飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

『わたし達の器官なき身体』インタビューNo.1

田村泰二郎(1948〜)
―踊られる生、死と海、存在の謎

(聞き手:渋革まろん

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舞踏家とはどんな人達だろうか。田村のおどりを見ていると、幽玄という言葉が頭に浮かぶ。存在と非在のあいだを揺らめく花のように彼のカラダはふらりと現れる。それまで支配的だった新劇運動へのカウンターとなりアヴァンギャルド演劇運動の最前線を切り開いた状況劇場(1964〜1988)に「面白いこと出来るだろう」と入団。退団後は、土方巽(1928〜1986)が創始者となり「暗黒舞踏」とも呼ばれた踊りの系譜と出会い、その後は飽かぬ踊りの日々を生きていく。「やっぱり生きること全体が踊りだろうなぁ」という語りには、70年代初頭、引く手あまたであった会社勤めのサラリーマンを選ぶことなく、自身の存在への謎ととことん向き合ってきた田村の欲望が顔を覗かせたように思った。
 

 

3月12日(日)16:30   @白山駅近くの喫茶店
 
―生まれはどちらですか?
 
田村 山口県。瀬戸内海の海に近い、チャリンコで15分くらい行けば海にぶちあたる感じで、ガキん頃から、あんまり得意じゃないけど海には親しんでいたよね。親は商売やってて、俺が物心ついたときは商売やってた。まぁ、貧乏だけれども普通の幼稚園・小学校・中学校・高校くらいまで、普通っていうのはどういうふうに普通か・・・困っちゃうんだけど(笑)
 
―何年生まれ?
 
田村 1948年。アントナン・アルトーが死んだ年だよ。
 
―戦後すぐ。
 
田村 3年後くらい。みんな負けて帰って来て、やることねぇから結婚して子ども産むくらいしか楽しみなかったんじゃないの。おれら団塊の世代に当たるから。
 
―そのあと、どんなふうな。
 
田村 どんなふうな経緯で、芝居と出会ったか? って。
 
―そうですね(笑)。
 
田村 幼稚園の頃からね、うちの縁側みたいなところでガキ同士でお芝居ごっことかやってたよね。小学校の時に学芸会に出たりはあったけど、主役は全然やったことなくて、なんだ、「因幡の白兎」っていうと、サメその1・その2って。言葉無しでただ並んで黙って。ことさら、学芸会とか芝居を好きだって感じはなかったよね。野球やってたから、甲子園行きたいなとかプロ野球の選手になりたいなとか夢であったけど、高校行ったとき、まわりから上手いやつ来たりして。経営工学っちゅうとこ行って、それは学校落っこちゃって、それで山梨県にある大学で精密工学行ったんだけど、俺が入ったのが、67年。70年安保とかそんなんあったとき。学校は授業ボイコットしたり、なんとなく騒然としてて、学業どうでもいいやっていう感じで、ぶらぶらしているときに、友達と「やることねぇから芝居でもやるか」つって。そんなもんだな。大学の3・4年のとき。それで、一般文学っていうのが教養課程の中にある。その先生が面白い先生で、芝居が好きなのよ。その親父が三島(由紀夫)とか色んなの持ってきて、ハイカラな。本人はド新劇のおっちゃんなんで、なんとなく文学部でそういう感じの本が好きで。それで、芝居ちょこっとやりはじめて、その頃は田舎の方だったけど、別役とか佐藤信とか早稲田小劇場とか活躍している時代で、俺らもはじめは、木下順二とか三好十郎とか、そういうのやってたんだけど、まぁサルトルは流行ってたよね。そういう感じの状況で、あるとき、寺山さんところと唐十郎のところに衝撃受けたけど、こりゃ・・・役者になろうとかなんとかじゃなくて、ここにいけば面白いもんに出会えるかもしんないと思って、それがたまたま状況劇場で。本格的に芝居って感じでいけば状況(劇場)に入ってから。それも役者として立とうってんじゃなくて、なんかここにいけば面白いことに出会えるかも知んない。
 
―当時の衝撃はどういうところに?
 
田村 やっぱりそれまでの新劇っちゅうか芝居っていうか、ある約束事が多すぎちゃって。セリフとか滑舌の問題からプロットだ戯曲に対する読み込みだ、いかに戯曲を忠実に再現できるかとか。結構、言葉一つに対しても、なんとなく標準語で、標準語っていっても長州弁だけどな。いや、そんなことやらなくても、芝居っていうか演劇ってのは出来るんだなって特に唐さんのところはあったね。寺山さんのところはまだ縛りがあった気がするね。なんか演劇ってものに対する思い込みがあって、アンチ演劇とは言ってたけど。唐さんのところなんて言ったら、演劇の王道とは言ってたけど、ものすごくなんか力、自由な感じ。入ったらとんでもなかったけど(笑)。そっかこんな窮屈なことやらなくても芝居ってやれるんだなって感触はあったよね。
立本 卒業して東京出てきて?
田村 状況(劇場)だっていっちょ前に、試験ていうか。
立本 その当時、すでに人気劇団だったわけですよね。
田村 受かったんだよ。受かったときはまだ卒業してなくて、卒論だけはおおよそ終わってたんで。まぁ親父の手前も、学費出してもらったし、バイトもやったけど、卒業だけしとくかぁ、みたいな。その当時は、卒業すれば東芝だ日立だなんだかんだって言って、だいたいやっぱり就職するには不自由しなかったけど。なんとなく、こっちも頭でっかちだからさ、産学共同反対っちゅう感じだね。会社と、大手会社と大学が、あの頃はやっぱりそういことは拒否って感じ。来ることは来てたのね。キャノンかどっかの退職したようなやつが、大学のセンセイで入ってくるとかあったけど、それだってもう、産業と大学っちゅうのはもう、交わらない、そこの分でやってたから。俺なんかも、なんだかんだ言って一般企業には就職しない。大学入ってもドロップアウトっていうのは、もう決めてたよね。だから別に、あの、そんなに悩まずにスッと行っちゃったよね。芝居やってればおもしれぇ。面白いこと出来るだろうと思ってたら、このザマよ(笑)。
 
―東京に移ってきてから、どんな生活?
 
田村 最初はね、やっぱり劇団の近くがいいわけ。交通費がないから。劇団が練馬にあって、練馬の近くで、とりあえず三畳。共同で。風呂はもちろんないし。三千円だったかな。それではじめて。飯食うのはアレだから、カップラーメンみたいなもんとか、八百屋、いわゆる店終わったら食わなくなったの置いてあるじゃん。そういうの持ってくるよね。盗むっつたら大げさだけど、あのへんは練馬だったから畑から大根もらってきたり(笑)。うん。鳥の皮とか。とにかく、切り詰めて切り詰めて、だいたいもうみんなそうだったんじゃない? 新劇とかいう連中も切り詰めなきゃ。
 
(略:状況劇場の話)
 
―その後は?
 
田村 その後は、たまたま友達が笠井叡のところで舞踏やってて、大学時代に芝居一緒にやってたやつなんだけど、そいつも笠井のところ離れて、そいつとたまたま会った時に、稽古場ねぇんだけどって言ったら、一緒にやるかってなって、俺は一人芝居やるつもりで、あいつはあいつで一人で何かやりはじめて。あと何人かで。そしたら、言葉喋らなくても舞台に立てる方法があるらしいな、と考えちゃって。舞台に立つ方法があるらしいって妙なこと考えちゃってさ。それで自称舞踏家で、1980年にはじめて一人の会やって、そっから毎年一回くらいずつ発表会やってるけどね。36年。
 
―今に至るまで。
 
田村 途中、ブランクが10年位あったから、実質は30年弱くらいかな。
 
―80年以降は、舞踏家。
 
田村 舞踏家の看板のほうが強いかな。今でも半々だけど、やっぱり踊りのほうが面白いけどね。やってて。(舞踏からの影響は?)あったあった。あったって言うか、あの、面白かったのはさ、笠井叡っていう人は面白いんだけど、やっぱりあの頃、神秘主義とかさ、そういうの流行ったわけよ。70年代、もうほとんどある既成のものに対するなにか新しいものってときに、踊り一つにしても宗教的体験、宗教に入るんじゃないけど、自分のカラダのなかで、有するものとか、そういうものがどこから出てくるのかとかさ、いろんなことが。踊りやるやつって、意外とそういうのある、言葉が介在しないってことだけど、それでその頃アルトーが流行ってきたわけだけど。やっぱり器官なき身体っちゅうのは、近い言い方なのかな、やっぱり日常的な社会的な要素を持ったカラダの部位をひっくり返した時に多分ある種の表現・・・レベルの転換だろうけど。そういうなにか今までの演劇とは違った演劇、あるいは演劇っていう概念をひっくり返すような演劇ってので変わったよね、60年・70年代。(略:早稲田小劇場の話)状況(劇場)ってのは変なんで、アルトーの薫陶を受けた人だからね、唐さんなんかは。踊り始めてから、85年くらいからカラダに対するこだわりとか、現実とは違う何かにカラダを持ち込むってどういうことになるんだって。みんな舞踏家とかなんとか言いながら修行みたいなことを一生懸命やってた。笠井っていう人は、精霊舞踏とか言っちゃってさ、天使館とか言って。本気でやってたんじゃないか、あいつら。今でも友達でいるよ。器官なき身体っていうのかわからないけど日常を超える何かのモメントを見つける作業は地道にやってる。
 
―修行とは?
 
田村 普通にやるんじゃない、滝修行とか(笑)。みんな一通りやったんじゃない。持続してずっと行者のようにやってるっていうのは、山歩きしたりさ、やってるよ。
 
―そこからはもうずっと舞踏で。
 
田村 ある時からちょっと事務所入れてもらって、映像は少しやってますけど。それは本当に小銭をためて生活資金に充てるっていう(笑)。怒られちゃうけどね、事務所にそんなこと言ったら。
 
―60年代から日本はどんどん豊かになっていったと思うんですよね。
 
田村 俺はほとんど関係ないよね。だいたいアルバイト人生じゃん、だいたい(笑)。すごい景気の良いアルバイトやったって発想もあんまりないし、だいたい植木屋の下働きとか、印刷屋の下働きとか、カメラの部品工場の下働きとか、だから仕事はいっぱいやったけどね、旋盤もやったし、植木屋のハサミもってチョキチョキとかやったし。いま、ゴミの選別やってるけどね。なにやっても生きれるだろうと思ったのよ、状況劇場やめたとき、それくらい面白かったんだから(笑)。みんな自衛隊行くよりさ、もうちょい強固な役者集団があったらそこ行って5年くらい遊んだほうがよっぽど面白いと思うよ、いまはね、ちょっとわからないけどさ、ひ弱になってるからみんな(笑)。
立本 いまはそんなとこないですよね。
田村 やっぱりある人達なんか、本屋行ってどーんと本をバッグに詰めて知らん顔して行っちゃうとかさ、新宿泥棒日記みたいなさ、話があってさ(笑)。それでもやっぱりなんとか生き延びさせるくらい・・・。今だったらもう防犯カメラあるし、ちょっとでも一冊でも持ってこうもんだったらすぐとっ捕まっちゃうけどさ。あの頃はまだある意味でおおらかだった。貧しいけれど。
 
―監視の目が厳しくなってる。
 
田村 多分アレ、よっぽどヘベレケに酔っ払って無意識にスッと抜いてスッと帰ってくるなら良いけどね。シラフでやろうとしたら非常に難しいテクニックが必要になってくんのよ(笑)。
 
―生きにくくなったなとは思わない?
 
田村 生きにくくなるってのは、一つ言えば歳取るじゃん。あと10年生きなきゃなんないって感じじゃん。歳はとってくるわけじゃん。どうやって生きようかってのはあるよ。だからみんなサラリーマンの人達って銭勘定してるか知らないけど、蓄えしとくわけじゃん。こっちは蓄えないからさ。明日病気になったらさ、明後日もうわからんとかさ、そういう不安はあるよ、それだけは(笑)。だから、もう良いや俺、もう一回やり直しで、路上でもどこでも良いから門付しながら稼ごうかなって、そこまでいく度胸ないんだよね。やっぱり考えちゃうよね。先行きのことは(笑)。それ不安だよね、演技がうまくなるとかなんとかいうのじゃないね。もっとバリッとした器の踊り子になりたいとか、そういうのとは違ってやっぱひしひしと迫ってくる老いに対する恐怖ってのはあるよね。今まで若い頃、70くらいまではなんとか行けるだろうと思うわけ。ただこれからカラダ使ってやるとすると・・・だからゴミの選別だけは離すまいとかさ(笑)。
 
―話を聞いていると、田村さんが求道者のように思えますが。
 
田村 若い頃っていうの、踊りはじめた頃はそういう感じあったよ。あったよっちゅうか、それくら持っとかないと、踊るっていう操作がなかなか出来ないんですよ。ギリヤーク尼ヶ崎っていう人がいるんですけど、このひとモダンダンスのすごい天才と言われた人なんですけど、このひとが大道芸に踏み出してやる、同じことを4つくらいのパターンくらいしかやらないらしいんですけどね。最初に白鳥の湖をバーっと踊ったりして、その前は山歩きみたいなのから始めるんですよ。見てたら面白かった。これはじめるとき杖持ってさ、山歩きみたいのでカラダ持ってって。その人なんかの踊り見ると、当然食うことは大変だし、バックもいたんだろうけど、求道者様っつう感じしちゃうときあるよ(笑)。踊りってそういう側面あるのかって思ってさ。昔はそういうことしながら托鉢なんかしてやったやつ、いたんだろうしね。そういう意味ではギリヤークさんなんかある種の托鉢だよね。やっぱそういう求道っつーか、特にあの環境はわりと攻めてあげないと良い踊りを踊れないとかさ。あんまりのほほんとしたもの、踊りにも、「いいや踊りなんかもうやらなくたって生活でいいや」っつうのはあったりもするのよ。誘惑は大きいと思うよ。芝居辞めて大道具で飯食ってる人とか、そっちの方向行っちゃった人とか随分いるし。やっぱり役者って儲かんないよな。テレビなんかで売れちゃったりしてバカ売れすることあるけど、それもやっぱり99%の人はそれこそ求道者になっちゃってさ(笑)、貧乏に耐えながらさ(笑)。「演劇界はなんとかなるもんか」とかやってるわけでさ。それは、踊りだってそんなに変わんないけど、踊りってのはもっとこう個人的な事情があるかもしんないですね。芝居って集団の枠があって、分担が決まっててとかそういうの。踊りってのは一人でやろうと思ったら、ギリヤークさんじゃないけど、一人でござ敷いて路上で踊っちゃえばそれで成立するってのはあるから。
 
―もうここらでやめようみたいなこととか?
 
田村 もうココまで来ちゃえば、意地になっちゃうよね(笑)。あと生きたって10年とするじゃん。それはわからないよ(笑)。あと10年くらいだったらなんとか持つかもしんないし、でも、こうなると売れるとか売れないとかじゃなくて、やっぱり自分のカラダがどう変化していくのかが面白いっていう感じだよね。発表すると言われるわけじゃん、面白かったとかクソ面白くない、銭返せとか、そんなのいちいち気にしてたら踊れなくなるよね。そのへんは流してってさ、自分が踊りたいなってアレがあったら・・・やっぱりやっちゃうよね、それはしょうがないしね。求道者っつーか。
 
3月12日(日)21:00   @けいこ場
 
―田村さんは踊る時に抱える「テーマ」について伺いたいです。
 
田村 何者だろう、どっからきてどこへ行っちゃうんだろうっていうのも含めて、自分って何なんだってのはあるよね。生活っていうのは、ある部分だろうと思うんだけど、わたしが生きている、でいいんだけど。身体としての生に対しての、やっぱり・・・疑問だよね。何で俺生きてるんだろう? とかさ。これからどうやって生きる、だろうなぁとかさ。生きるってなんだろうなってのはあるよね。まぁちょっとめんどうくさい言い方したら「存在」。何で俺ここへ存在してるんだ、みたいな。ことへ対する疑問は、「ある」よね。
 
―若い頃から?
 
田村 死に対する恐怖感。ガキの頃からそうだけど、闇にずっといると怖いとか、あんたが雪の中に埋もれちゃうときの恐怖感とか。それでも死なずにいるときの俺ってなんなんだろう。自分の生きてること全く忘れて、それでも死にきれなかったってのはあるよね。自殺とか色々考えるけれど、結果的に生きてきたっていうのは、あるよね。死にたいと思ったこともあるけれど、生きてきた。それは生かされてきたのか、あるいは生きようとする意志が強かったのかわからないけど。やっぱり、ある自分の生きてきた総体。いま誰と付き合ってたか、そのとき誰と付き合っていたどういうものの中で生かされてきたかってのは考えるよね。生かされたって感じはするね。それは踊るときのテーマにはなるよね。
 
3月19日(日)21:00    @けいこ場
 
―田村さんの話から、「水」と「溺れた」というワードが引っかかって。先ほどのリハーサルでも潜水艦が沈没したって話が飛び出していました。
 
田村 俺らがガキの頃は、ほらまだ、戦争、戦後っていうのは生々しい感じはあったね。親戚でソロモン群島で潜水艦乗ってて戦死しちゃったって人もいるんだね。で、ガキん頃、やっぱり川で溺れかけたこととか海で溺れかけたこととか、結構あるわけ。あの、やっぱり溺れるときのもがき方ってのは二度としたくないって感じだけどね。そういうのが、ガキん頃のあれが、トラウマまでいかないけど、やっぱりあるよね。水が、水にまつわる何か。出てくるっちゅうのは。
 
―水が怖い?
 
田村 怖いっていうのは無いけど、無意識の中でやっぱり、意識的に怖いとは思わないけど。やっぱりどうしても、こう踊りなんかのときなんかは、個人史のあれ、ほじくっちゃうときあるよね。芝居なんかはある意味で、役に入り込むから。踊りはなんだっていうと、特にこういう踊りやってると自分っていうの掘っちゃうよね。「死」つって言われてもやっぱり、他人の死しか死っちゅうのはないもんだと思うから、自分が死ぬなんてことは、ま、歳とったらあるかもしんないけど、死っちゅうのは他人を見て「死」を感じるんじゃないかな。自分が死に接近するって言って、やっぱり恐怖っていうのはあるけどね。あとはもう一つは、死にきれないことがあるけどね。
 
―人生の節目節目で「死」を意識することはあった?
 
田村 うん、どうしても出てくるよね、学生時代とか。やっぱりもうどうしようもないっちゅうか、どん詰まりに来たとかさ。死にきれないっちゅうか、ある意味で、臆病だったわけだけど、死ぬっていうのは勇気いるぞ、なんて思ったよね。事故死とかだったらわかるんだけど、殺されちゃうとか。自分で自殺っていうのは。そういう意味では絶望の底には達してなかったのかも知んないけど。そういう時に、やっぱり自殺したやつなんか、友達なんかもう三人くらい逝っちゃってるから、半分悔しいっちゅうのと、半分こいつすげえやつだなって思うことあるよね。
 
―大学出たら、当時だったら大手企業に就職できた。でも安泰の道は選ばなかったんですよね。
 
田村 選ばなかったっちゅうか、サラリーマンってのは多分、苦しんだよね、周り見てても、サラリーマンやってるやつって。毎日毎日、おんなじ時間におんなじうち出てってさ、帰って来てまた仕事の話ばっかりしながら、趣味があればいいけど、あの当時55くらいだったよ定年が。定年まで働いて・・・学校行くのだって遅刻ばっかりしてたのに、働くってことは考えられないから。友達なんかと話しても、田村は無理だよな、まぁサラリーマンは無理だよって。学校出る時にやっぱり工学部だったから、産学協同体反対みたいなので、これドロップアウトするしかねぇな。そんなに・・・やっぱりバイトはいっぱいやったけど、飯が食えないってことに関しては、貧乏しててもなんとかなるってのはあったよね。その分、銭がまずないから。バイトやって万円札はじめて見たときにさ、これは万円札だ!三枚来たぞ!おぇすげえなんて、笑ってた(笑)。
 
―立本さんから聞いたんですけど、40くらいの時に結婚されたとか。
 
田村 結婚もしたし、踊りやってる時に、やっぱり生活は重みましてくるから、バイトでもなんでも稼がなきゃしょうがないから。
 
―それで強く変わったことってありますか?
 
田村 ほとんどフーテンに近い感じの生活してたから、生き方してたから。生活っちゅうものに対するあれが本当になかったよね。40くらいまで独り身でいたけど、これは上手くいけば一人でいけるかもしれないとかね。でも好きな人がやっぱりできちゃって。ほら、宮沢賢治とかいたじゃん。ああいうの憧れた時期があるね。ああいう感じの生き方。すごいストイックな感じでさ。
 
しんどいよ、生活って。ふっふっふっふ(笑)。生活が辛くなるようだったら考えたほうが良いよとかさ、安易に籍入れて結婚なんかしないほうがいいよとかさ、なんとなく人には言いたくなるような気がするけどね、自分は結婚しちゃったけどさ。変な話だけど。
 
―田村さんの踊りから、死後と生まれる前を感じます。「生活」とは遠いものかなと思ったりも。
 
田村 なんだかんだバイトやってるときもあるけどね、やっぱり生活に追われちゃうことは追われちゃうわけだよ。そうすっとやっぱり、生活圏から外れたというか遠いところで何かをやりたいってのはあるよね。生活を忘れるっていう。日常を忘れたところで、自分と向き合うって感じ。だから、何となくほら、生活しながら「俺とは何か」とかあんまり考えないじゃん。そんな仕事しながら「俺とは何か」とか考えないけど(笑)。やっぱ面白いのはいま、ゴミ選別やっててゴミこうやってやってるとさ、俺がゴミか、ゴミが俺かわかんなくなるっちゅう妙な時間はあるね。それを楽しんじゃうんだよね。これひょっとしたら踊りの道具になると思うね。そういう風にこう、逆転しちゃうよね。生活の中で、生活をより良くしようなんてよりも生活を楽しみながらこれ、踊りの勉強になるかなぁとか。そういう風に、じゃあやっぱり生きること全体が踊りだろうなぁとかさ。本を読むことだってそういうことだけど。アルトーのように生きるっちゅうのはまず出来ないわけだけど。アルトーの世界をこっちで嗅いでみるっちゅうかね。こいつ何考えてのかなとかさ。輪郭っつうか骨は太いから、どこで切り刻んでいっても、同じ呪詛っていうか、神に対するものすごい恨みつらみがさ、そのために勉強したんじゃなかろうかくらいのね。あらゆるものを勉強して、で、これもやっぱり・・・神っていう嫌なやつがいるから世界ってのはこんなことまで勉強させやがってとかさ。自分一人で神と戦ってるくらいいくんだよね。他のやつら、全部自分の身に降り掛かってくるわけだよね、だから、人格っちゅうのが多重人格になるっていうか、あらゆるものが自分の人格の中にあって、そいつらが神に対して反抗しやがるみたいな。
 
―自分の中の。
 
田村 自分の中に、他者がいっぱいいるわけだよね。で、そいつら、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ言うんだよね。呪詛として、バーーーっと吐くんだろうと、思うよ。
 
―田村さんにもそういう欲求あるんですか。
 
田村 なんかね、近いところでは、権力っちゅうの、そういうものに対する反抗みたいなものはあるよね。だから、一人の人間みたいなものが良いけど、集団とか権力とか言われちゃうと、ダメだよね。宗教でも政治でも、政党とか宗教団体とか作るじゃん。それで、宗教者としての個人は面白いやつもいるんだけど、宗教団体とか政党とか言うともう権力あるよね。共産党だってそうだし。個人的に言えばね、政治はほとんどわかんないけど。それこそアルトーだってそうだし、個人で立つわけじゃん、ヨーロッパのやつらは。で、トロツキーとかさ、レーニンとか、ところが党になるとスターリンみたいなとんでもないやつが出てくる。北朝鮮もそうだろうけど、粛清し始めるわけじゃん。だから、そういうのに対する苛立ちっていうのはあるよね。日本だってそういうところあると思うんだよね。権力とか構造に対して、反抗するのはすごいことなんだなと思う。
 
もうほとんど腐っちゃってるわけだよね。それでも生きられてるわけじゃん、ストーンと切れないわけじゃん。ヨーロッパは一応、革命ってあることはあるわけじゃん、日本って革命ってのは、とりあえずないわけじゃん。明治維新も外からきた力に対してだしさ、内側からの命を変えていくみたいなのがなくて、グツグツグツグツ腐っていく。でもやっぱり生き延びてくるわけでさ。腐っても死なないとか言ってさ(笑)。
 
―腐っていく。
 
田村 アルトーなんかにもあるけどね。神はうんこだとかの言うときの「臭い」っていう。カラダも含めて腐っていくときっていうのはすごいんだと思うんだよね。あらゆるものに手紙書きまくるわけじゃない、ローマ法王とかさ。だーって書きまくるんだよ。あらゆる世界平和を唱えているような宗教的なやつに対して、てめぇら糞だって言ってさ(笑)。そういう意味であれ、痛快っちゃ痛快だよ。
 
※『わたし達の器官なき身体』上演会場にて配布する〈ライフヒストリーブック〉より転載。