飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

演劇がこんなに”普通”でいいのかしら?/岸井戯曲を上演する in Osaka #0

岸井戯曲を上演する in Osaka #0

12月27日(水)

阿倍野長屋(大阪) 

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1,普通の演劇

 普通の演劇、という言葉で何を思い浮かべるだろう? 演劇関係者ではない一般人が観る演劇、あるいは誰にでも受け入れられるオーソドックスな演劇、または取り立てた特徴のない退屈な演劇。コンテクストいかんでもちろん意味は変わってくるが、大阪の「阿倍野長屋」で開催された「岸井戯曲を上演する in Osaka #0」は、「普通の演劇」という語が、まさにぴったりだと感じられるイベントだった。
 12月27日(水)の一日だけ開かれたこのイベントは、伊藤拓也・岸井大輔の共同企画で、岸井の戯曲6本を、関西圏のアーティスト6組が上演するというもの。横浜・blanClassの「岸井戯曲を上演する」シリーズ関西版とも言える。

 岸井大輔という劇作家を知らない読者もいるかもしれない。彼は1970年生まれの劇作家。とはいっても、彼の戯曲は何らかの意味で現実の模写であるようなリアリズム(写実主義)の形式をとらない。役名もないし、時にはドラマすらなく、ほとんど論考に近い〈戯曲〉すらある。それではポストドラマなのかというと、例えばベケット『クワッド』のように幾何学的な運動が指定されているわけでも、ハイナー・ミュラーハムレットマシーン』のようにト書きや台詞の区別がはっきりしない詩的なモノローグでも、イェリネク『光のない』のように小説との境界が極めて曖昧になった「テクスト」でもない。岸井は、それらを包括する一般形式を定義した上で、美術でいうところのインストラクション、あるいは企画書、論考やエッセイに属するとみなされるだろうエクリチュールも含めて、「戯曲」と呼ぶのである。例えば次のような戯曲がある。

『本当に大事なことはあなたの目の前でおこらない』

タイトルが「本当に大事なことはあなたの目の前ではおこらない」であることを明示の上、宣伝する。
観客が、タイトルを知った上で所定の上演会場に来られるようにする。
上演場所は、劇場などなるべく標準的な上演空間がよい。
上演場所の入り口の前に、中へ入れないように障壁を作る。
来た観客一人ひとりに、以下のメッセージを伝え、納得させる。言葉で伝えなくてもよい。

この中で起きていることはあまりにも個人的で大事なので、あなたに見せるわけにはいかない。

例えば、あなたは、恋人との別れや、友人との親密な会話や、子供に大事なメッセージを伝える瞬間を他人に見られてもいいのか。もし、よいとしても、他人に見られているときとそうでない時では違うことになるだろう。

今、この中で起きているのはとても大事なことなのだ。……(中略)あなたの目の前で行うにはあまりにも個人的で本当に大事なことなのだ。

 なぜこれを戯曲と呼びうるのかは、デュシャンの『泉』を前にして、なぜそれを美術と呼びうるのか困惑したように人は困惑する(ただし、岸井には制度破壊的な意図は薄いように思う。それよりはネオダダ的な構築性が色濃い)。岸井によれば、なにかをはじめるきっかけになるものはすべて戯曲である。そして戯曲をきっかけにいまはじめられた活動が「良い演技」であり、その活動に参加する人びとが互いにそれぞれの活動に納得している複数の人びと―集団―が「美しい演劇」である。だから、彼はハンナ・アレント『人間の条件』を戯曲として、東京に住む人々に「公共」を演じさせる「美しい演劇」―公共をはじめることに納得して活動する集団―を構想してみせたりもする(『東京の条件』)。
 奇しくもオウム真理教地下鉄サリン事件によってアングラ小劇場演劇運動に一つの終止符が打たれ、平田オリザの『東京ノート』が岸田國士戯曲賞を受賞した1995年。岸井は「ジャンルを定義することでジャンルを更新する」ジャンルの形式化へと歩を進めていった。戯曲の「日本語」を問い直すことで「近代演劇」のやり直しを図った「現代口語演劇」のムーブメントが本格化していったのと同時期に、岸井は平田とは別ルートで「戯曲」概念のアップデートを準備していった。

2,ポストインターネット演劇

 さて、最初に企画全体について触れつつ、その特徴を考察してみる。
 本企画は6本の岸井戯曲の上演からなるわけだが、阿倍野長屋は「劇場」ではないので、各上演は家屋一階の座敷や二階の居間といった複数の場所を使って行われる。そこで観客はまず①『メイド喫茶の条件』を一階で観劇したと思ったら、次の②『本当に大事なことはあなたの目の前でおこらない』・③『ふるまいのアーキビスツ』を二階で、次の④『東京の条件』は一階、⑤『文(かきことば)』は二階、そして最後の⑥『演劇は面白いものです』を一階で観劇、というように何度も場所を替えながら、家屋に散らばる戯曲の断片を渡り歩くように観劇することになる。しかも各上演はそれぞれ20〜30分程度だから、腰を落ち着けてじっくり見るような上演体験、というわけにはいかない。
 それに、観客の役割も上演によって異なる。例えば①では観客と舞台に切断が生じないような―だから観客もすぐにその輪に入れるような状態で―コーヒーを沸かして雑談をする4人の男たちに「聞き耳を立てる」同席者になる。②ではパソコンを持って20分間ただ立っているだけの「展示された男」を見る鑑賞者である。③⑤は半シアター形式、④に至っては、観客参加型のかるた大会が主であり、⑥では擬似的なワールドカフェ方式を採用したワークショップの参加者の役割が与えられる。
 だから、ここで観客は空間的にも立場的にも、文字通り自らの立ち位置を常に揺るがされていく。見知らぬ街が、いつのまにか暗号を孕んだ迷宮へと変わる体験をベンヤミンは「遊歩者」の陶酔として描き出しているが、まさに家の中を散歩しているうちに「迷宮」に迷い込んでいくようである。
 ここで、いわゆる劇場で興行されるシアター演劇が、現実と虚構を観客席と舞台に綺麗に割り振るのとは異なり、「迷宮」と化した家屋の中では現実と虚構の二項対立の枠組みそのものが機能しない。明らかに、シアター演劇とは別種の「関係性」が上演と観客のあいだに生じている。そう聞かされると、何か変わった演劇の企画なんだと理解されるかもしれない。しかし、シアター演劇の制度とはべつのところで慎ましやかに行われる本企画こそ、なんとも「普通の演劇」なのだと筆者は言いたい。どういうことか。

 その説明のためには、「シアター演劇」と、そうではない演劇を比較する必要がある、というのはもちろんのことだが、そうは言っても物理的にも制度的にも「劇場」の枠外にある上演とは何か? と聞かれても、あまりまとまった答えを出すことができそうにない。だからとりあえず、本企画の迷宮感覚から導かれる演劇の理念型を展開してみることにしよう。まずはその特性を羅列すると次のようになる。
 それは、どんなに上演をみても「岸井大輔」という作家のメッセージにたどり着くことはなく、逆に家屋に散らばった断片を観客が勝手につなぎ合わせてある想念を産んでいくようなアレゴリー的読解を特徴に持つ。あるいは演劇が「イマココ」で上演される作品として完結することはなく、断片化された複数の上演が相互に影響を与えあう創発的ネットワークそれ自体を上演とする。それどころか、あたかもインターネットに残された過去ログがコンピューター上では等価な「現在性」を持つように、過去の時系列が消滅し、あらゆる要素が無差別に組み合わされつつ着火する「瞬間の発火」を「演劇」と呼んでみたくなるような、そうした「上演」である。
 これをなんと呼べばいいか。言いあぐねているわけだが、ひとまず劇作家・演出・俳優・観客の自律した人格を前提にすることなく、ただ創発的な諸断片が接続と切断を繰り返しながら一回性を着火させていく上演を、「ポストインターネット演劇」と名指してみたい。「インターネット以後」的な人間やコミュニケーションの関係を見てとれるからだが、その「定義」については後日に譲り、そう呼んでおく。
 少なくとも「シアター演劇」が上演という虚構をプロニアムアーチで囲い込んで現実と切り離す形式だとしたら、ポストインターネット演劇は「現実」の方を虚構の一部に組み込んでしまう。一般的には、演劇が上演される非日常的な時間が「虚構」だと理解されているけれど、実は観客が普通に生活している日常こそ虚構であり、その日常の「虚構」へと深く潜るきっかけを与えることが「上演」である、といったように、現実と虚構の関係性が逆転するのである。
 現実こそが「実在」ではない「虚構」だ。そう考えるのは何も突飛なことではない。そもそも、現実の日常生活を振り返ってみても、日常の時間は確かな実在性を持つものではない。それが「実在」すると理解されるのは、流れていく時間を「人生」というリニアな物語の形式に当てはめて理解しているからだ。「人生」という形式を外してみれば、一体、どの記憶がどういう順番で並んでいたかなんて思い出せない。その意味で「過去」というのは、何だかよくわかないポツポツと断片的に思い出される「記憶」の集積と言える。
 だから、家屋に点在する上演は、そういう断片的な「記憶」のアナロジーだ。①〜⑥の上演を渡り歩く経験は、断片化された記憶を思い出していく時間でもあるのだ。日常の「実在性」を括弧にくくり、上演との関係でポツポツと思いだされてくる断片的な記憶イメージが、そこでは〈現実〉になる。
 例えば、本企画の上演から「京都っぽさ」とか「大阪っぽさ」とか「東京っぽさ/横浜っぽさ」みたいな、土地的な帰属性を全然感じないのは、「記憶」の水準において、土地の経験もそうした「記憶」の一断片に過ぎなくなるからだ。等価に水平的な記憶のメモランダムな共鳴体験が、ここでは「上演」になる。そうした土地の帰属性、言い換えれば「故郷」に根付かない根無し草になった人びとは、とても孤独かもしれない。でも、それは孤独を前提にとても自由でもある。
 そこで俳優と観客は、上意下達の関係にはない。こう想像してみよう。たまたまの人の集まりがあって、たまたまAさんが戯曲の「触媒」的な役割を果たしているだけだと。だから、俳優のAさんも戯曲を完全に理解しているわけでないし、それを観客のBさんに伝えようとするわけでもない。AさんもBさんも戯曲に対して平等な関係を持っていて、彼らは相互に立場を入れ替えることだって出来るし、あるところではBさんが俳優の役割を上演に対して果たすかもしれない。実際、本企画でも「赤ん坊」の俳優の泣き声は上演に介入して深みを与えているということがあった。
 空間のアトランダムな共鳴性は時間に対しても起こる。例えば、家でサボテンを育てることと、「イマココ」での上演体験は常識的にはまったく切り離された出来事であるとみなされる。だけど、ポストインターネット演劇の圏内ではサボテンを育てていることも、上演の時間に起こる出来事も「記憶」のレベルで全く等価な出来事であると理解される。そして、それらは内面や物語の根拠を欠いて無意味に接続されたりされなかったりする。だから上演ははじまりも終わりもなく、あらゆる要素が潜在的な接続可能性を持ち、瞬間瞬間に予測できない「記憶」を―真実であるか虚偽であるかは問題にならないような記憶を―生成していく。

 こういう風に、上演を社会的な「人格」の単位からではなくて、個人の「記憶素」のようなものを単位にすると考えるのは、ちょっとややこしい、変なことなんじゃないかと思えるかもしれない。でも、社会の一員として真面目に社会を発展させていくことを価値とする責任主体たる「人格」は、演劇みたいに「嘘ごと」の不まじめな行為を何も生産しない無価値なものとみなすだろうし、だからこそ逆に「演劇」は聖なる河原乞食がやるような、社会の日常から外れた「普通ではないこと」に位置づけられる。あるいは、なにかしら特殊な境地を目指さすことを「演劇」の制度が急き立てる。これは「普通ではない」演劇だ。
 それに対して、本企画の爽やかな自由さは、例えばご飯を食べることやちょっと旅行に出かけること、あるいは山に登ったり会社で仕事をしたりすることと変わらないものとして「演劇」を位置づけたことに起因する。かといって、演劇を等身大のものに引き下げたわけではない。逆だ。上演を「断片化」することで、ごはんを食べることや山にのぼることや……の方を、上演と等価の「記憶素」へと変質させていくのである。先の言い方で言えば、現実の実在を虚構の一部に組み込んでしまう。そうすることで、逆説的に演劇はなんら日常的な行為と断絶を持たない、夕飯を作るように行われる「普通の虚構」になったのである。
 社会的人格の解体が、「普通の演劇」へと至る逆説。それは多分、岸井戯曲の断片性―非完結性―と、外部の騒音や家屋の手触りが不可避的に上演に組み込まれざるをえない環境、そして明確なテーマや意図を持ったキュレーションの不在が良い塩梅に「緩い」空気感を醸成した結果の、偶然の産物なのだけれど、そういう場が整えられることで生まれる「普通の演劇」は、やっぱり結構素晴らしいことなんじゃないか?

※「ポストインターネット演劇」と言っているのは、あるいは「拡散した私演劇」と言える。「私演劇」が、あくまでも完結した「劇場」を前提していた演劇モデルであったとしたら、「ポストインターネット演劇」は、インターネットの疑似同期的なアーキテクチャを反映して、具体的な−それが抽象化・普遍化されたイタリア式額縁舞台であったとしても−場所性を成立要件としない、むしろTwitter的な「つぶやき=私性」の連鎖で形成される自己組織的ネットワークが、そのまま「劇場」と理解されるような、そうした演劇モデルである。だから、劇場の外縁は具体的な場所にしばられない。それ自体は肯定されるべきものでも否定されるべきものでもなく、一つの時代精神を反映した劇形式である。

※ひとつ留保しておくと、本企画が「劇場」ではない家屋を上演の場所としたことや、岸井戯曲の上演であることでポストインターネット的な相貌を見せたわけではない。例えば、家屋を用いた演劇であっても、そこに演出家の強いイニシアティブ、固定された観客席や、上演だけで完結する時間、表象に奉仕する演技が持ち込まれるならば、観客と上演の関係はシアターと同じように―世界観やメッセージの送受信装置として―機能する。

※また、いま肯定的に語られていることは、ひとつボタンを掛け違うと、自然の「成り行き」のなかに個人を融解させていく「みんな」の増幅装置へと反転する。人格の解体は、いわゆるポストモダン社会における自律性の解体とパラレルであるが、一方で、日本のように「自己」という概念を持たない文化圏では、単に「構築なき構築」という制度的閉鎖性を再生産するにすぎないとも言える。しかし、本企画が「なるようになる」を動力にする文化的自閉性に回収されないのは、個々の断片の強度と、各上演主体がなんら協働せずに勝手にやってる「孤立性」を要件とした接続であったからだ。上演と上演はあくまでも切れていて、そこを「渡り歩く」経験が「記憶の接続=コミュニティ」を生んでいく。

3、個別作品レビュー

 もうかなり長くなってるけれど、上演について個別にコメントしてみたい。
 (『メイド喫茶の条件』だけ、思い入れあってちょっと長くなってます。) 

①『メイド喫茶の条件』
演出:向坂達也
出演:肥後橋輝彦、山下ダニエル弘之、向坂達也、他

 戯曲は、ハンナ・アレント『人間の条件』を下敷きにして、「メイド喫茶」について考察する論考である。向坂達也が演出・出演。4人の男がコーヒーを沸かしながら雑談をする。彼らは最後に(向坂をのぞき)「メイド役の〇〇です」と名乗りを上げるのだから、彼らはメイドとしてコーヒーを沸かしていたのだろう。
 ところで、僕は大学時代、京都に住んでいた。向坂は大学時代の先輩に当たる。僕の通っていた立命館大学には月光斜・西一風・立命芸術劇場の三つの劇団が存在していて、僕は結局、西一風に入ったのだけれど、学生劇団を周って最初に入団の説明を受けたのは月光斜で、そこで僕を迎えたのが向坂だった。
 ということを僕は上演の最中、思い出さずにはいられなかった。そのとき、僕を迎えて何か下ネタ言ってシニカルにふざけていたこの先輩の姿が鮮明に脳裏に浮かぶ。もちろん6年ぶりくらいに顔を合わせたという事情もありつつ、大学卒業後に―東京の僕の知り合いは誰も知らないに違いない―京都ロマンポップを旗揚げしたものの、いまは解散公演をなぜか何度も繰り返しているこの先輩が、あのシニカルに「演劇なんて」と言いながらなぜか白塗りになりポップでドラマティックな、ぼくの目からは80年代小劇場演劇の延長線上で「小さな商業演劇」としか言いようのない上演をしていた彼が、コーヒーを沸かして雑談するさまを「上演」している!
 正直言って、僕はこうしたときに、演劇の力を感じる。彼らの話す内容はサイコパス診断がどうたら、コンビニのバイトがどうたら、「いる」だけで別に誰がやってもおんなじ仕事のことだとか、ローソンでの年末年始の時給が前の年までは500円増しだったのに、今年は1.2倍と言われて全く腹が立ったというような、そうしたくだらなくも、あえて言えば「悲惨な現実」である。
 『メイド喫茶の条件』はコスプレ、そしてメイドカフェが彼らの心から愛している「世界」を永続的なものとして製作・維持する場であり、私のユニークな正体が相互に現れ合う「活動」が仮設されていく場であるといった内容を持つ。しかし、彼らは心から愛する「演劇」という世界製作の場を明らかに奪われている。これは抗議に値する内容だ。彼らはそもそも「演劇」という手段を用いて経済に還元されない「私自身」のユニークな生の意味を明らかにしようとしていたはずだ。代替可能な労働力の交換価値に還元されていく「剥き出しの生」の悲惨な現実に対抗する手段が演劇だったはずだ。しかし実際には演劇活動が彼らを「悲惨な現実」の真っ只中に落とす。この矛盾に人は抗議せねばならない。しかし、誰に? 誰に抗議するのか? 資本主義に? そんなバカな。革命を起こせというのだろうか? わからないから、コーヒーを沸かす「場」を彼らはとにかく仮説せざるを得ない。
 ところで先日、京都の小劇場文化を長らく支えてきた「アトリエ劇研」の閉鎖が決まった。それが「良い」ことか、「悪い」ことかと聞かれれば当然「悪い」ことだったのだけれど、劇場を喪失することでジプシーを余儀なくされたものたちは−喫茶店を多数擁する京都文化のシンボルである−コーヒーを沸かす。あたかも「京都小劇場」が耐久性のある世界を構築すること叶わず残った「悲惨な現実」の廃墟から、「現れの場」のバラックを仮設するかのように。
 最後の「○○です」と名乗る時間が喩えようもなく美しいのは、劇場を喪失したことで逆にむき出しになった「私」の確かな存在を感じ取れるからだ。しかし、以前の「京都ロマンポップ」から僕はそんなもの感じたことはなかった(『沢先生』を別にして)。でも、ここにはそれがある。なぜなのか。
 だから、もしかしたら「小劇場演劇」という制度それ自体が、この確かな「私」、裏返せば他の誰とも似ていない「他者」の現れを隠蔽していたのかもしれない。より悪いことには、それを隠蔽しているということをも隠蔽しながら、つまりは、ただ小劇場を永らえさせるための小劇場を運営してきたのかもしれない。
 しかし「劇」は「劇場」からはじまるのではない。この名乗りから、「小さな宣誓」からはじまるのだ。この事実からはじめなければ、どんな劇場だって骨抜きにされてしまうことを忘れてはならない。『メイド喫茶の条件』に対して「京都小劇場の条件」を逆説的に生きることで応答した彼らの「活動」を、無視することはできない。

②『本当に大事なことはあなたの目の前でおこらない』
演出:繁澤邦明(うんなま)
出演:秋桜天丸、繁澤邦明(うんなま)

「見えないものは何もない」といった風情。部屋の角でノートパソコンを両手に持ち、画面にはその俳優のものであろう赤ん坊のころから成長して大人になるまでのスライドショーが淡々と流れる、というだけの上演である。①で盗み聞きしていた観客は、②では堂々とジロジロと彼を見る。確かに、コピー用紙に書かれた戯曲の文字がすべて壁に張ってあり、俳優の身体があり、そして俳優の過去=記憶がひとかけらの曖昧さもなくスクリーンに映し出されている。すべてが見えているのに、何を見ているのか、さっぱりわからない。ということ自体が「本当に大事なことはあなたの目の前で起こらない」をリテラルに遂行していた。

 しかし、こうして自律した「戯曲断片」の上演は無垢のままではいられない。断片のオープエンドな性質は、他の断片との関係を欲望する。現実にあふれる諸要素を、無数のシグナル=虚構に変えて受信してしまう。実際、昼間の上演では工事をしている隣の家の騒音が絶え間なく響き、赤ん坊の”観客”が泣き声をあげて、「戯曲断片」にフラジャイルな影響を与えていた。そして僕たちは、「見えないものは何もない、しかし世界に息づく誕生と死は(ここ)にある」と錯覚するのである。

③『ふるまいのアーキビスツ』
演出:和田ながら
出演:長洲仁美

俳優を「ふるまいをアーカイブするアーキビスト」と捉える戯曲。戯曲的には「ふるまい」の意義・状況の継承を目的とした俳優像の提示が記述されているが、和田・長洲はそこから「喫煙」のふるまいを観客にプレゼンテーションした。

 俳優は「未来人」のような設定を持ち、未来で「喫煙」がなくなったあとに、喫煙がどういうものであったのかを観客に伝承する。しかしそれも設定なので、観客はむしろ現在形における「喫煙」が置かれた政治的位置を意識することになったようにも思う。しかしここで重要に思われるのは長洲がそのふるまいを遂行することで、むしろそのふるまいの「意味」を学び取る時間を生きていたことだ。「演劇」は劇場の物理的・制度的な圏域に囲い込まれると、どうしても舞台の側に「正解」というか「出力の結果」があり、観客はそれを受け取るという構造を持つようにイメージされてしまうものだが、ここでは長洲自身が自身のふるまいによってふるまいの意味を学ぶ観客なのだ。長洲も、そのふるまいを見るものも、同様に「共同性」へとアクセスする観客である。ふるまいによって一時的に起こる共同性こそが、俳優がアーキビストであること固有の意義なのだ。 

④『東京の条件』
出演:住吉山実里

 「人が集まると場所ができる。人がいなくなれば、その場はなくなる。」の一文ではじまる『東京の条件』(抜粋)。住吉山の上演は「人が集まる場所」を作りつつ、集まることの意味を問うものだった。上演は次の手順で行われる。
 ①ではコーヒーを沸かすために使われたケトルが、④では湯たんぽにお湯を入れるために使われる。それから、湯たんぽを床の間に起き、おもむろに、かるた大会がはじまった。かるたをすべて取り終わると、参加者には湯たんぽがわたされる。湯たんぽを持った人の隣りに座っている人が、かるたの頭文字からとって、ことばをかける。例えば「は」だったら「はっきりした眼をしてますね」とか。それで、取ったかるたから連想したことばをすべてかけ終わると、ことばをかけられた人は湯たんぽを次の人にわたす。以下同様である。最後には、湯たんぽに入ったお湯をコップに入れなおし、住吉山が飲み干す。
 これが⑥と並んで、最も明確にオーソドックスな「上演」形式とは異なる観客参加型の「上演」であった。本作がただの「かるた大会」に終わらないのは、湯たんぽに湯を入れる→参加者でそれをまわして言葉をかける→湯たんぽの湯を(コップに入れて)飲みほすといった形式性が、上演の時間を一つの「儀式」へと変換するためだ。かるたを媒介にしてつかの間の「かるた共同体」ができる。そして、湯たんぽに蓄積された「言霊」=「お湯」を飲み干す。飲み干されたのは、もちろん「お湯」なのだが、①において蓄積された「悲惨な現実」も含みこみ、参加者の「穢」を浄化するかのようにも感じられるのである。

⑤『文(かきことば)』
構成・演出・振付・出演:古川友紀

 本作は、ぼくにとってはちょっと難しかった。戯曲は次の三行からなる。

日本語は漢字カナ混じり文であるなど、書き方においてまずその特徴を考えることができる。
だからか、日本語の伝統劇は主に文章語でなされてきた。
ならば、現代日本語演劇を作るにあたり、口語より文章語を劇とする方法を考えることが必要ではないか。

 古川は、三行の文節に応じて上演を三段階に構成した、という。最初は文節を極端に区切った発語からはじまり、カルタをとるような身振り、それから踊り……と、ぼくには本作を上手く切り取る言葉がない。申し訳ない。

⑥『演劇は面白いものです』
演出・構成・出演:伊藤拓

「演劇は面白い物です。とっても。」の一文からはじまる戯曲。これに伊藤は、ワールドカフェ形式のワークショップで応答した。France_panの活動休止後、伊藤はそれこそ迷い込むように「演劇」との微妙な距離感を保ちながら活動を続けているのだが、本作には、伊藤の演劇に対する戸惑いと信頼が直接的に反響しているようであった。

 机に用意された冊子を「演劇」の掛声とともに開封しながら、観客(?)は「演劇を面白いと思いますか?」といった問いに答えていく。最後に、同席した3〜4人と感想を言い合う。最後に、伊藤が「演劇は面白い物です〜不幸で暗い時代においてこそ、演劇は輝きをますでしょう。今までもそうでした。人類は、何もかも失っても演劇をもっています。最後の日まで」と、戯曲を朗読する。
 これは、本来であれば、①〜⑤を思い返しながら「演劇」について思考する時間になったのかもしれないが、①〜⑤が「演劇」というよりは「演劇未満」の断片であったからなのか、そんなことは頭をよぎることもなく、ぼくの参加したテーブルでは「問いが曖昧でわかりにくい」という感想を言い合って、終わった(笑)。とにかく最後の朗読もそうなのだが、伊藤はある種の「茶化し」ともいえるユーモアが何をやっても付随してくる。例えば、参加者が冊子の問に答えているあいだ、なぜか伊藤は−朗読に備えて−準備体操と発声練習を小声でしていたりする。しかも、ほとんどの参加者は気付いていない。なんとも可笑しい。
 しかし、伊藤は、France_pan名義で最後の作品である『ありきたりな生活』(2010)から俳優への「インタビュー」を再構成してプライベートな体験を公共化する試みを続けており、本作はそうした系譜のアップデート版とみることもできるだろう。数年前に「ボンバックス」という木を育てることを「演劇」と関係させて語っていた伊藤は、それこそ「普通に演劇をする」ことの普通でなさに、もしかしたらずっと戸惑っているのかもしれない。ボンバックスを育てるように、人生の記憶が演劇になる。そういう瞬間を目指しているのかもしれない。

 

筆:渋革まろん