飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

非在の肯定/ヌトミック『ジュガドノッカペラテ』

ヌトミックを見てきました

 

f:id:marron_shibukawa:20161127010130j:plain

 劇場創造アカデミー6期修了(だと思う)の藤井さんが出ているということで、誘われて見に行きました。ヌトミックという団体について、僕は全く知りませんでしたが、東京藝術大学出身の額田さん(1992〜)という方が作ったユニットだ、とのこと。詳細はHPで見てもらったがわかると思います。前作『それからの街』ではAAF戯曲賞にノミネートされています。

 

ヌトミック

http://nuthmique.com

 

www.youtube.com

音の演劇へ

会場は「みんなのひろば」という一軒家のような小さなスペース。時間は30分程度の短編。玄関から家(劇場?)に入ると、1Fワンフロアの半分が舞台になっており、黒い長方形のミニマルな美術が背景にいくつかあり、長方体の黒いオブジェが舞台に置かれている・・・。

こうしたミニマル・アートを強く意識しているようにみえる美術は、本作が同じ「ミニマル」の言辞の下に読まれ得るコンテクスを持っていますよ、との背景を説明するようであり、実際に上演された演劇も(そして終演後に配られるパンフでの説明を鑑みて)ミニマリズムを手法とする演劇表現への思考と実践を探求するものであった。

正直なところ物語の内容があるんだかないんだか、僕には理解できなかったので、その文学性について云々出来ないのだけれど、女の子3人(女性ではなく、女の子の属性でもって俳優が表象されていることにも意味があると思う)が言葉を交わしたり音を合わせていったりする様子は自閉的でおよそコミュニケーションなるものが成り立たない世界を思わせる。当日パンフに掲載されていた"台本抜粋"を転載すると・・・


笹岡 くまもんは、しゃべらないから決まらないっていうか、今、気持ち

清澄 ん?

   ああ・・・

   うん・・・うん

笹岡 逆に気持ち悪いっていうか

清澄 え、どういうこと?・・・

笹岡 そうですね・・・あー、うーん、あ、

   例えば、幽霊がいて

清澄 え?あ、あぁ・・・うん

といった具合に会話が成り立たない。上演のテンションが高くなっていく部分では、意図的に会話ではなく文章単位のフレームが反復され、(正確ではないですが)


A「わかってくれ」

B「た」

C「ない」


のように、「わかる」のフレーズが肯定形と否定形の二重の意味を表象するように発語される。まさに、チラシに記載された〈演劇の音から音の演劇へ〉なるキャッチコピーの通り、 交わされる会話の中に突如ループする単語のリズミカルな発語が挿入されることで、音楽のような演劇のような〈何か〉がまさぐられていく。 

ミニマリズムの系譜

「音の演劇」といえば僕は劇団地点を思い返すのだけれども、個=孤として立つ俳優の主体を切り刻んでいくことで獲得されるセリフの音楽性というよりは、ひとつなぎの文章やセリフを複数人の俳優に振り分けカットアップ的手法で音楽性を引き出していく、つまりは発語から生まれた結果的な音楽性というよりかは、そもそもが音楽的な現象を目的とした俳優3人によるボイスパフォーマンスの側面が色濃い。もしかしたら演劇史よりは音楽史に造形が深い人にとって理解しやすいのかもしれない。では、しかし、じゃあこの上演は何を持って〈演劇〉を標榜しうるのだろう?
 
f:id:marron_shibukawa:20161127004458j:plainところで、僕はいま「音楽的な現象」といったけれど、1960年代にアメリカの美術史に登場したミニマル・アート(ABCアート)は、絵画の条件を物体(絵画が描かれるキャンバスのような)へと還元する、つまりは物質的素材をどんな意味も暗示しない本当に全くそのままの物質とみなすのであった(アルミはアルミ、鉄は鉄、木は木である)。ここで絵画は何か日常的な経験を超えて崇高な感覚を与えてくれるものではなくなり、素材のマチエール(材質感)へと蒸発してしまったわけだが、一方でそれは物質と対峙することによって、まるで〈いま・ここ〉で新しく生じてきた〈現象〉を体験するような現象学的なアートの幕開けも意味していた。

こうしたミニマルアートの動向と歩調を合わせるように登場したミニマル・ミュージックもまた、音楽を具体的な「音」へ還元し、その反復とズレから複雑に錯綜しながらも「音のマチエール」の連なりを感覚させる経験を生み出していく点で(今から振り返れば)ミニマルアートと発想の根本を共有していることがわかる(その歴史的は背景はよくわらないが)。
 
重要なのはミニマリズムの系譜においては、絵画・音楽のジャンル問わず、意味抜きの物質への還元を行うことで、〈いま・ここ〉に生起する具体的で現象学的な体験を生み出している点だ。美術批評家のマイケル・フリードが批判的な文脈で指摘したように、ミニマリズムが開示していく地平が、そもそも「音(物質)の現象」からなる〈いま・ここ〉における連続した体験の生起、つまりは〈演劇〉を胚胎しているのである。
 
そして、ミニマリズムに立脚するヌトミックの本作も、セリフの単語をどんな意味も暗示しない単なる物質(音)への還元から、現象学的な体験の生起=〈演劇〉を獲得しようとする試みだと理解できる。つまり・・・


ミニマル・アート    = 美術(物体→演劇性)

ミニマル・ミュージック = 音楽(音→演劇性)

ヌトミック       = 演劇(セリフ→音楽(音→演劇性))

 
美術・音楽のフレーミングにおいて演劇性を現前させるミニマリズムの手法を逆手に取って、演劇のフレーミングに依拠しながらもドラマ性・フィジカル性を括弧に入れるアンチテアトル的身振りを一旦差し挟み、しかしセリフを音へと還元させる物質の現象学から、〈演劇〉を再帰的に現前させる。こうして入れ子状に仕組まれた構造から、ヌトミックは限りなく演劇=音楽の領域へと近接していくのである。

青年団からヌトミック(主体の喪失)

もちろん、というか多分、演劇プロパーの側からこのユニットについて語られることがあるとすれば、《マームとジプシー》や《ままごと》といったリフレイン&リリカル&リズミカルな構成と発話を特徴とする00年代の演劇に影響を受けた世代的な視点から語られることだろうと思う。だが、ヌトミックが上述の系譜とは異なる感触を与えるとしたら、彼らの出自が演劇ではなく音楽であることがやはり大きいのだろう。
 
多少の臆断を含むが、演劇の出発点はセリフを発する意識と身体である。まずはそうした「セリフを発する」能動性が前提にあり、だからこそ、演劇では俳優の主体意識が常に先鋭的な形で問題になり続けてきたのである。00年代演劇を準備した青年団平田オリザが宣まうコンマ何秒の指定で「リアル」を感じさせられる、といった「時間の制約」に依拠した戦略も、日本人の主体意識を日本語の構造から光を当て、「私は○○と思っている」なる言表行為の不可能性を真正面から見据えながら、それでも可能な主体のコミュニケーションを探求した結果に過ぎない。そうした時間の制約を(ラップの発語を方法に)可視化した柴幸男の〈ままごと〉にしても、根は同じである。〈マームとジプシー〉のリフレインにしても、「私は○○と思っている」という自己の表出を禁じられた日本的主体意識がそれでも可能な「内面」を幻想する手立てだと理解しなければならない。
 
 
ところが、そう理解しなければならないわけではない地点から音楽=演劇をストレートに演劇のフレーミングにインストールしようとするのがヌトミックの上演であった。とにかく何らかの形で主体を開示する戦略が結果的に「時間」や「音楽性」へのアプローチを生産する演劇の事情が、ここではちょうどひっくり返される。とにかく何らかの形で音楽を開示する戦略が結果的に俳優の声と身体を必要とする、といったように。
 
音楽の視覚からこの事態を観察するなら、人力ミニマルミュージック的な新しい(かどうか知らないが)展望を開くものになるのかもしれない。一方で、(僕がそう理解する)演劇の視覚からは、私固有の《存在》がそもそもから非-在である演劇の(演劇史において強迫的に繰り返される)出現と、そうした世界観の肯定である。
 
僕にとってはこれはちょっとしたショックであった。もう認めよう、肯定しよう。そういうことだと思ったからだ。これが《演劇》であるならば、僕達はもう《演劇》の場において、複層的な《現実》を幻想しようとする必要がない。なぜなら、ここでは音から現象を生産する機能だけを担ったマシーンさえいれば充分であり、世界に抗して多様な意味を背負った《私》の存在を開示する契機は何ひとつ与えられないのだから。つまり、私が機能するだけのマシーンであることを認め、気持ちよく整えられたリズムとハーモニーに音を合わせる与えられた快楽に充足せよ、そうした環境管理型権力がベタに運用されているかのような《現実》が批評されるのではない、アタリマエのように舞台上で展開されるのだ。

演劇が露呈させる身体の意味 

留保しておくけれど、30分の短編一作でここまで決めつけてしまうのもどうかと思われるかもしれないが、パンフとかホームページにて結構ちゃんとコンテクストを構築しているだけあって、方法と形式の意図が明確な分、こうした形式論を展開しやすい事情がある。と同時に、僕が主体をめぐる一連の展開を想像したのは、本作がやはり演劇のフレームを使っているからだと思う。演劇には必ず何らかの形で言葉を担う身体が問われる側面が顔を覗かせるのである。
 
人間とマシーンの拮抗状態が示される点において、本作は三輪眞弘《またりさま》(及び逆シュミレーション音楽)が問題にしている領域と重なるところがある。しかし、あれは常に揺れ続ける人間とマシーンの境界をこそ問題にしていた(マシーンのきしみ)のであって、マシーンへの全面的同一化を楽天的に謳歌する代物ではもちろんない。しかし、本作に登場する女性たちは、ナチュラルなマシーンへの同一化を感じさせる。


www.youtube.com

 
ここで、本作が女の子として表象される女性3人によって担われていたことを思い出そう。女の子、つまり少女性は、男性を無限に受容する性の役割を担ってきた歴史がある。日本におけるロリコンの歴史である。美少女ゲームを少しでもプレイしたことがあるならば、そこで展開される異常な、しかし無限に男の欲望を承認してくれる少女たちの幻想された《無垢性》を認めることが出来るだろう。本作の《女の子》たちも、リズムの快楽を無限に受け入れる、そしてその快楽をこそ求めているかのように男性の欲望を承認する《偽-他者》の役割を担って立ち現れる。彼女らの身体には、いかんともし難く《演劇》が引きずりだす問い―それを発語するお前は何へ晒されたお前なのか?―が刻印されている。もちろん、演出家の男根的権力性に(実は)さらされていることが、そこに立つカラダは暴露してしまうのである。
 
日本的な主体―内野儀が《非-在の私》として指摘するような、状況に対して起立することなく、過剰に空気を読み込みそこに同一化することで、その空気をまるで自我であるかのように錯覚される主体―が《少女》の無限の承認を媒介に露呈してくる。しかも肯定も否定もされない全く「自然」な相貌で持って。
 
僕はなんとなくsalyuの《じぶんがいない》を思い出した。上演の最後に「私の言葉がない」(これも正確ではないので勘違いかもしれませんが)と何度もつぶやく場面があったからかもしれない。それは果たして完膚なきまでに他者が消去された《現実》への抵抗なのか、もしくは否定の身振りを介在させることでメタ的なレベルでも自閉性を補完するアリバイ作りに過ぎないのか・・・。
 
 
*********
あとがき:今回、レビューの筋トレ的気持ちで、内野儀の「非-在の私」を軸にして、その今日における完璧な反復を指摘するみたいなことを思って、パパッと書こうとしたけどなかなか書けず、結果的に自分で思っていたより見様によっては辛辣な分析になったので、また見に行きたいと思います。次は、横浜で2月に作品発表するそうです。

日々是善―調和と切断―

今日は、立本さんと伊原さんと真史さんと目的のない稽古の日だった。

もとは小嶋さんと立本さんと真史さんで月に一回開いていたのだけれど、小嶋さんがメンバー脱退し、新メンバーとして僕が加わった格好。

 

第一期がどんな感じでやっていたのかは知らないけれど、前回も今回も最近興味を持っていることなどを話しつつ、最終的に何らかのテーマを決めて即興で何かしらをやってみる。その場に来るまで何をやるかも決まっていないし、とにかく集まる日だけが決まっている、とっても自由な会合だ。

 

前回は最終的に「生き様」がテーマだったが、今回は「超人間」がテーマだった。

最初はTPPの話からはじまり、農業の話があり、グローバリゼーションはグローバル企業による単一的な労働機械を生み出すみたいな話からアルトー器官なき身体の話が絡んで、トマソンへと話題は飛び火した。

 

トマソンってなに? って聞かれた。それは〈超人間〉なわけで、その特徴は脳みそが機能停止しているかのように自動化された身振りにあるって答える。ティッシュ配りのバイトが全然ティッシュを渡せなくて身振りが自動化されていく、みたいに。ただ、トマソンはそれだけでなくて、脳からの司令がシャットアウトされて具体的に立ち現れた身振りから超越を感じさせる(もしくは様々な妄想を換気する)存在でもある。記憶喪失(絵葉書みたいな記憶によってしか動かず)で、体験を全く欠いた中身のない人間。人間を超えて完璧に機能する〈超〉人間。

 

パーフェクトヒューマン。脳なし人間。もしかしたらただ資本を拡大するために機能するだけのグローバル化された身体。今まで、僕は基本路線としてトマソンをそういう感じに理解していたのだけれど、「トマソン」の観念を一旦脇において、「超人間」を捏造することを目的にした今日の即興から、トマソンのイメージが少し広がった感じ。

 

タイトルにある「調和と切断」は、今日、新しく発見した「トマソン」の可能性。

即興を見たりやったりして理解したポイントは・・・

① 舞台で何をしていいかわからなくなったときにそれでも何かした時に現れる
② その場にそぐわないズレにおいて現れる
③ 調和することからの逸脱において現れる
④ 二人舞台にいるときは、相手の文脈を殺すことで現れる 

といったところ。で、思ったのは、僕たち人間は自然にしていると調和していく性質を持っているということ。普通に生活していると、調和している。自分の身体も調和している。相手との関係も調和している。家族も調和している。都市も調和している。国も調和している。調和とは、多分、各要素間の関係性が何らかの「良さ」から最適に機能している、ということ。意識しなければ、僕たちは自然に調和する。

 

この調和から逸脱すること。
もしくは、この調和を切断すること。

 

ここに、自由を覚えているのだと思う。
トマソンは確かに何かに対して機能せずに無用化している。
しかし見方を変えると、人間を調和的に機能させる強制力からトマソンは自由なんじゃないか? そう考えると、自分のやっていることに強い整合性(調和!)が読み取れる。「集団にならない烏合の衆のような集まりを作品にする」と言っていたダダダダの活動も、「集団として調和する自然を切断することで、各々が自由を獲得するような集まり」それ自体が作品になるって言っていた。反射神経によって、幾つものバラバラになった人格や身振りを無秩序に(無根拠に)接合していく演技の方法も、調和する自然の切断から自由の体験を獲得しようとしていると考えれば合点がいく。(グローバル資本主義への同一化を拒む抵抗!)

 

ゴミの自由だ、と思う。

でもゴミになるのは難しい。

僕にとって今まで最もゴミだったのは稲垣くんの身体だった。そして、逆の意味で前田さんの身体。そんな感じで。

 

その他エトセトラ。

・即興で立ち現れた真史さんと立本さんのお互いの文脈と全く無関係に並置された身体の関係は、対面的緊張感でも力強い身体同士の緊張でもない、引き合う緊張感を持っていた。

・250km圏内のNo Pushingは、互いへ不調和な身体による遠慮のないコミュニケーションを示していたのが魅力的だったのだ。調和の切断によって現れるゴロンとした身体。

・新しい調和。3人(僕・立本さん・まふみさん)が全く自由に無関係なままで絵画的に(?)ある種の調和を見せていた、とのこと。僕が立本さんの服の匂いをかぎながらドアに頭をぶつけて、まふみさんが数字を数えながらびっこで歩き、立本さんが何をやっていたのかは知らない。

死体は生きているとしか言えないー250km圏内『妻とともに』稽古

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/marron_shibukawa/20161121/20161121003819.jpg 
さて、250km圏内である。その稽古場である。
かなり久しぶりの稽古場訪問。それにしても、250km圏内の稽古は大いに「謎」を含んだ魅力的な場だな、と思う。
 
今日は「テキストをほぐす」ウォーミングアップのあとで、通しのリハーサルが行われました。
あまり事前情報なくパッと通しを見たわけですが、色々な妄想が刺激される変な上演だったのは疑い得ない(笑)。
 
これは小嶋さんが250km圏内のページですでに言ってることですけど、『妻とともに』は、ある介護記録をもとにして「介護される側」の視点から組み立てられたパフォーマンスです。そうそう、この間、家族会議があって熱海に行ってきたんですけど、熱海の来宮神社に樹齢2,000年の楠があるということで、訪れたんです。そこには想像を超える巨大な楠がありました。その楠を僕はジッと見つめていたんです。僕は何か、神の宿る御霊代たる自然を前にした時、そこに宿るエネルギーに対して身体を開いて、その力を受け止めるように佇む体験を大事にするところがあるのですけれど、そうした自然を前に佇む体験に、リハーサルで受け止めたパフォーマンスの体験はよく似ている、と思いました。
 
不思議なことですけれど、そうだった。
 
で、そこには単なる当てずっぽうではない理由があるように、思える。
どういうことか。
 
小嶋さんによると今回の作品は「老後の暮らしを考える」をテーマにして、老後の幸せについて考える演劇なんだとか。僕がリハーサルを見て思ったのは、老後の暮らしについて考えることは、人間が生きることについて考えることなんだ、ということ。実際、リハーサルの序盤で、ゆっくりと立ち上がるまふみさんを見据えた時には、人間が人間によって「生きられる時間」を見つめることが演劇の根源的な体験だと感じたわけで、つまり何らかの役を演じることでも役者が自分を開示することでもない演技のあり方があって、私の声としか言えない声、私の身体としか言えない身体を立ち上げていくような演劇のあり方があるんだってことを、僕は思う。
 
老いることは死体化していくことだ。
自分の意志で身体も記憶もコントロールできなくなって、というかどんどんその機能を停止していって、ついには、僕らは二度と動くことのない死体になる。それがはじまりだ。終わりじゃない。ほぼ死体、から僕の声と僕の身体は逆説的に発見されていくし、「生きている」としか言えない次元が開示され始める。
 
250km圏内は、どうやら、そういうことをやり始めたらしい。
僕は、これはもう過剰評価だと思うけど、人間と人間が出会い・コミュニケーションをするために必要な《根源的な何か》に彼らは触れようとしている気がする。前作は、コミュニケーションは《意味》ではない、働きかける身体行為であることを明らかにする試みだった。そして今作は、誰かと根源的に出会うために必要な《私》を再発見する試みであると言える・・・と思う。
 

f:id:marron_shibukawa:20161121003807j:plain 小嶋さん

 

 f:id:marron_shibukawa:20161121003822j:plain  リハーサル/まふみさん

〈ひとつの机とふたつの椅子とシェイクスピア〉のレビュー

f:id:marron_shibukawa:20161111225405j:plain

「ひとつの机とふたつの椅子とシェイクスピア
日 :2016年10月21日(金)〜23日(日)
会場:座・高円寺
 
「ひとつの机とふたつの椅子とシェイクスピア」を観劇した。座・高円寺という場において、こういう企画が成立していることに些かの興味を覚えたので、僕が読み取ったことを書き記してみたいと思う。
 
こんな企画だった

f:id:marron_shibukawa:20161111230602j:plain

 今回の企画は香港の演出家ダニー・ユンが発案した「二つの椅子と一つの机・上演時間20分」というパフォーマンスのフォーマットでもって、香港・シンガポール・タイ・中国・インドネシア・日本といったアジア圏の演劇人が合わせて6つの作品を創作するもの。座・高円寺の芸術監督であり演出家の佐藤信は80年代から「アジア演劇」を掲げており、それが、30年の時を経て、コミュニティシアター(地域劇場)として大きな成果をあげている座・高円寺で実現されているわけで、まさに佐藤信の演劇的理念の集大成と言っても良いのではないか、と思える。僕が今日見たのは、Aプロの『後代400』『ブラックボックス2016』『⇄ガートルード⇄オフィーリア』の4作品。すべてが、ワンテーブル・ツーチェアーズの制約のもとに、おのおの個性的な表現を披露していた。

 
※後日(23日)にはBプロも観劇。
 
ポストトークの〈ハプニング〉
 ここでいきなり、ポストトークの話をする。Aプロ・Bプロはともにポストトークを用意しており、オブザーバーとして参加する羽鳥嘉郎と鹿島将介がホストになって参加した演出家の話を聞く。(1日目の)Aプロは羽鳥が担当していたのだが、これが「放送事故」のような時間になっていた。羽鳥は赤い椅子を持っていきなり客席から舞台上に現れ、6つの椅子を舞台前方に置く(登壇者は全部で3人であるにも関わらず)。そして、ゲストの「リュウ・シャオイ」に対して、ぶっきらぼうに幾つかの質問を投げかけていくのだが、途中から全く話が噛み合わず、羽鳥は椅子から(なぜか)ずり落ちていき、いわゆる「うんこ座り」になり、翻訳者は羽鳥の「今のところ意味がわからないのでもう一回言ってくれませんか?」のような発言に困惑し、何度か角度を変えて同じことを質問する羽鳥に対し、一体、彼は何が言いたいのかをその場にいる者たちが見守る・・・といった時間になっていた(羽鳥の意図や内面とは無関係に、だが)。
 
 (繰り返すが)彼の意図や内面とは無関係に、ほとんどポストトークではなく〈ハプニング〉に近いポストパフォーマンスといった趣きで、観客にも通訳者にもリュウ・シャオイに対しても失礼な態度であり、ポストトークとしては最悪(のように僕には思われる)だが、一方で無視し得ない鋭い疑問を投げかけることに成功していた。
 
〈普遍性〉と〈文化的固有性〉
 僕が受け取った限りで、羽鳥は「ワンテーブル・ツーチェアーズという形式の制約が、創作の上でどんな良いことをもたらすのか(役に立つのか)?」と聞いており、リュウ・シャオイは「対話や集まることの象徴的な機能を持っている」と答えたわけだが、ここですれ違いが生まれている。「集まる」ことは演劇の一般的な機能であり、この形式でなければ生じない(創作の上での)機能ではない。だが、リュウ・シャオイが言いたかったことを勝手に推測すると、この形式は演劇の〈普遍的な機能〉−対話と集合−を象徴しており、その制約のもとで、アジア圏の多様な文化的コンテクストが召喚されるような性格を持っている、と言いたかったはずだ。個々の創作の上で実質的に「役に立つ」ポジティブな性格を持っているというよりは、文化的コンテクストをあぶり出すためのフィルターとして〈普遍性〉を象徴する「机と椅子」が必要とされている。こうして〈普遍性〉をバネに〈文化的固有性〉を浮かび上がらせるのが、「ひとつの机と二つの椅子とシェイクスピア」という企画の骨子であるということだ。
 
 実際、Aプロのパフォーマンスは、それぞれ固有の文化的土壌において現れてきた上演芸術の身振りをオブジェのように「舞台上に置いていく」ことで構成されていたように思う。身体的な共振作用(演者が呼吸を止めると観衆も息を止めてしまう、のような。共感ではない)を武器とする伝統芸能の身振りは、ときに観客の思考を麻痺させる麻薬的な快楽をもたらすが、そうした時間を生じさせることを避けるかのような制約を、どの組も背負っていたように見えた。(僕はアジア圏の伝統芸能に明るくないので、具体的なコンテクストはわからないのだけれど、「崑劇」「タイ古典舞踊」など伝統芸能に出自を持つパフォーマーが出演していたようだ。)
 
身振りのレディメイド

f:id:marron_shibukawa:20161111231059j:plain

 こうした上演のフォーマットから、僕はデュシャンのレディメイド(既製品)の方法を思い起こした。デュシャンは〈泉〉(男性用便器を逆さにしてニセの署名をして「泉」と名付ける)に見られるように日用品を美術品に転用することで、〈普遍性〉と称される場が、そのモノがもっている意味/コンテクストを剥奪し、オブジェ化する制度であることを示した(とみなせる)。(ちなみに、日常的な音を音楽に転用した音楽的レディメイドがジョン・ケージの〈4分33秒〉である)
 
 「ひとつの机と二つの椅子」は、それぞれ固有の〈文化的な身振り〉を普遍化された〈上演芸術の身振り〉に転用する場として機能することで、固有の文化的背景抜きで身振りを舞台上に出現させるようデザインされた(象徴的)装置なのである。それはまた、文化的・世代的・時代的・ジャンル的なあらゆる背景を一旦保留させることにつながり、あらゆる壁を超えてアジア圏の上演芸術家が出会う場を用意することを可能にしたのである。
 
「正しさ」へのムカツキ
 それじゃ、これは「一つの机と二つの椅子」じゃなきゃ駄目だったのか? 的な方向からの、つまり、そこにある机と椅子は抽象化された機能であって、具体的な感覚を喚起させる装置としてあったわけではないのであるからして、この企画は演劇エリートによる知的操作を楽しむ産物にすぎないのではないか? といったような方向性に議論を運ぶことも出来るけれども、それよりなにより、僕が引っかかる最大の問題は〈普遍性〉とは何なのか? にある。ワンテーブル・ツーチェアーズの〈普遍性〉はあらゆるコンテクストを超えて、誰でも・いつでも・どこでも「対話すること」「集まること」が可能な形式としてあるわけだが、その公式的な「正しさ」にどうしても苦虫を噛み潰したような後味の悪さが残る。この違和感は何なのだろう?
 
 それはちょうど、(演劇人にしかわからないかもしれないけど)稽古場の本読みで戯曲を解釈していく際に、初めは多様に生まれていた戯曲の「読み」が最終的には発言権の大きい、つまりは権威ある人が「正しい」と認めた解釈へと一元化されていく、といった時の苦々しさに似ている。演劇学校に通っていた頃、グループワークでこういう事態が起こったときに、「正しいことが正しいとは限らないんだぞ」と捨てセリフを吐いて喧嘩したことを昨日のことのように思い出すのは、まぁいいとして、「正しさ」はいつも私的な「楽しさ」を駆逐していく性質を持っている。「正しさ」はまるでそうあることが必然であるかのような顔をしている。それがムカつくんだな。どうも。
 
楽しさ=私的領域を擁護する
 「一つの机と二つの椅子」は、「アジア圏の上演芸術家がいかにして(無差別に)集まるのか?」に対する、見事な応答であることは疑い得ない。その一方で、このパラタイムの圏内においてはほとんど難癖に近いが、〈集まり〉をシンボリックな装置に代表させる思考様式は、誰もそれを信じていないのにも関わらずただ正しいというだけで公認されるイデオロギー装置(アルチュセール)にならざるを得ないのではないか? もしくは、観客にその〈集まり〉を〈公式な集まり〉として見なければならないと強要するような抑圧を生むのではないか? どんな文化的コンテクストを背負った身振りも、単なる上演芸術の身振りに無害化され、〈公式な集まり〉の断片として正当化されていく。
 
 僕はこうした「誰でも・いつでも・どこでも」集まることの出来る演劇の「正しさ=社会的意義」に対して、上演芸術の身振りを生活文化の身振りに押し戻し、私がいまここでしか持つことの出来ない「楽しさ=実存的意義」の私的感性の領域を擁護したい。
 
 その意味で言えば、羽鳥がポストトークで行った、〈公式な集まり〉におよそふさわしくないハプニング的振る舞いにこそ、〈集まり〉の別の可能性が秘められているように思う。私的感性は制御不能なものなのだ。しかし、その現れを相互に享受するような〈集まり〉こそ、〈公共的な公共性〉ではない、〈私性〉を経由したもう一つの〈私的な公共性〉を形作るのかもしれない。
 
最後に蛇足
 以上のように、企画のフォーマットそのものに対する違和感はあったものの、個々の作品については、机と椅子の象徴性が大体の組でほとんど無視されていた(ように見えた)のが面白かった(実際には無視し得ない象徴として厳然とあるのだけれど)。え、机と椅子の意味ある? と突っ込みたくなる。それどころか舞台そのものを全く使わないチームなんかは、もしかしたら、この〈普遍性〉の形式それ自体を、ロジカルな左翼運動世代の遺物として拒否している(わけじゃないと思うけど)ようにすら妄想できた。それに対して、日本の(武田らの)チームが最も真面目に「机と椅子」との具体的・抽象的関係を駆使しつつパフォーマンスを構成していたのが、何となく可笑しかった。

ホロロッカ『海に駆りゆく人々』

f:id:marron_shibukawa:20161219221450j:plain

[上演台本・演出]塩田将也(ホロロッカ)
[日時] 2016年9月30日(金)〜10月5日(水)
[会場] 新宿眼科画廊 スペースO

[あらすじ]
小さな島の、小さな家。老婆と二人の娘が暮らしていた。 この家の男たちは一人一人海で死んでいったからもういない。 亡骸が帰ってきた人もいたし、帰ってこない人もいた。 そして、最後に残った息子も海に出る準備をしていた。

[出演] 新田佑梨(ホロロッカ)・三浦こなつ・小室愛・松崎夢乃

 

ホロロッカ『海に駆りゆく人々』を見に行きました。

塩田君の「作」ではない演出作品を見るのは初めてでしたが、これが良い意味で予想を裏切られる作品でした。前衛へようこそみたいな。そんな風に言いたくなるほど前提的身振りにおいて演技と時空間が演出されていた。

僕的には京都時代から馴染み深い「マレビトの会」を筆頭とする00年代京都演劇の文法を用いた懐かしの上演とも言える。抑制された発語、シンプルな舞台空間、人物の配置だけのミニマルなセノグラフィ、サイトスペシフィシティを導入する小道具の採用(『水の駅』の水が滴る蛇口のような)マレビトの会・壁の花団・下鴨車窓・トリコ.A・France_pan・山口恵子・市川タロ・したため・京都ロマンポップ、もしかしたら相模さんや村川さんも。一括りにするのは乱暴だけど、ある種の共有前提としてあった文法が東京で見られるとは、なかなか感慨深い(?)不思議な感じだった。

そういう僕自身の来歴もあって、上演が前衛的な「身振り」に見えてしまうのは如何ともしがたいところ。僕はこうした作品群の評価軸を持つために批評の領域に足を踏み入れたこともあり、どうしても、その方法において目指される美学の細かい部分が気になってしまう。抑制された発語は、言葉を身体から突き放す必要があるし、それはそもそも身体を不透明な媒介として作用させることを目的とする。突き詰めていえば、身体をイリュージョンの代理=表象としてではなく、いま・ここに固有の媒体として扱う文法が、地点以降に起こった京都演劇の形式だった。そうした意味で、媒体それ自体による共振的想像力の喚起が、ホロロッカの今回の上演には弱い。

この形式は容易に「前衛っぽさ」を生み、演劇形式の実験として神秘主義的な「わかる人にだけわかる」教条主義へと着地してしまう。そのあたりをどれだけ理解しているのか、が疑問ではあった。そういうわけで(どういうわけだ)、塩田君固有の作家性を脇に置くとして、前衛の「身振り」に回収されていくところに危うさを感じつつも、チャレンジングで刺激的な上演だった。

重力/Note「現代演劇のために考えている身体WS」に行った(3/21)

ワークショップについて

重力Noteが東京ではじめて開催する「現代演劇のために考えている身体WS」に参加してきた。 私たちが「共に生きる」ことをお題目ではなく、あたかも一つの社会実験のようにその場で具体的に構想していくようなワークショップで、現代演劇そのものはもとより、「共に生きることを考え続ける身体」への機知に富んだ内容だった。

ちょっとメモなどないので、記憶している限りになりますけど、最初は「現代演劇」「考えている」「身体」「WS」のそれぞれの言葉に対して演出の鹿島さんの考えを参加者に手渡すところから始まりました。納得したのは「ワークショップ」の考え方の歴史をたどりながら当時(00年代中盤)、日芸に所属していた鹿島さんの周辺でその言葉が知られるようになったエピソードを敷衍しつつ「規律訓練型の技術教育」から開かれた「ワークショップ」への移行が、実は現代演劇の方法と深い関係があることを描写してみせたところ。今回のワークショップも、劇団の「この方法でいくから会得してね」という技術の伝達を目的としているんじゃなくて、各々の身体の個性を損なうことなく、共に共存し何事かを考えていくことを目的としている、とのこと。 そうした前提を補助線に、今回のワークショップも、「作る身体」の引き出しを増やすことではなくて、「考え(てい)る身体」を実践してみることに主眼が置かれました。

後半戦では、一人ひとりが前に出て「何かをしてみる」ところから、各々の「劇的だと思うもの」をパフォーマンスし、さらにそれを積み重ねることで一つの舞台面での共存を実践的に試行錯誤していきました。それぞれが持っている世界の感じ方が行為する身体に不思議と開示されていくさまは、非常に刺激的で、「なるほどなるほど」と頷くばかり。拍手で迎えるルールは単純でありつつ「共に」には「尊敬しあう」ことが内在されていることを思わせます。なにより他人を見て大いに笑える・笑われる経験は愉快でした。

そして、考えたこと

私たちは、社会的な、もしくは会社的なルールに沿って日々をやり過ごすことが出来るものですが、そうしたルールをカッコに入れることの出来る「舞台」という場は、とても豊かで、逆説的に私たちが社会的・会社的ルールの中でいかに自由に身体で感じる=考えることから疎外されているか。会社で僕は、後ろ向きで架空の誰かとじゃんけんする行為が出来ません。それが当たり前のように思えるとしたら、何らかの強制−利益をあげる役に立たない、管理する上で役に立たない−が働いているのを僕たちはたやすく見過ごしてしまうのだ、ということ。私たちの社会的・会社的生活の上では、「利益追求」と「安全(リスク)管理」以外の尺度で目の前にいる人を測ることが出来ない。そのゲーム的側面を楽しむことはできるけれど、ゲームのルールをその場で自ら創りあげつつ、他者と共存する場を思考=試行することの価値は、想像することすら出来ないようになっているのではないでしょうか。

僕の尊敬する演劇人の一人でもある平田オリザさんのWSは、非常にうまく「イメージを共有する」演劇の面白さを理解させてくれます。僕の先生でもあった高尾隆さんのワークショップは、がんばらないこと・相手を尊敬することで生まれる共同作業の面白さ(逆に言えばなぜ共同できないのか)を伝えてくれます。しかし、自らのルールを携え、その場で共存を「考えていく」ことを実践していくスキームは、そこから排除されているようにも見えます。

こうした隠れた疎外は、現代美術のエピソードを一つ想起させます。90年代においてブリオーの「関係性の美学」が持ち上げられた際に、その代表格のように言われたティラバーニャの「タイカレーを来場者に振る舞う」美術作品を批判してクレア・ビショップは「敵対するものが予め排除されている」構造を指摘しました。敵対性を排除しない、つまりは「いつでも反対意見を述べることが保証されている」ことが民主主義の原理にはあることを措定しつつ、一見、民主的な公共圏を構築していくように見える「関係性の美学」に隠された排除の構造を批判したのでした。その場で共に考えていかざるをえない他者ぬきの公共なんじゃないか? と。

重力/Noteが構想する「共存する場」の特徴は、敵対する他者との共存を含み込んでいる点で、制度化される以前の「ワークショップ」の本来的な意味を思い起こさせるとともに、演劇の現代が、他者と身体と関係の現在を絶えず運動させていく場の重要性へ目を向けさせてくれるように思います。

250km圏内『Love&Peace2』について

思い出しながら、メモを残していきたい。

■コンセプトと戦略
今回の250km圏内のキャッチコピーは「観劇文化をつくる旅」。その名の通り、観劇を文化にすることを目標に掲げた活動だった。わけだけれども、これは確かに大切だけれど、あまりにも当たり前のことを言っているようで、いまいちピンとこないところがある。

そのために取られた戦略がこれ。

「演劇は言論の種。劇場は言論の場」

演劇作品を発端にして劇場を言論を交わすための場にしよう、というわけ。あごうさとしさんが「演劇が道具になってしまうのでは?」という趣旨のアドバイスをしてくれたのだけど、小嶋さんの意図としてはまさに「演劇はコミュニケーションのための道具」なのだろうと思う。そして「ゲキジョウはゲンロンの場」という活動コンセプトは現況の劇場が持つフレームを組み替えるような働きかけを持ったコンセプトであったように思う。

★「演劇は道具か否か」とはいかなる問題なのだろう?


■演技・作品・活動
演劇の上演は演技・作品・活動の3つの側面から評価できると思う。
演技と作品は、字義通り。活動は、社会フレームに対する働きかけだ。往々にして、3つ目の「活動」の側面が演劇上演においてはおざなりになりがちで、というのも大抵の上演団体は、活動レベルにおいて「生計を立てる」働きに従事しがちだ。アレントの活動の3つの区別を参照するならば、生計を立てることは「労働」であって「活動」ではない。しかも、その労働形態は賃労働であって、いわゆるサービス業に従事する格好になるわけで、それは本質的に「商業演劇」であって、オルタナティブな価値を示す「小劇場演劇」とは本来は縁もゆかりもなかったはずなのだけれど。

しかし活動とは「存在を示す働き」であり、生命維持の必要性によって強制される労働とは違い、「彼女は主婦である」とか「彼は施設管理人である」のような職能に還元されることのない唯一無二な「わたしの存在」の事実性によって促される働きなのである。(アレントは「演劇だけが活動を示す唯一の芸術である」と規定するが、それは唯一的な歴史的事件を我が身に生きる人間を描き出すのが「演劇」だからだと考えるからのようだ)

だから、「活動」は人間が金太郎飴のように同じモデルの再生産物ではないことを前提にするならば、必ず生じてしまう「はじめる力」のことであり、政治―存在を示す―ことの基礎的な条件となる。この意味で社会フレームに対する何らかの働きかけは全て活動的な側面を持つのであり、小劇場演劇が《生計を立てる》ための商業演劇と対置される根拠は、存在を示す《活動》を生業としているからでしかありえない。

小劇場演劇は言わずもがな、原初的な政治活動なのだ。
(松山のシアターねこで開催したトークイベントにおいて、デモの政治的有効性がひとつのトピックにあがった。そこで僕が思ったのは、劇場はデモのような示威行為の手前にあるのではないか? ということだった。)

それはアートの脈絡で言えば、(シュルレアリスムではなく)ダダ的な行為とも言える。「活動」は、現況の社会フレームではなかったことになっている存在を示す行為によって、その社会フレーム自体を組み替えるような爆発力を有している。というか、それが「活動する」ことの意味であり、正しく政治的な行為となる。例えば、1917年、デュシャンが持ち込んだ一個の小便器が「美術館の制度」を内破していったように。その《泉》と題された作品は、《生計を立てるため》に必要であるような職能とは一切関係ないことに注目したい。それが現代アートのはじまりとなったのは、アートがパトロンの庇護のもとパトロンの注文に応える職人仕事であった時代から本格的に峻別されたことを物語るものであった。

小劇場演劇もこうした「労働」から峻別し取り出された《活動としてのアート》の脈絡に属している。1887年に設立された自由劇場は、何よりまず職人芸からアンサンブルを主体にした演技術への移行を通じて劇場のフレームそのものを組み替えようとした運動だったことを忘れてはならない。生計を立てるためではなく、演技を、劇場を、そしてそこから人間と文化のあり方を組み替えようとした《活動》だったのである。

250km圏内の演劇は、そうした《活動としてのアート》を地で行く。80年代に急速に霞んでいった小劇場の政治性、つまりは活動性を再生する目論見を持っているようである。もちろん、小嶋さんはそんなこと言わないのだけれど。むしろ、もっと感覚的に「演劇についてのおしゃべりじゃなくて、裸の個として働きかけ・働きかけられるコミュニケーションの場」を目指しているし、そもそも小嶋さんがパブリックな場が設定されないとうまくしゃべれないという、ある意味でしょうもない理由から、結構な射程を持った活動がはじめられたのだから不思