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渋々演劇論+α

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

非在の肯定/ヌトミック『ジュガドノッカペラテ』

演劇批評 観劇:即興スケッチ

ヌトミックを見てきました

 

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 劇場創造アカデミー6期修了(だと思う)の藤井さんが出ているということで、誘われて見に行きました。ヌトミックという団体について、僕は全く知りませんでしたが、東京藝術大学出身の額田さん(1992〜)という方が作ったユニットだ、とのこと。詳細はHPで見てもらったがわかると思います。前作『それからの街』ではAAF戯曲賞にノミネートされています。

 

ヌトミック

http://nuthmique.com

 

www.youtube.com

音の演劇へ

会場は「みんなのひろば」という一軒家のような小さなスペース。時間は30分程度の短編。玄関から家(劇場?)に入ると、1Fワンフロアの半分が舞台になっており、黒い長方形のミニマルな美術が背景にいくつかあり、長方体の黒いオブジェが舞台に置かれている・・・。

こうしたミニマル・アートを強く意識しているようにみえる美術は、本作が同じ「ミニマル」の言辞の下に読まれ得るコンテクスを持っていますよ、との背景を説明するようであり、実際に上演された演劇も(そして終演後に配られるパンフでの説明を鑑みて)ミニマリズムを手法とする演劇表現への思考と実践を探求するものであった。

正直なところ物語の内容があるんだかないんだか、僕には理解できなかったので、その文学性について云々出来ないのだけれど、女の子3人(女性ではなく、女の子の属性でもって俳優が表象されていることにも意味があると思う)が言葉を交わしたり音を合わせていったりする様子は自閉的でおよそコミュニケーションなるものが成り立たない世界を思わせる。当日パンフに掲載されていた"台本抜粋"を転載すると・・・


笹岡 くまもんは、しゃべらないから決まらないっていうか、今、気持ち

清澄 ん?

   ああ・・・

   うん・・・うん

笹岡 逆に気持ち悪いっていうか

清澄 え、どういうこと?・・・

笹岡 そうですね・・・あー、うーん、あ、

   例えば、幽霊がいて

清澄 え?あ、あぁ・・・うん

といった具合に会話が成り立たない。上演のテンションが高くなっていく部分では、意図的に会話ではなく文章単位のフレームが反復され、(正確ではないですが)


A「わかってくれ」

B「た」

C「ない」


のように、「わかる」のフレーズが肯定形と否定形の二重の意味を表象するように発語される。まさに、チラシに記載された〈演劇の音から音の演劇へ〉なるキャッチコピーの通り、 交わされる会話の中に突如ループする単語のリズミカルな発語が挿入されることで、音楽のような演劇のような〈何か〉がまさぐられていく。 

ミニマリズムの系譜

「音の演劇」といえば僕は劇団地点を思い返すのだけれども、個=孤として立つ俳優の主体を切り刻んでいくことで獲得されるセリフの音楽性というよりは、ひとつなぎの文章やセリフを複数人の俳優に振り分けカットアップ的手法で音楽性を引き出していく、つまりは発語から生まれた結果的な音楽性というよりかは、そもそもが音楽的な現象を目的とした俳優3人によるボイスパフォーマンスの側面が色濃い。もしかしたら演劇史よりは音楽史に造形が深い人にとって理解しやすいのかもしれない。では、しかし、じゃあこの上演は何を持って〈演劇〉を標榜しうるのだろう?
 
f:id:marron_shibukawa:20161127004458j:plainところで、僕はいま「音楽的な現象」といったけれど、1960年代にアメリカの美術史に登場したミニマル・アート(ABCアート)は、絵画の条件を物体(絵画が描かれるキャンバスのような)へと還元する、つまりは物質的素材をどんな意味も暗示しない本当に全くそのままの物質とみなすのであった(アルミはアルミ、鉄は鉄、木は木である)。ここで絵画は何か日常的な経験を超えて崇高な感覚を与えてくれるものではなくなり、素材のマチエール(材質感)へと蒸発してしまったわけだが、一方でそれは物質と対峙することによって、まるで〈いま・ここ〉で新しく生じてきた〈現象〉を体験するような現象学的なアートの幕開けも意味していた。

こうしたミニマルアートの動向と歩調を合わせるように登場したミニマル・ミュージックもまた、音楽を具体的な「音」へ還元し、その反復とズレから複雑に錯綜しながらも「音のマチエール」の連なりを感覚させる経験を生み出していく点で(今から振り返れば)ミニマルアートと発想の根本を共有していることがわかる(その歴史的は背景はよくわらないが)。
 
重要なのはミニマリズムの系譜においては、絵画・音楽のジャンル問わず、意味抜きの物質への還元を行うことで、〈いま・ここ〉に生起する具体的で現象学的な体験を生み出している点だ。美術批評家のマイケル・フリードが批判的な文脈で指摘したように、ミニマリズムが開示していく地平が、そもそも「音(物質)の現象」からなる〈いま・ここ〉における連続した体験の生起、つまりは〈演劇〉を胚胎しているのである。
 
そして、ミニマリズムに立脚するヌトミックの本作も、セリフの単語をどんな意味も暗示しない単なる物質(音)への還元から、現象学的な体験の生起=〈演劇〉を獲得しようとする試みだと理解できる。つまり・・・


ミニマル・アート    = 美術(物体→演劇性)

ミニマル・ミュージック = 音楽(音→演劇性)

ヌトミック       = 演劇(セリフ→音楽(音→演劇性))

 
美術・音楽のフレーミングにおいて演劇性を現前させるミニマリズムの手法を逆手に取って、演劇のフレーミングに依拠しながらもドラマ性・フィジカル性を括弧に入れるアンチテアトル的身振りを一旦差し挟み、しかしセリフを音へと還元させる物質の現象学から、〈演劇〉を再帰的に現前させる。こうして入れ子状に仕組まれた構造から、ヌトミックは限りなく演劇=音楽の領域へと近接していくのである。

青年団からヌトミック(主体の喪失)

もちろん、というか多分、演劇プロパーの側からこのユニットについて語られることがあるとすれば、《マームとジプシー》や《ままごと》といったリフレイン&リリカル&リズミカルな構成と発話を特徴とする00年代の演劇に影響を受けた世代的な視点から語られることだろうと思う。だが、ヌトミックが上述の系譜とは異なる感触を与えるとしたら、彼らの出自が演劇ではなく音楽であることがやはり大きいのだろう。
 
多少の臆断を含むが、演劇の出発点はセリフを発する意識と身体である。まずはそうした「セリフを発する」能動性が前提にあり、だからこそ、演劇では俳優の主体意識が常に先鋭的な形で問題になり続けてきたのである。00年代演劇を準備した青年団平田オリザが宣まうコンマ何秒の指定で「リアル」を感じさせられる、といった「時間の制約」に依拠した戦略も、日本人の主体意識を日本語の構造から光を当て、「私は○○と思っている」なる言表行為の不可能性を真正面から見据えながら、それでも可能な主体のコミュニケーションを探求した結果に過ぎない。そうした時間の制約を(ラップの発語を方法に)可視化した柴幸男の〈ままごと〉にしても、根は同じである。〈マームとジプシー〉のリフレインにしても、「私は○○と思っている」という自己の表出を禁じられた日本的主体意識がそれでも可能な「内面」を幻想する手立てだと理解しなければならない。
 
 
ところが、そう理解しなければならないわけではない地点から音楽=演劇をストレートに演劇のフレーミングにインストールしようとするのがヌトミックの上演であった。とにかく何らかの形で主体を開示する戦略が結果的に「時間」や「音楽性」へのアプローチを生産する演劇の事情が、ここではちょうどひっくり返される。とにかく何らかの形で音楽を開示する戦略が結果的に俳優の声と身体を必要とする、といったように。
 
音楽の視覚からこの事態を観察するなら、人力ミニマルミュージック的な新しい(かどうか知らないが)展望を開くものになるのかもしれない。一方で、(僕がそう理解する)演劇の視覚からは、私固有の《存在》がそもそもから非-在である演劇の(演劇史において強迫的に繰り返される)出現と、そうした世界観の肯定である。
 
僕にとってはこれはちょっとしたショックであった。もう認めよう、肯定しよう。そういうことだと思ったからだ。これが《演劇》であるならば、僕達はもう《演劇》の場において、複層的な《現実》を幻想しようとする必要がない。なぜなら、ここでは音から現象を生産する機能だけを担ったマシーンさえいれば充分であり、世界に抗して多様な意味を背負った《私》の存在を開示する契機は何ひとつ与えられないのだから。つまり、私が機能するだけのマシーンであることを認め、気持ちよく整えられたリズムとハーモニーに音を合わせる与えられた快楽に充足せよ、そうした環境管理型権力がベタに運用されているかのような《現実》が批評されるのではない、アタリマエのように舞台上で展開されるのだ。

演劇が露呈させる身体の意味 

留保しておくけれど、30分の短編一作でここまで決めつけてしまうのもどうかと思われるかもしれないが、パンフとかホームページにて結構ちゃんとコンテクストを構築しているだけあって、方法と形式の意図が明確な分、こうした形式論を展開しやすい事情がある。と同時に、僕が主体をめぐる一連の展開を想像したのは、本作がやはり演劇のフレームを使っているからだと思う。演劇には必ず何らかの形で言葉を担う身体が問われる側面が顔を覗かせるのである。
 
人間とマシーンの拮抗状態が示される点において、本作は三輪眞弘《またりさま》(及び逆シュミレーション音楽)が問題にしている領域と重なるところがある。しかし、あれは常に揺れ続ける人間とマシーンの境界をこそ問題にしていた(マシーンのきしみ)のであって、マシーンへの全面的同一化を楽天的に謳歌する代物ではもちろんない。しかし、本作に登場する女性たちは、ナチュラルなマシーンへの同一化を感じさせる。


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ここで、本作が女の子として表象される女性3人によって担われていたことを思い出そう。女の子、つまり少女性は、男性を無限に受容する性の役割を担ってきた歴史がある。日本におけるロリコンの歴史である。美少女ゲームを少しでもプレイしたことがあるならば、そこで展開される異常な、しかし無限に男の欲望を承認してくれる少女たちの幻想された《無垢性》を認めることが出来るだろう。本作の《女の子》たちも、リズムの快楽を無限に受け入れる、そしてその快楽をこそ求めているかのように男性の欲望を承認する《偽-他者》の役割を担って立ち現れる。彼女らの身体には、いかんともし難く《演劇》が引きずりだす問い―それを発語するお前は何へ晒されたお前なのか?―が刻印されている。もちろん、演出家の男根的権力性に(実は)さらされていることが、そこに立つカラダは暴露してしまうのである。
 
日本的な主体―内野儀が《非-在の私》として指摘するような、状況に対して起立することなく、過剰に空気を読み込みそこに同一化することで、その空気をまるで自我であるかのように錯覚される主体―が《少女》の無限の承認を媒介に露呈してくる。しかも肯定も否定もされない全く「自然」な相貌で持って。
 
僕はなんとなくsalyuの《じぶんがいない》を思い出した。上演の最後に「私の言葉がない」(これも正確ではないので勘違いかもしれませんが)と何度もつぶやく場面があったからかもしれない。それは果たして完膚なきまでに他者が消去された《現実》への抵抗なのか、もしくは否定の身振りを介在させることでメタ的なレベルでも自閉性を補完するアリバイ作りに過ぎないのか・・・。
 
 
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あとがき:今回、レビューの筋トレ的気持ちで、内野儀の「非-在の私」を軸にして、その今日における完璧な反復を指摘するみたいなことを思って、パパッと書こうとしたけどなかなか書けず、結果的に自分で思っていたより見様によっては辛辣な分析になったので、また見に行きたいと思います。次は、横浜で2月に作品発表するそうです。