飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

プリズマン『プリズマンの奇妙な冒険』/観劇スケッチ

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2016年12月10日〜11日
@十色庵
 
プリズマンは宮尾昌宏、竹田茂生による演劇ユニットである。処女作はクライスト『地震の話』を原作にした『ハピネス・イン・ザ・トゥルース』。これを2014年に発表。続く15年には観客席が取り払われ、茶会記というアートスペースの三つの部屋を用いた同時多発的パフォーマンス『脱出の時代』を発表。そして、今回は新たに笑いに焦点を当てた短編集『プリズマンの奇妙な冒険』のお披露目となった。僕はなんと、この三作品すべてをきちっと見ている。年に一度のペースで作品を発表しているプリズマンの作風は安定せず、一作ごとに全く別のテイストになっていくのが、何となく面白い。
 
しかし、プリズマンの脚本・演出を務める宮尾の視点は常に一貫している。視点というか、何だろう、「わからない」という感覚をとにかくなんでもかまわない、手法なんてどうでもいい、そのときたまたま興味を持った手法でもって観客とこの「わからなさ」を共有しようとする姿勢は、作風の違いを超えてプリズマンの通奏低音となる。
 
ちょっと取り急ぎなんで、あまり細かいことに言及しないけど、今回の三つの短編のうち、多分メインであろう最後の「シン・テトリス」は非常に不思議な質感を持った作品だった。この40分程度の短編のあらすじは単純で、なぜかある狭い場所に囚われた男が、なぜだかわからないけど落ちてくるテトリスをなんとか消していき、最後には解放されたと思いきや、なぜだかわからないけれどもう一度囚われて宇宙空間にロケットで飛ばされる、というもの。
 
まぁ、なんだかわからない。なぜ囚われたのか、そしてなぜ途中で落語調で俳優が話すのか、なぜ途中でいきなりラップを歌い出すのか、なぜ女子高生らしき女がやってくるのか、なぜ宇宙に飛ばされるのか・・・。脈絡が、ないのだ。そして、僕はドゥルーズガタリが唱える「リゾーム」の概念を思い起こす。
 
リゾームないし多様体としての操り人形の糸は芸人ないし人形遣いの、一なるものと仮想された意図にかかわるのではなくて、神経繊維の多様体にかかわるのであり、この神経繊維が今度は、はじめの諸次元に接続された別の諸次元にしたがってもう一つ別の操り人形を形作るのである。
 
ツリー的な一つの超越的価値によって組織していく有機体に対して、リゾーム的なうごめきが対置される。宮尾は、その劇団名(プリズマンー乱反射する男)からしても、活動の最初に(ドゥルーズガタリリゾームの最もたるものとして言及する)クライストを選択したところからしても、そして、脈絡なく複数の劇形式が串刺しにされていく時間の構成の仕方にしても、何かしら、リゾーム的な神経繊維の多様体を思わせる。というのはつまり、その劇があまりにも《私的》なものであるということを意味する。テクストを執筆した宮尾の「わからない、わからない」というつぶやきに、なぜ僕は囚われているのか、男はなぜテトリスを積み上げては消しているのか、テトリスが天井まで積み上がるとどうなるのか、男が抱えるテトリスを消していかなければならない言い知れぬ不安は何なのか、なぜ男は何らかの形式の力を借りて喋り続けなければいけないのか、一切答えがないこれらのわからなさに観客は延々と付き合わされる。
 
普通は、だ。一定の古典的なドラマトゥルギーを理解しているものからしたら、主人公は葛藤を生み出す問題に対して何らかの行動を起こしたり、そしてその問題の意味の解像度をあげてみせたりするだろう。この何ら答えの出ない、というかそもそも答えの仮設も立てられない、かといって不条理劇のような構造的に示される無意味さー例えば「ゴドーを待つ」構造から、その無意味さを暴いていくベケットのような―があるわけでもない、ただ「わからない」と言われ続ける体験は異常だ。しかしここには擁護されるべき《私的価値》があるのだと、僕は言いたくなる。
 
観客は、こうした一連の脈絡のない、そして答えのない「わからない」があの手この手で示唆されていく時間と付き合う内に、宮尾が抱える神経系に触れていくことになる。神経系は統御できない。とにかく信号があらゆる領域へと拡散し、例えば何かの危険を知らせる。まとまった意味が生じる以前の神経繊維に広がる危険信号。この、ビビビと走る信号を、観客は共有させられる。意味はわからない。しかし宮尾のカラダの内に広がる統御不能なイマージュのうごめきが、まるで自分自身が宮尾に同一化してしまったかのように察知させられるのである。
 
プリズマンは、もしかしたら公共的な、演劇の言説空間に位置付けられるようなポジショニングを持てないかもしれない。その《私的なもの》を客観的な表現に変換してもらわないと、どうにもならないよ、と思われるかもしれない。だが、そうした客観性の欠如を要件とした《私性》こそを、僕は興味深いと思ったし、何か非常に重要なことだとも、思った。

《公共性》は単に必要とされていないのでは? 250km圏内京都公演で思ったこと。

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この冬、小嶋一郎・黒田真史による劇団「250km圏内」の京都公演『妻とともに』に同伴し、主にコンセプトブックの製作作業を担った。そのなかで、《公共》について、自分なりに腑に落ちることがあったので、書き留めておきたい。

※ただし、小嶋一郎の唱える劇場論・対話論とは重なりつつ無関係である。
 
 
 
 
 

「私たちが一緒に食事をとるたびに自由は食席に招かれている。椅子は空いたままだが席はもうけてある」

(ハンナ・アレント『過去と未来の間』)

 
ハンナ・アレントはそう言う。椅子は空いたままだが、席はもうけてある。「自由」の座る席が、というのを「あなたの座る席が」もうけてある、と理解するならば、これは端的に《公共》の輪郭を言い当てている(と思った)。つまり、「あなた」の存在が認められていること、そして食卓を囲んで言葉を交わす用意があること。こうした事態を指して《公共の場》と言うのだろう。
 
一般論としてはそれで納得なんだけど、だが「あなたの席がある」「あなたと言葉を交わす用意がある」と、ことさらに言わなければならないとは、一体どんな状況なのか? これってかなり特殊な状況なんじゃないか。なぜなら、僕らは僕らの席がそこにあるのは普通のことだと思っているし(居酒屋で友達とテーブルを囲む)、言葉を交わすことに何か困難があるとも思えないからだ。
 
そんなことはない、この社会に席を持たない人はいるし、彼らと言葉を交わす場を設えることは常に課題なんだ、とは言える。しかし僕が指摘したいのは、日常的に実感できるレベルで「あなたの席はある。あなたと言葉を交わす用意は出来ている」なんて意識することがどれほどあるだろうか? 飛躍させて、こうも言える。観客席に座るときに「わたしはここに座らざるをえない」または「わたしの席がついに用意された」なんて特別な感じを持つことなんてあるか?  そりゃチケット予約してお金を払ったんだから座れるでしょ、って思うんじゃないか。
 
しかし、その席に何か特別な必要性を感じられる空間が《公共空間》なんじゃないでしょうか。
岸井大輔が『東京の条件』で次のように書いていた。
 
去年の十二月に、フィンランドの友人とした会話
 
「会議をしないで、大勢でどうやって問題を解決するんだい?」
「・・・スープをシェアするんだよ。・・・三時間くらいシェアスープ(つまり、鍋)をすると、問題が解決しているのさ」
・・・
「それで本当に問題は解決するのか?」
「賭けてもいいけど、ここに日本人が十人いたとして、問題の解決に、ディスカッションとシェア・スープのどちらが有効か、と聞いたら、まあ、八人くらいは、鍋と答えると思う」
 
※『東京の条件』は「公共という芝居を演じるのが上手くない日本という劇団にあてがきした、公共を演じるための戯曲」ということのようです。
 
小嶋さんもまた、似たような対比を出している。居酒屋で話せればそれでいいのだけれど、僕はそれが出来ないから対話する劇場の場を必要としているんだ、と。居酒屋が「シェアスープ」であり、対話する場が「ディスカッション」である。岸井が言う「日本という劇団は公共を演じるのが上手くない」というのを、小嶋の語り口で言い直すと「役割や立場からでなくて《個》として問われる経験、それはとても困るけど非常にスリリングなものです。そういうほんとうの意味での《他者》に出会いたいんです。」になる。
 
つまるところ、日本は居酒屋談義/シェアスープで《みんな》の席を用意しているんだから、難しく考えないで楽しく飲もう、そしたら同じ釜の飯を食った仲間、まぁお互い大変だけれども頑張っていきましょうで万事解決OKと思える国なのであって、わざわざ「あなたの席を設ける」必要なんてどこにもない。しかし、こうして用意された《みんなの席》とアレントが「席は設けてある」という席の間には、埋めがたい溝が広がっているように思える。
 
僕たちが巨大なシェアスープを囲んでいると想像しよう。
スープの具材は、わたしたちが抱えている様々な問題である。これは巨大な鍋なので、僕の目の前にある具材に手を付ければ、他の具材は他の人が手を付けてくれるだろう。いや、そもそも、この具材は鍋のスープに溶け込んでしまっているかもしれない。それを僕の見えないところで誰かがお玉ですくっているかもしれない。ワイワイ楽しくやっている内に、どうせいつか鍋は食べきられるのだから《わたし》がそれに手をつけなくても誰かが手を付けてくれるだろう。鍋は《みんな》で楽しむものなのだ。
 
しかし、スープが全て飲み干されたとき、実はまだまだ具材が底に沈んで転がっているのかもしれない。それは果たして具材だろうか? もしかしたら、人間の姿をしていないだろうか? いつの間にか《みんな》で楽しむ宴会からスープの中に突き落とされてしまった、席を持たない人間がこちらを見つめてはいないだろうか? 僕たちは彼/女に対して、どのような言葉をかけるのだろうか? 
 
こうした想像力が働くときに、《他者》が開示されるのだろうと僕には思われる。この時、わたしが見ないようにしていたソレ、スープを囲んで楽しく一杯やるための肴にはなっていたのだが、実は見たことも聞いたこともなかったソレ、と向き合うことは大変しんどい。出来ることなら対面したくはないだろう。しかしそれでもなお宴会の賑わいを切断する声が聞こえたならば、もしくは《わたし》がいつの間にか宴会の席から転げ落ちていたのであれば、そんな切羽詰まった状況があってしまったなら、「席はもうけられねばならない」。こうして他者が招かれた《公共空間》が設えられる。ここでも食事は行われるだろうが、それはあくまであなたを歓待するために用意された食事である。
 
こうした《公共空間》はもちろんどこにでも出現しうる。公共ホールと《公共空間》が等号で結ばれないのは、周知の通り(民間劇場でも《公共空間》は可能だ)。しかし、僕たちが公共ホール・公共を自認する小劇場がよく言う「公共は広場だ」との主張に実質のなさを覚えるのは、広場の機能はわかった、だが、なぜ他者が開示され、わざわざ自分のアイデンティティが揺さぶられなければならないのか、反対になぜわたしを他者として開示せねばならないのか、を理解できない=必要としていないからではないか。
 
250km圏内の上演の後に用意される《対話の場》は、馬鹿みたいに字義通り、《公共空間》を設える試みだった。その賛否(企画のクオリティ)は置くとしても、その意味が理解できないというのであれば、劇場の《公共》的な役割が単に必要とされていないからじゃないか? 逆に言えば、他者が開示され、他者と対話することの切羽詰った必要性が生じなければ、劇場が《公共空間》の性質を帯びることはついにないんじゃないか? 僕たちは居酒屋・カラオケ・カルチャーセンターがあれば、まぁOKなのだから。
 
※250km圏内の京都公演で思ったことではあるが、小嶋一郎は僕のようには考えていない。なぜなら小嶋一郎は僕やあるいは岸井のように、公共は演じられる=公共は倫理的な「ねばならない」から生じる、とは考えないからだ。逆に小嶋は「公共は欲望されている」という。わたしは話したい、「わたしはこう思う」を話したいし、「あなたがこう思う」を聞きたいんだ、それはスリリングで楽しいことだ、みたいなふうに。というかここで想定されている《対話》は常識的なそれではなくて、わたし固有の声=音、わたし固有の身体=エロスを介在させた動物的なコミュニケーションの次元であって、演じられた公共の「ねばならない」が剥ぎ取られた後でなお現れる特異な《公共空間》である。ヨーロッパ思想の伝統からいって厳密な意味での《公共性》ではないかもしれないけれど、それでも僕には何か好ましいものに感じられる。岸井と小嶋のこの違いは大きな違いだと思うけど・・・これは余談ですね。

〈公共空間〉を仮設する―小嶋一郎/250km圏内

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※小嶋一郎コンセプトブック「コミュニケーション原論〜あるいは剥き出しの劇場へ」(2016年発行)より転載します。
 
〈公共空間〉を仮設する Ⅰ
 小嶋一郎は劇団250km圏内の演出家である。近畿大学演劇専攻に入学。西堂行人に師事した小嶋は、その過程の中でいわゆる「演劇とはこういうものだ」の固定観念を払拭させていったという。その後、杉並区の公共劇場「座・高円寺」が開設した養成所「劇場創造アカデミー」において佐藤信らに師事。社会批判と観客の意識変革を促すブレヒト的な背景を持った教育をまともに受け止めた小嶋は、小劇場演劇に散見される〈若さ〉の奔放なエネルギーやルールを犯すヤンチャさの表現へ進むことなく、社会へ介入するための創造的な手段として〈演劇を使う〉ことを学ぶ。つまり、小嶋一郎は限りなく真っ当に演劇の社会的役割を考え・表明し・実践するアクティビストたらんとしたのである。そして、あまりにも真っ当なことを発言し実践するがゆえに日本では異端者の位置に据え置かれる矛盾を体現する存在となった。
 彼が欲しているのはたったひとつのシンプルなこと、劇場を理想的な対話の場にすることだ。換言するならば、私たちにとっての他者を開示し、他者と対話をするための椅子が用意されている空間、〈公共空間〉を劇場にインストールすることである。 
 
〈公共空間〉を仮設する Ⅱ
 〈公共空間〉を劇場にインストールする理念を体現するように、京都芸術センター舞台芸術賞大賞を受賞した《日本国憲法*1は、客席が設定されず出入りは自由、「日本国憲法」を単なる音として発話する俳優たちを間近でまたは遠巻きに体験する空間を設計し、「憲法」と私たちの物理的な/意味的な距離感を可視化した。私たちの無意識に沈んでいる「日本国憲法」をもう一度〈私〉の価値観を揺るがせる他者として開示してみせること、そうすることで〈私〉にとっての憲法とは何かを問い直し、その新しい意味へ自由にアクセスできる〈公共空間〉を仮設したのである。翌年には、3.11後に生じた受け止めきれない経験に「対処できるようになるまでの時間」を〈圏内〉と名付け、俳優自身が経験した〈圏内〉での出来事を語る作品《250km圏内》*2を発表する。これもまた、3.11から生じた時空間を〈他者〉として開示する〈公共空間〉の仮設が目指されたものだった。
 つまり小嶋にとって演劇の本質は、何らかのメッセージを表現することでは決してなく、〈他者〉を開示することからなる〈公共空間〉の仮設であり、そこに小嶋の舞台芸術家としての特異性を見て取ることが出来る。
 ところで、〈公共空間〉が成立する条件は二つある。〈他者〉が開示されていること、〈対話〉の意味(方法)を知っていること、である。ここで小嶋は一つの、しかし超え難い壁にぶつかったという。〈公共空間〉の前提となる〈対話〉の思想・方法・環境を僕たちは手にすることが出来ているだろうか? この日本に〈対話〉を成立させる社会的・精神的条件はプリセットされているのだろうか? もしかしたら、端的に存在していないのではないか。
 この問題意識に対する悪戦苦闘の軌跡が、第二期とも言える小嶋の活動を特徴づける。俳優二人がただ力強く押し合う行為から演劇でもダンスでも日常のしぐさでもない身体行為を提示する《No Pushing》*3、不協和音の調和をコンセプトにした《250km圏内の三人姉妹》*4、そしてデタラメ語を方法に純粋な意図によるコミュニケーションを目指した《Love&Peace1・2》*5と、作品のポイントが社会問題を〈他者〉として開示する試みから、コミュニケーションのあり方の理想形を提示する試みへシフトするのである。ここから、小嶋の作品では「いかに対話するか?」が焦点となり、そのための身体・関係・発話の仕方が模索されていく。こうした模索から得られた対話の方法は、俳優に強い負荷をかけるもので、およそ日常的なコミュニケーションからはかけ離れているように見える。だが、それは大江健三郎が「あいまいな日本の私」と言ってみせたように、まわりの空気を過剰に読み込み、それを〈私の言葉〉と取り違えてしまう日本固有の未分化な主体意識に「わたしはみんなである」ではない「わたしはわたしである」をセットアップするために必要な過酷さであり、その負荷はそのまま〈対話〉を成立させる条件を明らかにする。観客は舞台で展開されるコミュニケーションから〈対話〉の方法を学ぶのだ。
 しかし小嶋はここからさらに一転する(だから小嶋作品の同伴者は困惑する)。彼はここから演技論を純粋化していく(アートにしていく)方向性をとらず、さらに第三期とも言いうる活動への移行を告げる。各作品を通じて模索された〈対話の条件〉を用いたコミュニケーションは、何らかのテーマ(語り継ぐもの・幸せ・老後etc)をめぐるコミュニケーションのモデルケースとして提示され、その上で実際に観客とそのテーマについて〈対話〉する〈ゲキジョウはゲンロンのバ〉プロジェクトがはじまったのだ。
 劇場の機能を宣言するマニフェストのような役割を担うこのプロジェクトは、作品によって〈他者〉が開示され、方法によって〈対話〉の条件が示され、実際に観客との〈対話〉の場が設えられる、三段階のステップによって、制度として押し付けられた見せかけだけの〈公共空間〉ではなく、その場で経験される具体的な〈公共空間〉を押し開く。《日本国憲法》にはじまった〈公共空間〉の仮設という課題は、螺旋状に深まり回帰した。それはもう舞台上で完結される象徴的な空間に留まることなく、〈他者〉と〈対話〉を両輪に公共が実装された現実の空間を構想するプロジェクトに結実したのである。
 
文:渋革まろん
 
250km圏内
2013年に演出家の小嶋一郎と女優・ダンサーの黒田真史が立ち上げた劇団。二人とも座・高円寺「劇場創造アカデミー」修了( 1 期生)。2015年からアトリエ劇研「創造サポートカンパニー」。「コミュニケートのあり方の理想形」を舞台上で表す作品を上演。同時に、観劇文化をつくる活動を各地で行っている。

 

*1:2009年初演

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*2:その一部は10分ほどの短編《地震の話》としてレパートリー化され、各地で上演。

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*3:2012年初演

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*4:2013年初演

nearfukushima.blogspot.jp

*5:2014年初演

nearfukushima.blogspot.jp

非在の肯定/ヌトミック『ジュガドノッカペラテ』

ヌトミックを見てきました

 

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 劇場創造アカデミー6期修了(だと思う)の藤井さんが出ているということで、誘われて見に行きました。ヌトミックという団体について、僕は全く知りませんでしたが、東京藝術大学出身の額田さん(1992〜)という方が作ったユニットだ、とのこと。詳細はHPで見てもらったがわかると思います。前作『それからの街』ではAAF戯曲賞にノミネートされています。

 

ヌトミック

http://nuthmique.com

 

www.youtube.com

音の演劇へ

会場は「みんなのひろば」という一軒家のような小さなスペース。時間は30分程度の短編。玄関から家(劇場?)に入ると、1Fワンフロアの半分が舞台になっており、黒い長方形のミニマルな美術が背景にいくつかあり、長方体の黒いオブジェが舞台に置かれている・・・。

こうしたミニマル・アートを強く意識しているようにみえる美術は、本作が同じ「ミニマル」の言辞の下に読まれ得るコンテクスを持っていますよ、との背景を説明するようであり、実際に上演された演劇も(そして終演後に配られるパンフでの説明を鑑みて)ミニマリズムを手法とする演劇表現への思考と実践を探求するものであった。

正直なところ物語の内容があるんだかないんだか、僕には理解できなかったので、その文学性について云々出来ないのだけれど、女の子3人(女性ではなく、女の子の属性でもって俳優が表象されていることにも意味があると思う)が言葉を交わしたり音を合わせていったりする様子は自閉的でおよそコミュニケーションなるものが成り立たない世界を思わせる。当日パンフに掲載されていた"台本抜粋"を転載すると・・・


笹岡 くまもんは、しゃべらないから決まらないっていうか、今、気持ち

清澄 ん?

   ああ・・・

   うん・・・うん

笹岡 逆に気持ち悪いっていうか

清澄 え、どういうこと?・・・

笹岡 そうですね・・・あー、うーん、あ、

   例えば、幽霊がいて

清澄 え?あ、あぁ・・・うん

といった具合に会話が成り立たない。上演のテンションが高くなっていく部分では、意図的に会話ではなく文章単位のフレームが反復され、(正確ではないですが)


A「わかってくれ」

B「た」

C「ない」


のように、「わかる」のフレーズが肯定形と否定形の二重の意味を表象するように発語される。まさに、チラシに記載された〈演劇の音から音の演劇へ〉なるキャッチコピーの通り、 交わされる会話の中に突如ループする単語のリズミカルな発語が挿入されることで、音楽のような演劇のような〈何か〉がまさぐられていく。 

ミニマリズムの系譜

「音の演劇」といえば僕は劇団地点を思い返すのだけれども、個=孤として立つ俳優の主体を切り刻んでいくことで獲得されるセリフの音楽性というよりは、ひとつなぎの文章やセリフを複数人の俳優に振り分けカットアップ的手法で音楽性を引き出していく、つまりは発語から生まれた結果的な音楽性というよりかは、そもそもが音楽的な現象を目的とした俳優3人によるボイスパフォーマンスの側面が色濃い。もしかしたら演劇史よりは音楽史に造形が深い人にとって理解しやすいのかもしれない。では、しかし、じゃあこの上演は何を持って〈演劇〉を標榜しうるのだろう?
 
f:id:marron_shibukawa:20161127004458j:plainところで、僕はいま「音楽的な現象」といったけれど、1960年代にアメリカの美術史に登場したミニマル・アート(ABCアート)は、絵画の条件を物体(絵画が描かれるキャンバスのような)へと還元する、つまりは物質的素材をどんな意味も暗示しない本当に全くそのままの物質とみなすのであった(アルミはアルミ、鉄は鉄、木は木である)。ここで絵画は何か日常的な経験を超えて崇高な感覚を与えてくれるものではなくなり、素材のマチエール(材質感)へと蒸発してしまったわけだが、一方でそれは物質と対峙することによって、まるで〈いま・ここ〉で新しく生じてきた〈現象〉を体験するような現象学的なアートの幕開けも意味していた。

こうしたミニマルアートの動向と歩調を合わせるように登場したミニマル・ミュージックもまた、音楽を具体的な「音」へ還元し、その反復とズレから複雑に錯綜しながらも「音のマチエール」の連なりを感覚させる経験を生み出していく点で(今から振り返れば)ミニマルアートと発想の根本を共有していることがわかる(その歴史的は背景はよくわらないが)。
 
重要なのはミニマリズムの系譜においては、絵画・音楽のジャンル問わず、意味抜きの物質への還元を行うことで、〈いま・ここ〉に生起する具体的で現象学的な体験を生み出している点だ。美術批評家のマイケル・フリードが批判的な文脈で指摘したように、ミニマリズムが開示していく地平が、そもそも「音(物質)の現象」からなる〈いま・ここ〉における連続した体験の生起、つまりは〈演劇〉を胚胎しているのである。
 
そして、ミニマリズムに立脚するヌトミックの本作も、セリフの単語をどんな意味も暗示しない単なる物質(音)への還元から、現象学的な体験の生起=〈演劇〉を獲得しようとする試みだと理解できる。つまり・・・


ミニマル・アート    = 美術(物体→演劇性)

ミニマル・ミュージック = 音楽(音→演劇性)

ヌトミック       = 演劇(セリフ→音楽(音→演劇性))

 
美術・音楽のフレーミングにおいて演劇性を現前させるミニマリズムの手法を逆手に取って、演劇のフレーミングに依拠しながらもドラマ性・フィジカル性を括弧に入れるアンチテアトル的身振りを一旦差し挟み、しかしセリフを音へと還元させる物質の現象学から、〈演劇〉を再帰的に現前させる。こうして入れ子状に仕組まれた構造から、ヌトミックは限りなく演劇=音楽の領域へと近接していくのである。

青年団からヌトミック(主体の喪失)

もちろん、というか多分、演劇プロパーの側からこのユニットについて語られることがあるとすれば、《マームとジプシー》や《ままごと》といったリフレイン&リリカル&リズミカルな構成と発話を特徴とする00年代の演劇に影響を受けた世代的な視点から語られることだろうと思う。だが、ヌトミックが上述の系譜とは異なる感触を与えるとしたら、彼らの出自が演劇ではなく音楽であることがやはり大きいのだろう。
 
多少の臆断を含むが、演劇の出発点はセリフを発する意識と身体である。まずはそうした「セリフを発する」能動性が前提にあり、だからこそ、演劇では俳優の主体意識が常に先鋭的な形で問題になり続けてきたのである。00年代演劇を準備した青年団平田オリザが宣まうコンマ何秒の指定で「リアル」を感じさせられる、といった「時間の制約」に依拠した戦略も、日本人の主体意識を日本語の構造から光を当て、「私は○○と思っている」なる言表行為の不可能性を真正面から見据えながら、それでも可能な主体のコミュニケーションを探求した結果に過ぎない。そうした時間の制約を(ラップの発語を方法に)可視化した柴幸男の〈ままごと〉にしても、根は同じである。〈マームとジプシー〉のリフレインにしても、「私は○○と思っている」という自己の表出を禁じられた日本的主体意識がそれでも可能な「内面」を幻想する手立てだと理解しなければならない。
 
 
ところが、そう理解しなければならないわけではない地点から音楽=演劇をストレートに演劇のフレーミングにインストールしようとするのがヌトミックの上演であった。とにかく何らかの形で主体を開示する戦略が結果的に「時間」や「音楽性」へのアプローチを生産する演劇の事情が、ここではちょうどひっくり返される。とにかく何らかの形で音楽を開示する戦略が結果的に俳優の声と身体を必要とする、といったように。
 
音楽の視覚からこの事態を観察するなら、人力ミニマルミュージック的な新しい(かどうか知らないが)展望を開くものになるのかもしれない。一方で、(僕がそう理解する)演劇の視覚からは、私固有の《存在》がそもそもから非-在である演劇の(演劇史において強迫的に繰り返される)出現と、そうした世界観の肯定である。
 
僕にとってはこれはちょっとしたショックであった。もう認めよう、肯定しよう。そういうことだと思ったからだ。これが《演劇》であるならば、僕達はもう《演劇》の場において、複層的な《現実》を幻想しようとする必要がない。なぜなら、ここでは音から現象を生産する機能だけを担ったマシーンさえいれば充分であり、世界に抗して多様な意味を背負った《私》の存在を開示する契機は何ひとつ与えられないのだから。つまり、私が機能するだけのマシーンであることを認め、気持ちよく整えられたリズムとハーモニーに音を合わせる与えられた快楽に充足せよ、そうした環境管理型権力がベタに運用されているかのような《現実》が批評されるのではない、アタリマエのように舞台上で展開されるのだ。

演劇が露呈させる身体の意味 

留保しておくけれど、30分の短編一作でここまで決めつけてしまうのもどうかと思われるかもしれないが、パンフとかホームページにて結構ちゃんとコンテクストを構築しているだけあって、方法と形式の意図が明確な分、こうした形式論を展開しやすい事情がある。と同時に、僕が主体をめぐる一連の展開を想像したのは、本作がやはり演劇のフレームを使っているからだと思う。演劇には必ず何らかの形で言葉を担う身体が問われる側面が顔を覗かせるのである。
 
人間とマシーンの拮抗状態が示される点において、本作は三輪眞弘《またりさま》(及び逆シュミレーション音楽)が問題にしている領域と重なるところがある。しかし、あれは常に揺れ続ける人間とマシーンの境界をこそ問題にしていた(マシーンのきしみ)のであって、マシーンへの全面的同一化を楽天的に謳歌する代物ではもちろんない。しかし、本作に登場する女性たちは、ナチュラルなマシーンへの同一化を感じさせる。


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ここで、本作が女の子として表象される女性3人によって担われていたことを思い出そう。女の子、つまり少女性は、男性を無限に受容する性の役割を担ってきた歴史がある。日本におけるロリコンの歴史である。美少女ゲームを少しでもプレイしたことがあるならば、そこで展開される異常な、しかし無限に男の欲望を承認してくれる少女たちの幻想された《無垢性》を認めることが出来るだろう。本作の《女の子》たちも、リズムの快楽を無限に受け入れる、そしてその快楽をこそ求めているかのように男性の欲望を承認する《偽-他者》の役割を担って立ち現れる。彼女らの身体には、いかんともし難く《演劇》が引きずりだす問い―それを発語するお前は何へ晒されたお前なのか?―が刻印されている。もちろん、演出家の男根的権力性に(実は)さらされていることが、そこに立つカラダは暴露してしまうのである。
 
日本的な主体―内野儀が《非-在の私》として指摘するような、状況に対して起立することなく、過剰に空気を読み込みそこに同一化することで、その空気をまるで自我であるかのように錯覚される主体―が《少女》の無限の承認を媒介に露呈してくる。しかも肯定も否定もされない全く「自然」な相貌で持って。
 
僕はなんとなくsalyuの《じぶんがいない》を思い出した。上演の最後に「私の言葉がない」(これも正確ではないので勘違いかもしれませんが)と何度もつぶやく場面があったからかもしれない。それは果たして完膚なきまでに他者が消去された《現実》への抵抗なのか、もしくは否定の身振りを介在させることでメタ的なレベルでも自閉性を補完するアリバイ作りに過ぎないのか・・・。
 
 
*********
あとがき:今回、レビューの筋トレ的気持ちで、内野儀の「非-在の私」を軸にして、その今日における完璧な反復を指摘するみたいなことを思って、パパッと書こうとしたけどなかなか書けず、結果的に自分で思っていたより見様によっては辛辣な分析になったので、また見に行きたいと思います。次は、横浜で2月に作品発表するそうです。

日々是善―調和と切断―

今日は、立本さんと伊原さんと真史さんと目的のない稽古の日だった。

もとは小嶋さんと立本さんと真史さんで月に一回開いていたのだけれど、小嶋さんがメンバー脱退し、新メンバーとして僕が加わった格好。

 

第一期がどんな感じでやっていたのかは知らないけれど、前回も今回も最近興味を持っていることなどを話しつつ、最終的に何らかのテーマを決めて即興で何かしらをやってみる。その場に来るまで何をやるかも決まっていないし、とにかく集まる日だけが決まっている、とっても自由な会合だ。

 

前回は最終的に「生き様」がテーマだったが、今回は「超人間」がテーマだった。

最初はTPPの話からはじまり、農業の話があり、グローバリゼーションはグローバル企業による単一的な労働機械を生み出すみたいな話からアルトー器官なき身体の話が絡んで、トマソンへと話題は飛び火した。

 

トマソンってなに? って聞かれた。それは〈超人間〉なわけで、その特徴は脳みそが機能停止しているかのように自動化された身振りにあるって答える。ティッシュ配りのバイトが全然ティッシュを渡せなくて身振りが自動化されていく、みたいに。ただ、トマソンはそれだけでなくて、脳からの司令がシャットアウトされて具体的に立ち現れた身振りから超越を感じさせる(もしくは様々な妄想を換気する)存在でもある。記憶喪失(絵葉書みたいな記憶によってしか動かず)で、体験を全く欠いた中身のない人間。人間を超えて完璧に機能する〈超〉人間。

 

パーフェクトヒューマン。脳なし人間。もしかしたらただ資本を拡大するために機能するだけのグローバル化された身体。今まで、僕は基本路線としてトマソンをそういう感じに理解していたのだけれど、「トマソン」の観念を一旦脇において、「超人間」を捏造することを目的にした今日の即興から、トマソンのイメージが少し広がった感じ。

 

タイトルにある「調和と切断」は、今日、新しく発見した「トマソン」の可能性。

即興を見たりやったりして理解したポイントは・・・

① 舞台で何をしていいかわからなくなったときにそれでも何かした時に現れる
② その場にそぐわないズレにおいて現れる
③ 調和することからの逸脱において現れる
④ 二人舞台にいるときは、相手の文脈を殺すことで現れる 

といったところ。で、思ったのは、僕たち人間は自然にしていると調和していく性質を持っているということ。普通に生活していると、調和している。自分の身体も調和している。相手との関係も調和している。家族も調和している。都市も調和している。国も調和している。調和とは、多分、各要素間の関係性が何らかの「良さ」から最適に機能している、ということ。意識しなければ、僕たちは自然に調和する。

 

この調和から逸脱すること。
もしくは、この調和を切断すること。

 

ここに、自由を覚えているのだと思う。
トマソンは確かに何かに対して機能せずに無用化している。
しかし見方を変えると、人間を調和的に機能させる強制力からトマソンは自由なんじゃないか? そう考えると、自分のやっていることに強い整合性(調和!)が読み取れる。「集団にならない烏合の衆のような集まりを作品にする」と言っていたダダダダの活動も、「集団として調和する自然を切断することで、各々が自由を獲得するような集まり」それ自体が作品になるって言っていた。反射神経によって、幾つものバラバラになった人格や身振りを無秩序に(無根拠に)接合していく演技の方法も、調和する自然の切断から自由の体験を獲得しようとしていると考えれば合点がいく。(グローバル資本主義への同一化を拒む抵抗!)

 

ゴミの自由だ、と思う。

でもゴミになるのは難しい。

僕にとって今まで最もゴミだったのは稲垣くんの身体だった。そして、逆の意味で前田さんの身体。そんな感じで。

 

その他エトセトラ。

・即興で立ち現れた真史さんと立本さんのお互いの文脈と全く無関係に並置された身体の関係は、対面的緊張感でも力強い身体同士の緊張でもない、引き合う緊張感を持っていた。

・250km圏内のNo Pushingは、互いへ不調和な身体による遠慮のないコミュニケーションを示していたのが魅力的だったのだ。調和の切断によって現れるゴロンとした身体。

・新しい調和。3人(僕・立本さん・まふみさん)が全く自由に無関係なままで絵画的に(?)ある種の調和を見せていた、とのこと。僕が立本さんの服の匂いをかぎながらドアに頭をぶつけて、まふみさんが数字を数えながらびっこで歩き、立本さんが何をやっていたのかは知らない。

死体は生きているとしか言えないー250km圏内『妻とともに』稽古

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さて、250km圏内である。その稽古場である。
かなり久しぶりの稽古場訪問。それにしても、250km圏内の稽古は大いに「謎」を含んだ魅力的な場だな、と思う。
 
今日は「テキストをほぐす」ウォーミングアップのあとで、通しのリハーサルが行われました。
あまり事前情報なくパッと通しを見たわけですが、色々な妄想が刺激される変な上演だったのは疑い得ない(笑)。
 
これは小嶋さんが250km圏内のページですでに言ってることですけど、『妻とともに』は、ある介護記録をもとにして「介護される側」の視点から組み立てられたパフォーマンスです。そうそう、この間、家族会議があって熱海に行ってきたんですけど、熱海の来宮神社に樹齢2,000年の楠があるということで、訪れたんです。そこには想像を超える巨大な楠がありました。その楠を僕はジッと見つめていたんです。僕は何か、神の宿る御霊代たる自然を前にした時、そこに宿るエネルギーに対して身体を開いて、その力を受け止めるように佇む体験を大事にするところがあるのですけれど、そうした自然を前に佇む体験に、リハーサルで受け止めたパフォーマンスの体験はよく似ている、と思いました。
 
不思議なことですけれど、そうだった。
 
で、そこには単なる当てずっぽうではない理由があるように、思える。
どういうことか。
 
小嶋さんによると今回の作品は「老後の暮らしを考える」をテーマにして、老後の幸せについて考える演劇なんだとか。僕がリハーサルを見て思ったのは、老後の暮らしについて考えることは、人間が生きることについて考えることなんだ、ということ。実際、リハーサルの序盤で、ゆっくりと立ち上がるまふみさんを見据えた時には、人間が人間によって「生きられる時間」を見つめることが演劇の根源的な体験だと感じたわけで、つまり何らかの役を演じることでも役者が自分を開示することでもない演技のあり方があって、私の声としか言えない声、私の身体としか言えない身体を立ち上げていくような演劇のあり方があるんだってことを、僕は思う。
 
老いることは死体化していくことだ。
自分の意志で身体も記憶もコントロールできなくなって、というかどんどんその機能を停止していって、ついには、僕らは二度と動くことのない死体になる。それがはじまりだ。終わりじゃない。ほぼ死体、から僕の声と僕の身体は逆説的に発見されていくし、「生きている」としか言えない次元が開示され始める。
 
250km圏内は、どうやら、そういうことをやり始めたらしい。
僕は、これはもう過剰評価だと思うけど、人間と人間が出会い・コミュニケーションをするために必要な《根源的な何か》に彼らは触れようとしている気がする。前作は、コミュニケーションは《意味》ではない、働きかける身体行為であることを明らかにする試みだった。そして今作は、誰かと根源的に出会うために必要な《私》を再発見する試みであると言える・・・と思う。
 

f:id:marron_shibukawa:20161121003807j:plain 小嶋さん

 

 f:id:marron_shibukawa:20161121003822j:plain  リハーサル/まふみさん

〈ひとつの机とふたつの椅子とシェイクスピア〉のレビュー

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「ひとつの机とふたつの椅子とシェイクスピア
日 :2016年10月21日(金)〜23日(日)
会場:座・高円寺
 
「ひとつの机とふたつの椅子とシェイクスピア」を観劇した。座・高円寺という場において、こういう企画が成立していることに些かの興味を覚えたので、僕が読み取ったことを書き記してみたいと思う。
 
こんな企画だった

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 今回の企画は香港の演出家ダニー・ユンが発案した「二つの椅子と一つの机・上演時間20分」というパフォーマンスのフォーマットでもって、香港・シンガポール・タイ・中国・インドネシア・日本といったアジア圏の演劇人が合わせて6つの作品を創作するもの。座・高円寺の芸術監督であり演出家の佐藤信は80年代から「アジア演劇」を掲げており、それが、30年の時を経て、コミュニティシアター(地域劇場)として大きな成果をあげている座・高円寺で実現されているわけで、まさに佐藤信の演劇的理念の集大成と言っても良いのではないか、と思える。僕が今日見たのは、Aプロの『後代400』『ブラックボックス2016』『⇄ガートルード⇄オフィーリア』の4作品。すべてが、ワンテーブル・ツーチェアーズの制約のもとに、おのおの個性的な表現を披露していた。

 
※後日(23日)にはBプロも観劇。
 
ポストトークの〈ハプニング〉
 ここでいきなり、ポストトークの話をする。Aプロ・Bプロはともにポストトークを用意しており、オブザーバーとして参加する羽鳥嘉郎と鹿島将介がホストになって参加した演出家の話を聞く。(1日目の)Aプロは羽鳥が担当していたのだが、これが「放送事故」のような時間になっていた。羽鳥は赤い椅子を持っていきなり客席から舞台上に現れ、6つの椅子を舞台前方に置く(登壇者は全部で3人であるにも関わらず)。そして、ゲストの「リュウ・シャオイ」に対して、ぶっきらぼうに幾つかの質問を投げかけていくのだが、途中から全く話が噛み合わず、羽鳥は椅子から(なぜか)ずり落ちていき、いわゆる「うんこ座り」になり、翻訳者は羽鳥の「今のところ意味がわからないのでもう一回言ってくれませんか?」のような発言に困惑し、何度か角度を変えて同じことを質問する羽鳥に対し、一体、彼は何が言いたいのかをその場にいる者たちが見守る・・・といった時間になっていた(羽鳥の意図や内面とは無関係に、だが)。
 
 (繰り返すが)彼の意図や内面とは無関係に、ほとんどポストトークではなく〈ハプニング〉に近いポストパフォーマンスといった趣きで、観客にも通訳者にもリュウ・シャオイに対しても失礼な態度であり、ポストトークとしては最悪(のように僕には思われる)だが、一方で無視し得ない鋭い疑問を投げかけることに成功していた。
 
〈普遍性〉と〈文化的固有性〉
 僕が受け取った限りで、羽鳥は「ワンテーブル・ツーチェアーズという形式の制約が、創作の上でどんな良いことをもたらすのか(役に立つのか)?」と聞いており、リュウ・シャオイは「対話や集まることの象徴的な機能を持っている」と答えたわけだが、ここですれ違いが生まれている。「集まる」ことは演劇の一般的な機能であり、この形式でなければ生じない(創作の上での)機能ではない。だが、リュウ・シャオイが言いたかったことを勝手に推測すると、この形式は演劇の〈普遍的な機能〉−対話と集合−を象徴しており、その制約のもとで、アジア圏の多様な文化的コンテクストが召喚されるような性格を持っている、と言いたかったはずだ。個々の創作の上で実質的に「役に立つ」ポジティブな性格を持っているというよりは、文化的コンテクストをあぶり出すためのフィルターとして〈普遍性〉を象徴する「机と椅子」が必要とされている。こうして〈普遍性〉をバネに〈文化的固有性〉を浮かび上がらせるのが、「ひとつの机と二つの椅子とシェイクスピア」という企画の骨子であるということだ。
 
 実際、Aプロのパフォーマンスは、それぞれ固有の文化的土壌において現れてきた上演芸術の身振りをオブジェのように「舞台上に置いていく」ことで構成されていたように思う。身体的な共振作用(演者が呼吸を止めると観衆も息を止めてしまう、のような。共感ではない)を武器とする伝統芸能の身振りは、ときに観客の思考を麻痺させる麻薬的な快楽をもたらすが、そうした時間を生じさせることを避けるかのような制約を、どの組も背負っていたように見えた。(僕はアジア圏の伝統芸能に明るくないので、具体的なコンテクストはわからないのだけれど、「崑劇」「タイ古典舞踊」など伝統芸能に出自を持つパフォーマーが出演していたようだ。)
 
身振りのレディメイド

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 こうした上演のフォーマットから、僕はデュシャンのレディメイド(既製品)の方法を思い起こした。デュシャンは〈泉〉(男性用便器を逆さにしてニセの署名をして「泉」と名付ける)に見られるように日用品を美術品に転用することで、〈普遍性〉と称される場が、そのモノがもっている意味/コンテクストを剥奪し、オブジェ化する制度であることを示した(とみなせる)。(ちなみに、日常的な音を音楽に転用した音楽的レディメイドがジョン・ケージの〈4分33秒〉である)
 
 「ひとつの机と二つの椅子」は、それぞれ固有の〈文化的な身振り〉を普遍化された〈上演芸術の身振り〉に転用する場として機能することで、固有の文化的背景抜きで身振りを舞台上に出現させるようデザインされた(象徴的)装置なのである。それはまた、文化的・世代的・時代的・ジャンル的なあらゆる背景を一旦保留させることにつながり、あらゆる壁を超えてアジア圏の上演芸術家が出会う場を用意することを可能にしたのである。
 
「正しさ」へのムカツキ
 それじゃ、これは「一つの机と二つの椅子」じゃなきゃ駄目だったのか? 的な方向からの、つまり、そこにある机と椅子は抽象化された機能であって、具体的な感覚を喚起させる装置としてあったわけではないのであるからして、この企画は演劇エリートによる知的操作を楽しむ産物にすぎないのではないか? といったような方向性に議論を運ぶことも出来るけれども、それよりなにより、僕が引っかかる最大の問題は〈普遍性〉とは何なのか? にある。ワンテーブル・ツーチェアーズの〈普遍性〉はあらゆるコンテクストを超えて、誰でも・いつでも・どこでも「対話すること」「集まること」が可能な形式としてあるわけだが、その公式的な「正しさ」にどうしても苦虫を噛み潰したような後味の悪さが残る。この違和感は何なのだろう?
 
 それはちょうど、(演劇人にしかわからないかもしれないけど)稽古場の本読みで戯曲を解釈していく際に、初めは多様に生まれていた戯曲の「読み」が最終的には発言権の大きい、つまりは権威ある人が「正しい」と認めた解釈へと一元化されていく、といった時の苦々しさに似ている。演劇学校に通っていた頃、グループワークでこういう事態が起こったときに、「正しいことが正しいとは限らないんだぞ」と捨てセリフを吐いて喧嘩したことを昨日のことのように思い出すのは、まぁいいとして、「正しさ」はいつも私的な「楽しさ」を駆逐していく性質を持っている。「正しさ」はまるでそうあることが必然であるかのような顔をしている。それがムカつくんだな。どうも。
 
楽しさ=私的領域を擁護する
 「一つの机と二つの椅子」は、「アジア圏の上演芸術家がいかにして(無差別に)集まるのか?」に対する、見事な応答であることは疑い得ない。その一方で、このパラタイムの圏内においてはほとんど難癖に近いが、〈集まり〉をシンボリックな装置に代表させる思考様式は、誰もそれを信じていないのにも関わらずただ正しいというだけで公認されるイデオロギー装置(アルチュセール)にならざるを得ないのではないか? もしくは、観客にその〈集まり〉を〈公式な集まり〉として見なければならないと強要するような抑圧を生むのではないか? どんな文化的コンテクストを背負った身振りも、単なる上演芸術の身振りに無害化され、〈公式な集まり〉の断片として正当化されていく。
 
 僕はこうした「誰でも・いつでも・どこでも」集まることの出来る演劇の「正しさ=社会的意義」に対して、上演芸術の身振りを生活文化の身振りに押し戻し、私がいまここでしか持つことの出来ない「楽しさ=実存的意義」の私的感性の領域を擁護したい。
 
 その意味で言えば、羽鳥がポストトークで行った、〈公式な集まり〉におよそふさわしくないハプニング的振る舞いにこそ、〈集まり〉の別の可能性が秘められているように思う。私的感性は制御不能なものなのだ。しかし、その現れを相互に享受するような〈集まり〉こそ、〈公共的な公共性〉ではない、〈私性〉を経由したもう一つの〈私的な公共性〉を形作るのかもしれない。
 
最後に蛇足
 以上のように、企画のフォーマットそのものに対する違和感はあったものの、個々の作品については、机と椅子の象徴性が大体の組でほとんど無視されていた(ように見えた)のが面白かった(実際には無視し得ない象徴として厳然とあるのだけれど)。え、机と椅子の意味ある? と突っ込みたくなる。それどころか舞台そのものを全く使わないチームなんかは、もしかしたら、この〈普遍性〉の形式それ自体を、ロジカルな左翼運動世代の遺物として拒否している(わけじゃないと思うけど)ようにすら妄想できた。それに対して、日本の(武田らの)チームが最も真面目に「机と椅子」との具体的・抽象的関係を駆使しつつパフォーマンスを構成していたのが、何となく可笑しかった。