飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション討論会のための私的整理

チェルフィッチュ伝統芸能化/谷頭さん・イトウモさん・なかむらさん

chelfitsch20th.net


チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション討論会に備えて、みんなの論考を読んでいったことへのリアクションをまとめてみます。

ただ、どうしても全員触れることができなかったので、その点、すみません。また、完全にぼくの視点を貫徹してますので、各レビュアーが、ここで書かれていることを意図して書いているいるわけではない(はず)です。あと、誰が正しいのかゲームを興じるつもりもないです。という前置きから、まず、谷頭さんの論考
の次の一文が気になりました。

それはチェルフィッチュという演劇の「型」を継承することではないか。

 谷頭さんの本意でないかもしれませんが、この視点は、ぼくからすると、ずいぶん普通の演劇になりましたね、芸能ですね、前衛としての、出来事としてのチェルフィッチュは完全に終わったんですね、これからは型を再生産して保守化していくんですねって、引導渡してるように読めます。実際、片面で、本作がそう見える可能性は否定できない。

 
確かに(テクスト自体がノイジーではなくなってるから)俳優がかなり意識的に出力しないと身振りと発話が一致していく傾向があって、身振りが単にテクストが表象する2003年の若者、あるいは「チェルフィッチュ的」であることそれ自体のメタ表象の説明=注釈(チェルフィッチュってこんな感じ!)に還元されていくところがある。それは予定調和に観客が期待する「チェルフィッチュ」であることが予め決められている=型になっている、と確かに言えます。だから、型を憑依(というか先生のお手本を真似る)させることで時間を超えて「三月の5日間」の記憶は伝承される。
 
そういう風に見るなら、2003年の再現前を通じて、「イラク戦争を知る/知らない」世代間の分断を可視化することが、本作の組織した劇体験だった、ということになる。
 
ここでポイントに思えるのは、谷頭さんのパースペクティブでは、「過去は実体的に存在し、揺らぐことがない」とする時間理解が前提にあることです。というか、本作の劇体験がそうした観点を強いている(ということになる)。つまり、アングラ世代が徹底的に批判し、90年代静かな演劇で復権したリアリズムの時間、過去から未来へとリニアに流れる一義的時間が前提になっている。
 
「戯曲は共同体の法典に姿を帰る(ママ)」として、本作に共同体が産声をあげる幼年期を見て取るイトウモさんの論考も―字幕と上演の比較から読むという全く感嘆させられる分析があるとは言え―基本的にはテクストが「神話化」する過程を読み取ったのだと思う。
 
「オリジナル作品が求めたであろう2003年の若者たちのリアルは2017年の若者たちの中にはもはや存在しません」とするなかむらさんの「過去」と「現在」を自立したものとして二分して、その差異に「現在」を表象する視点も同じ前提を共有しているように思えます。
 
それで、この揺るがないようにみえる「過去の実在性」を、しかしチェルフィッチュは「現在」と重ね合わせることで問い直した=出来事したのだ、というのが伏見さんの論考だと思う。
 

ノームコアの運動から〈普通=現在〉の問い直し/伏見さん

上演を観ているとき、私は「まるで『三月の5日間』の夢を見ているようだ」

伏見さんは、2003年の「普通」を2017年から読み替えるノームコア的な接続=違和感の相互作用が、白昼夢を見る体験をもたらした、と言う。ここでは、「現在」と「過去」が「普通さ」の審級から重ね合わされ、過去の「あの時間は一体なんだった」のかという問いが喚起される。
 
なるほど、と思う。(伏見さんが指示する)ノームコアの運動は「再演」の意義深さを教えてくれるからだ。というのは単に劇作家が過去から取り出してきた教訓を観客に伝える教条主義でも、あの頃はこうだった式のノスタルジーへの没入でもなく、いわば現在と過去をぶつけ合い「普通」であることを問い直す遭遇の場が「リクリエーション」という出来事だからだ。
 
そこで一点、疑問に思うのは、リクリエーションの身振りは、そんなに普通だったっけ? ということです。確かにオリジナル版の身振りはナチュラリズムの延長線上で、「ナチュナルなもの」を「ノイジーなもの」に変換する操作をしていたと思います。それは言うなら「僕たちが普段、意識している普通さ=ナチュラルイメージ」が、実は無意識下に沈殿しているノイジーな記憶痕跡の集積である、といったように「普通=意識」を「普通=無意識」に再解釈した。
 
ところが、リクリエーションで発動された身振りは、ナチュラルな身振りのノイズ化というよりも、明らかにナチュラリズムではない「普通さ」を逸した異常な身振りではなかったでしょうか。もしその異常さが、現在時のノームコアであるとすれば、これは何を意味するのか。ぼくにもわからないのですが、そこに本作の謎があると思うのです。
 

タテの記憶とヨコの記憶/太田さん

本作が「だれかの夢をみなおすための装置」でると言う太田さんもまた、伏見さんとは別の角度から本作に夢の輪郭を感じ取っている。太田さんの論考によれば、一人の俳優に複数の役=身体が書き込まれて生じる「集積する主体」に驚きを覚えるオリジナル版に対して、一人の登場人物の身体が複数の俳優に分散し偏在していることに、リクリエイテッド版の驚きがあるという。一つの記憶を複数の俳優で共有し反復して奏でていくことは、私たちが記憶を辿る時の曖昧さに似ていて、そうすることで夢を夢の曖昧さのままに想起することが可能になっている。
 
つまり目を覚ましながら見る白昼夢の体験で、伏見さんは2003年と2017年の「普通=無意識」が折り重なるところに「白昼夢」を見たけれど、太田さんは一つの記憶が複数の俳優に分散偏在して反復されるところに「白昼夢」を見る。全く私的な観点からまとめると、リクリエイテッド版は伏見的「タテの記憶」と太田的「ヨコの記憶」の交差点に立ち上がる「覚めながら見る夢=白昼夢」だとなる。その意味で、本作はまさに「人間と記憶のスクランブル交差点なのだ」というと、あまりにも出来すぎていますね(笑)。 
 

消えない過去からのまなざしを板橋・朝倉に見て取る/寺門さん

しかし、集積から分散へといたる身体のあり方は、「いま・ここ」に現前するアクチュアリティの希薄化につながることを感知したのが、寺門さんの論考ではないでしょうか。これは重要な指摘だと思います。僕としては、それによって、本作が極めて退屈で間延びした観劇体験をもたらす可能性を否定できなくなるからです。
 
そこで、寺門さんは逆に「過剰さ」を感知させた朝倉(ミッフィーちゃん)・板橋の演技にフォーカスしたのだと思います。
 
「集積身体」の過剰さは、私見では「わたしは〜と思う」といった意識主体を俳優にインストールすることが「演技だ」とするリアリズムの方法を、ちょうど反転させて「思ったのは、これ・それ・あれ……」と発話/身振りするたびごとに主体が生成していく記憶痕跡のバラバラな集まりとしたこと、さらにそれが俳優に作用するテクストのプラクティスとして、あらかじめ書き込まれていたことに起因しています。
 
その意味で、寺門さんが「彼女の溢れ出す言葉と身振りは、その過去に対する上書きだ」と指摘するように、内面化されたアズマのまなざし―「過去からのまなざし」―は消えることなく、モノローグを語るミッフィーの身振りに伝染しているという洞察は、タテとヨコに展開される白昼夢の交差点には、私たちに内在する「過去からのまなざし」、あるいは「過去からの呼び声」が響いているのだということを想像させます。
 
特に寺門さんの視座を持てば、「デモ隊」に対して起こる朝倉の「怒り」が、実は「デモ隊」に対するものであると同時に、デモを排除しようとする自分自身への「怒り」を内包させる両義性を持っているように見えてくる。2017年の「まなざし」で、2003年の「まなざし」を上書きしようとするかのような。
 

希薄だから退屈でつまらない

しかし、「希薄さ」の問題は残り続けます。端的に言って、ノイジーなテクストの作用で俳優の身体を宙吊りにすることが、「いま」に刻み目を入れ、「マテリアル」あるいは「オブジェ的」と言えばいいのか、そういう「時間がそこにあることそのものの質感」をもたらし、独特のアクチュアリティを生じさせていた。オリジナル版が、たとえ焦点の合わない若者の語りであっても観客の集中力を維持しえていたのは、そのためです。
 
ちなみに、これは明確に平田オリザが現代口語演劇を成立させるために編み出したテクストの時間と劇場に流れる物理的な時間を一致させる上演の方法を引き継ぐものです。(だから逆に80年代小劇場の特徴は俳優の意識の流れとテクストの流れと物理的な時間の流れを完全に一致させるところから、〈現実〉を切断して、ロマン主義的な祝祭性を生じさせていたと言える。平田が独我論的と言って批判したのは、この一致の問題であって、実は内面のあるなしの問題じゃなかったと思う。そんな内面が、はじめから「実体」としてないのは当たり前だし、むしろ仮構されたこともなかったというのが、内野儀の「J演劇」という概念が意味することだ。)
 
ところがリクリエーションは、俳優の身体をテクストの作用で宙吊りにする戦略を持ちません。そこで、本作に対する観客の態度は二分されるかもしれなくて、宙吊りされないということは、アクチュアルな時間が観客の意識を「触発」していくことで成立する時間がないということだから、残るのはテクストの時間だけです。
 
しかもそれは、「伝聞形式」を基本とした語りの演劇であるわけで、ともすれば、単に若者っぽい人たちの「朗読」を聞くことと変わらなくなりますから、「退屈でつまらない」という感想が出てくるのは全くありうるし、そう思った観客もいると思う。
 

希薄さはネット以後のコミュニケーションを意味する/小川さん

だが、そうではない、と。そういう「現代の若者」を演技態に読む視座をはねつけて、何らかの形で「過去/記憶」と「いま・ここ」の関係を問う議論を伏見・太田・寺門は展開する。しかし、そこに「アップデートされた現代の若者のコミュニケーション」を率直に見て取るのが、小川さんの論考だと思う。
 
そこで、多分に刺激的であるのは、この「希薄さ」が、インターネット以後のコミュニケーション様式を反映した「ポスト・インターネット演劇」を意味しているとする視点だと思います。僕なりに小川さんの議論を敷衍すると、現代のコミュニケーション様式は直接的に相手と言葉を交わす対面コミュケーションと、SNS等のネットメディアを介してテレパシーを使うようにモノローグしあうテレ・コミュケーションに二分化されているが、物心ついたときからネット環境が当たり前だった2017年の若者はコミュケーションの二重性をとても自然に処理している。
 
たとえば、7場でユッキー(7A/7C)とミノベ(7B/7D)にそれぞれ俳優二人(計4人)が分裂するのは、モノローグ(ネットのカキコ)とダイアローグ(実際の対話)がもつれ合いながら錯綜していく「二重化されたコミュニケーション」である。ネット以前の視点からすれば不自然に思えるダイアローグとテレパシーの錯綜は、ネット以後のメディア論的リアリティからすれば全く自然であり、リクリエーションはまさにその「自然さ」をアップデートされた若者のコミュニケーションとして提示している。
 
その洞察には深く肯首するのですが、僕の立場としては―伏見さんらとも異なるのだけれど―やはり「アップデートされた若者」の現前よりも、「ヴァーチャルな過去」を幻視させる実験性に本作のコアがあると見ます。その理由は後述しますが(あるいはまろん論考を参照いただければと思いますが)、そういうアップデートされたコミュニケーションのあり様を演劇化しているのは、むしろオフィスマウンテン/山縣太一ではないか? とも思うのです。
 

山縣太一とチェルフィッチュの話

 先日観劇した山縣太一の「ワークショップ」という上演は、10人くらいの人びとにあるイメージが伝播・感染するように発現していく無数の身振りを特徴とする上演で、まったくTwitterのようだと感じられました。例えば、ネットメディアのテレコミュニケーションで想定される「人間」は、対面的な「人格」というより、分裂と増殖を繰り返す「粘菌」、あるいはコピーを繰り返しながら突然変異する「ウイルス」に喩えられるように思えます。山縣太一の「ワークショップ」で出現する「人間」もまさにそのようなSNS的増殖性・感染性の結節点(ノード)です。そこでは二人の俳優にコミュニケーションが分裂するような明確な区別はなく、まるで全体で一つの生きものであるかのように無数のイメージが群生していくのです。00年代批評の用語、というか濱野さんの用語を使うと、「オリジナル」を欠いたイメージのN次創作が〈いま・ここ〉に発生し続けるとも言える(渡邉大輔さんの「映像圏」の議論も思い起こされます)。
 
このTwitterのように感染して伝播するテレコニュニケーションのあり様は、オリジナル版『三月の5日間』にすでに埋め込まれていたものだと思います。しかしそこではまだ「テクスト」に従属していた身振りの潜勢力―現前しないが潜在する身振りの可能性―を、「俳優中心主義」を掲げることで解き放っていったのが、山縣太一の実践なんだと、今のところ思います。その視座からすると、二元的に「ダイアローグ/テレパシー」を振り分ける岡田利規のポスト・インターネット・コミュニケーションなんて、全くラディカルなものじゃないと言いたくなるわけです。(小川さんの観点を僕なりに敷衍すると、を条件にですよ) 
 
話を少し戻して、本作の俳優が「弱々しく」見え、そして「軽く」、「希薄化」していることの意味を、ユミソンさんの論考から引き出してみたいと思います。
 

まとめ―ヴァーチャリティへ/ユミソンさん・大山さん

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私たちは全てを知ることはできないし、世界のあちこちで起きていることについて、知識として知ってはいても肉薄をもって語ることができない。何をどれくらい知らないのか、わからない。

このユミソンさんの視座に僕は強くシンパシーを感じ、そしてそれは、特に太田・伏見論考と(これ、僕なりの整理だというのは再度強調しますが)鋭く対立すると思います。また、「ユートピア幻想を求めている」とする結論には違和感を感じるけれど、大山さんの「日常と非日常、戦争と平和、上半身と下半身、内側と外側、前後左右、そして天地といった対極を何度も往復/循環」するという読解は、手法は変わったとしても思想は一貫している岡田利規エートス(倫理)を伺わせます。つまり、「普通で自然な日常」を担保する共同体の内部では隠されているが実は潜在している「他者」を出現させ、それによって「日常/自然/共同性」を書き換えていく、極めて公共的な運動性です(※)。
 
図をつくりました(笑)。見てほしい。図式的に言うと、谷頭さん・イトウモさん・なかむらさんの読解は、「過去を再-意識化する」リアリズムを前提している(一応、注釈しておくと、リアリズム批判でやり玉にあげられるのは、その自然なリアルは誰のリアルなのか? ということで、バルトが言うように「フランス国旗に敬礼する黒人」によって黒人の生活の細部は括弧に入れられフランス帝国性が神話化する。歴史のプロセスは神話の自然なイメージに盗まれてしまい、決して変えられないものとして永遠化する。その意味で、リアリズムは〈現在〉を再生産する記憶の神話化であって現在のアクチュアリティを隠蔽するものである、と理解しています。)
 
伏見さんは「現在時の無意識=普通」を問いなおすドキュメンタリズムを前提している。そして、03年と17年の「普通」が折り重なることで生じる白昼夢(タテの白昼夢)は観客の知覚に顕在化するイメージです。太田さんの視座も同じ場所に位置づけられます。無意識に沈んだ過去=記憶が複数の俳優に分散されることで他人の夢を見るように「曖昧な輪郭をなぞる」体感をもたらす(ヨコの白昼夢)とはいえ、これもまた観客の知覚に顕在化していくことに変わりはない。小川さんは二重化されたコミュニケーションに、アップデートされた若者の現前を見る。
 
しかし、ユミソンさんの「どれくらい知らないのかも、わからない」とする視座は、アクチュアルな現前の外部に潜在している「ヴァーチャリティ」へとまなざしを向けるものではないでしょうか。

他者に見る「知らなさ」の所在はどこにあるのか。それは寛容だ。自分とは違う何か、自分が知り得ない/分かり得ない、「他者/知らなさ」は、知ることを求める代わりに、他者の輪郭をなぞる。……「他者/知らなさ」は、不便だが、自分の世界と同時に知らない世界が存在する可能性を作ることができる。

この「知らない世界が存在する可能性」を、僕は自身の論考で「イメージの潜勢力」と呼んだのだと思います。それは、白昼夢として夢見られることの外部にある「顕在化しない」現実への想像力。想像可能性の想像です。だからここでは、「夢」という比喩は無効なのではないか。「夢」は現実と非現実を分割して、観客席に現実を、舞台の側に非現実=虚構を割り当てるように機能していく(ゆえに非現実である虚構がなぜリアリティを持つのか?という問いそのものが可能になる)。「現実/虚構」のフレーミングを「夢」は再生産しますが、チェルフィッチュから思考される〈現実〉は、夢から覚めてもまた夢、であるような、〈いま・ここ〉に現前する「それ」がどこまでも「リアルに肉薄」してこない、観客もまた夢の世界の一員として―だから8人目の俳優として―そのたびごとに「想像」することでしか汲み上げることのできない記憶のプールなのではないか。

 

〈いま・ここ〉をリアルに肉薄するアクチュアリティの層においてではなく、観客がイマジネーションを働かせるたびに生成していく「ヴァーチャリティ」の層で捉えるまなざしが、リクリエーションを「希薄化」していると仮説立てることが出来るように思います。そして、僕はこの「希薄化」を積極的に支持する、ということです。
 
演劇は「いまここで起こる出来事だ」とはよく言うし、僕もそうだと思うのだけど、そこにはやっぱり罠があって、あたかも顕在化した「いまここ」だけが現実であるようにアクチュアリティを絶対化してしまうという罠で、それは「いまここ」に知覚されない記憶が実はあることを隠蔽してしまう。「知らない」ということの、「他者」の可能性を。そこで隠蔽されたものこそ他者であり、だとすれば他者は現れないという形でしか現れない潜勢態として出現するほかない。これが、リクリエーションで出力された「わたしたち」の共同性を撃つ「潜性する他者」の書き込みだと思われます。
 
最後に、「夢と現実」「虚構と現実」のフレーミングは、むしろスクリーンに投影された「記憶」と関係していく映画的な視覚のパラダイムだと思う。そもそも「虚構/現実」の分割線が極めて曖昧な、というか存在しない、観客もまた俳優の一人であるような「演劇」的な体験の分析に、ある種のミスリードを呼び込むし、劇が組織する「パブリックコモンズ」の運動を、「作品」の完結性に綴じ込んでしまうように思われます。
 
というわけで、ひとまず幾つかの論考に対する僕のリアクション/整理でした。

「健康な街」にイケボが鳴る。そして、石は沈黙している。

新芸術校グループB『健康な街』展 レビュー

 
 まろんです。
 簡単なレビュー、というか思いついたことを置いてみます。
 
 僕にとって一番、応答しやすいと感じられたのは、声と身体の関係を扱った―と僕には見えた―五十嵐さんの『人を尊敬するための装置』。用意されたレコーダーに録音されていたステートメントを読み上げる声が、いわゆるイケボだったからだ。「声」の問題系は、当然、身体の問題系と密接な関係がある。
 現代演劇の祖たるベケットは『ゴドーを待ちながら』で、「待つ」という能動的な受動的行為を提示することから、アクションの連鎖として構築される演劇のドラマトゥルギーに一つの楔を打ち込んだ。それまで名だたる演劇人は誰も「待つ」という受動性が能動的アクションになるとは思ってもみなかった。特にフランス演劇では戯曲の筋を「アクション」と呼び、それが同時に「法廷弁論」を意味しているように、語りの実践―演技―そのものが現実的に効力を及ぼす弁論術の一種だったわけだから、現実への「働きかけ」を持たない「待つ」ことが演技になるとは、常識的に考えてありえないことだった(もちろん、日本文化が育んだ「能楽」の伝統は、その逆に「待つ」ことそれ自体を劇的なものとする方法を磨いていったわけだけれど)。
 ところが、ベケットは「待ち続ける」不動の身体を発見することで、話者の自己同一性を前提した「働きかける発話行為」によって隠蔽されてきた「声」の位相を見出した、言い換えれば話者の自己同一性に亀裂-crack-を入れる「到来する声」の所在を見出したわけで、例えば、69歳となった老人が39歳の自分が吹き込んだメッセージを聴く『クラップの最後のテープ』(1958)ではテープレコーダーを用いて「過去の声」と「現在の身体」を分離・並置させ、現在の自己を脅かす過去の声を具体的に可視化してみせている。ベケットから現代演劇がはじまるとは、彼が「発話」のうちに隠蔽される「声」そのものの所在を徹底的に突き詰めていったからにほかならない。
 20世紀演劇のそういう「声」の転回を念頭に置いたときに、「イケボ」とはなにか? ということをやはり考えてしまうわけです。多分に、この思考のベクトルは「健康な街」を正確に(?)読解する行為とは縁もゆかりもないわけだけれど、僕自身は、そういうエラーが開く思考の回路がなんだか笑えて面白かった。続けよう。
 
 
 「イケボ」の録音機械は、声と身体を分離させる装置として機能するのだとしたら、イケボに対応する身体はどこにあるのか? やはり、ここで目の前に横たわるレントゲン写真を見てしまう。「横たわる肢体は埋葬/棺桶を思わせると同時に、照明の白い発光はダン・フレイヴィンにおけるモダニズムと宗教の遭遇を、そして悲劇的な最期を迎えた化け物にも見える肢体」とみなみしまが的確に描写するそれである。
 ベケット的な「待つ身体」に引きつけて、それでは五十嵐が提示した身体は「肉体」を脱ぐことで健康のリファレンスとして作用する「証明写真」のごとき「露光された身体」、あるいは健康=生の証明が同時に死を焼き付ける「埋葬された身体」であることをアイロニカルに示した身体だと言えるだろうか? 「健康な街」というコンセプトから光を当てれば、こうした読解はそれほど的外れではないだろう。だが、その一方で「イケボ」から光を当てれば、横たわる肢体/死体は「肉体を脱ぐ」身体=健康証明身体というよりは、むしろ「健康な骨を纏う」新しいファッションであるように見えてくるのである。
 どういうことかを言葉にしてみよう。ニコニコ大百科によればイケボとは「まるで容姿がイケメンであるかのような、人を惑わす」とある。確かに、一般的に考えて、イケメンは女性の欲望に準拠した理想的男性像を提示しているわけだけれど、「声」それ自体はイケメン―という属性を持った人間―ではない。イケメン的な「見かけ/シミュラクル」を仮構するバーチャルな声である。例えば、youtubeには「添い寝イケボ」とか「甘シチュボイス」みたいな動画が転がっているわけだけれど、それらは「耳が妊娠した」というコメントに象徴されるエロティックな場面と密接な結びつきを持っている。つまり、イケボはそういうエロティックなシチュエーションを「声」のみによってシミュレートするエミュレーターなのである。だとするならば、イケボは何らかの行為―働きかけ・待つ―の帰属先である実在する身体との関係を持たない、逆に身体そのものを捏造してしまうバーチャル・ボイスである。
 肉体を脱いで「骨」だけになったはずの身体が、あたかも「骨」を纏った新しいファッションであるかのように錯覚されたのは、多分にそういう事情がある。ステートメントを読み上げる「イケボ」が、「脱ぐ」というエロティックなシチュエーションを「纏う」かのような想像力を「骨」へと差し向けたのだ。
 実際、本作はフィルムの上にインクを垂らして「仮構された骨(もどき)」なわけで、そこには物理的に実在する身体の不在が刻印されている。だからそれは自己目的化した健康のための手段に貶められた「管理される身体」=「骨」というよりは、みずからが健康な身体であることをいつも常にシミュレートしていく「シミュラクル身体」=「骨」=「健康な骨」のファッションなのではないか、と思えてくる。 
 だが本作が、「イケボ」=「ヴァーチャル・ボイス」を(作家の意図にかかわらず)扱うことで、露わにされた「骨」の衝撃力を「生」のシミュレーションへとズラしてしまう体制は、それこそいつの間にか私たちを「健康な街」の一員としてしまうアーキテクチャの機制そのものであり、一種の現状追認の身振りを生み出してしまう。
 
 
 そこではむしろ、有地慈『スーパー・プライベート』において霊の依り代たる「磐境」のように転がされた「石」が、「健康な街」に亀裂を生じさせる「不気味さ」の可能性を胚胎しているように思えてならない。即座に思い浮かぶのは、もの派のコンテクストだけれど、それとどのような接続の系をもつのか、僕には―残念ながら―語るべき言葉がない。しかし、少なくともドゥルーズが『消尽したもの』のなかで、「さまざまな声があたかも黙りこむとき、ありふれた沈黙に乗じて、沈黙のうちにイメージはやってくる」といったベケットの第三の言語、潜在するイメージが凝縮された空間―沈黙―の位相を思い起こさせる。この凝縮された沈黙の言語にこそ、複層的な「他者の声」の触媒となる「身体」の所在が潜んでいる。
 別役実ベケット『行ったり来たり』の「黙りましょう」という台詞のうちに、言語的な意味の層をすべてはぎとったあとに顕在化する「異物」的な存在の世界を見て取った。秩序を維持する「健康」のシステム―生政治―に亀裂を入れるのは、掘り起こされた異物的な「石」の記憶をデコードする沈黙の言説であるのかもしれない。
 
 
 「声」と「作品」の関係を問いかける本稿の視点が、ほとんど妄想的な逸脱を孕んでいるのは疑い得ないにせよ、「演劇」における「声」の問題系を無視しえない僕の立場からは、やはり大きな―そして最も本質的な―問題であり、「健康な街」の二作品は、現代演劇における「声」と「身体」の関係を問い直す示唆―あるいは思いつき―をもたらしてくれるものだった。
  そして、この思いつきのおしゃべりが―9日目に―スクラップされた街の廃墟で何かしらの「囁き声」をエコーさせていると想像すると、なんとなしに楽しい。

トーキョー小劇場ではない、なにか。/演劇活性化団体uni『食べてしまいたいほど』

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www.uni-theatre.com

 

 『食べてしまいたいほど』は、練馬区を拠点にする演劇活性化団体uniが地域リサーチをもとにして演劇製作をおこなう「ちょいとそこまでプロジェクト」の「高松編」第一弾として上演された。高松は練馬区にあるまちで、最寄り駅は都営大江戸線の「練馬春日町駅」と、新宿から電車で20〜30分の距離にある。 

 「アートで町おこし」を目論むアートプロジェクトは00年代から流行を見せ、大規模なものでは「瀬戸内国際芸術祭」や「越後妻有アートトリエンナーレ」、そして東京でもコマンドNが「UP TOKYO」をキーワードに「TRANS ARTS TOKYO」を開催するなど、一定の成功をおさめている。10年代に入ってからは、それが実質的に地域コミュニティを再活性化するものではなく単にアートの地域搾取ではないかという批判の声も聞こえてくる。
 uniは法人ではなく任意団体であるわけだが、コミュニティデザインに演劇を活用する志向性は、「アートで町おこし」の演劇版とも言えるだろう。演劇の分野でもそうした動きは着実な広がりを見せていて、東京の劇場であれば、地域コミュニティの拠点になることを目的とした杉並区の公共劇場「座・高円寺」の先駆的な活動が挙げられる。それは、サブカル消費のマーケットに根を持った小劇場演劇とはまた別の領域で、独自の展開を見せている。
 しかしコミュニティアートと同様に、演劇と地域がインタラクティブに良好な関係を築き、さらには地域との関わりが「新しい演劇」のオルタナティブを生み出すことができるのか、に対しての答えはまだ出ていないように思われる。また、その「新しさ」を評価する視点が、演劇批評の側からある種の言説をともなって問題提起されることもほとんどないのが現状だ。そうした状況下で、uniの活動は小劇場演劇のメインストリームと外れてはいるが、しかし一方で素朴な実感から演劇の了解コードを再編成する「未成のパラダイム」へとリーチする可能性を宿している。

 『食べてしまいたいほど』に話を戻そう。これは高松のリサーチからつくられる「まちの演劇」だが、僕はこれを「まちの演劇」とはあまり思えなかった。その上演の雰囲気からすればむしろ「ムラの演劇」と言ったほうがいいかもしれない。つまり僕はこれが新しい「ムラ芝居」なのではないかと思えたのだ。

 会場となる「みやもとファーム」に着くと、プレパフォーマンスが行われる。駕籠を運ぶ俳優たちの後について高松の地域をぐるりとまわるのだ。二列に並んでぞろぞろ歩く一行に、道端の人たちは面食らった顔。新築モデルハウスの受付をする男性の戸惑いや、直売所のおばちゃんの「天気になってよかったね」といった声掛け、子どもたちの「行ったことあるところまでね」とついてくる姿に、高松の新旧入り交じる住民の「顔」ぶれが浮かび上がってくるような体験。このまちにとっての半分「異物」である「uni」の姿がパフォーマンスされていく。そして、僕にはこの「まちあるき」が彼らの試行錯誤する―古くて新しい―演劇のジャンルを示す上で、非常に重要なものであったように思えた。なぜか。

 この「まちあるき」によって、uniの上演する演劇が完結した「作品」ではなく、まちとの関係性が場に織り込まれていくプロセスそのものであることが示されるからだ。俳優たちは「ファンタジー」と言っていい、歴史的な実在性を持たないシミュラクルの衣装/意匠をまとって歩く。つまり、アニメのなかから抜け出してきたような疑似日本的な風情で、だ。だが、この衣装/意匠が、そこに住む人々とのあいだに微妙かつ独特の緊張感を作り出している。
 例えば〈ここ〉が劇場のなかであったならば、その衣装/意匠は現実との接点を覆い隠すことで劇場と現実を分断する装置として機能するだろう(現実を忘れる一夜の夢)。その意味でとても自然なものになる。また、秋葉原あたりに置かれれば「コスプレ」になるだろうし、新宿に置かれれば「大学生のイベント」として消化されるだろうし、高円寺だったらパチンコ屋のコマーシャルとして扱われるだろう(高円寺では実際にパチンコ屋のCMをするちんどん屋がいる)。
 しかし、それが虚構によって組織された「トーキョー」と微妙な距離感を保つ場に置かれると、「異物」ではないが、かといって「異物」でなくはない、ゆえに土地の人達に完全に排除されるわけではないが、奇異なまなざしは招き寄せ、個々のリアクションを引き出していく反射材として働き始めるのである(ちなみに高松も東京都内であるが、そういう行政区画とは別に、心理的区画の単位で高松は「東京」と距離を持つ)。
 つまり、俳優たちの特に何の説明もなくファンタジーな衣装を着て歩き、各所でなぜか法螺貝をふく―いわばトーキョー小劇場的な―根拠なきシミュラクルの身振りは、こと高松においては「リアル/シミュラクル」の分割線そのものを顕在化させながら、土地にある種のゆらぎを生じさせるパフォーマンスとして機能しており、それはそのままuniの実践がそうした実践であること、ファンタジーの回路からまちとの関係性を織り込んでいく「ねりあるき」であることを象徴的に示すのである。

 上演でも語られるのだが、2006年(だったと思う)に環状八号線が通った影響で、高松八幡宮が道路を挟んで向こう側に引き離されたらしい。これをひとつの象徴として読むとするなら、高松は村落共同体が解体され切ってはいないが、再開発による土地の解体も進む場所である。この「半-共同体」をここで「村」ではなく「ムラ」と呼んでみれば、uniは土地の物語に意味づけられた村落共同体と、故郷を喪失し虚構を生きる糧にするトーキョーとのあいだに立ちながら、その「リアル/シミュラクル」の緊張感を新たな「場」の創発へと方向づける「ムラ芝居」の実践者であることになる。
 それは、トーキョーから来訪する人びとと土地に住まう人びとに引かれた「トーキョー/ムラ」のあいだの、また「uni/高松」のあいだの分割線をリミナルに混乱させていくものである。このリミナルな混乱は、会場となる「多目的納屋」―もともと農園の納屋として使われていた建物を包みこむように新しく小屋が増築され小屋イン納屋となったスペース―の奇妙さや、劇中で(多分)特産物を紹介するためのコーナーとして挿入され観客と俳優がみんなでうどんを黙々と食べる謎の時間―劇を見に来たはずなのに!―でも繰り返し喚起される。なによりも、四面客席が地域の観客の顔ぶれを可視化することで、上演と観客のあいだの緊張感そのもの―uniと地域のあいだの緊張感そのもの―を上演に組み込んでいく運動性が、メタ演劇的にuniの試行錯誤のプロセスを明かしていく。

 もしかしたら、意図されたものではなく「自然にそうなった」のかもしれない。しかし、そこには地域と演劇の関わりがなければ生じなかった「関係性のプロセス」の磁場が確かに息づく。それが、本作を「トーキョー小劇場」の再生産であるような、だから結局のところ自劇団の動員ゲームのコマとして地域を利用するような「まちづくり演劇」とは一線を画すものにしている。
 とはいうものの、『食べてしまいたいほど』は「上演作品」単体としてみれば粗が目立つ、美学的洗練を欠いた作品にみえるかもしれない。少なくとも僕にはある点ではそのように思われるし、時空間の構成や身体の強度に対するアプローチはより良い選択肢もきっとあるに違いない。だが、『食べてしまいたいほど』は演劇作品をTUTAYAでレンタルされる108円のDVDと等価にするマーケットの論理が「作品」消費の終わりなき運動を組織していくのとは別のところに「演劇」を構想するものだ。それは共同体の「記憶」へとアプローチしながら、その「記憶」と「現在」が交渉する場を「演劇」として組織していく生産的な「活動態」であることも、また確かなのだ。僕には小劇場演劇の内部では見えなくなってしまうこうした「小さな演劇」の地道な活動に、何かしらポジティブな足場を築くあゆみが感じられて、ならない。

 もちろん、高級芸術(ハイアート)と民衆芸術(マージナルアート)の、演劇のための演劇と、生活のための演劇の対立は20世紀の演劇シーンで繰り返されてきたのであるから、この「一歩」が実際にどういう「ポジティブさ」の足場であるのかは、きちんと考えられなくてはならないし、そもそも僕の「市場」をまったく拒否するような目線は、単に「マイクロ・ユートピア」幻想への逃避に過ぎないとも言える。だがしかし……と言いうる言説の可能性の探索は、また別の機会に譲るとして、これから少なくとも3年間は継続されるという演劇活性化団体uniの「高松」での活動を注視してみたい、と思う。



 また折を見て触れていきたいが、西調布にアトリエを構える情熱のフラミンゴは「パーティー」として劇を組織している。これもまたuniとは別の角度から「関係性を組織していく」演劇の現実的な側面を「作品」の虚構内へと織り込んでいくメタ演劇的な実践を為す一例だ。
 「作品」の内部では完結しない、あらかじめ「活動」のコンセプトが意図的に織り込まれた作品群は、「作品」のレベルで観客との緊張関係を創り出すというよりは、上演が組織する「創発的な関係の作り方」において〈現実〉と対置される「集まり方」のフィクションを生み出している。いわばそこで「観客」は「作品を見る鑑賞者」と「上演に組織される参加者」に二重化され、それを同時に生きるのだ。
 この現象を鈴木忠志が言うような「劇団というフィクション」で説明することはできない。観客が出入り自由な「劇団」が関係性を更新しながらネットワークを広げつつ人が組織されるプラットフォームのありかたそれ自体が改変されていくような、「アーキテクチャの生態系」と言いたくなるようなそれだからだ。
 この潮流の意味を的確に射抜くには、もう少し時間がかかる。

東京デスロック『再生』はなぜ「多幸感」へ行き着くのか―批評再生塾No.9より

批評再生塾で提出した課題論考と、そのヴァリアントとしての『再生』論です。

論考は、『けものフレンズ』と東京デスロック『再生』を重ね合わせつつ書きました。多分、あまり語られたことのない角度で小劇場史を語ろうとしているーはずです。

school.genron.co.jp


ここでは「課題」の枠を離れ、前提知識への配慮をせずに、ストレートに語り直す作業をしておこうと思います。東京デスロック『再生』の概要に触れると長くなるので触れません。論考の方で簡単に書き留めてありますので、参照してもらえればと思います。



80年代後半から90年代にかけて平田オリザ氏が『現代口語演劇のために』を皮切りに『演劇入門』などを通じて提唱した現代口語演劇は「口語日本語」からありのままのリアルを突き詰めていった。しかし、日本語が「関係性の言語」であるために、「私」が「みんな」の一部としてしか確かめられないヌエ的な集団性を抱え込まざるを得なくなる。そのため、後続世代が00年代を通じて「現代口語演劇の形式化」を推し進めていくと、必然的に「みんな」を増幅していく「日本的情緒共同体」を劇形式のレベルで反復せざるを得なくなってくる。

その象徴的な作品が、J−POPに組織され踊らされる「みんな」を組織する東京デスロックの『再生』である。この作品は、舞台上で「みんな」を描くだけでなく、そこから外れてかろうじて「凝視」の座にいた観客の自律性を麻痺させる。なぜなら、爆音のJ−POPは劇場をクラブ化し、俳優と観客の「見る/見られる」階層的関係を解体して、「踊ってるか/踊っていないか」の水平的関係に変換するからだ。

ここに至って、劇場に組織される日本人的な「みんな」性は、批判的に距離を置く自律した観客を失い、ただ自分があるがままの「みんな」であるかないかが存在の基準であるような排他的なムラ性を再生産する方向に傾く。みんなと同調しない存在はなかったことになり、「日本」の文化複合体的な雑種性を想像的に隠蔽する「ニッポンの球体」はそこから離脱しようとすれば「死ぬ」しか選択肢がない完璧な調和性を獲得する。『再生』は、そうした「ニッポンの球体」から離脱する戦略を、「多幸感」へと突き抜けることで果たそうとした。しかし、その意図は結果的に裏切られる。なぜか。


確かに『再生』は、反復の構成から身体を実在の根を持たない虚構ーシミュラクルーとする「JPOP/Jシミュレーション」に、その場で実際に踊るアクチュアルな身体を対立させる。ところが、そのさらなる反復において、「組織されるニッポン」と「現前する身体」は「みんな」から離脱する乖離的不安の宙吊りに留まることなく、(具体的には照明が徐々に明るくなり、音量のレベルを上昇させることで)多幸感へとトリップしていく。この多幸感は一方で生を断念させる絶望を永劫回帰する生の肯定へと変容させるが、もう一方で「ニッポンの球体」を再生産する「みんな」の増幅装置として働く。


多幸感へ溶け出す俳優の身体は組織化への抵抗の拠点にはならず、さらに観客の身体も多幸感のうちに場の集団性へと溶け出し、結果的にただあるがままの「ニッポン」だけが残る。「あるがままの現実」を描く現代口語演劇の課題は、「あるがままの現実」を組織するネオ現代口語演劇として深化した。

もともと幻想の「終末」を捏造することから逆に「実体のない現在」をムードで肯定する80年代小劇場がとったニッポン的祝祭性の戦略は、そこから「ムード」を差し引き「あるがままに凝視する」戦略を用いた90年代小劇場が悪魔祓いしたはずだった。ところが、「多幸感」をキーワードに舞台と観客の垣根を取り払い、「あるがままのリアルな現在」を多重化する戦略をとった00年代において想像的な「ニッポン」の共同体が回帰してきたのだ。


この構図から抜け出し、みんなしかいない共同体とは異なる「他者たち」からなるパブリックな場を組織することが、ポスト現代口語演劇の課題である。



論考では、そこまで言ってないのですが、そういうような歴史認識が僕にはあります。

ポスト、という語には抑圧されていた雑多な文化的トポスの無造作な躍動という、ポストモダンと同様の意味あいがありますので、単に現代口語演劇の「次世代」という意味ではありません。

また、ポストモダンにはモダンも含まれているので、自分で考えて判断する自律した個と、他者と関係することから生成される流動する孤、その両者の乖離的な主体を引き受けうけるという固有の課題があるように思います。いうなれば、集団で夢を見ながら醒めているといった矛盾する場を足場にしたパブリックコモンズ。

演劇は、その場で人々の「関係性」を組織する芸術であるがゆえに、アレントによって「唯一の政治的な芸術」とも言われました。ユニークな個と共同体の関係を問うことが演劇の課題であるとすれば、「みんな」でも「私」でもない乖離的な宙吊りの場を組織/非-組織することが、
「みんなの生成」へとどうしても傾いてしまう日本演劇固有の課題ではないでしょうか。

批評再生塾に通いはじめ、この1ヶ月くらいでなんとなくこれまで感じていた違和感を掘り当てつつありますが、まだ説得的に議論を組み立てきれていません。まだまだアップデートしていく予定ですので、ぜひ批判的なご意見などいただけるとありがたいです。

ブックオフと孤独と/日記20170416

気分の沈んだ時は決まってブックオフに行く。適当にぶらつくと何冊かの本が目にとまる。二冊並ぶ「ホレーシォの孤独」を棚から出して、パラパラとめくる。俳句の論評のようで、死んだ歌人の孤独をおいかけている。
 
ゴーマニズム宣言従軍慰安婦の、強制連行の有無を巡って小林よしのりが勢いづいていた時期があった。なんども読み、大東亜戦争と屈託なく口にした時期。パラパラ、パラパラとページを繰ると、森友学園の資料隠ぺいと強引な幕引きを意識する。ブックオフの立ち読みで、自分の浅はかさに気付かされて、ちょっとおかしい。
 
何時間でもいた。まだほんの小さい頃はマンガコーナーが寝ぐらだった。少年、青年、少女、レディース、あらゆる、マンガを漁った。自転車で30分の距離にあった一軒のブックオフが文化の全てだった。
 
18歳ごろから文庫本コーナーに行くようになった。ちくま学芸文庫岩波文庫をまずは見る。そこからざっと学術書がありそうなところを。それは今でも変わらない。変わらず叩き売られている古今の知の背表紙に目を走らせる。軽く挨拶する。変わらない時間にホッとする。
 
古本屋の店主になりたかった。本を読まない古本屋の店主。でも、背表紙は好きだ。背表紙のタイトルを読むのが好きな古本屋の店主。
 
後悔ばかりしているが、時間は絶え間なく人生を急き立てる。手相を見てもらうと、決まって意志薄弱。一本の真っ直ぐ伸びた生命線に憧れていた。ふらふらくねくね。肝心なところで失敗して転ぶ。まぁ、そんなものかなと部屋で一人ごろごろと、転がっている。
 
 
そういえば。ブックオフの前でアイシティコンタクトのティッシュを配るトマソン的おじさんにまた会う。
 
今日も変わらず、鋭く多彩な手さばき。ティッシュをしゅっしゅっ、しゅっしゅっ。数ヶ月前に見かけた時は、アイシティコンタクト、どうぞどうぞコンタクト〜どうぞっどうぞっどうぞっあらよコンタクト。
 
歌っていた。
衝撃だった。
 
これでいい。与えられた「役」に屈することなく逆に遊んでみせること。生きるのに大事なことを勝手に教わる。
 
西口前の地下通路へ続く階段前を通るときには、いつもよっしーと、あの浮浪者を思い出す。いったいどうしているだろうか。彼はあれ以来見かけることがない。見かけたとしても、ぼくも彼も交わることなく別の世界に淡々と棲まう。ただ、トマソンは、よっしーの演技を介して記憶されている。
 
孤独なひとり遊びの点が結ばれ、誰も知らない世界の記憶庫にしまい込まれると想像すれば楽しい。こう見えているのとは別の世界が、役に立たないあふれる孤独が、光っている。
 

@chaghatai_khan @fuzzkeyさんへのツイッター返信/ゲッコーパレードについて

@fuzzkey @chaghatai_khan 横から失礼します。思うに、ゲッコーパレードの『ハムレット』は生活の場である民家に「戯曲が棲む」というより、「家を劇場として使った」演劇だったよね、ということなのではと。告知されたコンセプトにミスリードがあったんじゃないかと思います

 

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@z_z__z @fuzzkey コンセプトでは“かつて人が暮らした住宅を「戯曲の棲む家」へと変貌させる。”としか言っていないわけで、そこに何を期待するかは渋革さんも marron-shibukawa.hatenablog.com/entry/2017/04/… で言及されているとおり観客の先入観による部分が大きいかと。

 

@z_z__z @fuzzkey “民家で上演される演劇”という情報からある種の上演形態を思い浮かべる人種はかなりニッチな経験の持ち主なんです。観劇経験そのものが少ない方は「そんなところでやるんだ。珍しいね」と思いながらも多分普通に演劇を観に来ると思います。

 

@z_z__z @fuzzkey 当人たちの狙いが実際どうかわかりませんが、一定数の観客が期待する民家での上演とズレが生じることは覚悟のうえで、vol.1から一貫して「一軒家をどこまで劇場として使い尽くせるか」を試みているように見えていて、私はその試みを面白がっています。

 

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すみません、返答ありがとうございます。結論は似ている気がするのですが、ご指摘いただいたことをぼくなりに理解して打ち返してみます。ただ、ぼくはどうも文章が長くなってしまいますが・・・。多分こういうことかなと、戯画化して言いますと・・・

 

ゲッコーパレードの「戯曲の棲む家」に対して、特殊な演劇経験を持った一部の観客は民家ならではの特殊な劇を期待したため、ミスリードになった。でもゲッコーパレードは普通に演劇を楽しむ、より裾野の広い層を観客として迎え入れようとしている・・・。

 

そこで、ぼくの疑問はニッチな演劇経験ってどういう経験だろう? ということです。ぼくはどちらかというとアングラ期の演劇遺産を引き継いだ方が良いと思っていて、彼らの運動は、非常にニッチな領域を開いたと思うんです。

 

僕が理解する「アングラ的ニッチさ」は日常経験では見えない〈他〉の位相が日常へ挿入されることの驚きに由来します。驚きは、日常の体験のされ方をまるごと変えてしまう革命的な出来事。あまり出会うことが叶わないユニークな〈希少性〉を持っています。

 

たまたま聞いているので例に出すと、小沢健二が「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる。それで思うこの瞬間は続くと」と歌う「光る海」に直面したときの驚きと〈希少さ〉に似ています。今見えているのとは違う〈他〉の地平の存在。

 

だから、それは希少ゆえのニッチな経験となります。逆に既存の小劇場ではどうしても演劇的想像力が小劇場演劇的なもののイメージに拘束されてしまって、普通の演劇に、つまりは〈同〉の再生産に帰結してしまうのだと思います。

 

そうした〈同〉を〈他〉へ向けていかに開くのか? という問いの前で、物理的な場所の違いは戦略上の違いに過ぎませんから、旧加藤家でも普通の劇場でも目指される体験のコアは既存の想像力の枠を外しながら〈他〉を開くことに置かれます。(『三月の5日間』が与えたショックのように)

 

ただ旧加藤家は象徴的な意味で小劇場イメージの外部になりますから、「戯曲の棲む家」のコンセプトは「家」を仲立ちさせることで拘束された想像力の枠を外し〈他〉を体験する場になるはずだ、と期待できました。〈他〉を開くニッチな体験になるはずだと。

 

このニッチ=希少な〈他〉が開かれる〈驚き〉は、より多く劇を見ているか―いないか(見巧者かどうか)の基準とは無関係に誰にでも起こり得ます。劇場でなくても起こります。

 

その意味で(開かれた世界(他)への興味があるならば)誰もが潜在的にニッチな経験を求めているとも言える。それは小劇場の枠内からは「閉じた特殊な劇形式」に見えますが、枠を外すと、多様な新しい観客へと開かれた場を形成するように思えます。

 

逆に小劇場演劇の想定する「普通さ」は、〈同〉へと閉じていく経験にもなります。とある方が、旧加藤家での観劇体験を「家が劇性に塗りつぶされる」と言いましたが、まさにニッチ=希少な〈他〉を開くはずの想像力が、どうも〈同〉の再生産のために使われているらしい、という点にあったとも言える。

 

ぼくが思う「ミスリード」は、想定する劇形式に対してのものというより、〈他〉への期待が〈同〉へずれ込むことに対してで、だから、ご指摘の「ズレが生じることへの覚悟」は〈他〉を開かず〈同〉へ自閉する覚悟というようにも聞こえます。

 

しかし、一方で市民劇の視点を入れることで、「家を劇場として使い尽くす」ことが新しい面白さを持つようには思います。つまり、蕨市に住む演劇も出来る市民が、自発的な表現の場を作ろうとしていると見ると、これはすごいことではないか、と。小劇場演劇への同化へと向かうか、市民劇の自発的な「共」の拠点へ進むか、かなり分かれ道という感じがします。

なんとなく楽しい(ワイワイ)―新しい市民劇について/ゲッコーパレード『ハムレット』

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ゲッコーパレード 本拠地公演 戯曲の棲む家vol.6
ハムレット
2017年3月31日(金) 〜4月10日(月)
旧加藤家住宅(〒335-0003 埼玉県蕨市南町2-8-2)
原作:W シェイクスピア
引用訳 小田島雄志 松岡和子 木下順二 
出演:渡辺恒 崎田ゆかり 河原舞
演出:黒田瑞仁
美術 柴田彩芳〔現代美術家
衣装 森弓夏〔服飾デザイナー〕
空間 渡辺瑞帆 (青年団 演出部)
照明協力 磯野いるか 鈴木麻友
記録映像 絵空衣音
チラシデザイン:岸本昌也
チラシ写真:瀬尾憲司
制作:岡田萌
制作補助:川口潮奈 

 「戯曲の棲む家」シリーズ

ゲッコパレード『ハムレット』を観に行った。

ゲッコーパレードは蕨市にある旧加藤家住宅を拠点に「戯曲の棲む家」シリーズを展開する若手劇団。劇団名は「トカゲの名前」で、人の集まりがパレードのように活動や表現を作り出していくとの集団理念から。代表で演出家の黒田瑞仁は早稲田大学で建築を学んだ後に座・高円寺の劇場人養成所「劇場創造アカデミー」に入所(5期生)。修了した2015年に同じく5期生であった河原・崎田・岡田と、渡辺恒(円・演劇研究所の出身)で立ち上げた。

16年を通じて企画された「戯曲の棲む家」シリーズは、住宅地に並ぶ平凡な「民家」を舞台にして、ソフォクレスアンティゴネ』を皮切りに、竹内銃一郎『戸惑いの午后の惨事』、三島由紀夫道成寺』、宮沢賢治『飢餓陣営』、ブレヒト『リンドバークたちの飛行』と古今東西の戯曲を自由自在に横断し、家と戯曲が織りなす多彩な音色を奏でてきた、のだと思われる。

「戯曲の棲む家」シリーズは・・・演劇の戯曲を劇場や本の中ではない「家」という場所に住まわせてみて、どのような振る舞いをするかを観察しようというプロジェクトです。

「家」と演劇といえば、鈴木忠志による利賀村と合掌造りの家屋を劇場とした「利賀山房」を思い出す人も多いだろう。鈴木は合掌造りの家について次のように言っている。

家あるいは空間に棲みこむということは、そこにかかわった人間が生活過程のなかで創意工夫をこらして、自分の肌ざわりにあったようなものに変更しうる可能性の中を生きていくことだということを感じさせられるのである。要するに、空間じたいが、一人の人間の身体を媒介として生きもののように変わっていく。*1

これに比して言えば、一本の戯曲を媒介にして、旧加藤家が生き物のように変容をとげるーと、同時に戯曲も変容をとげるーが「戯曲の棲む家」シリーズの狙いだと解釈できる。旧加藤家という昭和的家屋を、いわゆる劇場空間のようにどんな劇団の表現も等しく受け止めるように普遍化された抽象的な空間としてではなく、サイトスペシフィックな場であるからこそ浮き彫りになる《家》が持つ記憶の磁場を《戯曲》を棲まわせることを媒介に立ち上げるということか。

だから、本作では彼らにとって家がどういう意味を持っているのか、が観劇体験の要になると言っても良さそうだ。

メタ的な多重性

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http://origin.natalie.mu/stage/gallery/show/news_id/205219/image_id/659140
(撮影:瀬尾憲司)


さて、Twitter演劇界での評判も上々のようであったので、久々に旧加藤家住宅に足を運んだ。

上演は家の台所を使って行われる。暗闇の中、台所には一人の男(渡辺)が何やらハムレットの独白をブツブツつぶやきながら現れる。冷蔵庫を開け、食卓につく。そこからは一人遊びをする子供のように、俳優は食卓の上にあるモノを「ハムレット」や「オフィーリア」などなどに見立てて遊ぶ。「尼寺へいけ」で締めくくられるポローニアスに司令を受けてハムレットが正気なのかどうかを確かめるべくオフィーリアが自身への愛をたずねる場面からはじまり、名場面集のように幾つかのシークエンス―ハムレット父親が亡霊として現れるシーン、ハムレットが母親を罵るシーン、父を殺されたオフィーリアが狂気に駆られるシーン、最後の決闘のシーンなど―が配されていく。

そうしたシークエンスの配列に多重的な時間の層が重ね焼される。つまり、『ハムレット』が演じられる上演の(代理=表象の)時間、家に住む男が台所に夜食をあさりにくる「男1」の時間(後には、男1が朝を迎えて食卓につく時間)、『ハムレット』の台本を崎田・河原が読むゲッコーパレードの半ドキュメンタリー的な稽古場の時間、ハムレット演じる渡辺が暴れまわりコーヒーの粉やら倒した瓶やら何やらを演出家の黒田が片付けるアクチュアルな時間、台所を使って簡単な料理が作られる現前する時間、旧加藤家住宅そのものが持つメモリアルな時間、といったように。そして、多重化された時間の層は、ビートルズ宇多田ヒカルの楽曲の持つ誰もが「共感できる時間」によってまとめあげられる。

こうした多重的な時間の層を重ね焼する手法に着目することも不可能ではないだろう。上演の時空間を相対化し、それらを俯瞰的に横断することを可能にするメタ的な視点から、家と戯曲とゲッコパレードのそれぞれが内包している記憶を一挙に串刺ししてみせる。どの層から劇へまなざしを与えるかによって、多数的な時間の意味が同時に浮かび上がってくる。

確かにそういう側面もあるだろうけど、こうした戦略の必然性や、ゲッコーパレードがこの手法でもってしか露出させられないと考えるに至った何らかのメッセージがあったとは思えない。つまり、〈メタ的な多重性〉は彼らの活動にとってあまり本質的ではないように思える*2。それよりも、ぼくはこの上演に新しい市民劇の可能性を見たように思う。というのは、本作はなんとなく楽しいものであったからだ。

民家の上演=演劇空間の拡張?

ちょっと寄り道になるが、「民家での上演」からは、近年の劇場の外へと演劇を拡張させていく遊歩型・ツアー型演劇や、戦後のネオ・アヴァンギャルドアンダーグラウンド演劇運動への回帰を思い起こさせるところがある。ここでは特に後者の演劇運動とゲッコーパレードの演劇を比較してみよう。そうすることで、ゲッコーパレードがどんなユニークさを持っているかが逆に見えてくるだろうし、それが「新しい市民劇」を示唆していることへの筋道も立ってくるように思う。

例えば、アングラ期の演劇人は、プロセニアムアーチを備えた劇場の非−空間性を批判して、それぞれ劇場の外へと演劇空間を拡張させた。状況劇場の赤テント、演劇センター68/71の黒テント寺山修司の市街劇、太田省吾の能舞台に、鈴木忠志の利賀三房への移住といった多様なモメントで68年演劇は彩られている。そうした系譜のエピソードの末端にゲッコーパレードは加わった、とも言えるし全然関係ないとも言える。

全然関係ないとも言える、というのは彼らの演技態に目を向けることではっきりする。なぜなら、アングラ期の「演劇空間の拡張」は演劇の自明性を括弧に入れた上で、独自の活動コンセプトを立脚点としながら「集団―演技―劇場―観客」からなる演劇を規定するパラダイムそのものを取り替える運動だったからだ(戦後モダニズム演劇の台頭と言える)。そのため、劇場の意味を変化させることは、同時に演技の意味を変化させることでもあった。

彼らは、「劇場」を創りかえることで新しい「演技」の方法を発想し、さらに集団の在り方それ自体を現実に相対するフィクションとして結実させる。神話化しているきらいはあるが、例えば転形劇場の太田省吾は『小町風伝』を上演したとき、「能舞台に言葉がはねつけられる」と感じ、老婆は書かれたセリフを発語せず沈黙した。それは『水の駅』にまで連なる沈黙劇の端緒となる。

鈴木忠志は劇のフィクションは作品にあるのではなくて劇団の活動そのものにあると言った(集団そのものが虚構であり、この虚構の質が舞台の質をすでに決定しているのである。・・・だから、演技とは持続する非日常としての集団の論理の裡に存在する日常のことだといったほうが良いくらいである。*3)。そこで集団の虚構性を生み出す仕掛けとして日本人の「足の文法」を解析・分類した鈴木メソッドを基盤とし、さらに利賀村に移住するというアクロバティックな動きを見せた。演劇人にはおなじみだが、利賀村へ行き観劇する体験は、観客が劇と出会う「身体感覚」をまるきり変えてしまうものだ。

また、黒テント佐藤信は「革命の演劇」を掲げ、各地のミニコミュニティをつなげる媒介のような役割を果たした(実際、70年代から現在にいたる関西小劇場の基礎を担う人材を輩出した演劇誌『プレイガイドジャーナル』は黒テントの大阪上演実行委員会のメンバーによって立ち上げられた)。脱-中心化された文化状況そのものを構想する黒テントのフラジャイルな活動の在り方は《いま・ここ》で即興的にテクストと出会い続ける演技の方法へと反映されていったのだと思う。

図式的にすぎるまとめ方ではあるが、ぼくが言いたいのは、アングラ期の演劇人は、日常では開示不可能な〈他なる現実〉を開示する必要性に迫られていたのであり、それは作品の手前で「演劇活動」として実体化し、わたしたちの日常の生と地続きにつながりながら固有のフィクショナルな領域を切り開く演技―Action―へと結実したのだ、ということである。演技に結実しない演劇活動なんてものはありえず、太田省吾が明確に指摘したように「劇とは一人の人間が立ち、歩くことが、事実としてなにごとかである」*4ような、日常の延長線上で日常を転覆させてしまう直接的な行為=演技からなるのであった。

〈演劇空間の拡張〉は〈別なる現実〉を構想する

さて、それでは彼らの演技はどのような振る舞いを見せていただろうか。

俳優の個々人は好演を見せていたが、旧加藤家住宅だからこそ要請されもするし、新たな意味をも生み出していくフィクショナルな次元に対する演技の方法が模索されていたとは思えない。例えばハムレットを演じる渡辺は、台所にあるそこらのものにガツガツぶつかる。あえて、というより単にぶつかっている。能役者における能舞台のように彼は空間に棲みこんではいない。また、いわゆる盛り上がるシーンでは、決まってPop Musicが流れ、どんな場所でも時間の質を保証する楽曲によってキッチン(あるいは家屋)の時間性とは無関係な劇的なシーンが構成される。崎田と河原も好演ではあるが、他の劇場空間にも移植可能な―だから個人の技芸なのだ―演技を展開する。このように、本作から空間(と、そもそもの「戯曲の棲む家」という活動コンセプト)とのかかわり合いから生じてくる演技論的なコンセプトは伺えない。ブログ観劇評で黒木洋平という方が上手いことを言っている。

第一に問題なのは、僕が「ある期待」を持って見てしまっていたことだ。その期待とは「家の強力な日常性と、戯曲の非日常性とが、相互に異化作用を与え合うのではないか」というものだ。事実として「戯曲の棲む家」のコンセプトはそれを期待させるものなんじゃないかと思う。なぜなら「劇場」ではなく「家」と呼んでいるのだから。しかし実際の上演はそうしたものではなかった。キッチンでやるエンターテイメントなハムレット。戯曲と日常性が相互に異化しあう様は観られなかっただけでなく、家は劇性に利用され、極彩色に塗り潰されるだけの哀れな存在になっていた。

最初から存在しなかった「日常性」 / ゲッコーパレード『ハムレット』について|黒木洋平|note

つまり、これを上演するのって「家」じゃなくてもOKだよね? と黒木氏は指摘しているのだと思う。ゲッコーパレードの演技と演出は先に述べたような「どんな劇団の表現でも受け止める普遍的な空間」を前提にして組織されている、だから名作戯曲を担保にすることで空間とは無関係に成立していく類の演劇だった、ということだ。黒木氏はそれを「劇性に利用され―塗りつぶされた」と感じたのだと思う。

この演技論/劇場論の欠如はアングラ期の演劇人による「演劇空間の拡張」とゲッコーパレードの「民家を使った演劇」が質的にまるで異なるものであることを指し示す。先に述べたように「劇場へのまなざし」を変えることは、連動して必ず演技・集団・観客へのまなざしを変化させる。演技が変わらないなら、劇場へのまなざしも全く揺らいでいないのであり、それは「演劇空間の拡張」とは呼べない。なぜなら「拡張」とは物理的に「既存の劇場の外へ出る」といったことではなく、想像力のうちで今とは異なる異他的な〈現実〉を構想することだからだ。問題は物理的な「内/外」ではなく、想像力の上での「内/外」である。アングラ期の演劇運動が、〈他なる現実〉への想像力を獲得する手がかりを「劇場の外」へと求めたのに対し、ゲッコーパレード『ハムレット』では既存の劇場的想像力を発揮する場所として、たまたま劇場の外にあった「民家」が使われたのだ、と言えると思う。


したがって、アングラ期の演劇と比較すると、(少なくとも本作の)ゲッコーパレードの「民家」は異他的な現実を開く媒介ではなかったし、そうした〈他なる現実〉を捉える構想力を持っていなかった。

(それは、最近、ぼくが観劇した演劇と比較してもはっきりする。例えばヌトミック『Sunday Ballon』のような現在の基層にあるであろう等価空間を、わたしたちの〈他者〉として改めて暴露する構想力、村川拓也『Fools speak while wise men listen』のような「日本人―中国人」がいかに対話しうるか、その意味と困難を現象させようとする構想力、立本夏山+田村泰二郎『わたし達の器官なき身体』における記憶/歴史を身体による空間の変容を通じて開示していく構想力。)

〈他〉よりも、むしろ〈共〉を望む

しかし、〈他〉への構想力の欠如にこそ、ゲッコーパレードがゲッコーパレードたるゆえんがあり、彼らのユニークさを示すものになる。どういうことか。

〈他なる現実〉を呼び込んでくるような場として、彼らの民家での試みをみると単に失敗しているとしか言えないが、それは彼らの試みを捉えるフレームが、全然別のところにあるからではないだろうか? 第一、本作からは「失敗した」という感じがしない。そもそもはじめから〈他なる現実〉なんて目指してないんじゃないか? とすら思える。こうした(あえていえば)失望の感じは「戯曲の棲む家」で名作古典を上演し続けるという、歴史的・異他的な想像力を開示しそうなコンセプトによるミスリードの結果であって、彼らが構想するのは〈他〉への想像力ではなくて、身も蓋もなく言えば「みんなでワイワイ楽しくやること」にあるのではないだろうか。

思い出してほしい。みんなで楽しく集まれることに意味がある、というのがゲッコーパレードなる集団のコンセプトであったことを。彼らは、人の集まりがパレードのように表現を形成すると言っているのだから、それは字義通りに受け取るべきだろう。集まる、つまりはワイワイやるのだ。

みんなでワイワイ楽しくやること。それを実現するために、他なるActionは必要ない。他なるActionが必要になるのは、繰り返しになるが日常の振る舞いでは開示不可能な〈他なる現実〉を開示する必要に迫られた時だからだ。多分、ヌトミックや村川拓也や立本夏山+田村泰二郎には、何故かは知らないが、そうした必要に迫られる契機があったのだろうし、そこが〈劇―フィクション〉へと彼らを向かわせる原動力となっている。一方で、ゲッコパレードはそうした必要性を原動力とはしていない。そこに集まった人たちが「共に」楽しくやるためには、〈他〉を開示することよりも、バランスよく「なんとなく楽しい」ことのほうが、重要なのだ。

その意味で、ゲッコーパレードはお花見の宴会に似ている。とりあえずきれいに咲く「桜」を眺めながら、敷かれた1枚のレジャーシートに友達と友達の友達と、そのまた友達が集いワイワイ楽しくやる。だが「桜」は異形の桜であってはならないし、その下に死体が埋まっているとかなんとか、そんなことを本気で考えるなんて野暮である。

そんな〈他〉への想像力を本気で考えてしまうような構想力は立場を作る。「桜は実は死を養分としている、死者の樹木だ」とかなんとか言い出す。それは日常に対する〈他〉の構想となる、がゆえに、なるべく多くの人達を包括するような大きなレジャーシートにはなれないのだ。ゲッコーパレードの活動は意識的にせよ無意識的にせよ、そうした〈他〉を形成する構想力の排他性への批判を内包している。「なんとなく」がここでは重要だ。理屈ではない。

黒木氏が指摘していた「劇性によって家の日常性を塗りつぶした」という感慨は、民家を媒介にした〈他〉への想像力を期待した時に見てしまう端的な誤解である。「共に楽しく」の視点から見れば、ゲッコーパレードは、なんとなくみんなが漠然と思い描いている演劇のイメージにおける「普通さ(日常)」と、実際の民家が持っている「日常っぽさ」をかけ合わせたところで、なんとなく楽しいワイワイ空間を創出してみせた、と言えるのだ。

みんなが共通してある程度了解している「演劇」をちょっとずらしてみせる。すると、ちょっとめずらしい花が咲き、わたし達は分け隔てなく、そのまわりに集まることができる。*5

リトル高円寺

そして、彼らの「なんとなく楽しい(ワイワイ)」劇に、ぼくは新しい市民劇の可能性が予告されているように思ったのだ。

彼らにとって「家」がどんな意味を持つか? が、本作の観劇体験の要になるとぼくは最初に言った。そして、それはアングラ期の演劇運動のように〈他なる現実〉への想像力を開く足がかりのような意味を持っていないことを示した。彼らにはそうした意味での〈他〉を形成する構想力はない(というか狙われていない)。むしろ彼らにとっての「家」とは〈共〉に楽しくワイワイやる、なんとなく楽しいワイワイ空間である。

これは父が不在の家に例えられる。旧加藤家は不在の父を尻目に、いつもとは違う遊びをやってみようと駆け回る子供たちの自由空間となる。旧加藤家を訪れる者は、ごっこ遊びに興じる子供たちの楽しげなパトスや、ちょっと日常のルールから踏み出してみる悪戯な振る舞い、思いついたことをとにかくやってみる気まぐれな閃きを、まるで久々に帰ってきた父親が子どものやんちゃに呆れながらも暖かく見守るようなまなざしで、見る。ちらほら指摘されるゲッコーパレードの「メタ」的振る舞いへの言及は、こうした「思いついたことをとにかくやってみる子供っぽい気まぐれ」を、別の文脈に取り違えた(取り違えても意味が増えるから良いんだけども)結果のように思える。

むしろ、思いついたことをとにかく無根拠にやってみる自由空間は、座・高円寺が主催する「リトル高円寺」というイベントに結びつけたほうが、より納得のいくゲッコーパレードの物語を記述できるように思う。リトル高円寺では、毎年「町」や「森」といった空間テーマを設定し、そこにやってきた子どもたちが1週間くらいかけて町や森を発展させていく。ダンボールやらの素材がそこらじゅうにあるので、スタッフも子供も一緒になって、思いつきを形にしては壊し、形にしては壊しながら、なんとも言えないカオティックな空間が育まれていく。リトル高円寺は、なんだってやっても良いんだという勇気を与えてくれるとともに、劇場空間という保護された閉域だからこそ奔放な想像力と偶然の組み合わせで、多元的な宇宙を織り込む場を形成する。

「リトル高円寺」のような、座・高円寺特有のコンテクストを読み込まない限り、ゲッコーパレードの活動の価値は見えてこない。こうした背景を無視して批評的なコンテクストにのせてしまうと、それはもとにあった活動のコアを隠し、小劇場演劇業界内の陳列棚に並ぶひとつのパッケージにゲッコーパレードの活動を矮小化してしまうだろう。

新しい市民劇?

ゲッコーパレードの黒田・河原・崎田・岡田の面々は座・高円寺に2年間通っていたという下地を共有しており、彼らの蕨市という地域に根ざした活動も、座・高円寺の地域劇場としての役割を引き継ぐものだ。そうした背景を考慮に入れると、ぼくがやったようなアングラ期の演劇運動との比較考察みたいなものは、ゲッコーパレードを言説化するにあたって、加える意味のない余分なエピソードにすぎないことがわかる。むしろ、kanade_otani氏がブログに書く「観劇メモ」がゲッコーパレードの活動の意味をすくいとっている。

個人的に、劇場のある蕨市の人がそれなりにいたのが嬉しいと思った。

ゲッコーは自分の中では結構尖ってる方の演劇に分類されてるんだけど、それでも「蕨で何かやってるみたいだから」で観に来てくれる人がいて、「初めて観た演劇だったけど楽しかった」と。そういう地元に見てもらえる劇団、地元がそういう方向を向いてくれる劇場で活動するっていいなぁって。

ゲッコーは旧今回の加藤家住宅のほかに数軒、拠点(自劇場)を持っている数少ない劇団のひとつ。今回のお茶会でも劇団が拠点をもつことについての話が出た。

今後首都圏で空き家が増えて空き家を拠点にする劇団も少しずつでてくるかもしれない、と。

ゲッコーのように生活+演劇みたいなスタイル(冷蔵庫を漁ったと思うとハムレットが始まり、ハムレットから食卓が始まる)は結構特殊だと思う。結局は家を手にしても改装したりなんかして、コストはかかるのかもしれないけど、拠点を持つメリット、街に根ざすメリットは確かにある。

そして、街のあちこちに劇場があって、それぞれ個性のある演劇があちこちで観られる未来って、ちょっと見たい。

そんなことを考えた春の一日。

観劇メモ④ 街に根ざす : おおたにメモ

空き家を拠点に、街のあちこちに劇場があって、それぞれ個性のある演劇が見られる未来。これは公共ホールが牽引する多数の人々を音楽の力で組織していく市民ミュージカルとは、真逆の発想。空き家を自発的な市民劇の無数の拠点とする発想である。ゲッコーパレードとは、こうした新しい市民劇の先駆けなのだ。現在の演劇界のパラダイムでは、これを小劇場演劇の内側に回収するしか、彼らを意味づける手段がない。それこそが大きな問題ではないか。


いや、そうはいっても、これはぼくにとっても、よくわからない一つの謎が増えたとも言える。ぼくがここまで、作品それ自体についてほとんど触れていないのは、作品から語りうることが、ぼくには見当たらないからなんだから。それはこれまで長々と述べてきたように、作品には劇場論/演技論が欠如しており、民家を媒介にした固有のフィクション―他なる現実―を構想する契機がなかったからだ。

個人的な葛藤になってしまうが、ぼく自身がこれまで辿ってきた〈演劇〉の経路からして、思いつきをとにかくやってみよう、それでなんとなく楽しいワイワイ空間を作ろうとする方向性を、容易に受け入れることは出来ない(その意味で、ストレートな感想は黒木氏に近い)。〈共に楽しく〉は80年代小劇場演劇が展開した「ぼくとあなたは同じ若者だ」とする共感共同体の自己確認の場に過ぎないからだ。しかし、これが、無数にある「民家」を舞台にして、ぼくたちは誰でも自発的に演劇を作っていけるんだ、と。空き家は父が不在の家であり、そこでは社会的な規範をカッコに入れて、なんでもいいからやってみるという「リトル高円寺」直伝の想像力の場を形成する可能性があるんだ、そういう新しい市民劇の方法があるんだとすると、これは〈他なる現実〉を構想する契機に確かになるのだ。

願わくば、旧加藤家住宅が演劇業界人(演劇人ではない)によるちょっと変わった貸館ではなく、日本的な脈絡で〈市民〉の自発的な活動の場にならんことを。余計な蛇足ではあるが。

(筆:渋革まろん

*1:鈴木忠志「合掌造りとの出会い」

*2:のちに明らかにするように、別の意味でこの多重性はゲッコーパレードの性格を明かすが。

*3:鈴木忠志「集団的発想への示唆」

*4:太田省吾『裸形の劇場』

*5:こうとしか言いようがないからこのように書いているが、これはゲッコーパレードへの非難ではない。むしろ、こういうちょっとずらしてなんとなく楽しい、という固有の演劇的ジャンルがあると言いたい。