批評再生塾2017 渋革まろん論考まとめ
ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾(三期)にて執筆した論考をまとめました。
下読みコメントつき。リンクで論考に飛べます。
【10】でチェルフィッチュ、【16】で地点について論じていて、その二つがやはり核になっています。【8】・【9】は【10】で議論した〈私演劇〉と公共性の問題を追いかけているので、(断絶していますが)続きもので読める。〈私演劇〉の時代精神的な考察が【6】の「演劇化するセカイ」になります。
また、【9】の東京デスロック『再生』論は【16】の地点論と「表象の演劇」から「上演の演劇」を切り離して、別のパラダイムとして提示する点で通底しています。要するに、『再生』を『水の駅』に連なる「みんな(同一性)の増幅装置」として、初期の地点を「みんな(零記号)の暗号化」から〈私〉を他者化する方法として対称的に描き出す、ということを【9】と【16】は結果的にやっているように思えます。最終論考では【15】で仮説立てた「イナゴ的な群れの可能性」を敷衍して、地点の演劇よりもさらに「私演劇」を徹底させた〈私的なものの公共圏〉を構想する予定です。
しかし、それは結果的に【2】の尾形亀之助論に回帰してくる、ということかもしれません。なぜなら別役実の「尾形亀之助も、そうした原理体系がないがために、『おおやけ』と『わたくし』が相互に入り組む事情の中に或る空洞を見出し……しかし彼は、その空洞に於て、障子紙一枚の厚さに於て、『手足をバタバタさせる』事によって可能な一つの方法を、我々に示唆したのである」とする言葉への応答が【2】であり、亀之助の詩にはすでに言葉を「暗号」と、主体を「空洞」とすることで、逆に〈私〉の所在を確かめようとする地点的な欲望の系譜を確認できるからです。裏返せば、別役実の言語感覚が大きな影響を与えたアングラ小劇場に〈私演劇〉への「問いかけ」はすでに胚胎していたと考えられるわけで、〈私演劇〉の徹底はアングラ小劇場の「手足のバタバタ」が徹底されたところにある、ゆえに【2】の論考へと螺旋状に回帰してくることになるだろう、と言うのもやぶさかではないわけです。
その試みの失敗が【8】の平田オリザ論になるのですが、さて、最後はどうなることやら、です。
2 大澤聡「三度目の正直」(登壇)
面白かった。尾形亀之助の語法と人生との結びつきはもう少し説得的にできたのではと思うが、長い文章にありがちな詰め込みすぎもなく、対象も傍証も絞られていて論旨がクリアーなので、苦にならず読める。強いて言えばもうすこし全体に(特に柄谷の風景論の要約と、実質「5」と「6」の二章にまたがっている結論を)切り詰めたいのと、時折挟まれる「ぼく」視点がやや鼻につくこと、長さの割に結論のパンチが弱いことは気になったが、いずれも好き嫌いの範疇か。次回も期待。あと一般的に一重鈎が外で二重鈎が中なので、これはなおした方がいい。
3 渡部直己「小説の『自由』度について」(登壇)
問いを提示しつつ読者の興味を駆動させながら読ませるスリリングな文章は、前回に引き続き見事。議論の前提を丁寧に読者に共有しているのもよい。だが、「Ⅲ」における人称法をめぐる議論は恣意性を感じる。また約7,ooo字の論考に三度の転調があるため、議論の筋道を読者が追いづらくなっている。もう少し議論を整理する、もしくはテーマ自体を絞ってしまってもよかったかもしれない。とはいえ、前回に引き続き筆者の力量をたしかに感じさせる出来。
4 保坂和志についての評論を執筆せよ
冒頭から前置きなくテーゼとそれを例証する引用文が示され、読者を引き込む手際は流石。「『なる』への力学」「『猫』の語が要請する意味のベクトル」「猫的運動性のリズム」等々、言葉のチョイスも上手い。また、3章4段落や6章の最後から3段落目など、論全体を引き締めダイナミズムを与える間の取り方や断定口調の挿入も効果的。一方、最終段落でヤコブソンの換喩を引用するまで、固有名(および概念)が挿入されないのは、批評文としてはやや物足りなさを感じた。また、言い回しが巧みで読者を納得をさせたまま最後まで読み進ませる力があるのだが、今回は各章の議論が少々思弁的/抽象的過ぎ、輪郭が曖昧な印象も。
5 斎藤環「アニメ『この世界の片隅に』を"批判"せよ」(登壇)
ブロックごとに様々な概念や固有名が飛び交いながらも、しっかりと議論を追うことができ、かつスリリングな読み応えもある。導入での問題提起も短い字数で読者を引き込むものになっている。「内面の声の前景化」も作品の細部を捉えているし、「換喩の隠喩化」といったフレーズも外連味があって好ましい。結論部はやや凡庸な地点に到着しているが、その過程には筆者の力量をたしかに感じさせる。
6 さやわか「『10年代の想像力』第一章冒頭を記述せよ」(登壇)
「本書は~」という構えで、一冊の書物の冒頭への擬態意識が非常に高いのは、個人的には好印象。議論全体を通してもクオリティが高いのは疑いないところ。文字数に関しても、議論が良く整理されているためか、17,000文字という見た目ほどに長さを感じることもなかった。SEALDsと初音ミクという新しい切り口で語ることを求められる対象に正面から対峙する姿勢は好感が持てたし、初音ミクが思い入れのある対象であることは分かるのだが、それを論じる「初音ミクとAKB48」以降の後半部分が「10年代の作品(群)を取り上げ」という課題に対して期待するものだったかというと、疑問も残る。「リアリティの二側面」と「一人歩き始めること」のふたつの章での暴走Pの歌詞の読み解きに、読者を置いてけぼりに先走る感があり(まさに「暴走」すること自体は全く悪くないし、「ある種、陳腐にも〜」と自己言及もしているが)、問題は先走られた読者に対し、「初音ミクとAKB48」の最後で言及している「文化的想像力」の輪郭をクリアに提示することなく議論が収束してしまっていることではないだろうか。それから細かい点だが、役者の動きをCG化するのが「3次元の2次元化」というが、そのCGが仮想3D空間の中で制作されると考えると、2次元化というのは少々腑に落ちないところがあった。
7 最終講評会模擬試験
※爆死。1665字。何も論じられていません(笑)。
8 黒瀬陽平「『日本文化論』は可能か」
思想家などの概念の引用を接続しながらまとめられているためか、これまでと比較して議論が整理されている印象。それらの積み重ねの末に辿り着く、自身の専門分野である演劇分野での見立てが最も興味深く、「今風に言えば「悪い場所」は「キャラ化」を強制する」という指摘も冴えている。しかし逆に言えば、思い付いたことへ話が流れていく印象がない分、従来の魅力が失われている感も禁じ得ないのが悩ましいところ。前回講評で佐々木さんからも同様の指摘があったが、両者がトレードオフの関係にあるのだとするなら、個人的には、従来のあちこち寄り道する議論にこそ筆者の文章の引力があると感じる。
9 鴻英良「21世紀初頭の身体表象……」
基本的には面白いのだが、中盤から議論が駆け足になり、思考をリアルタイムでお届けしている感が出てしまっている。肝である『再生』のJ-Popの役割も、「踊りたくなる(分かる)」→「いま踊っているか/いま踊っていないか(まあ分かる)」→「判断する主体が存在しない(!?)」と、やや強引。そして『ケモフレ』にあまり触れられていないので、「フレンズ的身体」という語がいまいち効いてこない。というか最後を見る限り書くべきだったのは地点論なはずで、ちょっと今回は全体的な(分量&時間の)配分に失敗したか。あらかじめ、これくらいの字数でこれくらいの要素に触れる、という目算能力(というか感覚)を獲得したい。とはいえ最後、問題の指摘から一歩進もうとしたことは評価したい。
補論
『再生』論だけに絞って簡単に論じ直したもの。
東京デスロック『再生』はなぜ「多幸感」へ行き着くのか―批評再生塾No.9より - 飛び地(渋々演劇論)
伏見さんによる批判的な応答。
10 岡田利規についての評論を執筆せよ (登壇)
長い。しかし以前のように脱線に伴う長さではなく、純粋に議論に必要な長さだ(通読に集中力を要する長さでもあるが)。「公共圏」の要否と「上演」の要否を重ねるパラフレーズは問題設定として分かり易いし、『三月』の「多人称」と『現在地』の「多時制」的という解釈もクリア、各時制での「天使/幽霊/人間」への/からの「まなざし」の分類にもJ=ジャンクの解釈とベンヤミンの引用が効いているし、「役割語」や「考現学」といったスパイスの挿入も単に特殊効果を狙ったものではなくロジック構築に寄与しているため破綻がない。ひとつひとつの議論を丁寧に追うのは骨が折れるが(プレゼンの様に図表やマトリックスが欲しくなる)、今回はロジックの通りが貫徹されているためある種パズルゲームの解法を目撃するような快楽を覚えた。しかしこの評価には、本稿筆者のこれまでの議論の蓄積により問題意識を共有しえているという、下読み委員特有の事情も影響していると思われ、筆者の論考初見の読者と問題意識をいかに共有しえるかという課題に対しての検討は必要かもしれない。
11 蓮沼執太についての評論を執筆せよ
著者の新しい書き方を見た気がする。短く内容もまとまっていて、いいのではと思った。が、まだ拙い。例えば中盤以降國分功一郎に頼り過ぎてしまい、「中動態」という便利ワードに自身の「未成の時間」というキーワードが負けてしまい、最初から「中動態的な時間」でよかったのではという気分になる。また、最後の田崎の論が補助線として引かれる必然性が担保されていないため、終盤は自分の興味にむりやり引き付けたように見えてしまう(翻って途中で「例えば神」と出てきたのも強引に見える)。論自体はうまく纏まっているので、あとは分量を膨らませないまま、文献を過不足も異物感もなく援用する技術を身につけたい。
番外編 「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーションレビュー」
11月14日に開催され大きな反響を呼んだ、ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾「岡田利規についての評論を執筆せよ」を受け、『三月の5日間』リクリエーション公演とのコラボレーションが決定。受講生によるレビューの公開、それを踏まえての公開討論会をチェルフィッチュのホームグラウンドSTスポットで開催します。
討論会のための私的整理
https://chelfitsch20th.net/genron/1087/
12月10日(日)STスポットにて開催された、ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション 公開討論会。塾生によるレビューを踏まえ、司会進行の佐々木敦氏と13名の批評再生塾3期生による白熱した議論が行われました。塾生渋革まろん氏による『三月の5日間』リクリエーションレビューまとめとともに、公開討論会の全編が見られるアーカイブ動画・写真も合わせて当日の様子をお届けします。
13 宮台真司「蓮實重彥の功罪」
2章までの映画的時間、演劇的空間の議論はクリアなのだが、その後の展開がぼやけてしまっている印象。章分け、かつABCで区切っているのだから、本来は易くて然るべきなので、著者が思っている以上にシンプルに各ブロック最後でまとめる、かつブロック毎の接続を明確にするという作業が必要なのだろう(提出後のTwitter上のやり取りが補足となって本論の理解が進む感があったので、本論に予めそのクリアさを盛り込んでおきたい)。蓮實の句点を排した文体が映画の「瞬間の運動」の模倣なのだとする、これまでにも数々見られた(であろう)見立ての理由にも説得性はあった。しかし4章の冒頭で自ら記述しているように、蓮實が映画そのものを模倣したから演劇的空間を論じられなかったという点は「自明」である点に論全体が回収されてしまっているように見え、この構成であれば読者はその後の数パラグラフでその転覆あるいは説得性のある説明の提示を期待してしまわないだろうか。演劇という主題に引き寄せるのであれば、やはりトーキー的映画館の空間=演劇的空間を取り上げ蓮實の論じ方を考察するのも手だったか。
14 黒沢清についての評論を執筆せよ (登壇)
『CURE』の印象的なシークエンスを配した導入がいい。扱われる問題設定もおよそ黒沢作品のほとんどすべてに通底しているテーマなのだが、記述自体はほぼ『CURE』の作品評と呼ぶべきものになっている。手マティック的な『CURE』読解はおもしろく読み応えがあるのだが、それを敷衍するべく配された「4」はやや恣意性が高い。というよりもそこでの主張が真っ当であるがゆえに、ほぼすべての映画は「私映画なのではないか?」という問いを導いてしまう。結論部で述べられる「おそろしさ」を前面に打ち出しつつ、作家評としてまとめるなどの手もあったかもしれない。とはいえ読者の興味を駆動する文体、レトリックは論者の実力をたしかに感じさせるものになっている。
15 東浩紀「批評とはなにかを定義せよ。」(登壇)
面白く読んだ。普段のように、考えを突き詰めていった末に過度に抽象的な話に陥っていないのがいい。ただそれに似た構図は今回も見られ、3までの明晰といっていい東浩紀読解のあとに、「使えない批評」の記述が急に印象ベースになり、論理の代わりに「イナゴ」という隠喩=イメージで語られるようになる。今回に関してはまだ存在しない未来の批評を語るのだからしかたないとはいえ、やはり急に根拠が弱くなった印象は否めない。それに拍車を掛けるのが4以降短い間隔で二度使われる接続詞「ところで」。これは前の文章とどの程度つながり/切断されているのかが曖昧な接続詞なので、読者が迷子になりやすいだけでなく、「あれ、ここ筆者のなかでもつながってないのでは」という印象まで持たせてしまう。今回はそれが論理が弱くなるところと重なるので、話題の接続に苦しんだように見える。とはいえそういう細かい点を指摘したくなる程に、全体はしっかり読めた。
16 大澤真幸「『言葉は存在の家である(Die Sprache ist das Haue des Seins)』ハイデガーのこの命題を(批判的に)解釈しつつ、言語と思想の関係について論じなさい。」(登壇)
地点を正面から論じただけあって、岡田利規回で見せてくれたような議論の掘り下げ方で面白く読んだ。ハイデガーとの格闘で一部込み入った思索が入り混むものの、今回はより広い読者に向けて目線をチューニングしたであろう、比較的高いリーダビリティがポイントか。「X=存在」の捉え方について、ハイデガーの「運命の歴史」と地点の「デタラメな暗号」を対置したことで論にダイナミズムが生まれ難解さをほぐしているが、これが論者の持つパーソナリティとも符号しているようで腑に落ちた。積極的に援用すべき方向性かも。気になったのは「沈黙」を「零記号」と見立てる箇所について、見えない句点、つまり発語/発話の後の空白を「零記号」とするなら、沈黙劇の沈黙については別の捉え方が必要ではないだろうか。とはいえ、前半に提示されていたソーニャのセリフのカタカナ表記が時枝の零記号で読み解かれる様は、これまでの論者の文章の中でも特に構成面で成功していると思う。
17 國分功一郎についての評論を執筆せよ
まず1章の人との出会いにより思考をもたらす/思考がせり出すという読解まで丁寧に進むが、1章末の「國分功一郎とは、生成変化を運動させる欲望機械の別名である」というテーゼには少し違和感を覚えてしまった。というのも、仮にドゥルーズやニューアカの読者層も想定すれば「盛りすぎ」の表現に思われたからだ。今回は論者にしては珍しく少し國分という人物/テクストの紹介/ダイジェストの分量が多い印象もあるが(特に2、3章の「暇と退屈の倫理学」を取り上げた部分)、ものごとを楽しむ在り方=生成変化の欲望における「楽しさ」が退屈の病から来ているという指摘には納得。続く開き直ったような『少女終末旅行』の突然の挿入もあって、3章自体が構造的な断絶感が強いが、「國分的楽しさ」と「退屈から生まれたセカイ系」、あるいは「終わりなき日常」と「終わりしかない日常」の対比は面白く、これが論者が書きたかったことなのだと納得する。その反面、この断絶感を埋めるためにも、國分の退屈論の延長としての議論から、國分の提示するなんらかの概念に本結論部の絶望を切り開く端緒を見出すなりすることで議論が國分に戻ってくる手もあっただろうし、そうすることで『少女終末旅行』の挿入の必然性も担保できたのではないだろうか。
「トマソンのマツリ」(2018.0120-21)終了しました。
「トマソンのマツリ」終了しました。ご来場いただいた皆様ありがとうございました。
両日、満席となり、これは「トマソンのマツリ」はじまって以来の快挙です(笑。
トマソンを「マツル」という、非常に抽象的でふわふわした試みではありますが、実際に会場に足を運んでいただけて、当たり前のことかもしれませんが、やはり、こういう風に何だかよくわからないものへ向けて、なんだか人が集まっている状態は、とても良いことだなと感じたし、興味をもっていただけたことに、とても感謝しています。
ところで、今回の「トマソンのマツリ」は、情熱のフラミンゴの服部さんと、当初からトマソンのマツリにて活躍している稲垣くんの二人が奉り手となっています。稽古では、それぞれがトマソンとの出逢いから受け取ったものを、何らかの「かたち」にしてもらいました。
だから、一般的にイメージされる演劇作品が、集団である「完成品」へと向かうことものだとしたら、「トマソンのマツリ」における上演は服部さんと稲垣くんが「トマソンをマツル」とどうなるか、そのテストケースにあたります。いわば、上演それ自体が、奉り手がどういうふうにトマソンと出逢ったのかを示す「出逢いのドキュメント」でもあるわけです。
次のようにも言い換えられます。上演は「無用化されたものたち―トマソン―の存在を出現させるためのチャレンジ」であり、「トマソンのマツリ」というプロジェクト全体の一切断面である、と。上演は奉り手も含めてトマソンのマツリに参入する「窓」のようなものなのです。
ですので、「トマソン」に興味を憶えたみなさまも、どんどん「トマソンのマツリ」に参加していただければ、望外の喜びです! なにしろトマソンのマツリの目的は、50〜100人くらいを母集団にして、トマソンの見えないネットワークを増殖させていくことにあるのですから。
いや、もはや「トマソンのマツリ」をきっかけにして、トマソンを認識する第三の目が開かれたことでしょう(笑)。「東京には幽霊が出る。トマソンという幽霊である」といったのは、赤瀬川原平御大でした。それは無用であるがゆえに「なかったこと」にされますし、実際に社会的に意味のある機能を持たないものですから「無」も同然です。しかしそれはある。
4月から、また「トマソン観察会」も定期的に開催していこうと思います。はっきりって、こっちは単なるまちあるきです。いや、単なるまちあるきだから面白いわけですし、むしろこっちが「トマソンのマツリ」の本体といっても過言ではない。「自身にとっての謎なもの」を探索しながら、一人でブラブラする会です。
それでは、またいつの日か!
トマソン稽古日記1(20170119)
『トマソンのマツリ』
構成 渋革まろん/出演 稲垣和俊・服部未来
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日程 | 1月20日(土)・21日(日)
各日19:00~
会場 | 浮ク基地(調布市上石原1-27-33 2F)
観劇費 | 1,500円(当日精算)
予約申込 | tomarumaru@gmail.com
件名に「トマソンのマツリ」
本文に「名前・日時・枚数」を明記
アクセス | 京王線西調布駅より徒歩1分
(京王線新宿駅より西調布駅まで約25分)
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今日のけいこは、なかなかに発見があって楽しかった。
ただいま、1月20日・21日に開催する「トマソンのマツリ」のためのけいこをしています。構成はぼく、出演は稲垣和俊・服部未来の二人。スタッフはなし。ご飯会のごはんを田中ゆかりが振る舞う。
とてもミニマム。
稲垣君とは、「座・高円寺劇場創造アカデミー」で知り合い、それから宇宙の秘密が開示された太田省吾の「更地」上映会を蝶番に友達化しました。
また、未来ちゃんは、情熱のフラミンゴのメンバーで、ダンサーです。実は―もなにも―「トマソンのマツリ」名義で、せんがわ劇場演劇コンクールに参加したことがあるのですが、そこで「情熱のフラミンゴ」と出会い、未来ちゃんとも出会ったというわけです。
世の中、批判も時には大切ですが、お互いに対するリスペクトと適度の無関心が人と人が付き合うことの大前提にあるとしたら、情熱のフラミンゴの皆さんはそんなふわっとした無関心とリスペクトでポジティブな付き合いを許容してくれる懐の広さがありまして、昨年同様、会場も西調布にある彼らのアトリエ「浮ク基地」を使わせてもらいます。
それでこの「浮ク基地」、今年は新しくリニューアルオープンしたとのことで、そそくさと足を運んでみますと、なんと二面ガラス張りで窓ガラスからは墓場が見える、ゲゲゲ的ファンタジスタ空間に移転していて、センスオブワンダー。
センスオブワンダーな「浮ク基地」と、宇宙の秘密を分かち合った稲垣君と、ふわっと仲良くなってきたリスペクトな未来ちゃんと、栄養士学校に通って一年経つゆかりさん。
これくらいのミニマムな関係性で、演劇が始まるというのは、とても良いことだと思う。
何かときに演劇は大量の関係性と労力と才能と時間と青春と資本を動員しないとダメな感じがするし、あるいはそのためのステップを踏んでいくことが成功の条件だとされて、その結果できた作品の価値がそのまま演劇の価値であるように受け取られがち。実際それに最適化された形で演劇の供給システムもできている。でも、作品を絶対の価値とする秩序の内部では見えなくなる、演劇っぽいなにかが、散逸して偏在して、確かにあって、僕はそれはジャンルとしての演劇とは全然関係ないものだと思う。それはそれ、これはこれで、そこ混同しないこと。
混同しちゃって作品の病に囚われると、ロクなことがない。別にもっと好き勝手に、そのへんの路上や家や公民館の会議室Aで、こっそりやったらいいし、一人でもふと思いついたらやったらいいし、ちゃんとコンセプトと志しと遊び心があれば、そうした小さく断片的な演劇っぽいものたちは、きっと接続されたりされなかったりするのだと、まずは認識してみせたい。そんな不可視のネットワークがこの世にあるのだと理解したい。
例えば、発表される作品の価値が絶対だと信じてしまうと、稽古はそのための手段に過ぎないように見えてくるけど、実はそんなこと全然ない。稽古場に集まる、ということそれ自体が、やっぱりとってもスペシャルな時間だし、勤め先で交わされる円滑な関係性や目的のあるコミュニケーションとは全然異質の、なんだか3人いて、どうしよう今日なにしようとか言って、じゃあヒップホップダンス踊ろうとかって踊って、なんになるのかわからない「トマソンの模倣」を練習して見てみるんだど、やっぱり何でそんなもの見てるのかさっぱりわからなくなって、困るっていう時間はすでに演劇だ。と思いたいのです。
そんなこと思って一体なにになるんだ? とか言われても、少なくとも僕の関心は、もっぱらそこにあるのだし、なにやらジャンルとしての演劇に長いこと惑わされてた自分のマインドのOSを再インストールしたい気持ちにかられる12月の久々の稽古。
これくらいの関係が揃えば、別に「頑張んなくても演劇は普通にそこにあってはじまる。ホームパーティ開くくらいのカジュアルさ。若干違うのは異界の扉がちょっと開いてしまうくらいのことで、そんなのは脱サラするより気軽な冒険だし、病院から脱走してペンギンみたいに歩いてくおじさんと遭遇するくらいには普通のことだ。普通の演劇だ。この普通さをどうしたらとことん肯定できるだろう?
と、テンションアゲアゲになってしまった哀しみで、今日の稽古記録と発見を書こうとしてたら、全然関係ないこと書いちゃったので一回スマホを置きましょう。
でもやっぱ今日の稽古で未来ちゃんが発見したワンダーな発見を記録しておくことにするんだけど、トマソンにはドープとチープな二つの系統があるらしい。全く驚きだけれど、今までその存在自体が異様な雰囲気を発していたり、換喩的に都市のトロープになったりしてるトマソンを「存在系」と、本人無意識なんだけど自動化して反復的に生じてる微視的な仕草を「身振り系」と命名してたんだけど、これ確かに間違ってはないんだけど、未来ちゃんによれば、それは「dope」か「cheap」に由来する違いだったことが明らかになりました!
例えば、この分節を使って次みたいな言い方ができる。
稲垣くんは、30種くらいのトマソンを模倣できて、それらの生態系が彼の身体のうちに巣食ってるわけだけど、彼はどちらかというと、誰も見ていないような、見つけたとしても「ふーん」と思えるような微視的でチープな身振りに感応する人で、逆に僕は受け止めきれないオーラを放つがゆえに無視されるドープな人たちにフォーカスすることが多い、と。
豊かに充実した身体を持つ人はとってもリッチ。良い演技やダンスはそういうリッチな身体を志向していくものなのに、稲垣くんなんかは、チープな身体をチープなままにどうやって存在させていくかを課題にしているということなのです。
なるほどなー。良い発見。
批評再生塾 × チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション討論会のための私的整理
チェルフィッチュの伝統芸能化/谷頭さん・イトウモさん・なかむらさん
チェルフィッチュ『三月の5日間』リクリエーション討論会に備えて、みんなの論考を読んでいったことへのリアクションをまとめてみます。
ただ、どうしても全員触れることができなかったので、その点、すみません。また、完全にぼくの視点を貫徹してますので、各レビュアーが、ここで書かれていることを意図して書いているいるわけではない(はず)です。あと、誰が正しいのかゲームを興じるつもりもないです。という前置きから、まず、谷頭さんの論考の次の一文が気になりました。
それはチェルフィッチュという演劇の「型」を継承することではないか。
谷頭さんの本意でないかもしれませんが、この視点は、ぼくからすると、ずいぶん普通の演劇になりましたね、芸能ですね、前衛としての、出来事としてのチェルフィッチュは完全に終わったんですね、これからは型を再生産して保守化していくんですねって、引導渡してるように読めます。実際、片面で、本作がそう見える可能性は否定できない。
ノームコアの運動から〈普通=現在〉の問い直し/伏見さん
上演を観ているとき、私は「まるで『三月の5日間』の夢を見ているようだ」
タテの記憶とヨコの記憶/太田さん
消えない過去からのまなざしを板橋・朝倉に見て取る/寺門さん
希薄だから退屈でつまらない
希薄さはネット以後のコミュニケーションを意味する/小川さん
山縣太一とチェルフィッチュの話
まとめ―ヴァーチャリティへ/ユミソンさん・大山さん
私たちは全てを知ることはできないし、世界のあちこちで起きていることについて、知識として知ってはいても肉薄をもって語ることができない。何をどれくらい知らないのか、わからない。
他者に見る「知らなさ」の所在はどこにあるのか。それは寛容だ。自分とは違う何か、自分が知り得ない/分かり得ない、「他者/知らなさ」は、知ることを求める代わりに、他者の輪郭をなぞる。……「他者/知らなさ」は、不便だが、自分の世界と同時に知らない世界が存在する可能性を作ることができる。
この「知らない世界が存在する可能性」を、僕は自身の論考で「イメージの潜勢力」と呼んだのだと思います。それは、白昼夢として夢見られることの外部にある「顕在化しない」現実への想像力。想像可能性の想像です。だからここでは、「夢」という比喩は無効なのではないか。「夢」は現実と非現実を分割して、観客席に現実を、舞台の側に非現実=虚構を割り当てるように機能していく(ゆえに非現実である虚構がなぜリアリティを持つのか?という問いそのものが可能になる)。「現実/虚構」のフレーミングを「夢」は再生産しますが、チェルフィッチュから思考される〈現実〉は、夢から覚めてもまた夢、であるような、〈いま・ここ〉に現前する「それ」がどこまでも「リアルに肉薄」してこない、観客もまた夢の世界の一員として―だから8人目の俳優として―そのたびごとに「想像」することでしか汲み上げることのできない記憶のプールなのではないか。
「健康な街」にイケボが鳴る。そして、石は沈黙している。
新芸術校グループB『健康な街』展 レビュー
トーキョー小劇場ではない、なにか。/演劇活性化団体uni『食べてしまいたいほど』
『食べてしまいたいほど』は、練馬区を拠点にする演劇活性化団体uniが地域リサーチをもとにして演劇製作をおこなう「ちょいとそこまでプロジェクト」の「高松編」第一弾として上演された。高松は練馬区にあるまちで、最寄り駅は都営大江戸線の「練馬春日町駅」と、新宿から電車で20〜30分の距離にある。
「アートで町おこし」を目論むアートプロジェクトは00年代から流行を見せ、大規模なものでは「瀬戸内国際芸術祭」や「越後妻有アートトリエンナーレ」、そして東京でもコマンドNが「UP TOKYO」をキーワードに「TRANS ARTS TOKYO」を開催するなど、一定の成功をおさめている。10年代に入ってからは、それが実質的に地域コミュニティを再活性化するものではなく単にアートの地域搾取ではないかという批判の声も聞こえてくる。
uniは法人ではなく任意団体であるわけだが、コミュニティデザインに演劇を活用する志向性は、「アートで町おこし」の演劇版とも言えるだろう。演劇の分野でもそうした動きは着実な広がりを見せていて、東京の劇場であれば、地域コミュニティの拠点になることを目的とした杉並区の公共劇場「座・高円寺」の先駆的な活動が挙げられる。それは、サブカル消費のマーケットに根を持った小劇場演劇とはまた別の領域で、独自の展開を見せている。
しかしコミュニティアートと同様に、演劇と地域がインタラクティブに良好な関係を築き、さらには地域との関わりが「新しい演劇」のオルタナティブを生み出すことができるのか、に対しての答えはまだ出ていないように思われる。また、その「新しさ」を評価する視点が、演劇批評の側からある種の言説をともなって問題提起されることもほとんどないのが現状だ。そうした状況下で、uniの活動は小劇場演劇のメインストリームと外れてはいるが、しかし一方で素朴な実感から演劇の了解コードを再編成する「未成のパラダイム」へとリーチする可能性を宿している。
『食べてしまいたいほど』に話を戻そう。これは高松のリサーチからつくられる「まちの演劇」だが、僕はこれを「まちの演劇」とはあまり思えなかった。その上演の雰囲気からすればむしろ「ムラの演劇」と言ったほうがいいかもしれない。つまり僕はこれが新しい「ムラ芝居」なのではないかと思えたのだ。
会場となる「みやもとファーム」に着くと、プレパフォーマンスが行われる。駕籠を運ぶ俳優たちの後について高松の地域をぐるりとまわるのだ。二列に並んでぞろぞろ歩く一行に、道端の人たちは面食らった顔。新築モデルハウスの受付をする男性の戸惑いや、直売所のおばちゃんの「天気になってよかったね」といった声掛け、子どもたちの「行ったことあるところまでね」とついてくる姿に、高松の新旧入り交じる住民の「顔」ぶれが浮かび上がってくるような体験。このまちにとっての半分「異物」である「uni」の姿がパフォーマンスされていく。そして、僕にはこの「まちあるき」が彼らの試行錯誤する―古くて新しい―演劇のジャンルを示す上で、非常に重要なものであったように思えた。なぜか。
この「まちあるき」によって、uniの上演する演劇が完結した「作品」ではなく、まちとの関係性が場に織り込まれていくプロセスそのものであることが示されるからだ。俳優たちは「ファンタジー」と言っていい、歴史的な実在性を持たないシミュラクルの衣装/意匠をまとって歩く。つまり、アニメのなかから抜け出してきたような疑似日本的な風情で、だ。だが、この衣装/意匠が、そこに住む人々とのあいだに微妙かつ独特の緊張感を作り出している。
例えば〈ここ〉が劇場のなかであったならば、その衣装/意匠は現実との接点を覆い隠すことで劇場と現実を分断する装置として機能するだろう(現実を忘れる一夜の夢)。その意味でとても自然なものになる。また、秋葉原あたりに置かれれば「コスプレ」になるだろうし、新宿に置かれれば「大学生のイベント」として消化されるだろうし、高円寺だったらパチンコ屋のコマーシャルとして扱われるだろう(高円寺では実際にパチンコ屋のCMをするちんどん屋がいる)。
しかし、それが虚構によって組織された「トーキョー」と微妙な距離感を保つ場に置かれると、「異物」ではないが、かといって「異物」でなくはない、ゆえに土地の人達に完全に排除されるわけではないが、奇異なまなざしは招き寄せ、個々のリアクションを引き出していく反射材として働き始めるのである(ちなみに高松も東京都内であるが、そういう行政区画とは別に、心理的区画の単位で高松は「東京」と距離を持つ)。
つまり、俳優たちの特に何の説明もなくファンタジーな衣装を着て歩き、各所でなぜか法螺貝をふく―いわばトーキョー小劇場的な―根拠なきシミュラクルの身振りは、こと高松においては「リアル/シミュラクル」の分割線そのものを顕在化させながら、土地にある種のゆらぎを生じさせるパフォーマンスとして機能しており、それはそのままuniの実践がそうした実践であること、ファンタジーの回路からまちとの関係性を織り込んでいく「ねりあるき」であることを象徴的に示すのである。
上演でも語られるのだが、2006年(だったと思う)に環状八号線が通った影響で、高松八幡宮が道路を挟んで向こう側に引き離されたらしい。これをひとつの象徴として読むとするなら、高松は村落共同体が解体され切ってはいないが、再開発による土地の解体も進む場所である。この「半-共同体」をここで「村」ではなく「ムラ」と呼んでみれば、uniは土地の物語に意味づけられた村落共同体と、故郷を喪失し虚構を生きる糧にするトーキョーとのあいだに立ちながら、その「リアル/シミュラクル」の緊張感を新たな「場」の創発へと方向づける「ムラ芝居」の実践者であることになる。
それは、トーキョーから来訪する人びとと土地に住まう人びとに引かれた「トーキョー/ムラ」のあいだの、また「uni/高松」のあいだの分割線をリミナルに混乱させていくものである。このリミナルな混乱は、会場となる「多目的納屋」―もともと農園の納屋として使われていた建物を包みこむように新しく小屋が増築され小屋イン納屋となったスペース―の奇妙さや、劇中で(多分)特産物を紹介するためのコーナーとして挿入され観客と俳優がみんなでうどんを黙々と食べる謎の時間―劇を見に来たはずなのに!―でも繰り返し喚起される。なによりも、四面客席が地域の観客の顔ぶれを可視化することで、上演と観客のあいだの緊張感そのもの―uniと地域のあいだの緊張感そのもの―を上演に組み込んでいく運動性が、メタ演劇的にuniの試行錯誤のプロセスを明かしていく。
もしかしたら、意図されたものではなく「自然にそうなった」のかもしれない。しかし、そこには地域と演劇の関わりがなければ生じなかった「関係性のプロセス」の磁場が確かに息づく。それが、本作を「トーキョー小劇場」の再生産であるような、だから結局のところ自劇団の動員ゲームのコマとして地域を利用するような「まちづくり演劇」とは一線を画すものにしている。
とはいうものの、『食べてしまいたいほど』は「上演作品」単体としてみれば粗が目立つ、美学的洗練を欠いた作品にみえるかもしれない。少なくとも僕にはある点ではそのように思われるし、時空間の構成や身体の強度に対するアプローチはより良い選択肢もきっとあるに違いない。だが、『食べてしまいたいほど』は演劇作品をTUTAYAでレンタルされる108円のDVDと等価にするマーケットの論理が「作品」消費の終わりなき運動を組織していくのとは別のところに「演劇」を構想するものだ。それは共同体の「記憶」へとアプローチしながら、その「記憶」と「現在」が交渉する場を「演劇」として組織していく生産的な「活動態」であることも、また確かなのだ。僕には小劇場演劇の内部では見えなくなってしまうこうした「小さな演劇」の地道な活動に、何かしらポジティブな足場を築くあゆみが感じられて、ならない。
もちろん、高級芸術(ハイアート)と民衆芸術(マージナルアート)の、演劇のための演劇と、生活のための演劇の対立は20世紀の演劇シーンで繰り返されてきたのであるから、この「一歩」が実際にどういう「ポジティブさ」の足場であるのかは、きちんと考えられなくてはならないし、そもそも僕の「市場」をまったく拒否するような目線は、単に「マイクロ・ユートピア」幻想への逃避に過ぎないとも言える。だがしかし……と言いうる言説の可能性の探索は、また別の機会に譲るとして、これから少なくとも3年間は継続されるという演劇活性化団体uniの「高松」での活動を注視してみたい、と思う。
※
また折を見て触れていきたいが、西調布にアトリエを構える情熱のフラミンゴは「パーティー」として劇を組織している。これもまたuniとは別の角度から「関係性を組織していく」演劇の現実的な側面を「作品」の虚構内へと織り込んでいくメタ演劇的な実践を為す一例だ。
「作品」の内部では完結しない、あらかじめ「活動」のコンセプトが意図的に織り込まれた作品群は、「作品」のレベルで観客との緊張関係を創り出すというよりは、上演が組織する「創発的な関係の作り方」において〈現実〉と対置される「集まり方」のフィクションを生み出している。いわばそこで「観客」は「作品を見る鑑賞者」と「上演に組織される参加者」に二重化され、それを同時に生きるのだ。
この現象を鈴木忠志が言うような「劇団というフィクション」で説明することはできない。観客が出入り自由な「劇団」が関係性を更新しながらネットワークを広げつつ人が組織されるプラットフォームのありかたそれ自体が改変されていくような、「アーキテクチャの生態系」と言いたくなるようなそれだからだ。
この潮流の意味を的確に射抜くには、もう少し時間がかかる。
東京デスロック『再生』はなぜ「多幸感」へ行き着くのか―批評再生塾No.9より
批評再生塾で提出した課題論考と、そのヴァリアントとしての『再生』論です。
論考は、『けものフレンズ』と東京デスロック『再生』を重ね合わせつつ書きました。多分、あまり語られたことのない角度で小劇場史を語ろうとしているーはずです。
ここでは「課題」の枠を離れ、前提知識への配慮をせずに、ストレートに語り直す作業をしておこうと思います。東京デスロック『再生』の概要に触れると長くなるので触れません。論考の方で簡単に書き留めてありますので、参照してもらえればと思います。
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80年代後半から90年代にかけて平田オリザ氏が『現代口語演劇のために』を皮切りに『演劇入門』などを通じて提唱した現代口語演劇は「口語日本語」からありのままのリアルを突き詰めていった。しかし、日本語が「関係性の言語」であるために、「私」が「みんな」の一部としてしか確かめられないヌエ的な集団性を抱え込まざるを得なくなる。そのため、後続世代が00年代を通じて「現代口語演劇の形式化」を推し進めていくと、必然的に「みんな」を増幅していく「日本的情緒共同体」を劇形式のレベルで反復せざるを得なくなってくる。
その象徴的な作品が、J−POPに組織され踊らされる「みんな」を組織する東京デスロックの『再生』である。この作品は、舞台上で「みんな」を描くだけでなく、そこから外れてかろうじて「凝視」の座にいた観客の自律性を麻痺させる。なぜなら、爆音のJ−POPは劇場をクラブ化し、俳優と観客の「見る/見られる」階層的関係を解体して、「踊ってるか/踊っていないか」の水平的関係に変換するからだ。
ここに至って、劇場に組織される日本人的な「みんな」性は、批判的に距離を置く自律した観客を失い、ただ自分があるがままの「みんな」であるかないかが存在の基準であるような排他的なムラ性を再生産する方向に傾く。みんなと同調しない存在はなかったことになり、「日本」の文化複合体的な雑種性を想像的に隠蔽する「ニッポンの球体」はそこから離脱しようとすれば「死ぬ」しか選択肢がない完璧な調和性を獲得する。『再生』は、そうした「ニッポンの球体」から離脱する戦略を、「多幸感」へと突き抜けることで果たそうとした。しかし、その意図は結果的に裏切られる。なぜか。
確かに『再生』は、反復の構成から身体を実在の根を持たない虚構ーシミュラクルーとする「JPOP/Jシミュレーション」に、その場で実際に踊るアクチュアルな身体を対立させる。ところが、そのさらなる反復において、「組織されるニッポン」と「現前する身体」は「みんな」から離脱する乖離的不安の宙吊りに留まることなく、(具体的には照明が徐々に明るくなり、音量のレベルを上昇させることで)多幸感へとトリップしていく。この多幸感は一方で生を断念させる絶望を永劫回帰する生の肯定へと変容させるが、もう一方で「ニッポンの球体」を再生産する「みんな」の増幅装置として働く。
多幸感へ溶け出す俳優の身体は組織化への抵抗の拠点にはならず、さらに観客の身体も多幸感のうちに場の集団性へと溶け出し、結果的にただあるがままの「ニッポン」だけが残る。「あるがままの現実」を描く現代口語演劇の課題は、「あるがままの現実」を組織するネオ現代口語演劇として深化した。
もともと幻想の「終末」を捏造することから逆に「実体のない現在」をムードで肯定する80年代小劇場がとったニッポン的祝祭性の戦略は、そこから「ムード」を差し引き「あるがままに凝視する」戦略を用いた90年代小劇場が悪魔祓いしたはずだった。ところが、「多幸感」をキーワードに舞台と観客の垣根を取り払い、「あるがままのリアルな現在」を多重化する戦略をとった00年代において想像的な「ニッポン」の共同体が回帰してきたのだ。
この構図から抜け出し、みんなしかいない共同体とは異なる「他者たち」からなるパブリックな場を組織することが、ポスト現代口語演劇の課題である。
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論考では、そこまで言ってないのですが、そういうような歴史認識が僕にはあります。
ポスト、という語には抑圧されていた雑多な文化的トポスの無造作な躍動という、ポストモダンと同様の意味あいがありますので、単に現代口語演劇の「次世代」という意味ではありません。
また、ポストモダンにはモダンも含まれているので、自分で考えて判断する自律した個と、他者と関係することから生成される流動する孤、その両者の乖離的な主体を引き受けうけるという固有の課題があるように思います。いうなれば、集団で夢を見ながら醒めているといった矛盾する場を足場にしたパブリックコモンズ。
演劇は、その場で人々の「関係性」を組織する芸術であるがゆえに、アレントによって「唯一の政治的な芸術」とも言われました。ユニークな個と共同体の関係を問うことが演劇の課題であるとすれば、「みんな」でも「私」でもない乖離的な宙吊りの場を組織/非-組織することが、「みんなの生成」へとどうしても傾いてしまう日本演劇固有の課題ではないでしょうか。
批評再生塾に通いはじめ、この1ヶ月くらいでなんとなくこれまで感じていた違和感を掘り当てつつありますが、まだ説得的に議論を組み立てきれていません。まだまだアップデートしていく予定ですので、ぜひ批判的なご意見などいただけるとありがたいです。