飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

係留地としての劇場/「演劇のデザイン」を書き留める

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飛田ニケ+瀧腰教寛『「むなしさ」の実演販売』

「演劇のデザイン」
日時:2018年4月28日(日)
場所:北千住BUoY
企画:村社裕太朗
インスペクター:村社裕太朗・内野儀

sinbunka.com

係留地

ヨットで島巡りをしていて困るのが、船の係留場所探しだ。
瀬戸内海は所によって、潮の干満差が3mにもなる。
岸壁に横付けして寝て、目が覚めて甲板に出ると、前夜またいで渡った岸壁が、頭上に聳えて見える事がある。
ひどいときには、潮が引いて海底にヨットのキールがつかえ、身動きできなくなる。
下手をすると、船体が横転、浸水して沈没事故になる。
幸い御手洗港では、港湾事務所の人が親切で、大長浜桟橋に帰港した連絡船の隙間を見つけ、われわれを係留させてくれた。
干満の心配がなければ、見張りもいらない。
全員が、桟橋のそばの小さなホテルで風呂に入り、酒と食事で夜の更けるのも忘れた。

http://www.fmkagawa.co.jp/yomu/shikoku/shikoku93.htm

 「演劇のデザイン」は新聞家の村社裕太朗が企画した30分程度の上演と1時間(!)ほどの(観客とアーティストによる)意見会を交互に行う演劇コンペティションで、3団体・個人が参加した。一組目は小林毅大『ディスプレイには埃がたまっている』、二組目に飛田ニケ+瀧腰教寛『「むなしさ」の実演販売』、三組目がキュイ『あなたが墓場まで持っていこうとしている出来事をわたしに教えてください』。個性豊かなどという言い回しでは全く追いつかないほどにバラバラな上演形態へのアプローチを仕掛ける三作品が揃うさまは、なんともはや痛快だった。
 ところで冒頭の引用は本企画とは全く関係がない。しかし、このFM香川のHPから拾ってきた一節が「演劇のデザイン」の試みをよくイメージさせてくれる。つまり船が破損・転覆する危険のある海で一時的な波止場となる「係留地」としての劇場である。この係留地に繋ぎ止められた3つの上演について簡単なレビューを寄せてみたい。

A.小林毅大『ディスプレイには埃がたまっている』

 小林は沖縄で米軍ヘリが小学校の校庭に「窓」を落下させた事件にインスパイアされて『ディスプレイには埃がたまっている』を創ったという。小林を含めた俳優の三人(小山哲央・末摘花)は終始BUoYの床に仰向けに寝転がり上空を見上げて断片的なニュース情報を交えながら誰に言うでもなく空中へ言葉を投げていく。それはコミュニケーションのために使われる言葉でもなく、モノローグ的な語り/騙りというのでもない。ときおり「周波数を合わせてください」と言われるように、受信された電波によって勝手に「鳴る」みたいな発話だ(少なくともそうした発話が目指されているように見える)。俳優同士の日常会話的なコミュニケーションや「〜君」「はい」という呼び掛けのシークエンスがコラージュ的に配置されていくので完全にそうであるとは言えないが、しかしやはりある意味では三つの無線ラジオから聞こえてくるニュースに耳を澄ませるような体験が構成されていく。
 注目すべきは沖縄・ヘリ・飛行機などなど聞こえてくるワードから飛行機と事故にまつわるいくつかの連想―9.11同時多発テロ日航機墜落事故オスプレイ問題―が派生していき、そこから彼らの身体が落下してぺしゃんこになった三つの死体であり同時に水平的なコミュニケーションによって成立する社会から落ちこぼれた有象無象であるとする想像力が喚起される点にある。自らの身体が具体的なモノ=死体であることと対話による合意形成がなされる「広場」に参与できないモノ=動物であることを重ねてみる視野が開けるわけで、それが非常にユニークだと僕には思えた。いかにして対話不能な「死体」の〈語〉を経験する場を設計することができるか? そうした問いの可能性が本作には胚胎しているのである。

B.キュイ『あなたが墓場まで持っていこうとしている出来事をわたしに教えてください』

 キュイの上演はそのタイトル通りに俳優から聞き取りした「墓場まで持っていこうとしている出来事」を劇作家の綾門優季が戯曲に書き起こして、それを演出家の橋本清(ブルーノプロデュース主宰)が演出した。四方客席の囲み舞台で、二人出てきた俳優は互いに目を合わすこともなく並置される。一方が父親についての記憶を語ったと思うと、他方はイヤホンを装着して相手方へのインタビューが録音されているであろうレコーダーを聞き模倣するなどしていくなかで、プライベートな記憶の共有可能性/不可能性が主題化されていく。
 キュイは綾門の主催するユニットだが、俳優のインタビューから作品創作をするというのは橋本が従来から行っている方法ということで、僕としては、綾門が意見会で語っていた「いかに観客を傷つけるか」という問題意識と上演の齟齬感が目立ったように思われた。なぜならプライベートなナラティブが綾門戯曲に特徴的な「これは演劇なんですよ」というメタ的身ぶりとともに語られると、語られていること以上の「わかってほしい」がパフォーマンスされてしまい「自意識過剰」の側面が際立ってしまうからだ。語られている内容が「事実である」かどうかは、こと上演のレベルではわかることがない―だから直接話法のナラティブが複数化することから語りの主体を不明化する方法も可能である―のだから観客からすれば「どちらでもかまわない」わけだ。つまり「事実性」(と理解されるナラティブ)が可能になるのはあくまでも演技の形式に依拠しているわけで、戯曲のレベルで演じていることが強調されればされるほど、上演における「現前性」と本当にあったことの「ドキュメント性」という「事実性」の二つの位相は解離していき、結果的に観念的なドキュメント性というわけのわからない地点に着地してしまう。
 この「文句」からもわかるように、僕自身の本作に対する「評価」は決して高くないが、しかしその一方で「実は演劇である」ことを先取りして上演に繰り込んでいくメタ化の自転車操業それ自体に綾門という作家固有のリアリティがあるようにも思う。そのリアリティとは私に固有の〈現実〉の喪失である。例えば綾門は『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』において、何度殺されても「夢から覚めても夢から覚めても夢から……」から抜け出せないループ構造をプレゼンテーションすることで〈現実〉の表象不可能性を露呈させた。裏返せば、固有の〈現実〉を担保する固有の〈死〉が常にすでに私とは無関係な非人称化された無名の「死」に置き換えられてしまうことへの不安、いわばブランショ的「死の空間」に対する鋭敏な感覚を綾門戯曲は分かち持っている。しかし、これはあくまでも推測であるが、演出の橋本は共訳不可能な固有の〈死〉というよりは、プライベートな経験が演劇を媒介にすることで集団的な記憶へと共在化される地平を目指しているように思えるので、そこには根本的な対立関係が孕まれている。果たして、来年1月にアップデートされて上演されるという本作が二人の緊張関係からどのような展開を見せるのか、いまから楽しみと言うにやぶさかではない。

C.飛田ニケ+瀧腰教寛『「むなしさ」の実演販売』

 小林・キュイの二作がひとまずは「演劇である」とカテゴライズすることができるのに対して、飛田ニケ+瀧腰教寛『「むなしさ」の実演販売』は、演劇ともパフォーマンスともつかない、村川拓也の『ツァイトゲーバー』や小嶋一郎の『No Pushing』への親近性を感じさせる「リテラルな遂行」によって生じる出来事の時間が生じるがままにただ提示される。仮に、あるいはあえて「ポスト・チェルフィッチュ」という言辞を使うのであれば、彼らの上演にそれはふさわしいと言えるかも知れない。チェルフィッチュは役を演じることに従属していた〈身ぶり〉を解放して代理=表象しえない役未満―主体未満―を無数の〈身ぶり〉の遂行から逆に生起させていった。それによって演劇は日常の無意識に介入して認識の転換を起こす演劇版の「4分33秒」を手に入れたとも言える。すでにいつも音は聞こえていてそれが音楽になりうるように、すでにいつも〈身ぶり〉は起こっていてそれは演技になりうる。しかしだとするならば、時空間に対しても同じことが言えるのではないか。つまり、すでにいつも〈現実〉は起こっていてそれは演劇になりうると。
 上演の概要を簡単に説明しよう。カメラマンとして自己紹介する「俳優の」瀧腰は「演劇を写真に撮ることはできるのか?」ということに悩んでいる、飛田と二人で会話してみるからそれを手持ちのスマホで撮ってみてほしいと言う。ピーターブルックの『なにもない空間』におけるモダンな演劇の定義が正当であり「見られる」ことで演劇が成立するなら、「見る―見られる」関係を設定して写真を撮れば「演劇」が撮影できるはずだからだ。しかし、二人で会話しているところを見る=撮影するだけだと、それが演劇であるのか現実であるのかは判断がつかない。それは「演劇の」写真ではない。だから、観客と俳優が同時に写り込んでいる写真を撮れれば「演劇の写真」と言えるんじゃないかと提案したのち、おもむろにとりだした「写ルンです」を観客に向けて「いいね〜」などと声かけしながら瀧腰が観客を激写しはじめる。最終的に、カメラで撮られた「演劇」の「作品」(演劇作品ではない)はオークション形式で競売にかけられ、見事とあるダンス批評家の方が1520円で落札するにいたった。
 このレクチャーパフォーマンス的でありながらおよそ「メッセージ」に値するものが見当たらないイベントが、しかしすぐれてロジカルに構造化されていることに誰もが気づくだろう。ここではまず「演劇は表象されない」ということが「演劇は写らない」ということで示され、さらに「観客を撮影する」ということで観客と俳優の存在論的な身分が等価なものであることが示され、さらに「演劇が収められたフィルムを販売する」ということで〈いま・ここ〉に現前する時間が脱臼させられる。つまり、彼らは写真に写し出されないものに注意を促し(表象の不可能性)、瀧腰がファインダー越しにのぞく〈現実〉を〈演劇〉の内部に取り込み(認識の転換)、商品化され得ない一回的な〈現実〉を商品化する(〈現実〉の脱現実化)。この3つのステップを踏むことで、単にそこに全く無意味に〈現実〉が起こっていることを観客と「シェア」しようとするのである。
 だから上演ではドラマへの共感が促されるわけでも、身体を媒介にして多様な歴史的イメージが立ち上がるわけでも、あるいは日常の微視的な関係性への気づきがもたらされるわけでもない。ここでは字義通りなにも起こってはいないがすでにいつも存在しているほかない、これが夢であろうが悪霊に騙されていようがあるとしか言いようのないデカルト的懐疑ののちに発見される〈現実〉という出来事が指示されている。そして、飛田はその〈現実〉そのものを「むなしさ」と呼ぶのだ。チェルフィッチュの『三月の5日間』が上演された後にはしばしば「帰り道で見かけた人がまるでチェルフィッチュの俳優のように見えた」という感想が聞かれたが、本作が上演された後には「現実がまるで〈現実〉のようにむなしい」という全く自明なつぶやきを聞くことができるだろう。



 結局、第一席を決めるはずの「コンペ」である「演劇のデザイン」は第一席が決められない(「なし」ではなく)とする「驚き」の結末を迎えた。「演劇のデザイン」というタイトルがゆえか、上演された3作品は「よさ」の基準そのものを違えているのだからその結論もむべなるかなというところだが、逆に言えば、まさにその「よさ」を再設定/再設計する試行錯誤を「演劇のデザイン」と呼ぶのだろうから。
 ところで、本企画が開催された(そしてこれからもされる)ことにどのような意義があるだろうか? 別に意義なんてなくてもちろんかまわないのだが、村社がいささかの留保付きでありながらも具体的な「かたち」を中心においた「『異なるケースの発見』と『複数の回答』が待たれるような『場』」を通じた教育の必要性を説くコンセプトには、やはり何らかの企てと期待を読み取れる。少なくとも、ネーションへの自生的な同調圧力―お前は国民か―を喚起し続けるネトウヨ的・サヨク的排外主義の対極にある「あーでもないこーでもない」をウダウダと思考し続けることをとりあえずやめないための係留所として、あの場があったことは疑い得ない。これを対話的な公共圏を開く試みであると言えないこともないが、そもそも一方では小劇場サーキットをサヴァイブし続けることへの倦怠感が、もう一方では具体的な対話の積み重ねがパブリックな意思決定に跳躍することへの信じられなさがこの時代のポスト・トゥルース的局面であるとするならば、私たちは〈いま・ここ〉に集い語り合うことへの原動力を持ち得ない時代にいる。しかしだからこそ村社がいう「断定し得ぬ具体」への係留をとりあえずやめないこと、つながりつつ/つながらないことを可能にする時間を具体的に放下しておくことは、それでも可能な演劇の場を思考/試行するための試金石になりうるだろう。これを、多様性の観念を無批判に受け入れるのでもその反動から疑似的ナショナリズムに回帰するのでもない、事実的な「多数性の場」からなる公共圏の仮設と言ってもいいかもしれない。
 とにもかくにも本企画の意義ということを言うなら、やはり「語らい続ける」ことの愉しみを確かにもたらしてくれたことにある。それは端的な愉悦であり、そうした場が生まれたことを僕は素直に歓びたい。

 

筆:渋革まろん