2016年を振り返る
レビュー企画 第3回 高田斉ーーー『とまる。』書き留めの先人
http://kyotostudentstheaterfestival2016.blogspot.jp/…/blog-…
コンクール直前インタビュー!(6)<トマソンの祀り>のための集まり
http://sengawagekijo.tamaliver.jp/e426164.html
プリズマン『プリズマンの奇妙な冒険』/観劇スケッチ
《公共性》は単に必要とされていないのでは? 250km圏内京都公演で思ったこと。
この冬、小嶋一郎・黒田真史による劇団「250km圏内」の京都公演『妻とともに』に同伴し、主にコンセプトブックの製作作業を担った。そのなかで、《公共》について、自分なりに腑に落ちることがあったので、書き留めておきたい。
去年の十二月に、フィンランドの友人とした会話「会議をしないで、大勢でどうやって問題を解決するんだい?」「・・・スープをシェアするんだよ。・・・三時間くらいシェアスープ(つまり、鍋)をすると、問題が解決しているのさ」・・・「それで本当に問題は解決するのか?」「賭けてもいいけど、ここに日本人が十人いたとして、問題の解決に、ディスカッションとシェア・スープのどちらが有効か、と聞いたら、まあ、八人くらいは、鍋と答えると思う」※『東京の条件』は「公共という芝居を演じるのが上手くない日本という劇団にあてがきした、公共を演じるための戯曲」ということのようです。
〈公共空間〉を仮設する―小嶋一郎/250km圏内
〈公共空間〉を仮設する Ⅰ
〈公共空間〉を仮設する Ⅱ
非在の肯定/ヌトミック『ジュガドノッカペラテ』
ヌトミックを見てきました
劇場創造アカデミー6期修了(だと思う)の藤井さんが出ているということで、誘われて見に行きました。ヌトミックという団体について、僕は全く知りませんでしたが、東京藝術大学出身の額田さん(1992〜)という方が作ったユニットだ、とのこと。詳細はHPで見てもらったがわかると思います。前作『それからの街』ではAAF戯曲賞にノミネートされています。
ヌトミック
音の演劇へ
会場は「みんなのひろば」という一軒家のような小さなスペース。時間は30分程度の短編。玄関から家(劇場?)に入ると、1Fワンフロアの半分が舞台になっており、黒い長方形のミニマルな美術が背景にいくつかあり、長方体の黒いオブジェが舞台に置かれている・・・。
こうしたミニマル・アートを強く意識しているようにみえる美術は、本作が同じ「ミニマル」の言辞の下に読まれ得るコンテクスを持っていますよ、との背景を説明するようであり、実際に上演された演劇も(そして終演後に配られるパンフでの説明を鑑みて)ミニマリズムを手法とする演劇表現への思考と実践を探求するものであった。
正直なところ物語の内容があるんだかないんだか、僕には理解できなかったので、その文学性について云々出来ないのだけれど、女の子3人(女性ではなく、女の子の属性でもって俳優が表象されていることにも意味があると思う)が言葉を交わしたり音を合わせていったりする様子は自閉的でおよそコミュニケーションなるものが成り立たない世界を思わせる。当日パンフに掲載されていた"台本抜粋"を転載すると・・・
笹岡 くまもんは、しゃべらないから決まらないっていうか、今、気持ち清澄 ん?
ああ・・・
うん・・・うん
笹岡 逆に気持ち悪いっていうか
清澄 え、どういうこと?・・・
笹岡 そうですね・・・あー、うーん、あ、
例えば、幽霊がいて
清澄 え?あ、あぁ・・・うん
といった具合に会話が成り立たない。上演のテンションが高くなっていく部分では、意図的に会話ではなく文章単位のフレームが反復され、(正確ではないですが)
A「わかってくれ」B「た」
C「ない」
のように、「わかる」のフレーズが肯定形と否定形の二重の意味を表象するように発語される。まさに、チラシに記載された〈演劇の音から音の演劇へ〉なるキャッチコピーの通り、 交わされる会話の中に突如ループする単語のリズミカルな発語が挿入されることで、音楽のような演劇のような〈何か〉がまさぐられていく。
ミニマリズムの系譜
こうしたミニマルアートの動向と歩調を合わせるように登場したミニマル・ミュージックもまた、音楽を具体的な「音」へ還元し、その反復とズレから複雑に錯綜しながらも「音のマチエール」の連なりを感覚させる経験を生み出していく点で(今から振り返れば)ミニマルアートと発想の根本を共有していることがわかる(その歴史的は背景はよくわらないが)。
青年団からヌトミック(主体の喪失)
演劇が露呈させる身体の意味
日々是善―調和と切断―
今日は、立本さんと伊原さんと真史さんと目的のない稽古の日だった。
もとは小嶋さんと立本さんと真史さんで月に一回開いていたのだけれど、小嶋さんがメンバー脱退し、新メンバーとして僕が加わった格好。
第一期がどんな感じでやっていたのかは知らないけれど、前回も今回も最近興味を持っていることなどを話しつつ、最終的に何らかのテーマを決めて即興で何かしらをやってみる。その場に来るまで何をやるかも決まっていないし、とにかく集まる日だけが決まっている、とっても自由な会合だ。
前回は最終的に「生き様」がテーマだったが、今回は「超人間」がテーマだった。
最初はTPPの話からはじまり、農業の話があり、グローバリゼーションはグローバル企業による単一的な労働機械を生み出すみたいな話からアルトーの器官なき身体の話が絡んで、トマソンへと話題は飛び火した。
トマソンってなに? って聞かれた。それは〈超人間〉なわけで、その特徴は脳みそが機能停止しているかのように自動化された身振りにあるって答える。ティッシュ配りのバイトが全然ティッシュを渡せなくて身振りが自動化されていく、みたいに。ただ、トマソンはそれだけでなくて、脳からの司令がシャットアウトされて具体的に立ち現れた身振りから超越を感じさせる(もしくは様々な妄想を換気する)存在でもある。記憶喪失(絵葉書みたいな記憶によってしか動かず)で、体験を全く欠いた中身のない人間。人間を超えて完璧に機能する〈超〉人間。
パーフェクトヒューマン。脳なし人間。もしかしたらただ資本を拡大するために機能するだけのグローバル化された身体。今まで、僕は基本路線としてトマソンをそういう感じに理解していたのだけれど、「トマソン」の観念を一旦脇において、「超人間」を捏造することを目的にした今日の即興から、トマソンのイメージが少し広がった感じ。
タイトルにある「調和と切断」は、今日、新しく発見した「トマソン」の可能性。
即興を見たりやったりして理解したポイントは・・・
① 舞台で何をしていいかわからなくなったときにそれでも何かした時に現れる
② その場にそぐわないズレにおいて現れる
③ 調和することからの逸脱において現れる
④ 二人舞台にいるときは、相手の文脈を殺すことで現れる
といったところ。で、思ったのは、僕たち人間は自然にしていると調和していく性質を持っているということ。普通に生活していると、調和している。自分の身体も調和している。相手との関係も調和している。家族も調和している。都市も調和している。国も調和している。調和とは、多分、各要素間の関係性が何らかの「良さ」から最適に機能している、ということ。意識しなければ、僕たちは自然に調和する。
この調和から逸脱すること。
もしくは、この調和を切断すること。
ここに、自由を覚えているのだと思う。
トマソンは確かに何かに対して機能せずに無用化している。
しかし見方を変えると、人間を調和的に機能させる強制力からトマソンは自由なんじゃないか? そう考えると、自分のやっていることに強い整合性(調和!)が読み取れる。「集団にならない烏合の衆のような集まりを作品にする」と言っていたダダダダの活動も、「集団として調和する自然を切断することで、各々が自由を獲得するような集まり」それ自体が作品になるって言っていた。反射神経によって、幾つものバラバラになった人格や身振りを無秩序に(無根拠に)接合していく演技の方法も、調和する自然の切断から自由の体験を獲得しようとしていると考えれば合点がいく。(グローバル資本主義への同一化を拒む抵抗!)
ゴミの自由だ、と思う。
でもゴミになるのは難しい。
僕にとって今まで最もゴミだったのは稲垣くんの身体だった。そして、逆の意味で前田さんの身体。そんな感じで。
その他エトセトラ。
・即興で立ち現れた真史さんと立本さんのお互いの文脈と全く無関係に並置された身体の関係は、対面的緊張感でも力強い身体同士の緊張でもない、引き合う緊張感を持っていた。
・250km圏内のNo Pushingは、互いへ不調和な身体による遠慮のないコミュニケーションを示していたのが魅力的だったのだ。調和の切断によって現れるゴロンとした身体。
・新しい調和。3人(僕・立本さん・まふみさん)が全く自由に無関係なままで絵画的に(?)ある種の調和を見せていた、とのこと。僕が立本さんの服の匂いをかぎながらドアに頭をぶつけて、まふみさんが数字を数えながらびっこで歩き、立本さんが何をやっていたのかは知らない。
死体は生きているとしか言えないー250km圏内『妻とともに』稽古
小嶋さん
リハーサル/まふみさん