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渋々演劇論+α

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

「戦争戯曲集」三部作(2016年版)/私たちの外側へ《私》を運ぶ

観劇:即興スケッチ

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〈戦争戯曲集・三部作〉第3部『大いなる平和』(2015年) 撮影/宮内勝
佐藤信氏に聞く──〈戦争戯曲集・三部作〉8時間完全上演 | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイスより

劇場創造アカデミー6期生修了上演
エドワード・ボンド作『戦争戯曲集』三部作・完全上演
Aプロ:第一部『赤と黒と無知』(演出:佐藤信)&第二部『缶詰族』(演出:生田萬
Bプロ:第三部『大いなる平和』(パート1・2演出:佐藤信、パート3演出:生田萬
日時|2016年2月21日(日) 〜25日(木)

「戦争戯曲集」の紹介

「戦争戯曲集」三部作は、イギリスの劇作家エドワード・ボンドの描く上演時間8時間を超える大作。第一部『赤と黒と無知』、第二部『缶詰族』、第三部『大いなる平和』の相互に独立しつつも一貫して「核戦争後の世界」をあつかった戯曲からなるシリーズ。

本作が執筆された1980年台初頭は、米ソ冷戦を背景に核戦争がリアルな想像力を喚起させた時代。先制攻撃を仕掛けると自分たちも核攻撃を受けてしまい共倒れとなってしまう、相互確証破壊の抑止力が世界の均衡を保っていた。そのなかで、エドワード・ボンドは、実際に核戦争が起こったとしたら・・・そういう想像力を現実にぶつけてみることで、〈現実の世界〉の暴力性や非人間性を逆照射する。ボンドは核戦争後の世界を描き出すことで、実はすでに起こっている〈核戦争後の想像力〉が規定する現実の姿を描き出し、わたしたちに〈問い〉をもたらす。

ボンドはパレルモ大学で「もし自分の子供と他人の子どものどちらかを殺すように軍から命令が下ったとしたら、どちらの子どもを殺すか?」という究極の選択を迫るインプロを行った(パレルモインプロと呼ばれる)。参加した生徒たちの多くは、他人の子供を殺すのではなく、自分の子供を殺すように選択したという。一見したところ、常識と真逆の選択が成されたように思えるが、ボンドはそこに「人間性」の意味を見て取る。「戦争戯曲集」の第一部『赤と黒と無知』、第三部『大いなる平和』(Part1)は、実際にパレルモインプロがストーリー上に組み込まれ、そこに孕まれた〈問い〉を展開するように進む。第二部『缶詰族』は核戦争後の世界に出来たコミュニティを描く。大量の缶詰が残され食うには困らないが、なぜか子どもが生まれない「缶詰族の人びと」のところに、荒廃した荒野を渡って一人の男がやってくる。第三部『大いなる平和』(Part2,Part3)では、核戦争後の荒野を彷徨う「女」を通じて「大いなる/平和」の意味が問い直される。 

私と公共は何の関係もない

身の回りで起こっていることを超えて何かを決定することができる力、それが知性なのだろう。公共を内在化することなのだろう。公共が演じられるものだとしたら、それは半径5mを超えた世界を考慮に入れて振舞われるに違いない。だから公共は自然主義では演じられないのだ。公共が極めて反自然的なフィクションであるゆえに。

信じることのできない信念、価値がないと感じられる価値観を考慮に入れること。それが公共的であるということだ。これは全く自然に反している。非−人間的である。しかし公共とは心地良いものを受け入れず、生理的に嫌悪するものを受け入れる。知性。そうした反自然的な《知性を有した人間による共同体》を公共体と言う。

例えば右翼が多民族の受け入れを考慮に入れた愛国者でなければならず、左翼が民族の自決を考慮に入れた世界市民でなければならないような、矛盾。それを抱え持つ場。公共体である。

『戦争戯曲集』は、いま実現するとは信じられない未来、そんな振る舞いをしたとは思いたくない過去、を扱う。今、日々の生活の中で考慮の内側には入ってこない時間を扱う。公共を扱う。軍隊や兵士のことはどんなに頑張っても想像できないからやらない、と言った演劇人がどこかにいたが、彼は演劇の公共性を知らない。演劇が極めて公共的であるのは、想像し得ないものを想像する知性を必要とするからだ。彼にはそうした知性が足りないことになる。想像できないから想像するのだ。知性を働かせるのだ。

むべなるかな、こうした知性を持つことは実際、かなり特殊なことではある。私たちは日々の労働に忙殺され、何かしら今ここにないものを想像する暇もないのだから。これはわかる。僕もそうだ。第一部『赤と黒と無知』が強烈なのは、僕がいま勤しんでいる生活からは想像し得ない「問い」をリアルに感受させるからだ。兵隊として自分の家族を殺すか、隣人の家族を殺すか、なんて選択は起こりえない。起こりえないからこそ、それは演じられる必要がある、強く感じる。僕の身の回りで今、起こりようがないからこそ。

そして、それが起こりうる状況に置かれたら、もう手遅れなのだ。状況は状況から脱することを許さない(死を持つ以外)。こんな選択しか許されない状況が現に起こる前に、それを考慮に入れなければならない。いや、誤解なきように。戦争反対を叫ばねばならないと言うのではない。戯曲で語られるように、民主主義とは投票権のことではなく、知る権利なのだ。反対・賛成を言う前に、知り得ないことを知る機会を持つこと。

ハイパーリアルな現実

『缶詰族』からは、缶詰に依存することで「ごっこ」でしかありえなくなる社会、というものを感じた。それこそボードリヤールが指摘する現実のリアルをリアルだと感じられず、(例えば、理想化されたネズミであるミッキーマウスなどの)理想化された記号性にしかリアルを感じられない「ハイパーリアルな社会」そのものだろう。

戯曲の設定では「子どもがどうしても生まれない」のであるけれど、「缶詰族」の共同体では単に子どもが必要とされていなかった、のかもしれないと思う。四季のリズムは生産のリズムでもあることは、古代から引き継がれる祭祀が春を呼び込み、世界を刷新していくための儀式であったことからも明らかであるけれど、逆に言えば、生産の必要性が想像力のうちから消え失せれば、時間は止まる。永遠が始まる。そうした状況のカリカチュアなのかもしれない。そう感じられたのも、一昨年の上演が人々の宗教的とも思える共同体的な一体感から人間のアンサンブルが描かれていたのに対し、今年の上演は関係性を必要としない記号化された人間像を前面化いていたからのように思われる。関係性のアンサンブルよりも個別化されたキャラクターが際立ったために、コミュニティが崩壊し、土を耕すことに戻った人々の、土を共有することで初めて生まれる「コミュニティ」が強調された。僕たちは手を動かすことで初めて、「私にとっての現実」を学び、感知できるようになるのかもしれない。

歴史のプレゼント

昨年(2015年)の『大いなる平和』では特に後半のPart.3において、核戦争後の荒野をさまよい歩きながら、ついに救出の手が差し伸べられたにも関わらず、荒野にとどまり続ける女に、神話的な根源から私たちを見つめ続ける「女」を想像させたのだが、今年はそれが真逆になっている。女は「私たちを見つめる」それではなく、私たちが眼差さなければ風化し消え去ってしまう死者のように思えた。最後の全員で骨と化した女を見つめる演出が利いている。

今回、初めてそう思ったのだけど、荒野に残る女とコミュニティに引き入れようとする男の対話は、ある種、擬人化された未来と過去の対話のように見えて、女が「一方は黒、一方は白」と語る核戦争後の荒野の風景が、過去から逃れることの出来ない女と今から初めて学ぼうとする男にとって相貌を変える現実の比喩のように思えたのだ。ナイフは自殺する道具にもパンを切る道具にもなるんだと男が語るように、私たちの現実を作り出す「道具」を決まりきったコードに埋め込んでしまうんでなくて、常にどんな目的にも使いうることを理解することが、希望として語られているように見える。

もちろん、こう単純な図式化は出来ないというか、ボンドは意図的に(だと思うけど)複数の立場の一つに肩入れすることなく並列的に描き出しているからで、「娘」からすれば、男は荒野を体験していないがゆえに、ほんとうの意味で爆弾を作り出す道具の恐ろしさを見落としているだけなのであって、この新しいコミュニティがどうなるかはわからない。荒野に残る女は「死者たち」を忘れられない。殆ど弔いの旅をしていたように思えるその「土地」を忘れることが出来ない。一方で男は「忘れろ」と言う。この対称性のせいで、僕はずっと「歴史を忘却する愚かさ」みたいなのを実際感じていたんだけど、でも今回の上演で「女」は男との対話を通じて憑物が落ちたように、最後、とても穏やかな声を出すのだ。なにか、どちらが正しいというおとではなく、この対話のプロセスを失わないことこそ人間の強さであり、女の言葉は新世代に対して贈られる最後のプレゼントのように思えた。

 

「戦争戯曲集」情報リンク

2017年の劇場創造アカデミー「戦争戯曲集」三部作の公演情報
日時 02/20(月) 02/21(火) 02/22(水) 02/23(木) 02/24(金) 02/25()
11:30
15:30

過去の「戦争戯曲集」の記録