飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

250km圏内『Love&Peace2』について

思い出しながら、メモを残していきたい。

■コンセプトと戦略
今回の250km圏内のキャッチコピーは「観劇文化をつくる旅」。その名の通り、観劇を文化にすることを目標に掲げた活動だった。わけだけれども、これは確かに大切だけれど、あまりにも当たり前のことを言っているようで、いまいちピンとこないところがある。

そのために取られた戦略がこれ。

「演劇は言論の種。劇場は言論の場」

演劇作品を発端にして劇場を言論を交わすための場にしよう、というわけ。あごうさとしさんが「演劇が道具になってしまうのでは?」という趣旨のアドバイスをしてくれたのだけど、小嶋さんの意図としてはまさに「演劇はコミュニケーションのための道具」なのだろうと思う。そして「ゲキジョウはゲンロンの場」という活動コンセプトは現況の劇場が持つフレームを組み替えるような働きかけを持ったコンセプトであったように思う。

★「演劇は道具か否か」とはいかなる問題なのだろう?


■演技・作品・活動
演劇の上演は演技・作品・活動の3つの側面から評価できると思う。
演技と作品は、字義通り。活動は、社会フレームに対する働きかけだ。往々にして、3つ目の「活動」の側面が演劇上演においてはおざなりになりがちで、というのも大抵の上演団体は、活動レベルにおいて「生計を立てる」働きに従事しがちだ。アレントの活動の3つの区別を参照するならば、生計を立てることは「労働」であって「活動」ではない。しかも、その労働形態は賃労働であって、いわゆるサービス業に従事する格好になるわけで、それは本質的に「商業演劇」であって、オルタナティブな価値を示す「小劇場演劇」とは本来は縁もゆかりもなかったはずなのだけれど。

しかし活動とは「存在を示す働き」であり、生命維持の必要性によって強制される労働とは違い、「彼女は主婦である」とか「彼は施設管理人である」のような職能に還元されることのない唯一無二な「わたしの存在」の事実性によって促される働きなのである。(アレントは「演劇だけが活動を示す唯一の芸術である」と規定するが、それは唯一的な歴史的事件を我が身に生きる人間を描き出すのが「演劇」だからだと考えるからのようだ)

だから、「活動」は人間が金太郎飴のように同じモデルの再生産物ではないことを前提にするならば、必ず生じてしまう「はじめる力」のことであり、政治―存在を示す―ことの基礎的な条件となる。この意味で社会フレームに対する何らかの働きかけは全て活動的な側面を持つのであり、小劇場演劇が《生計を立てる》ための商業演劇と対置される根拠は、存在を示す《活動》を生業としているからでしかありえない。

小劇場演劇は言わずもがな、原初的な政治活動なのだ。
(松山のシアターねこで開催したトークイベントにおいて、デモの政治的有効性がひとつのトピックにあがった。そこで僕が思ったのは、劇場はデモのような示威行為の手前にあるのではないか? ということだった。)

それはアートの脈絡で言えば、(シュルレアリスムではなく)ダダ的な行為とも言える。「活動」は、現況の社会フレームではなかったことになっている存在を示す行為によって、その社会フレーム自体を組み替えるような爆発力を有している。というか、それが「活動する」ことの意味であり、正しく政治的な行為となる。例えば、1917年、デュシャンが持ち込んだ一個の小便器が「美術館の制度」を内破していったように。その《泉》と題された作品は、《生計を立てるため》に必要であるような職能とは一切関係ないことに注目したい。それが現代アートのはじまりとなったのは、アートがパトロンの庇護のもとパトロンの注文に応える職人仕事であった時代から本格的に峻別されたことを物語るものであった。

小劇場演劇もこうした「労働」から峻別し取り出された《活動としてのアート》の脈絡に属している。1887年に設立された自由劇場は、何よりまず職人芸からアンサンブルを主体にした演技術への移行を通じて劇場のフレームそのものを組み替えようとした運動だったことを忘れてはならない。生計を立てるためではなく、演技を、劇場を、そしてそこから人間と文化のあり方を組み替えようとした《活動》だったのである。

250km圏内の演劇は、そうした《活動としてのアート》を地で行く。80年代に急速に霞んでいった小劇場の政治性、つまりは活動性を再生する目論見を持っているようである。もちろん、小嶋さんはそんなこと言わないのだけれど。むしろ、もっと感覚的に「演劇についてのおしゃべりじゃなくて、裸の個として働きかけ・働きかけられるコミュニケーションの場」を目指しているし、そもそも小嶋さんがパブリックな場が設定されないとうまくしゃべれないという、ある意味でしょうもない理由から、結構な射程を持った活動がはじめられたのだから不思