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渋々演劇論+α

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

なぜ腹が立ったのか? ドキュメンタリー演劇の二重性/村川拓也『Fools speak while wise men listen』

演劇批評 観劇:即興スケッチ

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東京公演
2017年3月4日(土)〜3月5日(日)
@早稲田小劇場どらま館

公演情報
https://murakawa-theater.jimdo.com

高嶋慈『Fools speak while wise men listen』劇評
https://murakawa-theater.jimdo.com/劇評/

概要

村川拓也の新作『Fools speak while wise men listen』の簡単なスケッチを残しておきたい。

※結局、簡単なスケッチではなくなりました。

アトリエ劇研が主催し、村川が講師を担当する劇研アクターズラボのクラス(週1程度の連続クリエイションWSを定期的に開催し最後に発表の場が設けられる)で、どういう経緯があったかはわからないけれど「日本人と中国人の対話」をコンセプトにした作品が生まれる。2016年々に初演され、「早稲田小劇場どらま館」での上演はリクリエイションされた再演にあたる。

作品の概要は、チラシに詳しい。

日本人と中国人との対話を描き、そこに隠される互いの小さな気だるさを眼前の現実として暴露するこの作品は、2016年に京都で上演されました。・・・語り合う中に、不意に現れてしまう小さな違和感と無意識に滑る些細な言葉が、身振りを含め一言一句違わぬ形で何度も反復され、やがて見逃し難い現実へと変化してしまう過程が描かれました。

舞台には長方形の形に白ビニテが貼られている(形は違うが相撲の土俵のように)。その中にマイクが二本転がっている。舞台中央の壁際には床置式スピーカー。上演に先立って、いわゆる場内注意を中国語でアナウンスする女性は、客席から見て右手に立つのが中国人(Chinese)、左手に立つのが日本人(Japanese)だと教えてくれる。

このようなシンプルなセットで、〈日本人〉と〈中国人〉がマイクを用いて対話を交わす。上演の時間も非常にシンプルでミニマムだ。4組のペアが次々に5分程度の対話を交わすのだが(4組目の日本人は女性3人だが)この対話が、ほぼ同一の内容で(確か)4度繰り返される。

「ペアAの対話
 ペアBの対話
 ペアCの対話
 ペアDの対話」 →1セット ×4

 ※ペアDだけ日本人側は女性三人。

チラシに書かれている通り、女性二人の結婚・恋愛観の違い、心斎橋がすっかり中国人街のようになったという話、中国の名所について、パンダについて、といった4つの主題を巡って対話が交わされる。それに、場内アナウンスをした中国人の女性の独白―日本に留学してきて思ったこと―のモノローグが語られた。

フェイクドキュメンタリー

さて、僕は、この上演を見ている最中、腹が立って腹が立って仕方がなかった。声をあげたくて声をあげたくて仕方なかった。ものを投げつけてやろう、やめろ! と言ってやろう、みたいなことばかり考えていた。腹立ちを抑える気晴らしに上演のメモを取ったりしていた。こんな観劇体験は久しくなかった。いや、初めてかもしれない。この苛立ちは一体なんだろう?

最初にありうるかもしれない誤解を正しておきたい。

村川拓也は2011年のF/T公募プログラムに出品した作品『ツァイトゲーバー』(俳優・工藤の仕事である訪問介護を再現する作品)で一躍、ドキュメンタリー演劇の旗手として脚光を浴びた。次年度のF/Tでは福島を旅した二人の俳優による記録劇『言葉』を上演する。彼自身がドキュメンタリー映画作家であり、佐藤真に影響を受けたと公言しているせいか、彼の作品は「俳優自身の体験」をもとにしたドキュメンタリーであるかのように思われるかもしれない。しかし少なくとも本作は事前にTwitter等で流れている情報の通り、文字にして8万字くらい収録されたという稽古場の対話(日本人の出演者と中国人の出演者からなる対話)から抜粋抽出された言葉が《セリフ》として、複数の俳優に振り分けられている。出演者本人の実体験ではない。もしドキュメンタリー演劇のコンテクストで読むとするなら、これは《フェイクドキュメンタリー》であり、「役」と「ドラマ」が明確に存在するフィクションである。

そんなことはわかっているよ、と。演劇がフィクションだなんて観客がアタリマエに持つリテラシーだよ。それは一部の観客にとっては確かにそうだろう。しかし、ではなぜ村川はこのような体裁を取らなければならなかったのか? 語られる言葉がまるで「俳優自身の体験」であるかのような錯覚を起こすドキュメンタリー《らしき》劇形式を必要としたのだろうか?

予定調和の不和

テープレコーダーのように編集された素材を再生し続ける俳優たちを見ながら最初に思い出したのは、昨年の12月に観劇したヌトミック『ジュガドノッカペラテ』。「ドキュメンタリー(らしき)」性とともに舞台を特徴づけるミニマルなリフレイン構成は、ヌトミックの手法と似ている。いや、同じと言っても良いかもしれない。本作は環境管理型権力がベタに運用される例の構図を反復しているからだ。*1


「渋々演劇論」で何度も繰り返すように、アレントによれば、演技とは〈わたしのユニークな現れ〉を示す活動である(正確に言えば、活動の模倣である)。しかし、ミニマリズム的な統制は誰ひとりとして同じ場所を占めることはない多数的な〈わたし〉の現れを、等価な〈コレ〉へと還元する。それが、ヌトミックによって示された等価空間であり、世界に抗して多様な意味を背負った〈わたし〉を開示する契機がなにひとつ与えられず、ただ与えられた機能に充足せよというプログラムを実現するマシーンが起動し続けるディストピアを出現させる。そこでは、何を開示するかわからない未知なる〈他者〉の位相は、徹底的に排除される(あるいは隠蔽される)。

わたしたちの眼は見えるように見る。見えないようには見ない。

本作のミニマルなリフレイン構造は、1セットでは浮かび上がってくることのない、日本人と中国人の不和を徐々にあぶりだしていく。しかし、それはプログラムされた〈予定調和の不和〉に過ぎない。「何度も繰り返していたらテンション上がっていくよね、苛立っていくよね」というパブロフの犬的な動物的反応を当て込んだプログラムである。観客は、チラシに記載されたコンセプトがそのまま再生されるのを押し付けられるほかない。

言うなれば、俳優たちは、テープレコーダーと同じくただ目的へ向かって機能するだけのパーツ。等価で交換可能な「語の再生機械」。観客は、予定されていない別の出来事、あるいは一時的に開示される予期せぬ〈あなた〉のユニークなアイデンティティと出会うことをあらかじめ禁止された事態に直面する。

ぼくが苛立った理由は、こういうことかもしれない。
本当は、いや、いつでもユニークで唯一的であるはずの〈あなた〉と出会う可能性が、あらかじめ禁じられていることへのいらだち。ストレートに言うなら、ただ〈不和〉へと向かうことしか出来ない俳優たちの無残さ。〈不和〉への同一化を強制する規律/エンパワーメント。およそ人間が固有性を持つことを徹底的に排除する非人間化の手続き。これはあまりにも残酷じゃないか。

そんなことはやらなくていい! 今すぐ舞台を降りるべきだ。僕たちはモノを投げつけるべきだ。この時間は停止させねばならない。そうしないのは、ぼくらがこんな小さな劇場なんていう安全な場所でも、何一つ声をあげることのできない臆病者だからだ。

という、あなたの(筆者の)残酷であるほかない無能な態度を本作はアイロニカルに描き出しているのだ。みたいな批判は無効だ。もし、そうしたことが意図されていたとしても、そんなことは簡単に読める。そりゃ、ただの現状追認だ。悪しきコンセプチュアリズムだよ。しかし、村川がそんな現状追認の身振りに終始するだろうか。ここには、なにか、他者を開示することを禁じる必然的な事情があるのではないか。*2

『ツァイトゲーバー』―まなざしのパラダイム

www.youtube.com


寄り道をする。

僕が『ツァイトゲーバー』(の前身の『フジノハナ』)を見たときにショックを受けたのは、私たちの生はどこまでも交換可能であり、ある環境が与えられれば「そう機能するほかない」社会を生きていることに気づかされたからだった。この作品は、訪問介護する男の一日を描いた。しかし、介護する人間や介護される人間の意図や感情を描かない。つまり、村川は「人間心理の再現」へとは向かわず、その場で具体的に起こる現象を足がかりに、意図ぬきの現実を提示する。

『ツァイトゲーバー』の詳しい解説は山崎健太氏の論考をご参照ください。

例えば、出演者のマイクの使用は、出演者の発話を「相手への働きかけ」から観客への状況説明にスライドさせる。マイクを用いた状況説明は劇を進行させる司会者の立場に俳優を立たせる。それは、その場で実際に起こっている現象である。また、車椅子を実際の「椅子」に置き換える仕掛け、被介護者の役を観客に演じさせる仕掛け、といったいくつかの異化効果は、人間の行為を人間の意図とは無関係な「実際に起こっている現象」に変換する。宇宙開闢に特に意義はなく、自然現象(神鳴や春の訪れ)がただ起こっているとしか言えず、その意味は人間が尋ねなければならないのと同じように、舞台の諸要素が何を意味しているのかを見るためには観客の眼差しが必要となる。まるで赤ん坊が初めて世界を見るように、舞台で起こる出来事の意味やそれを肯定・否定する価値観はリセットされ、観客は「現象そのもの」と出会う眼を開く。

一切の意味・価値観の停止。そこから現象そのものを眼差してみる試みは、演劇的装置を活用したマルグリットの「書割」や植田正治の「砂漠の舞台」といったシュルレアリスムの潮流に参照項を持つ。彼らもまた現実の意味連関を停止させ、現実を固定的で揺るがない実在としてではなく、流動的で無数の意味を発散するネットワークとして顕在化させた。(ここでアルトーやドゥクルー、ロラン・バルトブレヒト、太田省吾や別役実、初期の岸田國士を想起することもできる。大雑把に言えば、村川は20世紀演劇のモダニズムの潮流を引き継いでいる。)*3


〈現象へのまなざし〉を立ち上げる手続きは、ドキュメンタリー的と称された。確かに村川は、カメラアイのエチカを舞台の表現形式に置き換えた。それが最大の問題だった。ここでドキュメンタリーとは人間の意図が介在しない〈現象への眼差し〉を指しており、人間の内面に隠された真実を明かすような〈真実へのまなざし〉を持たない。現象には契機となるような人間の意図=内面が関与しないからだ。現象はただそうであるだけであって、演出家の作為はあっても、価値判断が介在しない。俳優の主観的な価値判断あるいは意図も介在しない。演出家も俳優も観客と並んで、その現象を享受する他ない立場に置かれる。

反対にドラマを再現する演劇は〈真実へのまなざし〉に貫かれている。ドラマは人間の意図=内面、もしくは人間の意図=内面を引き起こす環境によって誘発されるからだ。問題は常に「お前は本当は何を思っているのか?」「お前は本当にそう思っているのか?」「実はお前はそんな風に考えていたのか」「この事件は実はこんな想い/思惑/環境によって引き起こされたのか」といったところへ帰着する。真実は人間が発見するものであり、翻っていつも人間の内面に隠されたものとして生起する。(だからその原理は超目的や因果関係に回収される)

つまり村川は「演劇的」と言われる要素をマイナスしていったと言われるが、むしろまなざしのパラダイムを変えた。〈真実へのまなざし〉からなる劇性をいくら引き算しても村川のとる劇形式にはならない。こうも言えるだろう。彼は、人口に膾炙しているであろう「演劇は出来事である」という命題を、「演劇は未知なる現象である」と解釈してみせた、とも。しかし、「演劇は時間的な一点でしか起こらない一回性の出来事である」という意味ではないことに注意しよう。〈真実〉は特権化された一回性を所有することを好む。本当はこうなっているという世界把握のヘゲモニーを握ろうとする。ときにそれは作家によって独占された〈真実〉を観客に見せびらかす形態をも取る。

〈現象へのまなざし〉は特権化された一回性を放棄する。本当はこうであるという視点それ自体を放棄し、ただそこで起こっているそれが〈未知〉であることだけを明かす。

この両者の分割線を顕在化させるため、観客のまなざしを規定する設計フレーム地層フレームのメタファーを導入してみよう。設計フレームは組み立てられた時間進行から世界を理解するフレームである。それは真実が明かされる未来の一点に視線を向け、その時間が到来することを期待する。ゆえに真実の到来を組み立てることが演劇になる。逆に地層フレームはいつでも足元に埋まっている複数の時間層から世界を理解するフレームである。それはわたしたちの依って立つ地面の下に視線を向け、堆積した時間が掘り起こされることを期待する。堆積した時間は地表上では触知不能な未知なる現象がそのまま保存されており、この現象を掘り起こす手続きが演劇になる。*4

つまり〈現象へのまなざし〉は、意識によって隠された無数の無意識を示す。カメラアイによって初めて〈まなざし〉を与えることが出来た無意識下の現象を〈未知なるもの〉として露出させる。ウジェーヌ・アジェが見慣れたパリの街頭を撮影し、実はあるのに「現実はこうあるものだ」式の観念が邪魔をして見えなくなってしまう視覚的無意識下の都市を、驚くべき〈他者〉の相貌を持って示してみせたように。

整理すると、次のような図式になる。

地層フレーム      設計フレーム

〈現象へのまなざし〉― 〈真実へのまなざし〉
堆積した時間    ― 到来する時間
時間を掘り起こす  ― 時間を組み立てる
瞬時性       ― 一回性
未知そのもの    ― 既知への変換
無意識       ― 意識
存在        ― 内面
不図        ― 意図
価値観の停止    ― 価値判断の介在
他者        ― 私

『Fools speak while wise men listen』再考
―不和から違和へ

とても長い寄り道になってしまったが、ここまで来て、次のような問いを投げかけることが出来る。

では、どうして本作にセットされたカメラアイは、日本人と中国人の対話を、他者の相貌を持った未知なる〈現象〉として開示できなかったのか(と筆者は思ったか)?

本作でも『ツァイトゲーバー』などなどと同じように、いつもの「マイク」が使われる。また、中国語での場内アナウンスやカセットテープを模したような長方形の土俵、展開を期待する観客の眼差しに肩透かしを食らわせるリフレイン構成は、舞台の諸要素を異物化し、作家の意図・出演者の意図=内面とは無関係な、そうであるようにそうである未知なる〈現象〉として〈日本人と中国人の対話〉を開示していくように思える。

特にリフレイン構成からは、〈現象への眼差し〉を支える地層フレームのパラダイムの本質が強く浮かび上がってくる。地層フレームは表面の地表を剥ぎ取るようにして、主観的な価値判断が介在しない時間の層を露出させるのであって、因果的な時間秩序を構成しないからだ。

(『ツァイトゲーバー』では、マイクが俳優を司会者に仕立て上げ、この場で実際に起こっている反復不能な行為に変換するとともに、言葉と行為は電気信号に置き換えられた編集可能な情報であること、つまりは何度でも反復可能な次元にあることを両義的に示す。マイクの持つ両義性が映写面ースクリーンーと同じ機能を果たしている。本作のリフレイン構成は、マイク装置が内包していた必然的な時間性である。納得できなければ、試しにマイクを使わない『ツァイトゲーバー』や、『Fools speak while wise men listen』を想像してみると良い。)

ここで、地表とは、観念化された〈日本人/中国人〉の層を指す。この観念は、ほぼ同一の対話が繰り返されることで剥ぎ取られていき、取るに足らないように見えて本当はそこに問題のすべてが集約されている無意識下の〈日本人/中国人〉の対立を露出させていく。確かに日本人と中国人の間には政治的に、経済的に、歴史的に、不和を起こしているとわたしたちは意識している。一方で、日常的な次元でふと沸き起こる〈中国語を喋る人間〉への無意識的なレベルでの違和を見なかったことにしてやり過ごす。本作にセットされたカメラアイは〈真実への眼差し〉が働く意識の位相では捉えることが出来ない〈中国を母国とする人間/日本を母国とする人間〉の無意識を現象させる。

ぼくが指摘した〈予定調和の不和〉は観念化された意識の層であり、その繰り返しから現れる〈身体的な違和〉は触知される無意識の層だったのだ。本作のタイトルが示す通り、観客は賢者の資格のもと観念化された〈不和〉予知し、愚者のように些末で感覚的な〈違和〉に四苦八苦する舞台上の彼らを見るのである。

カメラアイの二重性

しかし、これは本当だろうか? 意識上の〈不和〉だけではなく、無意識下の〈違和〉もまた無理矢理に作り出されてはいないだろうか? 作り出されている、つまりは設計されている。そして設計された〈違和〉は観客が受け止めきれない〈他者〉を隠蔽し、どこにでもありうる人間感情の一事例に矮小化してしまうのではないか?*5

リフレイン構成は到来する〈違和〉をも予定する。確かにこれは奇妙な事態である。本来は地層フレームに属するはずの無意識下で現象する〈違和〉が、設計フレームに属するはずの〈真実へのまなざし〉を期待している! 地層フレームはあくまでも〈未知〉を〈未知〉として掘り起こすはずであるのに、まるで設計フレームに属するかのように〈不和〉が実は〈違和〉であることを、本当はそうである〈真実〉として明かす。さらに、その違和を保証するのは、俳優の意図=内面であるほかない。ここで〈真実〉は俳優の内面によって独占され、観客はそれに疑問を挟む余地がない。

だからこそ、俳優の割り当てられた「役」は俳優自身の実体験であるかのように錯覚させられる必要がある。『ツァイトゲーバー』の際には俳優の工藤の行為が「劇の役割」であるのか「実体験」であるのかという視点それ自体がなかった(どっちでもよかった)。対照的に、本作ではまるでけいこ場で撮影されたフィルムを再生するかのように、俳優たちが「俳優の役」を演じ、結果的に舞台の「役=俳優」であるかのように同一視してしまう錯覚を起こす必要があった。そこで語られる言葉と行為が実体験であることを必要としたのだ、

象徴的だったのは最初の一組目、にこやかな笑顔で対話する二人の女性。彼女らは恋愛観と(たぶん)仕事の格差でもって違和を顕在化させていくのだが、日本人側の女性が最終的にはマイク無しで中国人側の女性に語りかける。内容的には、バイトの最中に中国人への差別意識をつぶやく男への怒り(など)といったものであるのだが、ぼくはその言葉を上手く受け止めることが出来なかった。彼女の怒りはよく分かる、と思ってしまう。彼女の悩みも。確かにわかると。しかし、それは受け止めきれない他者への違和を喚起しない。観客にセットされるのは、彼女の内面へ自分自身を同一化出来るかどうかだけが問題になる〈真実への眼差し〉である。

マイクの不使用は、彼女の言葉が彼女の〈パーソナルな真実〉であることを明かす効果を持つ。レコーディングされた言葉から逸脱した、編集することも反復することもかなわない一回的な感情であることが強調される(逆に言えば、マイクを使うことが出来なくなったとも言える)。*6

ドキュメンタリーの要請される意味が、ここでは微妙ではあるが、決定的にスライドしている。本作がドキュメンタリー的であらねばならないのは、いかなる意図=内面も介在しない未知なる〈現象〉を捉えるためではなく、対話を担う人間の内面に〈真実〉があることを証明しなければならなかったからである。

これが人間の意図=内面を介在させない無意識下の〈現象〉を捉えるカメラアイのもう一つの側面。パーソナルな〈真実〉に光を当てる側面である。何らかの行為/環境に向けられたカメラは、ライオンがシマウマを捕食したり、蟻が巣をつくったりするのと同じように、人間が行為しているさまを無感情に捉える。しかし一方でカメラアイが持つクローズアップ機能は、人間の「顔」から日常では意識されない「深遠なる内面」を喚起する。『ツァイトゲーバー』があくまでも「介護労働」の行為をロングショットで捉えたのとは反対に、『Fools speak while wise men listen』は〈中国/日本〉の観念的対立の底にある人間の内面にリフレイン構成をとることでピントを合わせようとした。

つまり、リフレイン構成とはマイクのスクリーン機能に投影された人間をクローズアップする技法であったと理解することが出来る。クローズアップにはカメラワークが必要になる。ここに〈違和〉を捉えようとする作家の意図が強く刻まれる。「日本を母国とする人間」と「中国を母国とする人間」の対話から生まれる無意識下の敵対は、人間の意図が介在しない未知なる〈現象〉から、人間の意図によって組み立てられ最終的な価値を俳優の実体験と錯覚させられる内面の〈真実〉へとスライドされる。このスライド効果は、「意図が介在してないことを装う意図」を「未知であるかのように提示される既知」を「現象のような真実」を奇妙に出現させる。

筆者が本作に覚えた違和感の正体は被写体にグッと寄ってピントを合わせようとする作家の作為であり、それはカメラアイが持つ二重性が必然的に用意した罠なのだ。

結論

多分、本作は敵対する日本人を加害者としてでも被害者としてでもなく、そういった価値判断抜きの〈現象〉へと還元してみせようとしていたと思う。しかし、カメラアイの二重性は〈現象へのまなざし〉を〈真実へのまなざし〉に置き換え、ユニークな他者のアイデンティティを露出させているようで隠蔽している構造へとスライドさせる。このことにぼくは苛立ったし、解明すべき謎があると思った。

では〈日本人/中国人〉の敵対意識が唯一的な「内面の真実」へと帰着してしまうのはなぜなのか? ここにはそのように帰着してしまう〈日本人/中国人〉の対話の必然があるのではないか? そういった問題はまだ残っている。残っているのだが、それを明らかにするのには、筆者の力量が足りない。本稿はひとまずこの地点で幕を下ろしたいと思う。

*1:「例の構図」の詳細は、非在の肯定/ヌトミック『ジュガドノッカペラテ』 - 渋々演劇論+αをご参照ください。以下、抜粋引用。「僕にとってはこれはちょっとしたショックであった。もう認めよう、肯定しよう。そういうことだと思ったからだ。これが《演劇》であるならば、僕達はもう《演劇》の場において、複層的な《現実》を幻想しようとする必要がない。なぜなら、ここでは音から現象を生産する機能だけを担ったマシーンさえいれば充分であり、世界に抗して多様な意味を背負った《私》の存在を開示する契機は何ひとつ与えられないのだから。つまり、私が機能するだけのマシーンであることを認め、気持ちよく整えられたリズムとハーモニーに音を合わせる与えられた快楽に充足せよ、そうした環境管理型権力がベタに運用されているかのような《現実》が批評されるのではない、アタリマエのように舞台上で展開されるのだ。」

*2:「対話」の強制力を露呈させる装置として、本作を読み解いているのが、高嶋慈の劇評(https://murakawa-theater.jimdo.com/劇評/)。「この白線で囲われた空間が、「日本人」「中国人」というナショナリスティックな枠組みにはめ込んで発言させる場であることを示す」と彼女は言う。本作では日本国において常に外部に置かれ、対話の場がセッティングされたとしても使用言語が「日本語」であるような不均衡さを受難する存在として〈中国人〉が示されていることを指摘している。それは、ナショナルアイデンティティの選択の狭間の躊躇を可視化すると。非常に明晰な批評である。彼女の論を敷衍するならば、筆者が感じた強制力は〈日本人〉なるもののナショナルな強制力である。


一応、誤解なきように留保しておくと、高嶋氏の批評が無効だとかそういうことは言ってないので、あしからず。しかし筆者は「対話」が強制するエンパワーメントよりも、リフレイン構成が強制する〈真実〉の構成に、本作の根深い問題があると理解する。なぜ四つに限定されない多数の対話を見せるのではなく、リフレインが必要とされたのか? 稽古場を見ているような錯覚を観客に体感させねばならなかったのか?

*3:シュルレアリスムというのは「もっとも現在たる現在」「現在中の現在」を、異化効果の方法によって求めた、きわめて時間的な運動だった。シュルレアリスム1920年代と1960年代の二度、反復されている。どちらにも共通して言えるのは、硬直化した現在を、流動的で即興的な誕生する「いま」へと送り返そうとしたことである。それは、永遠の一瞬、現れては消え去る「いま」の生き生きとした体験を取り戻そうとする運動だったといえる。それは、きわめて演劇的な運動だったのではないか。マルグリットの「書き割り」や、植田正治の砂漠の舞台性は、「いま」を捉えるために、現実の連関を一度停止させ、現実をオブジェ化する手続きとして求められたように思うのだが、ここでは実際の演劇側における「舞台」の機能が180度転換されている。演劇はいまだ、舞台を「現実の再現」として捉えている、というのは、つまり舞台がオブジェの領域たるシニフィアンではなく、解釈の領域たるシニフィエの次元で展開しているのであるが、シュルレアリスムはすでに「異物としての現実」に出会うための方法として「舞台」の機能を理解していた。

*4:これは余談だが、現象への眼差しを立ち上げる村川の手続きは、どう見てもフッサールがいう「現象学的還元」そのままである。素朴に客観的世界が実在しているという思い込みからなる自然的態度をエポケー(判断停止)して、対象へ向けられた意識のありよう(志向的体験)を分析するのがフッサールが言う現象学的還元である。ハイデガーと袂を分かつことになった運命的な著書『ブリタニカ草稿』では、自然的態度から世界を意味的に構成する「超越論的主観性」への態度変更が現象学の肝であると説かれるのだが、この超越論的主観性を観客にインプットするのが、村川のドキュメンタリー的手法であり、〈現象学的演劇〉とも言い得るものだ、と思う。しかし、それが〈映像的態度〉とどういう関係にあるのか、映像技術と深い関係を持つ精神分析とはどういう関係を持ち、ベンヤミンによれば機械技術が可能にした複製技術への先駆的な発露となったダダや、フロイト自由連想に着想を得たシュルレアリスム(というかブルトンの芸術?)との関係は・・・。これが20世紀という時代を特徴づける大きな潮流であることは間違いないし、村川をそうした視点から読み解くことは可能だが、いまのぼくの力では出来ない。

*5:その無理矢理に必死に〈違和〉を意識しようとする彼らを笑うのが賢者なのだ、というなら、むしろそう言う人こそが賢者である。というお前こそが・・・というお前こそが・・・この賢者のなすりつけ合いに終わりはない。しかし誰が賢者かをめぐる無限後退に陥ってしまうということ自体、メタシアターがシアターを意識しているだけの普通の演劇であるといった〈現象〉と〈真実〉の分割線を分かつ議論をなかったことにしてしまう。およそ演劇が直接性の場であると信じるならば、〈違和〉をいかに設計された真実ではなく、他者的な相貌を持った未知なる現象として顕在化させるかが問題のすべてである。

*6:長くなるので本文では割愛するが、四組目の「中国って言ったらパンダでしょ」という女性三人組と中国人の男性の対話も、ぼくには受け入れがたかった。というのも、この組の男性はリフレインの中でどんどん何も喋らなくなる。もちろん、彼は怒っている。パンダパンダ言う女性たちに怒りを覚えている。4週目のリフレインで男性はこれまでとは打って変わって自分自身の日本に対する想いを語るのだが、パンダパンダ言う女性たちの声にかき消されて、男性の言葉はよく聞こえない。それは確かに図式としてはとても明確に理解できる。例えば、3人の声のほうが1人の声よりも大きいのだ。日本国で少数者の立場に立たされる中国国籍の人々は、圧倒的に弱い立場に立たされている。もしくは大衆の思考停止した観念的な決めつけに対する男性の抵抗として読むことも出来る。とにかくそういう図式は出来上がっているのだが、ぼくは普通に男性の言葉を聞きたかった。むしろ、男性のパーソナルな真実が受け止めきれない他者への違和を現象させる瞬間をこそ見たかった。確かに明かされるべき内面がゴールに設定されると、それは同一化を迫る〈真実〉に姿を変える。しかし逆に内面がゴールのない言葉の奔流へと翻訳されることで、言葉は現象化する。彼の属している歴史・環境を照らし出す触媒となる。もしかしたら、演劇におけるカメラアイの限界といったものがあるのかもしれない。カメラアイはあらゆる要素を等価に還元する等価空間を要請し、歴史の触媒となる魔術的な〈いま〉を退ける。身体が俳優自らの力で無数の多様体を構成し、身体と空間を変容させていく触媒空間を。これは誤解かも知れないが、そういう風なことも考える。