京都芸術センター『式典』/演出:三浦基
上演データ
2010年3月27日
京都芸術センター 講堂
演出 三浦基
式次第
祝辞
作:黒川猛(べトナムからの笑い声) 出演:山崎彬(悪い芝居)
作:柿沼昭徳(烏丸ストロークロック) 出演:田中遊(正直者の会)
作:山岡徳貴子(魚灯) 出演:広田ゆうみ(このしたやみ)
作:山口茜(トリコ・Aプロデュース) 出演:武田暁(魚灯)
制作室使用者代表のことば
作:土田英生(MONO)
出演:小林洋平
祝舞
片山伸吾[シテ](観世流能楽師)
森田保美[笛]
吉阪一郎[小鼓]
谷口有辞[大鼓]
前川光範[大鼓]
田茂井廣道[後見]
味方團 深野貴彦 橋本忠樹 宮本茂樹[地謡]
閉式のことば
作:富永茂樹(京都芸術センター館長)
出演:安部聡子
政治劇としてみる『式典』
「申し遅れました。私が京都市長の門川大作でございます。」会場にドッと笑い声。これは『式典』、「開式のあいさつ」での一場面である。京都市長の門川大作を演じる俳優、石田大は舞台上をうろうろとせわしなく歩き回り、「開式のあいさつ」を舞台上に投げ出していく。俳優であるはずの石田が「門川大作でございます。」と言う「ズレ」がおかしく、笑いが起きる。立ち振る舞いや言葉の出し方もどこか滑稽に見えてくる。
京都芸術センター開設10周年を記念して催された『式典』は演劇として「式典」を上演するという前代未聞の試みだ。実際の京都市長のあいさつから、祝辞・閉式の言葉に至るまで俳優によって演じられた。
驚くべきは、京都市長のあいさつが(市長も観客席にいるのに!)笑いの対象となり、観客がその場をこともなげに受容していたということだ。「こんな場が許されるんだ!」と素朴に驚き、演劇の持つ力の一つに気づかされる。だが、この「力」とはいったい何なのだろう?
ところで、なぜこの「式典」は「演劇」として上演されねばならなかったのか? 例えば、普通に式典として開催されていたら、「開式のあいさつ」はどんな時間になっていただろう。容易に想像がつくのは、権力者による権威ある言葉を聴かねばならないという時間である。権威によって統制された時間がそこでは流れることだろう。
しかし『式典』ではそんな時間が流れてはいなかった。なぜなら、それは演劇だったから。「演じる」という行為が言葉から権威性を剥ぎ取ってしまったのだ。というのも、俳優が台詞を言うとは常に言葉を引用するという側面を持ち、「市長の言葉」にもまた引用符がつくことになるからだ。
この演劇的構造において、権威的な「市長のあいさつ」は脱権威化され、観衆はフラットな感覚で言葉を聞き届けられるようになる。そこには権威の脱権威化というズレが生じ、おかしみも生まれてくる。道化の登場だ。そして、道化の登場は同時に自由の空気を連れてくる。演劇の言葉が「引用」であるからこそ、そこには一種の無礼講的な無権力状態が出現し、権威からの自由が生まれるのである。すなわち、「~せねばならない」という権威が「引用」という方法によって遮断され、自由な時間が獲得されるのである。この時間を獲得しえたという事実こそ「式典」が演劇として上演された大きな意義だと言えよう。
したがって、『式典』とは京都市という権力に対抗する政治劇としてみることができる。それはまた、京都市に京都芸術センターが存在することの意義をも指し示すだろう。なぜなら、「この自由な時間こそ京都芸術センターに流れる時間なのだ」という宣言として読み解くことができるだろうから。京都芸術センターが10年の歳月をかけて育んだ「自由」の種は、今まさに芽吹こうとしているのかもしれない。
「戦争戯曲集」三部作(2016年版)/私たちの外側へ《私》を運ぶ
〈戦争戯曲集・三部作〉第3部『大いなる平和』(2015年) 撮影/宮内勝
佐藤信氏に聞く──〈戦争戯曲集・三部作〉8時間完全上演 | SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイスより
劇場創造アカデミー6期生修了上演
エドワード・ボンド作『戦争戯曲集』三部作・完全上演
Aプロ:第一部『赤と黒と無知』(演出:佐藤信)&第二部『缶詰族』(演出:生田萬)
Bプロ:第三部『大いなる平和』(パート1・2演出:佐藤信、パート3演出:生田萬)
日時|2016年2月21日(日) 〜25日(木)
「戦争戯曲集」の紹介
「戦争戯曲集」三部作は、イギリスの劇作家エドワード・ボンドの描く上演時間8時間を超える大作。第一部『赤と黒と無知』、第二部『缶詰族』、第三部『大いなる平和』の相互に独立しつつも一貫して「核戦争後の世界」をあつかった戯曲からなるシリーズ。
本作が執筆された1980年台初頭は、米ソ冷戦を背景に核戦争がリアルな想像力を喚起させた時代。先制攻撃を仕掛けると自分たちも核攻撃を受けてしまい共倒れとなってしまう、相互確証破壊の抑止力が世界の均衡を保っていた。そのなかで、エドワード・ボンドは、実際に核戦争が起こったとしたら・・・そういう想像力を現実にぶつけてみることで、〈現実の世界〉の暴力性や非人間性を逆照射する。ボンドは核戦争後の世界を描き出すことで、実はすでに起こっている〈核戦争後の想像力〉が規定する現実の姿を描き出し、わたしたちに〈問い〉をもたらす。
ボンドはパレルモ大学で「もし自分の子供と他人の子どものどちらかを殺すように軍から命令が下ったとしたら、どちらの子どもを殺すか?」という究極の選択を迫るインプロを行った(パレルモインプロと呼ばれる)。参加した生徒たちの多くは、他人の子供を殺すのではなく、自分の子供を殺すように選択したという。一見したところ、常識と真逆の選択が成されたように思えるが、ボンドはそこに「人間性」の意味を見て取る。「戦争戯曲集」の第一部『赤と黒と無知』、第三部『大いなる平和』(Part1)は、実際にパレルモインプロがストーリー上に組み込まれ、そこに孕まれた〈問い〉を展開するように進む。第二部『缶詰族』は核戦争後の世界に出来たコミュニティを描く。大量の缶詰が残され食うには困らないが、なぜか子どもが生まれない「缶詰族の人びと」のところに、荒廃した荒野を渡って一人の男がやってくる。第三部『大いなる平和』(Part2,Part3)では、核戦争後の荒野を彷徨う「女」を通じて「大いなる/平和」の意味が問い直される。
私と公共は何の関係もない
身の回りで起こっていることを超えて何かを決定することができる力、それが知性なのだろう。公共を内在化することなのだろう。公共が演じられるものだとしたら、それは半径5mを超えた世界を考慮に入れて振舞われるに違いない。だから公共は自然主義では演じられないのだ。公共が極めて反自然的なフィクションであるゆえに。
信じることのできない信念、価値がないと感じられる価値観を考慮に入れること。それが公共的であるということだ。これは全く自然に反している。非−人間的である。しかし公共とは心地良いものを受け入れず、生理的に嫌悪するものを受け入れる。知性。そうした反自然的な《知性を有した人間による共同体》を公共体と言う。
例えば右翼が多民族の受け入れを考慮に入れた愛国者でなければならず、左翼が民族の自決を考慮に入れた世界市民でなければならないような、矛盾。それを抱え持つ場。公共体である。
『戦争戯曲集』は、いま実現するとは信じられない未来、そんな振る舞いをしたとは思いたくない過去、を扱う。今、日々の生活の中で考慮の内側には入ってこない時間を扱う。公共を扱う。軍隊や兵士のことはどんなに頑張っても想像できないからやらない、と言った演劇人がどこかにいたが、彼は演劇の公共性を知らない。演劇が極めて公共的であるのは、想像し得ないものを想像する知性を必要とするからだ。彼にはそうした知性が足りないことになる。想像できないから想像するのだ。知性を働かせるのだ。
むべなるかな、こうした知性を持つことは実際、かなり特殊なことではある。私たちは日々の労働に忙殺され、何かしら今ここにないものを想像する暇もないのだから。これはわかる。僕もそうだ。第一部『赤と黒と無知』が強烈なのは、僕がいま勤しんでいる生活からは想像し得ない「問い」をリアルに感受させるからだ。兵隊として自分の家族を殺すか、隣人の家族を殺すか、なんて選択は起こりえない。起こりえないからこそ、それは演じられる必要がある、強く感じる。僕の身の回りで今、起こりようがないからこそ。
そして、それが起こりうる状況に置かれたら、もう手遅れなのだ。状況は状況から脱することを許さない(死を持つ以外)。こんな選択しか許されない状況が現に起こる前に、それを考慮に入れなければならない。いや、誤解なきように。戦争反対を叫ばねばならないと言うのではない。戯曲で語られるように、民主主義とは投票権のことではなく、知る権利なのだ。反対・賛成を言う前に、知り得ないことを知る機会を持つこと。
ハイパーリアルな現実
『缶詰族』からは、缶詰に依存することで「ごっこ」でしかありえなくなる社会、というものを感じた。それこそボードリヤールが指摘する現実のリアルをリアルだと感じられず、(例えば、理想化されたネズミであるミッキーマウスなどの)理想化された記号性にしかリアルを感じられない「ハイパーリアルな社会」そのものだろう。
戯曲の設定では「子どもがどうしても生まれない」のであるけれど、「缶詰族」の共同体では単に子どもが必要とされていなかった、のかもしれないと思う。四季のリズムは生産のリズムでもあることは、古代から引き継がれる祭祀が春を呼び込み、世界を刷新していくための儀式であったことからも明らかであるけれど、逆に言えば、生産の必要性が想像力のうちから消え失せれば、時間は止まる。永遠が始まる。そうした状況のカリカチュアなのかもしれない。そう感じられたのも、一昨年の上演が人々の宗教的とも思える共同体的な一体感から人間のアンサンブルが描かれていたのに対し、今年の上演は関係性を必要としない記号化された人間像を前面化いていたからのように思われる。関係性のアンサンブルよりも個別化されたキャラクターが際立ったために、コミュニティが崩壊し、土を耕すことに戻った人々の、土を共有することで初めて生まれる「コミュニティ」が強調された。僕たちは手を動かすことで初めて、「私にとっての現実」を学び、感知できるようになるのかもしれない。
歴史のプレゼント
昨年(2015年)の『大いなる平和』では特に後半のPart.3において、核戦争後の荒野をさまよい歩きながら、ついに救出の手が差し伸べられたにも関わらず、荒野にとどまり続ける女に、神話的な根源から私たちを見つめ続ける「女」を想像させたのだが、今年はそれが真逆になっている。女は「私たちを見つめる」それではなく、私たちが眼差さなければ風化し消え去ってしまう死者のように思えた。最後の全員で骨と化した女を見つめる演出が利いている。
今回、初めてそう思ったのだけど、荒野に残る女とコミュニティに引き入れようとする男の対話は、ある種、擬人化された未来と過去の対話のように見えて、女が「一方は黒、一方は白」と語る核戦争後の荒野の風景が、過去から逃れることの出来ない女と今から初めて学ぼうとする男にとって相貌を変える現実の比喩のように思えたのだ。ナイフは自殺する道具にもパンを切る道具にもなるんだと男が語るように、私たちの現実を作り出す「道具」を決まりきったコードに埋め込んでしまうんでなくて、常にどんな目的にも使いうることを理解することが、希望として語られているように見える。
もちろん、こう単純な図式化は出来ないというか、ボンドは意図的に(だと思うけど)複数の立場の一つに肩入れすることなく並列的に描き出しているからで、「娘」からすれば、男は荒野を体験していないがゆえに、ほんとうの意味で爆弾を作り出す道具の恐ろしさを見落としているだけなのであって、この新しいコミュニティがどうなるかはわからない。荒野に残る女は「死者たち」を忘れられない。殆ど弔いの旅をしていたように思えるその「土地」を忘れることが出来ない。一方で男は「忘れろ」と言う。この対称性のせいで、僕はずっと「歴史を忘却する愚かさ」みたいなのを実際感じていたんだけど、でも今回の上演で「女」は男との対話を通じて憑物が落ちたように、最後、とても穏やかな声を出すのだ。なにか、どちらが正しいというおとではなく、この対話のプロセスを失わないことこそ人間の強さであり、女の言葉は新世代に対して贈られる最後のプレゼントのように思えた。
「戦争戯曲集」情報リンク
2017年の劇場創造アカデミー「戦争戯曲集」三部作の公演情報
日時 | 02/20(月) | 02/21(火) | 02/22(水) | 02/23(木) | 02/24(金) | 02/25(土) |
11:30 | − | A | − | A | − | A |
15:30 | − | B | − | B | − | B |
過去の「戦争戯曲集」の記録
どうでもいい他者のリアリティ/ttu『会議体』
ttu vol.7『会議体』
岸井戯曲を上演する#6 場外編
*TPAM2017フリンジ参加作品
作 岸井 ⼤輔
構成/演出 ⼭⽥ 真実
出演
大木 実奈(noyR)
大間知 賢哉
瀧腰 教寛(重力/Note)
⽇程
2017年2月11日(⼟)〜15日(⽔)
会場:
artmania cafe gallery yokohama
(〒231-0064 神奈川県横浜市中区野⽑町 3-122)
1、ttu『会議体』を見る。
撮影:Tani Ayami
『会議体』は岸井大輔が執筆した数ページほどの〈戯曲〉。内容は、岸井が2010年(だったと思う)に都内の喫茶店で150日間、Twitterで「会議するので○○に来てください」と呟いて、そこに集まった人たちで、どんな内容でも―別れ話でも、家族との不仲でも―会議で解決する『会/議/体』というプロジェクトをもとにしたもの。プロジェクト終了2日前に突如、書き上げてしまったというテクスト。*1
実際の上演は、ttuの演出家・山田真実が2015年から「街を身体化する」ことをコンセプトに、喫茶店で聞こえてくる会話の内容をレコードして書き起こす活動がドッキングされたような内容。彼女がレコーディングした喫茶店の「会議」が時系列に沿って淡々と、まるで展示されるように上演の時間軸に並べられていく。
観客はレコードされた様々な会議が3人の俳優によって繰り広げられていくのを、ただただ見る。そしていま、ぼくは確かに上演されたはずの会議の内容がぜんぜん思い出せない。かろうじて覚えているのは、口紅を塗った男優2人が何かしらの会話をしていたことや、途中で電車の窓から見える東京(?)の光景が映写されたこと、水の張られたボールに入れらたレモンが3階に運ばれていったこと(上演会場はいわゆる劇場ではなく、非常にコンパクトな空間。はじめは2階で上演が行われ、上演中に3階に移動して、続きを見る)。類人猿の歴史が記された文庫本が読まれ、ホモ・サピエンスが肉食へと退行した種であったらしいこと。3階に移動するとコーヒーを挽いた粉を手にする女優が立っていて、その粉がパン生地みたいに床で円形に伸ばされ、島に見立てられていたこと。最後にその粉でコーヒーを入れて飲んだこと。ぼくの記憶力がすこぶる悪い可能性を念頭に置いても、しかしこの忘れ方は普通じゃない。これはどうしたことだろう?
上演会場となった桜木町のギャラリースペース
2、没交渉のコモンセンス
撮影:Tani Ayami
ところで、東京にいると、わたしの行為がわたしたちの社会に何の影響も与えないように思える。都市は共同体と違って明確な境界線で囲われた場を持たないからだ。共同体は、民話や伝承の形で共通の記憶のプールを持っている。それにアクセスすることは、わたしたちの物語を基盤にしたコモンセンスをもたらす。コモンセンスは共通するリアリティの場を構成し、わたしのリアリティとわたしたちのリアリティを一つのものにする。そうしたリアリティの基盤を立脚点にして、わたしの行為がわたしたちの社会にバイブレーションを起こしているのだと感じられる。
しかし、喫茶店は、複数のコモンセンスが没交渉的に折り重なりたたまれていく場である。わたしの行為は没交渉的なテーブルに切り分けられ、眼には見えるのにバイブレーションを伝播させることの出来ない多数の人達に囲まれていると感じる。それは都市的なる場の意味を象徴的に示している。
もしもわたしたちが共有された物語によって結びつき、世界の意味をコモンセンスに重ねて理解できないのだとしたら、世界は喫茶店のように現れてくる。つまり、コモンセンスがリアリティを産まない、リアリティを異にする人びとの寄せ集めとして。では都市のリアリティを、わたしたちはどのように触知することが出来るだろうか?
ウォーホルの映像作品「エンパイア」(1964年)が明らかにしたように、カメラやレコーダーのような機械技術は、何の意味もない現実を、何の意味もないままうつしとることを可能にした*2。都市のリアリティを対象化しようとするならば、何の意味もないままうつしとるような機械技術が適している。ttuはまさに、そうした機械技術を介在させることで、都市のリアリティに光を当てる。ぼくがレコードされた会議の内容をまるっきり覚えていない理由の一端には、会話の内容がおよそ何が起こるかわからない出来事を構成することがなく、その会議に参加した人びとの正体を明かさないからだ、といえる。出来事にさらされるとき、人は正体(Who)を現す。アレントはそれを「物語」という。しかし、都市という場がリアリティを異にした正体不明な人びとの寄せ集めであるならば、正体を明かす物語という記憶装置を必要としない。だからぼくも会話の内容を記憶することが出来ない。会議で彼が何を喋っていたかなんて言うことは、僕にとってはリアリティを産まない、まったくどうでもいいことだからだ。実際、喫茶店で行われているであろう会話の断片を記憶にとどめようなんて、しないだろう。
しかし、山田真実はそれをした。
3、どうでもいい他者への通行路
※上演とはまったく関係のない、皇居の前を通りかかったので、撮影した皇居の空。
なぜそんなことをしようとしたのか、ぼくにはわからないが、少なくとも、彼女の企てが正体不明な人々からなる都市のリアリティに光を当て、さらには、まったくどうでもいいように思われる他者の意味に耳を澄ませたことには、大きな意味がある。
思うに、喫茶店はアナクロなTwitterである。それぞれのテーブルはおよそ交渉が不可能なほどに隔たっているかもしれないが、その間に大きなテーブルが用意されることで、散りばめられたリアリティの寄せ集めから、星々のあいだに星座が発見されるように何らかのリアリティが発見されるかもしれない。
ttuの『会議体』は、収集された多数の会議を大きなテーブルの上にのせる。ぼくがかろうじて覚えていた上演の時間は、多数の会議がその多数性を保ったままに関係し合う光源を示していたのではないか。多数の会議のあいだに関係はないが、そこに一つの光を当てることで、どうでもいいように思える内容が、どうでもいいような質を保ったままで(だから正体不明のままで)記憶される出来事へと変換される。これはドキュメンタリー演劇のように注目されるべき現実の出来事を指し示すこともなければ、自然主義演劇のように、世界を意味的に構成することもない。そうした企てからはこぼれ落ちてしまう、抑圧された都市のノイズ的な位相である。
都市は確かにノイジーな群衆のようである。機械技術によってうつしとられたノイズを出来事に変換する編集装置を介して、こうしたリアリティをすくい取ろうとした結果がttuの『会議体』に結実したのかもしれない。この企てが果たして成功しているかどうかはわからない。レモンやら何やらが〈会議群〉にどのような光を当てるかは、それこそ人によるのかもしれない。しかし、どうでもいいように感じられる異なるリアリティとのあいだへ通行路を敷く試みなしに、〈演劇〉の醍醐味も生まれないだろう。
(渋革まろん)
ドクトペッパズ『うしのし』
場所:
大人の「ごっこ遊び」
ドリフトするマレビトたち/玉城企画『戎緑地』観劇スケッチ
2017年2月2日(木)~5日(日)
東京都 アトリエ春風舎
作・演出:玉城大祐
出演:岩井由紀子、中藤奨、永山由里恵、横田僚平
1、京都⇔東京は夜行バスで3,500円
わざわざこうしたことに触れるのは、玉城のこうした来歴が『戎緑地』という作品に大きな影を落としているように思えるからだ。『戎緑地』の背景に、京都を離れ東京へと移住した「根無し草」的な視点から見える「東京の姿」が通奏低音のように流れているのを、筆者はどうしても感じてしまう。それは同郷の士だからという事情もあるだろうし、作品を矮小化してしまう危険もなくはないのだが、そんな風に読む人もいないだろうし、ここはあえて演劇形式の分析を通じて『戎緑地』から見える〈東京〉の意味を探索してみたい。*1
2、こんな作品だった
右手に大きなタコを模した滑り台がある。子どもが二人、そこで遊んでいる。左手には池。池と言っても水は少なく沼に近い。大人の胸の位置程の高さの柵で覆われていて入る事はできない。「ここに大きなシジミが住んでいる」、以前、この緑地に住む誰かからそんな話を聞いた。・・・ ふと、足元に文庫本が一冊落ちているのを見つける。カバーが外されいかにも文庫本然としたその本に手を伸ばす。本は朝霜に濡れていた。・・・ この緑地は広い。私はいまだ役目を終えていないこの手紙達を、ここに住む宛先不定者たちに配らなければいけない。*2
同時に観客は、どこか朗読を聞いているような感覚で持って、言葉が指し示す風景と、登場人物の内面をイメージするように仕向けられ、広大な緑地を彷徨う人々が残したのかもしれない手紙の数々を聞きながら、まるで小説を脳内で立体化し劇場空間に重ねて見るように緑地で起こっている出来事や緑地に住む人々の生態系をつぶさに観察して《見る》ことになる。
3、手紙は何を意味するか?
4、マレビトの会の「分断された演技態」
俳優がその登場人物を演じる「ドラマ演劇」に対して、いわゆる「ポストドラマ演劇」というか、俳優という「身体」と「語り」とがどんどん離れて、ずれきってしまったのが、2012年のフェスティバル/トーキョーで上演した『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』でした。俳優たちがただ、立ったまま、かつて演じた劇を想起していて、観客はその姿を眺めるだけ、という。
5、玉城企画の「多数化された演技態」
「宛名」は常に「宛先」より多く、この言葉たちは「宛先」を求めて、私の元に届けられる。そして緑地に集まる人々は「宛名」を求め、徘徊し続ける。いつか誰かが自分を見つけてくれる。そう思いながら何処までも何処までも歩き続けるのだ。そしてこの緑地から出ていくことはない。*5
マレビトの会(少なくとも2012年まで)が上演形式のレベルでは、あくまでも一対一対応のキャラクターと身体が分断される次元、言ってみれば「実存」の位相を開示するのに対して、「手紙を届ける」形式は、確かにキャラクターは届けられるが、たまたま偶然この身体へ届けられたというだけで、そのキャラクターは「私じゃない」。こうした多対一対応の「偶有性」の位相を開示するのだ。このような「偶有性」によって特徴づけられる演技態を〈「身体」に対して「キャラクター」が多数化される〉という含意を込めて「多数化された演技態」と呼ぼう。*6
「多数化された演技態」において前面化されるのは「何者性への問いかけ」ではなく、偶有的な世界感覚であり、これほど大量のキャラクターがばらまかれていながらたまたまなぜか〈私〉が〈コレ〉であることへの違和なのである。手紙に書かれたキャラクターを「たまたま割り振られた」としか感じられず、〈私〉そのものにすることが出来ない人々。それがゆえに、いつか誰かが〈私〉の〈本当の名〉を見つけてくれることを切望し、手紙=キャラクターを求める人々。そうした者たちが徘徊する場、自分が何者であるかを支えるアイデンティティが常に浮遊し続ける根無し草たちの住むところが「戎緑地」なのだ(Twitterで「ニュータウン」を思い起こしたという感想が散見されたのは、それがゆえだろう)。
6、ドリフトするマレビトたち
一応留保しておくのだけれど、京都での演劇活動は先が見えない。というよりは、その演劇活動を意味づけてくれる審級が存在しないため、この活動が果たして何らかの意義ある活動なのかがわからない。それだから「東京に行けばなんとかなるんじゃないか」という謎の神話も生まれるのである。これは馬鹿らしいことだろうか? 筆者はそう思わない。どのように生きるとしても、社会の総体を代表しているであろう「物語」によって私を「何者か」として意味づける「大きな物語」を求め振り回されてしまうのは、僕達の精神史に刻まれた深い傷だと思うから。*7
*1:実際、上演を見ている最中にはそうした連想は全くなかったのだけれど、アフタートークで玉城が「東京にいることの違和感」をかなり赤裸々に語っていたからか、その内容を補助線にして脳内で『戎緑地』の再演/再編が起こった、ということを付け加える。
*2:玉城大祐『戎緑地』より。
*3:ここで柄谷行人『日本近代文学の起源』を思い浮かべるのは、多分適切なことだと思う。柄谷が内面と風景は言文一致の透明な文体によって初めて作られた(捏造された)ものだと言うように、玉城の自然主義的な筆致は、内面と風景が観客のうちで捏造されるように働きかける。ここで僕はどうしても、坪内逍遥がシェイクスピアとの格闘からついには文語体から口語体への翻訳を成し遂げたように、耳で聞いて明快に理解できる意味を求めた新劇運動への回帰の匂いを嗅ぐ。匂い、とは全く明快ではないのだが、新劇からアングラへいたる演劇史的なコンテクストを念頭に置くと、例え、玉城の劇作がカフカ的なシュルレアリスム調の展開を見せたとしても、演劇についての演劇を反復してみせる自己言及的な手法によって、結局のところアングラが批判した新劇の本質を露呈させるだけではないか? 例えば、手元にたまたま「別役実の世界」に寄稿された管孝之の「あまりに方法的な―ことばの前衛・別役実」があるので、引用してみる。
「新劇の作家は、台本を、小説やエッセイや論文を書くように、不特定多数の読者に向けて書く。その台本を上演する俳優も、あくまで読者の中の一部分」であり、「書き手と読み手とは同一のコードを共有しており、こちらのことばとあちらのことばが同じ”日本語”でありながら全くちがったコードをもっていて、ひょっとすると同じ用語が全く別の心情や行為を示すことがあるかも知れないなどという危惧が、入り込んでくる余地はほとんどないのである」
言葉が観客に、それどころか俳優にも、自分自身にも通じているのかわからない、そうした言葉の意味への不信が、アングラ世代が特権的な身体性を重視した理由だった。しかし、『戎緑地』においては、言葉の意味は字義通りに俳優を動かし、字義通りに風景をイメージさせる。上演が言葉を裏切ることがないのだ。こうした言文一致が前提とされた透明な表象言語による演劇をこそ転覆させることが68年以後の小劇場演劇運動だったのではなかったか。このあとの論述を完膚なきまでに先回りしてしまうが、筆者が本稿で展開する読解は、ある程度理念化されたものであることを告白しておきたい。筆者の最大の不満は上演において「手紙が誤配される可能性が予め禁じられている」ところであり、そのための手立てがほとんど講じられていない点に尽きる。それは、太田省吾が「劇を意識化することはやさしくない」と言ったように、結局のところ「劇を意識している普通の劇」に終止してしまうように見えるのであり、「歩くこと、立つこと」それ自体がなにごとかであり得るような「直接性の場」を押し開くことがない。手紙はおよそ手紙にかかれていたとは思えない「何事か」へと身体を介して変異しなければ、「普通の劇」であることを免れ得ないのではないか。あれほど大量の手紙がばらまかれていたことの意味も単なる絵解きで終わってしまい、「あー、セリフ覚えてるよね、それは装飾だよね」と観客は見透かしてしまう。
とは言っても、太田省吾が身体を「コレであるもの」として露呈させる『水の駅』が、高度情報化社会における「複数の情報によって空洞化する身体」を批評することが敵わないのに対し、『戎緑地』はそうした「大量の情報に浮遊する身体」に触れようとしていると、筆者には思われる。だから、言葉の意味で全てが一義的に決定される(ように見える)上演のあり方は、玉城自身が実現したい位相を裏切っているように感じられるのである。
*4:近年のメタシアターの傾向については綾門優希「疑心暗鬼的メタシアター」に多くの事例が挙げられているので参考になるかもしれない。http://school.genron.co.jp/works/critics/2015/students/ayato/647/
*5:玉城大祐『戎緑地』より。
*6:東浩紀『存在論的、郵便的』で展開されたクリプキとデリダの対立―否定神学vs散種―を思い起こすので、そのあたりのコンテクストを引き寄せたかったのだが、筆者がこの本を誰かに貸したまま手元にないので、出来ない。
*7:だからこそあえて、そんな物語に振り回されるのは馬鹿らしいと筆者は言いたい。意味付けなんてものは必要がない。筆者自身は、東京での演劇活動を通じて、むしろ京都に内在する「意味付けなんて無視して各人てんでバラバラに活動する」あり方に演劇の可能性を見る。それを批評的にフレーミングしてみることを、なんとか足掻いてやってみたいと思っている。その方向での「足掻き」は「仕事と自事―私的なものからなる公共圏」をご参照ください。
仕事と自事―私的なものからなる公共圏
「今回のイベントと、ずれてしまっているかもですが。
なんか、この話をきいたときに、
こんなことを思い出したのです。たとえば大学生。
就活にヘロヘロになっている学生に、
どうして就職するの? ときくと、
仕事してお金稼がないと生きていけないし、とこたえる。
ので、仕事って何?
ときくと、
お金を稼ぐこと、とこたえる。
お金って稼がなきゃだめ?
ときくと、
お金がないと何もできないし、とこたえる。ので、おおよそ以下のことを伝えたり、やりとりをする。
仕事ってのは、字のごとく、仕える事だよねえ。
はい。
じゃあ、誰に仕えるの?
ときくと、
社長、企業、などとこたえる。
中にはカンのいい学生もいて、
社会に仕える、なんてこたえりもする。そう、一般的な意味での仕事ってのは、
おそらく社会に仕える事なんだろうねえ。
そして、その対価として、
「社会のみで通用する」お金をもらえる。
みんなで社会に仕えて、
みんなで社会からお金もらって、まわして、
みんなで社会に生きていこう。一方、じゃあ、お金がもらえなくてもやる事ってある?
ときくと、
寝ること、食べる、アイドルの追っかけ、などとこたえる。
さらには、
犬の散歩、とか、カラオケ、とか、ダンス、とか、
おたく、とか、芝居とか、瞑想、とか、ネット、
なんてこたえる学生もいる。
さらには、
お母さん、弟と遊ぶ、お年寄りに席を譲る、などなど。
そこで、僕は、
じゃあ、そういったことを
「お金もらえないならやらない」ってなったらどうなる?
妊婦さんに「500円で席譲りますけど、どうします?」
みたいになったら、
ときくと、
多くの人は「終わりだよねw」みたいなことをこたえる。じゃあ、お金にならないけどやる事を、
仕事をもじって自事(じごと)とよんでみよう。みずから行う事、おのずとやってしまう事。
自事は、それをどれだけやってもお金はまったくもらえない。
極端に言い換えれば、
自事は社会から報酬を、評価をまるでもらえない。
なぜなら、それは仕事ではないから。でも、みんな知っている。
自事がなくなったら「終わり」だってことを。
自事は社会には認められないかもしれないけど、
自事は世界を根底から支えている。
「お金もらえないならやらない」ってなったらどうなる?妊婦さんに「500円で席譲りますけど、どうします?」みたいになったら、ときくと、多くの人は「終わりだよねw」みたいなことをこたえる。
*1:僕が理解する《公共》の概念については、下記の記事をご参照ください。