飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

なんとなく楽しい(ワイワイ)―新しい市民劇について/ゲッコーパレード『ハムレット』

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ゲッコーパレード 本拠地公演 戯曲の棲む家vol.6
ハムレット
2017年3月31日(金) 〜4月10日(月)
旧加藤家住宅(〒335-0003 埼玉県蕨市南町2-8-2)
原作:W シェイクスピア
引用訳 小田島雄志 松岡和子 木下順二 
出演:渡辺恒 崎田ゆかり 河原舞
演出:黒田瑞仁
美術 柴田彩芳〔現代美術家
衣装 森弓夏〔服飾デザイナー〕
空間 渡辺瑞帆 (青年団 演出部)
照明協力 磯野いるか 鈴木麻友
記録映像 絵空衣音
チラシデザイン:岸本昌也
チラシ写真:瀬尾憲司
制作:岡田萌
制作補助:川口潮奈 

 「戯曲の棲む家」シリーズ

ゲッコパレード『ハムレット』を観に行った。

ゲッコーパレードは蕨市にある旧加藤家住宅を拠点に「戯曲の棲む家」シリーズを展開する若手劇団。劇団名は「トカゲの名前」で、人の集まりがパレードのように活動や表現を作り出していくとの集団理念から。代表で演出家の黒田瑞仁は早稲田大学で建築を学んだ後に座・高円寺の劇場人養成所「劇場創造アカデミー」に入所(5期生)。修了した2015年に同じく5期生であった河原・崎田・岡田と、渡辺恒(円・演劇研究所の出身)で立ち上げた。

16年を通じて企画された「戯曲の棲む家」シリーズは、住宅地に並ぶ平凡な「民家」を舞台にして、ソフォクレスアンティゴネ』を皮切りに、竹内銃一郎『戸惑いの午后の惨事』、三島由紀夫道成寺』、宮沢賢治『飢餓陣営』、ブレヒト『リンドバークたちの飛行』と古今東西の戯曲を自由自在に横断し、家と戯曲が織りなす多彩な音色を奏でてきた、のだと思われる。

「戯曲の棲む家」シリーズは・・・演劇の戯曲を劇場や本の中ではない「家」という場所に住まわせてみて、どのような振る舞いをするかを観察しようというプロジェクトです。

「家」と演劇といえば、鈴木忠志による利賀村と合掌造りの家屋を劇場とした「利賀山房」を思い出す人も多いだろう。鈴木は合掌造りの家について次のように言っている。

家あるいは空間に棲みこむということは、そこにかかわった人間が生活過程のなかで創意工夫をこらして、自分の肌ざわりにあったようなものに変更しうる可能性の中を生きていくことだということを感じさせられるのである。要するに、空間じたいが、一人の人間の身体を媒介として生きもののように変わっていく。*1

これに比して言えば、一本の戯曲を媒介にして、旧加藤家が生き物のように変容をとげるーと、同時に戯曲も変容をとげるーが「戯曲の棲む家」シリーズの狙いだと解釈できる。旧加藤家という昭和的家屋を、いわゆる劇場空間のようにどんな劇団の表現も等しく受け止めるように普遍化された抽象的な空間としてではなく、サイトスペシフィックな場であるからこそ浮き彫りになる《家》が持つ記憶の磁場を《戯曲》を棲まわせることを媒介に立ち上げるということか。

だから、本作では彼らにとって家がどういう意味を持っているのか、が観劇体験の要になると言っても良さそうだ。

メタ的な多重性

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http://origin.natalie.mu/stage/gallery/show/news_id/205219/image_id/659140
(撮影:瀬尾憲司)


さて、Twitter演劇界での評判も上々のようであったので、久々に旧加藤家住宅に足を運んだ。

上演は家の台所を使って行われる。暗闇の中、台所には一人の男(渡辺)が何やらハムレットの独白をブツブツつぶやきながら現れる。冷蔵庫を開け、食卓につく。そこからは一人遊びをする子供のように、俳優は食卓の上にあるモノを「ハムレット」や「オフィーリア」などなどに見立てて遊ぶ。「尼寺へいけ」で締めくくられるポローニアスに司令を受けてハムレットが正気なのかどうかを確かめるべくオフィーリアが自身への愛をたずねる場面からはじまり、名場面集のように幾つかのシークエンス―ハムレット父親が亡霊として現れるシーン、ハムレットが母親を罵るシーン、父を殺されたオフィーリアが狂気に駆られるシーン、最後の決闘のシーンなど―が配されていく。

そうしたシークエンスの配列に多重的な時間の層が重ね焼される。つまり、『ハムレット』が演じられる上演の(代理=表象の)時間、家に住む男が台所に夜食をあさりにくる「男1」の時間(後には、男1が朝を迎えて食卓につく時間)、『ハムレット』の台本を崎田・河原が読むゲッコーパレードの半ドキュメンタリー的な稽古場の時間、ハムレット演じる渡辺が暴れまわりコーヒーの粉やら倒した瓶やら何やらを演出家の黒田が片付けるアクチュアルな時間、台所を使って簡単な料理が作られる現前する時間、旧加藤家住宅そのものが持つメモリアルな時間、といったように。そして、多重化された時間の層は、ビートルズ宇多田ヒカルの楽曲の持つ誰もが「共感できる時間」によってまとめあげられる。

こうした多重的な時間の層を重ね焼する手法に着目することも不可能ではないだろう。上演の時空間を相対化し、それらを俯瞰的に横断することを可能にするメタ的な視点から、家と戯曲とゲッコパレードのそれぞれが内包している記憶を一挙に串刺ししてみせる。どの層から劇へまなざしを与えるかによって、多数的な時間の意味が同時に浮かび上がってくる。

確かにそういう側面もあるだろうけど、こうした戦略の必然性や、ゲッコーパレードがこの手法でもってしか露出させられないと考えるに至った何らかのメッセージがあったとは思えない。つまり、〈メタ的な多重性〉は彼らの活動にとってあまり本質的ではないように思える*2。それよりも、ぼくはこの上演に新しい市民劇の可能性を見たように思う。というのは、本作はなんとなく楽しいものであったからだ。

民家の上演=演劇空間の拡張?

ちょっと寄り道になるが、「民家での上演」からは、近年の劇場の外へと演劇を拡張させていく遊歩型・ツアー型演劇や、戦後のネオ・アヴァンギャルドアンダーグラウンド演劇運動への回帰を思い起こさせるところがある。ここでは特に後者の演劇運動とゲッコーパレードの演劇を比較してみよう。そうすることで、ゲッコーパレードがどんなユニークさを持っているかが逆に見えてくるだろうし、それが「新しい市民劇」を示唆していることへの筋道も立ってくるように思う。

例えば、アングラ期の演劇人は、プロセニアムアーチを備えた劇場の非−空間性を批判して、それぞれ劇場の外へと演劇空間を拡張させた。状況劇場の赤テント、演劇センター68/71の黒テント寺山修司の市街劇、太田省吾の能舞台に、鈴木忠志の利賀三房への移住といった多様なモメントで68年演劇は彩られている。そうした系譜のエピソードの末端にゲッコーパレードは加わった、とも言えるし全然関係ないとも言える。

全然関係ないとも言える、というのは彼らの演技態に目を向けることではっきりする。なぜなら、アングラ期の「演劇空間の拡張」は演劇の自明性を括弧に入れた上で、独自の活動コンセプトを立脚点としながら「集団―演技―劇場―観客」からなる演劇を規定するパラダイムそのものを取り替える運動だったからだ(戦後モダニズム演劇の台頭と言える)。そのため、劇場の意味を変化させることは、同時に演技の意味を変化させることでもあった。

彼らは、「劇場」を創りかえることで新しい「演技」の方法を発想し、さらに集団の在り方それ自体を現実に相対するフィクションとして結実させる。神話化しているきらいはあるが、例えば転形劇場の太田省吾は『小町風伝』を上演したとき、「能舞台に言葉がはねつけられる」と感じ、老婆は書かれたセリフを発語せず沈黙した。それは『水の駅』にまで連なる沈黙劇の端緒となる。

鈴木忠志は劇のフィクションは作品にあるのではなくて劇団の活動そのものにあると言った(集団そのものが虚構であり、この虚構の質が舞台の質をすでに決定しているのである。・・・だから、演技とは持続する非日常としての集団の論理の裡に存在する日常のことだといったほうが良いくらいである。*3)。そこで集団の虚構性を生み出す仕掛けとして日本人の「足の文法」を解析・分類した鈴木メソッドを基盤とし、さらに利賀村に移住するというアクロバティックな動きを見せた。演劇人にはおなじみだが、利賀村へ行き観劇する体験は、観客が劇と出会う「身体感覚」をまるきり変えてしまうものだ。

また、黒テント佐藤信は「革命の演劇」を掲げ、各地のミニコミュニティをつなげる媒介のような役割を果たした(実際、70年代から現在にいたる関西小劇場の基礎を担う人材を輩出した演劇誌『プレイガイドジャーナル』は黒テントの大阪上演実行委員会のメンバーによって立ち上げられた)。脱-中心化された文化状況そのものを構想する黒テントのフラジャイルな活動の在り方は《いま・ここ》で即興的にテクストと出会い続ける演技の方法へと反映されていったのだと思う。

図式的にすぎるまとめ方ではあるが、ぼくが言いたいのは、アングラ期の演劇人は、日常では開示不可能な〈他なる現実〉を開示する必要性に迫られていたのであり、それは作品の手前で「演劇活動」として実体化し、わたしたちの日常の生と地続きにつながりながら固有のフィクショナルな領域を切り開く演技―Action―へと結実したのだ、ということである。演技に結実しない演劇活動なんてものはありえず、太田省吾が明確に指摘したように「劇とは一人の人間が立ち、歩くことが、事実としてなにごとかである」*4ような、日常の延長線上で日常を転覆させてしまう直接的な行為=演技からなるのであった。

〈演劇空間の拡張〉は〈別なる現実〉を構想する

さて、それでは彼らの演技はどのような振る舞いを見せていただろうか。

俳優の個々人は好演を見せていたが、旧加藤家住宅だからこそ要請されもするし、新たな意味をも生み出していくフィクショナルな次元に対する演技の方法が模索されていたとは思えない。例えばハムレットを演じる渡辺は、台所にあるそこらのものにガツガツぶつかる。あえて、というより単にぶつかっている。能役者における能舞台のように彼は空間に棲みこんではいない。また、いわゆる盛り上がるシーンでは、決まってPop Musicが流れ、どんな場所でも時間の質を保証する楽曲によってキッチン(あるいは家屋)の時間性とは無関係な劇的なシーンが構成される。崎田と河原も好演ではあるが、他の劇場空間にも移植可能な―だから個人の技芸なのだ―演技を展開する。このように、本作から空間(と、そもそもの「戯曲の棲む家」という活動コンセプト)とのかかわり合いから生じてくる演技論的なコンセプトは伺えない。ブログ観劇評で黒木洋平という方が上手いことを言っている。

第一に問題なのは、僕が「ある期待」を持って見てしまっていたことだ。その期待とは「家の強力な日常性と、戯曲の非日常性とが、相互に異化作用を与え合うのではないか」というものだ。事実として「戯曲の棲む家」のコンセプトはそれを期待させるものなんじゃないかと思う。なぜなら「劇場」ではなく「家」と呼んでいるのだから。しかし実際の上演はそうしたものではなかった。キッチンでやるエンターテイメントなハムレット。戯曲と日常性が相互に異化しあう様は観られなかっただけでなく、家は劇性に利用され、極彩色に塗り潰されるだけの哀れな存在になっていた。

最初から存在しなかった「日常性」 / ゲッコーパレード『ハムレット』について|黒木洋平|note

つまり、これを上演するのって「家」じゃなくてもOKだよね? と黒木氏は指摘しているのだと思う。ゲッコーパレードの演技と演出は先に述べたような「どんな劇団の表現でも受け止める普遍的な空間」を前提にして組織されている、だから名作戯曲を担保にすることで空間とは無関係に成立していく類の演劇だった、ということだ。黒木氏はそれを「劇性に利用され―塗りつぶされた」と感じたのだと思う。

この演技論/劇場論の欠如はアングラ期の演劇人による「演劇空間の拡張」とゲッコーパレードの「民家を使った演劇」が質的にまるで異なるものであることを指し示す。先に述べたように「劇場へのまなざし」を変えることは、連動して必ず演技・集団・観客へのまなざしを変化させる。演技が変わらないなら、劇場へのまなざしも全く揺らいでいないのであり、それは「演劇空間の拡張」とは呼べない。なぜなら「拡張」とは物理的に「既存の劇場の外へ出る」といったことではなく、想像力のうちで今とは異なる異他的な〈現実〉を構想することだからだ。問題は物理的な「内/外」ではなく、想像力の上での「内/外」である。アングラ期の演劇運動が、〈他なる現実〉への想像力を獲得する手がかりを「劇場の外」へと求めたのに対し、ゲッコーパレード『ハムレット』では既存の劇場的想像力を発揮する場所として、たまたま劇場の外にあった「民家」が使われたのだ、と言えると思う。


したがって、アングラ期の演劇と比較すると、(少なくとも本作の)ゲッコーパレードの「民家」は異他的な現実を開く媒介ではなかったし、そうした〈他なる現実〉を捉える構想力を持っていなかった。

(それは、最近、ぼくが観劇した演劇と比較してもはっきりする。例えばヌトミック『Sunday Ballon』のような現在の基層にあるであろう等価空間を、わたしたちの〈他者〉として改めて暴露する構想力、村川拓也『Fools speak while wise men listen』のような「日本人―中国人」がいかに対話しうるか、その意味と困難を現象させようとする構想力、立本夏山+田村泰二郎『わたし達の器官なき身体』における記憶/歴史を身体による空間の変容を通じて開示していく構想力。)

〈他〉よりも、むしろ〈共〉を望む

しかし、〈他〉への構想力の欠如にこそ、ゲッコーパレードがゲッコーパレードたるゆえんがあり、彼らのユニークさを示すものになる。どういうことか。

〈他なる現実〉を呼び込んでくるような場として、彼らの民家での試みをみると単に失敗しているとしか言えないが、それは彼らの試みを捉えるフレームが、全然別のところにあるからではないだろうか? 第一、本作からは「失敗した」という感じがしない。そもそもはじめから〈他なる現実〉なんて目指してないんじゃないか? とすら思える。こうした(あえていえば)失望の感じは「戯曲の棲む家」で名作古典を上演し続けるという、歴史的・異他的な想像力を開示しそうなコンセプトによるミスリードの結果であって、彼らが構想するのは〈他〉への想像力ではなくて、身も蓋もなく言えば「みんなでワイワイ楽しくやること」にあるのではないだろうか。

思い出してほしい。みんなで楽しく集まれることに意味がある、というのがゲッコーパレードなる集団のコンセプトであったことを。彼らは、人の集まりがパレードのように表現を形成すると言っているのだから、それは字義通りに受け取るべきだろう。集まる、つまりはワイワイやるのだ。

みんなでワイワイ楽しくやること。それを実現するために、他なるActionは必要ない。他なるActionが必要になるのは、繰り返しになるが日常の振る舞いでは開示不可能な〈他なる現実〉を開示する必要に迫られた時だからだ。多分、ヌトミックや村川拓也や立本夏山+田村泰二郎には、何故かは知らないが、そうした必要に迫られる契機があったのだろうし、そこが〈劇―フィクション〉へと彼らを向かわせる原動力となっている。一方で、ゲッコパレードはそうした必要性を原動力とはしていない。そこに集まった人たちが「共に」楽しくやるためには、〈他〉を開示することよりも、バランスよく「なんとなく楽しい」ことのほうが、重要なのだ。

その意味で、ゲッコーパレードはお花見の宴会に似ている。とりあえずきれいに咲く「桜」を眺めながら、敷かれた1枚のレジャーシートに友達と友達の友達と、そのまた友達が集いワイワイ楽しくやる。だが「桜」は異形の桜であってはならないし、その下に死体が埋まっているとかなんとか、そんなことを本気で考えるなんて野暮である。

そんな〈他〉への想像力を本気で考えてしまうような構想力は立場を作る。「桜は実は死を養分としている、死者の樹木だ」とかなんとか言い出す。それは日常に対する〈他〉の構想となる、がゆえに、なるべく多くの人達を包括するような大きなレジャーシートにはなれないのだ。ゲッコーパレードの活動は意識的にせよ無意識的にせよ、そうした〈他〉を形成する構想力の排他性への批判を内包している。「なんとなく」がここでは重要だ。理屈ではない。

黒木氏が指摘していた「劇性によって家の日常性を塗りつぶした」という感慨は、民家を媒介にした〈他〉への想像力を期待した時に見てしまう端的な誤解である。「共に楽しく」の視点から見れば、ゲッコーパレードは、なんとなくみんなが漠然と思い描いている演劇のイメージにおける「普通さ(日常)」と、実際の民家が持っている「日常っぽさ」をかけ合わせたところで、なんとなく楽しいワイワイ空間を創出してみせた、と言えるのだ。

みんなが共通してある程度了解している「演劇」をちょっとずらしてみせる。すると、ちょっとめずらしい花が咲き、わたし達は分け隔てなく、そのまわりに集まることができる。*5

リトル高円寺

そして、彼らの「なんとなく楽しい(ワイワイ)」劇に、ぼくは新しい市民劇の可能性が予告されているように思ったのだ。

彼らにとって「家」がどんな意味を持つか? が、本作の観劇体験の要になるとぼくは最初に言った。そして、それはアングラ期の演劇運動のように〈他なる現実〉への想像力を開く足がかりのような意味を持っていないことを示した。彼らにはそうした意味での〈他〉を形成する構想力はない(というか狙われていない)。むしろ彼らにとっての「家」とは〈共〉に楽しくワイワイやる、なんとなく楽しいワイワイ空間である。

これは父が不在の家に例えられる。旧加藤家は不在の父を尻目に、いつもとは違う遊びをやってみようと駆け回る子供たちの自由空間となる。旧加藤家を訪れる者は、ごっこ遊びに興じる子供たちの楽しげなパトスや、ちょっと日常のルールから踏み出してみる悪戯な振る舞い、思いついたことをとにかくやってみる気まぐれな閃きを、まるで久々に帰ってきた父親が子どものやんちゃに呆れながらも暖かく見守るようなまなざしで、見る。ちらほら指摘されるゲッコーパレードの「メタ」的振る舞いへの言及は、こうした「思いついたことをとにかくやってみる子供っぽい気まぐれ」を、別の文脈に取り違えた(取り違えても意味が増えるから良いんだけども)結果のように思える。

むしろ、思いついたことをとにかく無根拠にやってみる自由空間は、座・高円寺が主催する「リトル高円寺」というイベントに結びつけたほうが、より納得のいくゲッコーパレードの物語を記述できるように思う。リトル高円寺では、毎年「町」や「森」といった空間テーマを設定し、そこにやってきた子どもたちが1週間くらいかけて町や森を発展させていく。ダンボールやらの素材がそこらじゅうにあるので、スタッフも子供も一緒になって、思いつきを形にしては壊し、形にしては壊しながら、なんとも言えないカオティックな空間が育まれていく。リトル高円寺は、なんだってやっても良いんだという勇気を与えてくれるとともに、劇場空間という保護された閉域だからこそ奔放な想像力と偶然の組み合わせで、多元的な宇宙を織り込む場を形成する。

「リトル高円寺」のような、座・高円寺特有のコンテクストを読み込まない限り、ゲッコーパレードの活動の価値は見えてこない。こうした背景を無視して批評的なコンテクストにのせてしまうと、それはもとにあった活動のコアを隠し、小劇場演劇業界内の陳列棚に並ぶひとつのパッケージにゲッコーパレードの活動を矮小化してしまうだろう。

新しい市民劇?

ゲッコーパレードの黒田・河原・崎田・岡田の面々は座・高円寺に2年間通っていたという下地を共有しており、彼らの蕨市という地域に根ざした活動も、座・高円寺の地域劇場としての役割を引き継ぐものだ。そうした背景を考慮に入れると、ぼくがやったようなアングラ期の演劇運動との比較考察みたいなものは、ゲッコーパレードを言説化するにあたって、加える意味のない余分なエピソードにすぎないことがわかる。むしろ、kanade_otani氏がブログに書く「観劇メモ」がゲッコーパレードの活動の意味をすくいとっている。

個人的に、劇場のある蕨市の人がそれなりにいたのが嬉しいと思った。

ゲッコーは自分の中では結構尖ってる方の演劇に分類されてるんだけど、それでも「蕨で何かやってるみたいだから」で観に来てくれる人がいて、「初めて観た演劇だったけど楽しかった」と。そういう地元に見てもらえる劇団、地元がそういう方向を向いてくれる劇場で活動するっていいなぁって。

ゲッコーは旧今回の加藤家住宅のほかに数軒、拠点(自劇場)を持っている数少ない劇団のひとつ。今回のお茶会でも劇団が拠点をもつことについての話が出た。

今後首都圏で空き家が増えて空き家を拠点にする劇団も少しずつでてくるかもしれない、と。

ゲッコーのように生活+演劇みたいなスタイル(冷蔵庫を漁ったと思うとハムレットが始まり、ハムレットから食卓が始まる)は結構特殊だと思う。結局は家を手にしても改装したりなんかして、コストはかかるのかもしれないけど、拠点を持つメリット、街に根ざすメリットは確かにある。

そして、街のあちこちに劇場があって、それぞれ個性のある演劇があちこちで観られる未来って、ちょっと見たい。

そんなことを考えた春の一日。

観劇メモ④ 街に根ざす : おおたにメモ

空き家を拠点に、街のあちこちに劇場があって、それぞれ個性のある演劇が見られる未来。これは公共ホールが牽引する多数の人々を音楽の力で組織していく市民ミュージカルとは、真逆の発想。空き家を自発的な市民劇の無数の拠点とする発想である。ゲッコーパレードとは、こうした新しい市民劇の先駆けなのだ。現在の演劇界のパラダイムでは、これを小劇場演劇の内側に回収するしか、彼らを意味づける手段がない。それこそが大きな問題ではないか。


いや、そうはいっても、これはぼくにとっても、よくわからない一つの謎が増えたとも言える。ぼくがここまで、作品それ自体についてほとんど触れていないのは、作品から語りうることが、ぼくには見当たらないからなんだから。それはこれまで長々と述べてきたように、作品には劇場論/演技論が欠如しており、民家を媒介にした固有のフィクション―他なる現実―を構想する契機がなかったからだ。

個人的な葛藤になってしまうが、ぼく自身がこれまで辿ってきた〈演劇〉の経路からして、思いつきをとにかくやってみよう、それでなんとなく楽しいワイワイ空間を作ろうとする方向性を、容易に受け入れることは出来ない(その意味で、ストレートな感想は黒木氏に近い)。〈共に楽しく〉は80年代小劇場演劇が展開した「ぼくとあなたは同じ若者だ」とする共感共同体の自己確認の場に過ぎないからだ。しかし、これが、無数にある「民家」を舞台にして、ぼくたちは誰でも自発的に演劇を作っていけるんだ、と。空き家は父が不在の家であり、そこでは社会的な規範をカッコに入れて、なんでもいいからやってみるという「リトル高円寺」直伝の想像力の場を形成する可能性があるんだ、そういう新しい市民劇の方法があるんだとすると、これは〈他なる現実〉を構想する契機に確かになるのだ。

願わくば、旧加藤家住宅が演劇業界人(演劇人ではない)によるちょっと変わった貸館ではなく、日本的な脈絡で〈市民〉の自発的な活動の場にならんことを。余計な蛇足ではあるが。

(筆:渋革まろん

*1:鈴木忠志「合掌造りとの出会い」

*2:のちに明らかにするように、別の意味でこの多重性はゲッコーパレードの性格を明かすが。

*3:鈴木忠志「集団的発想への示唆」

*4:太田省吾『裸形の劇場』

*5:こうとしか言いようがないからこのように書いているが、これはゲッコーパレードへの非難ではない。むしろ、こういうちょっとずらしてなんとなく楽しい、という固有の演劇的ジャンルがあると言いたい。