飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

〈ひとつの机とふたつの椅子とシェイクスピア〉のレビュー

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「ひとつの机とふたつの椅子とシェイクスピア
日 :2016年10月21日(金)〜23日(日)
会場:座・高円寺
 
「ひとつの机とふたつの椅子とシェイクスピア」を観劇した。座・高円寺という場において、こういう企画が成立していることに些かの興味を覚えたので、僕が読み取ったことを書き記してみたいと思う。
 
こんな企画だった

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 今回の企画は香港の演出家ダニー・ユンが発案した「二つの椅子と一つの机・上演時間20分」というパフォーマンスのフォーマットでもって、香港・シンガポール・タイ・中国・インドネシア・日本といったアジア圏の演劇人が合わせて6つの作品を創作するもの。座・高円寺の芸術監督であり演出家の佐藤信は80年代から「アジア演劇」を掲げており、それが、30年の時を経て、コミュニティシアター(地域劇場)として大きな成果をあげている座・高円寺で実現されているわけで、まさに佐藤信の演劇的理念の集大成と言っても良いのではないか、と思える。僕が今日見たのは、Aプロの『後代400』『ブラックボックス2016』『⇄ガートルード⇄オフィーリア』の4作品。すべてが、ワンテーブル・ツーチェアーズの制約のもとに、おのおの個性的な表現を披露していた。

 
※後日(23日)にはBプロも観劇。
 
ポストトークの〈ハプニング〉
 ここでいきなり、ポストトークの話をする。Aプロ・Bプロはともにポストトークを用意しており、オブザーバーとして参加する羽鳥嘉郎と鹿島将介がホストになって参加した演出家の話を聞く。(1日目の)Aプロは羽鳥が担当していたのだが、これが「放送事故」のような時間になっていた。羽鳥は赤い椅子を持っていきなり客席から舞台上に現れ、6つの椅子を舞台前方に置く(登壇者は全部で3人であるにも関わらず)。そして、ゲストの「リュウ・シャオイ」に対して、ぶっきらぼうに幾つかの質問を投げかけていくのだが、途中から全く話が噛み合わず、羽鳥は椅子から(なぜか)ずり落ちていき、いわゆる「うんこ座り」になり、翻訳者は羽鳥の「今のところ意味がわからないのでもう一回言ってくれませんか?」のような発言に困惑し、何度か角度を変えて同じことを質問する羽鳥に対し、一体、彼は何が言いたいのかをその場にいる者たちが見守る・・・といった時間になっていた(羽鳥の意図や内面とは無関係に、だが)。
 
 (繰り返すが)彼の意図や内面とは無関係に、ほとんどポストトークではなく〈ハプニング〉に近いポストパフォーマンスといった趣きで、観客にも通訳者にもリュウ・シャオイに対しても失礼な態度であり、ポストトークとしては最悪(のように僕には思われる)だが、一方で無視し得ない鋭い疑問を投げかけることに成功していた。
 
〈普遍性〉と〈文化的固有性〉
 僕が受け取った限りで、羽鳥は「ワンテーブル・ツーチェアーズという形式の制約が、創作の上でどんな良いことをもたらすのか(役に立つのか)?」と聞いており、リュウ・シャオイは「対話や集まることの象徴的な機能を持っている」と答えたわけだが、ここですれ違いが生まれている。「集まる」ことは演劇の一般的な機能であり、この形式でなければ生じない(創作の上での)機能ではない。だが、リュウ・シャオイが言いたかったことを勝手に推測すると、この形式は演劇の〈普遍的な機能〉−対話と集合−を象徴しており、その制約のもとで、アジア圏の多様な文化的コンテクストが召喚されるような性格を持っている、と言いたかったはずだ。個々の創作の上で実質的に「役に立つ」ポジティブな性格を持っているというよりは、文化的コンテクストをあぶり出すためのフィルターとして〈普遍性〉を象徴する「机と椅子」が必要とされている。こうして〈普遍性〉をバネに〈文化的固有性〉を浮かび上がらせるのが、「ひとつの机と二つの椅子とシェイクスピア」という企画の骨子であるということだ。
 
 実際、Aプロのパフォーマンスは、それぞれ固有の文化的土壌において現れてきた上演芸術の身振りをオブジェのように「舞台上に置いていく」ことで構成されていたように思う。身体的な共振作用(演者が呼吸を止めると観衆も息を止めてしまう、のような。共感ではない)を武器とする伝統芸能の身振りは、ときに観客の思考を麻痺させる麻薬的な快楽をもたらすが、そうした時間を生じさせることを避けるかのような制約を、どの組も背負っていたように見えた。(僕はアジア圏の伝統芸能に明るくないので、具体的なコンテクストはわからないのだけれど、「崑劇」「タイ古典舞踊」など伝統芸能に出自を持つパフォーマーが出演していたようだ。)
 
身振りのレディメイド

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 こうした上演のフォーマットから、僕はデュシャンのレディメイド(既製品)の方法を思い起こした。デュシャンは〈泉〉(男性用便器を逆さにしてニセの署名をして「泉」と名付ける)に見られるように日用品を美術品に転用することで、〈普遍性〉と称される場が、そのモノがもっている意味/コンテクストを剥奪し、オブジェ化する制度であることを示した(とみなせる)。(ちなみに、日常的な音を音楽に転用した音楽的レディメイドがジョン・ケージの〈4分33秒〉である)
 
 「ひとつの机と二つの椅子」は、それぞれ固有の〈文化的な身振り〉を普遍化された〈上演芸術の身振り〉に転用する場として機能することで、固有の文化的背景抜きで身振りを舞台上に出現させるようデザインされた(象徴的)装置なのである。それはまた、文化的・世代的・時代的・ジャンル的なあらゆる背景を一旦保留させることにつながり、あらゆる壁を超えてアジア圏の上演芸術家が出会う場を用意することを可能にしたのである。
 
「正しさ」へのムカツキ
 それじゃ、これは「一つの机と二つの椅子」じゃなきゃ駄目だったのか? 的な方向からの、つまり、そこにある机と椅子は抽象化された機能であって、具体的な感覚を喚起させる装置としてあったわけではないのであるからして、この企画は演劇エリートによる知的操作を楽しむ産物にすぎないのではないか? といったような方向性に議論を運ぶことも出来るけれども、それよりなにより、僕が引っかかる最大の問題は〈普遍性〉とは何なのか? にある。ワンテーブル・ツーチェアーズの〈普遍性〉はあらゆるコンテクストを超えて、誰でも・いつでも・どこでも「対話すること」「集まること」が可能な形式としてあるわけだが、その公式的な「正しさ」にどうしても苦虫を噛み潰したような後味の悪さが残る。この違和感は何なのだろう?
 
 それはちょうど、(演劇人にしかわからないかもしれないけど)稽古場の本読みで戯曲を解釈していく際に、初めは多様に生まれていた戯曲の「読み」が最終的には発言権の大きい、つまりは権威ある人が「正しい」と認めた解釈へと一元化されていく、といった時の苦々しさに似ている。演劇学校に通っていた頃、グループワークでこういう事態が起こったときに、「正しいことが正しいとは限らないんだぞ」と捨てセリフを吐いて喧嘩したことを昨日のことのように思い出すのは、まぁいいとして、「正しさ」はいつも私的な「楽しさ」を駆逐していく性質を持っている。「正しさ」はまるでそうあることが必然であるかのような顔をしている。それがムカつくんだな。どうも。
 
楽しさ=私的領域を擁護する
 「一つの机と二つの椅子」は、「アジア圏の上演芸術家がいかにして(無差別に)集まるのか?」に対する、見事な応答であることは疑い得ない。その一方で、このパラタイムの圏内においてはほとんど難癖に近いが、〈集まり〉をシンボリックな装置に代表させる思考様式は、誰もそれを信じていないのにも関わらずただ正しいというだけで公認されるイデオロギー装置(アルチュセール)にならざるを得ないのではないか? もしくは、観客にその〈集まり〉を〈公式な集まり〉として見なければならないと強要するような抑圧を生むのではないか? どんな文化的コンテクストを背負った身振りも、単なる上演芸術の身振りに無害化され、〈公式な集まり〉の断片として正当化されていく。
 
 僕はこうした「誰でも・いつでも・どこでも」集まることの出来る演劇の「正しさ=社会的意義」に対して、上演芸術の身振りを生活文化の身振りに押し戻し、私がいまここでしか持つことの出来ない「楽しさ=実存的意義」の私的感性の領域を擁護したい。
 
 その意味で言えば、羽鳥がポストトークで行った、〈公式な集まり〉におよそふさわしくないハプニング的振る舞いにこそ、〈集まり〉の別の可能性が秘められているように思う。私的感性は制御不能なものなのだ。しかし、その現れを相互に享受するような〈集まり〉こそ、〈公共的な公共性〉ではない、〈私性〉を経由したもう一つの〈私的な公共性〉を形作るのかもしれない。
 
最後に蛇足
 以上のように、企画のフォーマットそのものに対する違和感はあったものの、個々の作品については、机と椅子の象徴性が大体の組でほとんど無視されていた(ように見えた)のが面白かった(実際には無視し得ない象徴として厳然とあるのだけれど)。え、机と椅子の意味ある? と突っ込みたくなる。それどころか舞台そのものを全く使わないチームなんかは、もしかしたら、この〈普遍性〉の形式それ自体を、ロジカルな左翼運動世代の遺物として拒否している(わけじゃないと思うけど)ようにすら妄想できた。それに対して、日本の(武田らの)チームが最も真面目に「机と椅子」との具体的・抽象的関係を駆使しつつパフォーマンスを構成していたのが、何となく可笑しかった。

ホロロッカ『海に駆りゆく人々』

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[上演台本・演出]塩田将也(ホロロッカ)
[日時] 2016年9月30日(金)〜10月5日(水)
[会場] 新宿眼科画廊 スペースO

[あらすじ]
小さな島の、小さな家。老婆と二人の娘が暮らしていた。 この家の男たちは一人一人海で死んでいったからもういない。 亡骸が帰ってきた人もいたし、帰ってこない人もいた。 そして、最後に残った息子も海に出る準備をしていた。

[出演] 新田佑梨(ホロロッカ)・三浦こなつ・小室愛・松崎夢乃

 

ホロロッカ『海に駆りゆく人々』を見に行きました。

塩田君の「作」ではない演出作品を見るのは初めてでしたが、これが良い意味で予想を裏切られる作品でした。前衛へようこそみたいな。そんな風に言いたくなるほど前提的身振りにおいて演技と時空間が演出されていた。

僕的には京都時代から馴染み深い「マレビトの会」を筆頭とする00年代京都演劇の文法を用いた懐かしの上演とも言える。抑制された発語、シンプルな舞台空間、人物の配置だけのミニマルなセノグラフィ、サイトスペシフィシティを導入する小道具の採用(『水の駅』の水が滴る蛇口のような)マレビトの会・壁の花団・下鴨車窓・トリコ.A・France_pan・山口恵子・市川タロ・したため・京都ロマンポップ、もしかしたら相模さんや村川さんも。一括りにするのは乱暴だけど、ある種の共有前提としてあった文法が東京で見られるとは、なかなか感慨深い(?)不思議な感じだった。

そういう僕自身の来歴もあって、上演が前衛的な「身振り」に見えてしまうのは如何ともしがたいところ。僕はこうした作品群の評価軸を持つために批評の領域に足を踏み入れたこともあり、どうしても、その方法において目指される美学の細かい部分が気になってしまう。抑制された発語は、言葉を身体から突き放す必要があるし、それはそもそも身体を不透明な媒介として作用させることを目的とする。突き詰めていえば、身体をイリュージョンの代理=表象としてではなく、いま・ここに固有の媒体として扱う文法が、地点以降に起こった京都演劇の形式だった。そうした意味で、媒体それ自体による共振的想像力の喚起が、ホロロッカの今回の上演には弱い。

この形式は容易に「前衛っぽさ」を生み、演劇形式の実験として神秘主義的な「わかる人にだけわかる」教条主義へと着地してしまう。そのあたりをどれだけ理解しているのか、が疑問ではあった。そういうわけで(どういうわけだ)、塩田君固有の作家性を脇に置くとして、前衛の「身振り」に回収されていくところに危うさを感じつつも、チャレンジングで刺激的な上演だった。

重力/Note「現代演劇のために考えている身体WS」に行った(3/21)

ワークショップについて

重力Noteが東京ではじめて開催する「現代演劇のために考えている身体WS」に参加してきた。 私たちが「共に生きる」ことをお題目ではなく、あたかも一つの社会実験のようにその場で具体的に構想していくようなワークショップで、現代演劇そのものはもとより、「共に生きることを考え続ける身体」への機知に富んだ内容だった。

ちょっとメモなどないので、記憶している限りになりますけど、最初は「現代演劇」「考えている」「身体」「WS」のそれぞれの言葉に対して演出の鹿島さんの考えを参加者に手渡すところから始まりました。納得したのは「ワークショップ」の考え方の歴史をたどりながら当時(00年代中盤)、日芸に所属していた鹿島さんの周辺でその言葉が知られるようになったエピソードを敷衍しつつ「規律訓練型の技術教育」から開かれた「ワークショップ」への移行が、実は現代演劇の方法と深い関係があることを描写してみせたところ。今回のワークショップも、劇団の「この方法でいくから会得してね」という技術の伝達を目的としているんじゃなくて、各々の身体の個性を損なうことなく、共に共存し何事かを考えていくことを目的としている、とのこと。 そうした前提を補助線に、今回のワークショップも、「作る身体」の引き出しを増やすことではなくて、「考え(てい)る身体」を実践してみることに主眼が置かれました。

後半戦では、一人ひとりが前に出て「何かをしてみる」ところから、各々の「劇的だと思うもの」をパフォーマンスし、さらにそれを積み重ねることで一つの舞台面での共存を実践的に試行錯誤していきました。それぞれが持っている世界の感じ方が行為する身体に不思議と開示されていくさまは、非常に刺激的で、「なるほどなるほど」と頷くばかり。拍手で迎えるルールは単純でありつつ「共に」には「尊敬しあう」ことが内在されていることを思わせます。なにより他人を見て大いに笑える・笑われる経験は愉快でした。

そして、考えたこと

私たちは、社会的な、もしくは会社的なルールに沿って日々をやり過ごすことが出来るものですが、そうしたルールをカッコに入れることの出来る「舞台」という場は、とても豊かで、逆説的に私たちが社会的・会社的ルールの中でいかに自由に身体で感じる=考えることから疎外されているか。会社で僕は、後ろ向きで架空の誰かとじゃんけんする行為が出来ません。それが当たり前のように思えるとしたら、何らかの強制−利益をあげる役に立たない、管理する上で役に立たない−が働いているのを僕たちはたやすく見過ごしてしまうのだ、ということ。私たちの社会的・会社的生活の上では、「利益追求」と「安全(リスク)管理」以外の尺度で目の前にいる人を測ることが出来ない。そのゲーム的側面を楽しむことはできるけれど、ゲームのルールをその場で自ら創りあげつつ、他者と共存する場を思考=試行することの価値は、想像することすら出来ないようになっているのではないでしょうか。

僕の尊敬する演劇人の一人でもある平田オリザさんのWSは、非常にうまく「イメージを共有する」演劇の面白さを理解させてくれます。僕の先生でもあった高尾隆さんのワークショップは、がんばらないこと・相手を尊敬することで生まれる共同作業の面白さ(逆に言えばなぜ共同できないのか)を伝えてくれます。しかし、自らのルールを携え、その場で共存を「考えていく」ことを実践していくスキームは、そこから排除されているようにも見えます。

こうした隠れた疎外は、現代美術のエピソードを一つ想起させます。90年代においてブリオーの「関係性の美学」が持ち上げられた際に、その代表格のように言われたティラバーニャの「タイカレーを来場者に振る舞う」美術作品を批判してクレア・ビショップは「敵対するものが予め排除されている」構造を指摘しました。敵対性を排除しない、つまりは「いつでも反対意見を述べることが保証されている」ことが民主主義の原理にはあることを措定しつつ、一見、民主的な公共圏を構築していくように見える「関係性の美学」に隠された排除の構造を批判したのでした。その場で共に考えていかざるをえない他者ぬきの公共なんじゃないか? と。

重力/Noteが構想する「共存する場」の特徴は、敵対する他者との共存を含み込んでいる点で、制度化される以前の「ワークショップ」の本来的な意味を思い起こさせるとともに、演劇の現代が、他者と身体と関係の現在を絶えず運動させていく場の重要性へ目を向けさせてくれるように思います。

250km圏内『Love&Peace2』について

思い出しながら、メモを残していきたい。

■コンセプトと戦略
今回の250km圏内のキャッチコピーは「観劇文化をつくる旅」。その名の通り、観劇を文化にすることを目標に掲げた活動だった。わけだけれども、これは確かに大切だけれど、あまりにも当たり前のことを言っているようで、いまいちピンとこないところがある。

そのために取られた戦略がこれ。

「演劇は言論の種。劇場は言論の場」

演劇作品を発端にして劇場を言論を交わすための場にしよう、というわけ。あごうさとしさんが「演劇が道具になってしまうのでは?」という趣旨のアドバイスをしてくれたのだけど、小嶋さんの意図としてはまさに「演劇はコミュニケーションのための道具」なのだろうと思う。そして「ゲキジョウはゲンロンの場」という活動コンセプトは現況の劇場が持つフレームを組み替えるような働きかけを持ったコンセプトであったように思う。

★「演劇は道具か否か」とはいかなる問題なのだろう?


■演技・作品・活動
演劇の上演は演技・作品・活動の3つの側面から評価できると思う。
演技と作品は、字義通り。活動は、社会フレームに対する働きかけだ。往々にして、3つ目の「活動」の側面が演劇上演においてはおざなりになりがちで、というのも大抵の上演団体は、活動レベルにおいて「生計を立てる」働きに従事しがちだ。アレントの活動の3つの区別を参照するならば、生計を立てることは「労働」であって「活動」ではない。しかも、その労働形態は賃労働であって、いわゆるサービス業に従事する格好になるわけで、それは本質的に「商業演劇」であって、オルタナティブな価値を示す「小劇場演劇」とは本来は縁もゆかりもなかったはずなのだけれど。

しかし活動とは「存在を示す働き」であり、生命維持の必要性によって強制される労働とは違い、「彼女は主婦である」とか「彼は施設管理人である」のような職能に還元されることのない唯一無二な「わたしの存在」の事実性によって促される働きなのである。(アレントは「演劇だけが活動を示す唯一の芸術である」と規定するが、それは唯一的な歴史的事件を我が身に生きる人間を描き出すのが「演劇」だからだと考えるからのようだ)

だから、「活動」は人間が金太郎飴のように同じモデルの再生産物ではないことを前提にするならば、必ず生じてしまう「はじめる力」のことであり、政治―存在を示す―ことの基礎的な条件となる。この意味で社会フレームに対する何らかの働きかけは全て活動的な側面を持つのであり、小劇場演劇が《生計を立てる》ための商業演劇と対置される根拠は、存在を示す《活動》を生業としているからでしかありえない。

小劇場演劇は言わずもがな、原初的な政治活動なのだ。
(松山のシアターねこで開催したトークイベントにおいて、デモの政治的有効性がひとつのトピックにあがった。そこで僕が思ったのは、劇場はデモのような示威行為の手前にあるのではないか? ということだった。)

それはアートの脈絡で言えば、(シュルレアリスムではなく)ダダ的な行為とも言える。「活動」は、現況の社会フレームではなかったことになっている存在を示す行為によって、その社会フレーム自体を組み替えるような爆発力を有している。というか、それが「活動する」ことの意味であり、正しく政治的な行為となる。例えば、1917年、デュシャンが持ち込んだ一個の小便器が「美術館の制度」を内破していったように。その《泉》と題された作品は、《生計を立てるため》に必要であるような職能とは一切関係ないことに注目したい。それが現代アートのはじまりとなったのは、アートがパトロンの庇護のもとパトロンの注文に応える職人仕事であった時代から本格的に峻別されたことを物語るものであった。

小劇場演劇もこうした「労働」から峻別し取り出された《活動としてのアート》の脈絡に属している。1887年に設立された自由劇場は、何よりまず職人芸からアンサンブルを主体にした演技術への移行を通じて劇場のフレームそのものを組み替えようとした運動だったことを忘れてはならない。生計を立てるためではなく、演技を、劇場を、そしてそこから人間と文化のあり方を組み替えようとした《活動》だったのである。

250km圏内の演劇は、そうした《活動としてのアート》を地で行く。80年代に急速に霞んでいった小劇場の政治性、つまりは活動性を再生する目論見を持っているようである。もちろん、小嶋さんはそんなこと言わないのだけれど。むしろ、もっと感覚的に「演劇についてのおしゃべりじゃなくて、裸の個として働きかけ・働きかけられるコミュニケーションの場」を目指しているし、そもそも小嶋さんがパブリックな場が設定されないとうまくしゃべれないという、ある意味でしょうもない理由から、結構な射程を持った活動がはじめられたのだから不思