性〉が観客の想像力を空転させ、時間を不気味に吸い取ってしまう。この地点においてはあらゆる劇の時間の作為がバラバラに砕け散り内破することだろう。

機能しないことが問題提起になっているがゆえに意義深いver.Aと比べ、ver.Bは全くの無意義である。しかしだからこそ、それは社会的な価値を全く無化した単なる事実を、不気味さとともに現れる〈世界=時間〉を出現させる。

 

さて、わたしたちはこの不気味な時間をどう受け止めるだろうか?