飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

「トマソンのマツリ」(2018.0120-21)終了しました。

トマソンのマツリ」終了しました。ご来場いただいた皆様ありがとうございました。
両日、満席となり、これは「トマソンのマツリ」はじまって以来の快挙です(笑。

トマソンを「マツル」という、非常に抽象的でふわふわした試みではありますが、実際に会場に足を運んでいただけて、当たり前のことかもしれませんが、やはり、こういう風に何だかよくわからないものへ向けて、なんだか人が集まっている状態は、とても良いことだなと感じたし、興味をもっていただけたことに、とても感謝しています。

ところで、今回の「トマソンのマツリ」は、情熱のフラミンゴの服部さんと、当初からトマソンのマツリにて活躍している稲垣くんの二人が奉り手となっています。稽古では、それぞれがトマソンとの出逢いから受け取ったものを、何らかの「かたち」にしてもらいました。

だから、一般的にイメージされる演劇作品が、集団である「完成品」へと向かうことものだとしたら、「トマソンのマツリ」における上演は服部さんと稲垣くんが「トマソンをマツル」とどうなるか、そのテストケースにあたります。いわば、上演それ自体が、奉り手がどういうふうにトマソンと出逢ったのかを示す「出逢いのドキュメント」でもあるわけです。

次のようにも言い換えられます。上演は「無用化されたものたち―トマソン―の存在を出現させるためのチャレンジ」であり、「トマソンのマツリ」というプロジェクト全体の一切断面である、と。上演は奉り手も含めてトマソンのマツリに参入する「窓」のようなものなのです。

ですので、「トマソン」に興味を憶えたみなさまも、どんどん「トマソンのマツリ」に参加していただければ、望外の喜びです! なにしろトマソンのマツリの目的は、50〜100人くらいを母集団にして、トマソンの見えないネットワークを増殖させていくことにあるのですから。

いや、もはや「トマソンのマツリ」をきっかけにして、トマソンを認識する第三の目が開かれたことでしょう(笑)。「東京には幽霊が出る。トマソンという幽霊である」といったのは、赤瀬川原平御大でした。それは無用であるがゆえに「なかったこと」にされますし、実際に社会的に意味のある機能を持たないものですから「無」も同然です。しかしそれはある。

4月から、また「トマソン観察会」も定期的に開催していこうと思います。はっきりって、こっちは単なるまちあるきです。いや、単なるまちあるきだから面白いわけですし、むしろこっちが「トマソンのマツリ」の本体といっても過言ではない。「自身にとっての謎なもの」を探索しながら、一人でブラブラする会です。

 

それでは、またいつの日か!

 

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