飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

『わたし達の器官なき身体』インタビュー No.0

おどられかたられるわたしたちの記憶
―死・生活・風土・連なり―

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『わたし達の器官なき身体』はアントナン・アルトー(1896-1948)が提示した「器官なき身体」をめぐって立本夏山と田村泰二郎のオトコフタリが〈おどりかたる〉作品です。「人間に器官なき身体を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう」と語られる「器官なき身体」。ある意味では謎に満ちたこの概念を「わたし達」で、だから立本・田村の二人で引き受ける、そうして観客のまなざしへ「器官なき身体」から起こる出来事を開こうとします。
 
ところで、ふたりは〈おどりかたること〉を〈生きること〉と切り離して考えていないように思えます。
 
稽古風景を拝見しても「それじゃ、1時間やってみようか」という具合に、打ち合わせなしでいつの間にかふっと〈おどりかたり〉が、はじまる。日常の時間がそのままスーッと劇的な時間に変容していきます。そこには「作品」と「日常」の区別がまるでなく、〈生きること〉のうちに秘められた物語が「いま・ここ」に混ざり溶けあい織り込まれていくようです。ぼくたちは〈生きること〉に滞留した歴史の時間を―個人の、家族の、日本の、戦後の、人類の、風土の―目の当たりにすることになります。おどられかたられるわたしたちの記憶。
 
このインタビューは、ふたりの個人史についての聞き取りを書き起こしたものです。生い立ちから、劇・踊りとの関わり、生活や結婚、それから死について。〈おどりかたり〉とは別の回路で、滞留する歴史のページをめくる手となることを期待して編まれました。3時間超のインタビューは読みやすさに配慮して編集の手を加えていますが、なるべく語られた言葉をそのまま掲載しています。すべてのインタビューに、聞き手の渋革まろんと、田村さん・立本さんが同席。2日間、3回(+α)に分けて収録されました。
 
 
インタビューNo.1 田村泰二郎

 

インタビューNo.2 立本夏山

 

公演情報はこちら(2017年3月24日(金)〜25日(土)・中野テルプシコール)

立本夏山×田村泰二郎 「わたし達の器官なき身体」 - ホーム

なぜ腹が立ったのか? ドキュメンタリー演劇の二重性/村川拓也『Fools speak while wise men listen』

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東京公演
2017年3月4日(土)〜3月5日(日)
@早稲田小劇場どらま館

公演情報
https://murakawa-theater.jimdo.com

高嶋慈『Fools speak while wise men listen』劇評
https://murakawa-theater.jimdo.com/劇評/

概要

村川拓也の新作『Fools speak while wise men listen』の簡単なスケッチを残しておきたい。

※結局、簡単なスケッチではなくなりました。

アトリエ劇研が主催し、村川が講師を担当する劇研アクターズラボのクラス(週1程度の連続クリエイションWSを定期的に開催し最後に発表の場が設けられる)で、どういう経緯があったかはわからないけれど「日本人と中国人の対話」をコンセプトにした作品が生まれる。2016年々に初演され、「早稲田小劇場どらま館」での上演はリクリエイションされた再演にあたる。

作品の概要は、チラシに詳しい。

日本人と中国人との対話を描き、そこに隠される互いの小さな気だるさを眼前の現実として暴露するこの作品は、2016年に京都で上演されました。・・・語り合う中に、不意に現れてしまう小さな違和感と無意識に滑る些細な言葉が、身振りを含め一言一句違わぬ形で何度も反復され、やがて見逃し難い現実へと変化してしまう過程が描かれました。

舞台には長方形の形に白ビニテが貼られている(形は違うが相撲の土俵のように)。その中にマイクが二本転がっている。舞台中央の壁際には床置式スピーカー。上演に先立って、いわゆる場内注意を中国語でアナウンスする女性は、客席から見て右手に立つのが中国人(Chinese)、左手に立つのが日本人(Japanese)だと教えてくれる。

このようなシンプルなセットで、〈日本人〉と〈中国人〉がマイクを用いて対話を交わす。上演の時間も非常にシンプルでミニマムだ。4組のペアが次々に5分程度の対話を交わすのだが(4組目の日本人は女性3人だが)この対話が、ほぼ同一の内容で(確か)4度繰り返される。

「ペアAの対話
 ペアBの対話
 ペアCの対話
 ペアDの対話」 →1セット ×4

 ※ペアDだけ日本人側は女性三人。

チラシに書かれている通り、女性二人の結婚・恋愛観の違い、心斎橋がすっかり中国人街のようになったという話、中国の名所について、パンダについて、といった4つの主題を巡って対話が交わされる。それに、場内アナウンスをした中国人の女性の独白―日本に留学してきて思ったこと―のモノローグが語られた。

フェイクドキュメンタリー

さて、僕は、この上演を見ている最中、腹が立って腹が立って仕方がなかった。声をあげたくて声をあげたくて仕方なかった。ものを投げつけてやろう、やめろ! と言ってやろう、みたいなことばかり考えていた。腹立ちを抑える気晴らしに上演のメモを取ったりしていた。こんな観劇体験は久しくなかった。いや、初めてかもしれない。この苛立ちは一体なんだろう?

最初にありうるかもしれない誤解を正しておきたい。

村川拓也は2011年のF/T公募プログラムに出品した作品『ツァイトゲーバー』(俳優・工藤の仕事である訪問介護を再現する作品)で一躍、ドキュメンタリー演劇の旗手として脚光を浴びた。次年度のF/Tでは福島を旅した二人の俳優による記録劇『言葉』を上演する。彼自身がドキュメンタリー映画作家であり、佐藤真に影響を受けたと公言しているせいか、彼の作品は「俳優自身の体験」をもとにしたドキュメンタリーであるかのように思われるかもしれない。しかし少なくとも本作は事前にTwitter等で流れている情報の通り、文字にして8万字くらい収録されたという稽古場の対話(日本人の出演者と中国人の出演者からなる対話)から抜粋抽出された言葉が《セリフ》として、複数の俳優に振り分けられている。出演者本人の実体験ではない。もしドキュメンタリー演劇のコンテクストで読むとするなら、これは《フェイクドキュメンタリー》であり、「役」と「ドラマ」が明確に存在するフィクションである。

そんなことはわかっているよ、と。演劇がフィクションだなんて観客がアタリマエに持つリテラシーだよ。それは一部の観客にとっては確かにそうだろう。しかし、ではなぜ村川はこのような体裁を取らなければならなかったのか? 語られる言葉がまるで「俳優自身の体験」であるかのような錯覚を起こすドキュメンタリー《らしき》劇形式を必要としたのだろうか?

予定調和の不和

テープレコーダーのように編集された素材を再生し続ける俳優たちを見ながら最初に思い出したのは、昨年の12月に観劇したヌトミック『ジュガドノッカペラテ』。「ドキュメンタリー(らしき)」性とともに舞台を特徴づけるミニマルなリフレイン構成は、ヌトミックの手法と似ている。いや、同じと言っても良いかもしれない。本作は環境管理型権力がベタに運用される例の構図を反復しているからだ。*1


「渋々演劇論」で何度も繰り返すように、アレントによれば、演技とは〈わたしのユニークな現れ〉を示す活動である(正確に言えば、活動の模倣である)。しかし、ミニマリズム的な統制は誰ひとりとして同じ場所を占めることはない多数的な〈わたし〉の現れを、等価な〈コレ〉へと還元する。それが、ヌトミックによって示された等価空間であり、世界に抗して多様な意味を背負った〈わたし〉を開示する契機がなにひとつ与えられず、ただ与えられた機能に充足せよというプログラムを実現するマシーンが起動し続けるディストピアを出現させる。そこでは、何を開示するかわからない未知なる〈他者〉の位相は、徹底的に排除される(あるいは隠蔽される)。

わたしたちの眼は見えるように見る。見えないようには見ない。

本作のミニマルなリフレイン構造は、1セットでは浮かび上がってくることのない、日本人と中国人の不和を徐々にあぶりだしていく。しかし、それはプログラムされた〈予定調和の不和〉に過ぎない。「何度も繰り返していたらテンション上がっていくよね、苛立っていくよね」というパブロフの犬的な動物的反応を当て込んだプログラムである。観客は、チラシに記載されたコンセプトがそのまま再生されるのを押し付けられるほかない。

言うなれば、俳優たちは、テープレコーダーと同じくただ目的へ向かって機能するだけのパーツ。等価で交換可能な「語の再生機械」。観客は、予定されていない別の出来事、あるいは一時的に開示される予期せぬ〈あなた〉のユニークなアイデンティティと出会うことをあらかじめ禁止された事態に直面する。

ぼくが苛立った理由は、こういうことかもしれない。
本当は、いや、いつでもユニークで唯一的であるはずの〈あなた〉と出会う可能性が、あらかじめ禁じられていることへのいらだち。ストレートに言うなら、ただ〈不和〉へと向かうことしか出来ない俳優たちの無残さ。〈不和〉への同一化を強制する規律/エンパワーメント。およそ人間が固有性を持つことを徹底的に排除する非人間化の手続き。これはあまりにも残酷じゃないか。

そんなことはやらなくていい! 今すぐ舞台を降りるべきだ。僕たちはモノを投げつけるべきだ。この時間は停止させねばならない。そうしないのは、ぼくらがこんな小さな劇場なんていう安全な場所でも、何一つ声をあげることのできない臆病者だからだ。

という、あなたの(筆者の)残酷であるほかない無能な態度を本作はアイロニカルに描き出しているのだ。みたいな批判は無効だ。もし、そうしたことが意図されていたとしても、そんなことは簡単に読める。そりゃ、ただの現状追認だ。悪しきコンセプチュアリズムだよ。しかし、村川がそんな現状追認の身振りに終始するだろうか。ここには、なにか、他者を開示することを禁じる必然的な事情があるのではないか。*2

『ツァイトゲーバー』―まなざしのパラダイム

www.youtube.com


寄り道をする。

僕が『ツァイトゲーバー』(の前身の『フジノハナ』)を見たときにショックを受けたのは、私たちの生はどこまでも交換可能であり、ある環境が与えられれば「そう機能するほかない」社会を生きていることに気づかされたからだった。この作品は、訪問介護する男の一日を描いた。しかし、介護する人間や介護される人間の意図や感情を描かない。つまり、村川は「人間心理の再現」へとは向かわず、その場で具体的に起こる現象を足がかりに、意図ぬきの現実を提示する。

『ツァイトゲーバー』の詳しい解説は山崎健太氏の論考をご参照ください。

例えば、出演者のマイクの使用は、出演者の発話を「相手への働きかけ」から観客への状況説明にスライドさせる。マイクを用いた状況説明は劇を進行させる司会者の立場に俳優を立たせる。それは、その場で実際に起こっている現象である。また、車椅子を実際の「椅子」に置き換える仕掛け、被介護者の役を観客に演じさせる仕掛け、といったいくつかの異化効果は、人間の行為を人間の意図とは無関係な「実際に起こっている現象」に変換する。宇宙開闢に特に意義はなく、自然現象(神鳴や春の訪れ)がただ起こっているとしか言えず、その意味は人間が尋ねなければならないのと同じように、舞台の諸要素が何を意味しているのかを見るためには観客の眼差しが必要となる。まるで赤ん坊が初めて世界を見るように、舞台で起こる出来事の意味やそれを肯定・否定する価値観はリセットされ、観客は「現象そのもの」と出会う眼を開く。

一切の意味・価値観の停止。そこから現象そのものを眼差してみる試みは、演劇的装置を活用したマルグリットの「書割」や植田正治の「砂漠の舞台」といったシュルレアリスムの潮流に参照項を持つ。彼らもまた現実の意味連関を停止させ、現実を固定的で揺るがない実在としてではなく、流動的で無数の意味を発散するネットワークとして顕在化させた。(ここでアルトーやドゥクルー、ロラン・バルトブレヒト、太田省吾や別役実、初期の岸田國士を想起することもできる。大雑把に言えば、村川は20世紀演劇のモダニズムの潮流を引き継いでいる。)*3


〈現象へのまなざし〉を立ち上げる手続きは、ドキュメンタリー的と称された。確かに村川は、カメラアイのエチカを舞台の表現形式に置き換えた。それが最大の問題だった。ここでドキュメンタリーとは人間の意図が介在しない〈現象への眼差し〉を指しており、人間の内面に隠された真実を明かすような〈真実へのまなざし〉を持たない。現象には契機となるような人間の意図=内面が関与しないからだ。現象はただそうであるだけであって、演出家の作為はあっても、価値判断が介在しない。俳優の主観的な価値判断あるいは意図も介在しない。演出家も俳優も観客と並んで、その現象を享受する他ない立場に置かれる。

反対にドラマを再現する演劇は〈真実へのまなざし〉に貫かれている。ドラマは人間の意図=内面、もしくは人間の意図=内面を引き起こす環境によって誘発されるからだ。問題は常に「お前は本当は何を思っているのか?」「お前は本当にそう思っているのか?」「実はお前はそんな風に考えていたのか」「この事件は実はこんな想い/思惑/環境によって引き起こされたのか」といったところへ帰着する。真実は人間が発見するものであり、翻っていつも人間の内面に隠されたものとして生起する。(だからその原理は超目的や因果関係に回収される)

つまり村川は「演劇的」と言われる要素をマイナスしていったと言われるが、むしろまなざしのパラダイムを変えた。〈真実へのまなざし〉からなる劇性をいくら引き算しても村川のとる劇形式にはならない。こうも言えるだろう。彼は、人口に膾炙しているであろう「演劇は出来事である」という命題を、「演劇は未知なる現象である」と解釈してみせた、とも。しかし、「演劇は時間的な一点でしか起こらない一回性の出来事である」という意味ではないことに注意しよう。〈真実〉は特権化された一回性を所有することを好む。本当はこうなっているという世界把握のヘゲモニーを握ろうとする。ときにそれは作家によって独占された〈真実〉を観客に見せびらかす形態をも取る。

〈現象へのまなざし〉は特権化された一回性を放棄する。本当はこうであるという視点それ自体を放棄し、ただそこで起こっているそれが〈未知〉であることだけを明かす。

この両者の分割線を顕在化させるため、観客のまなざしを規定する設計フレーム地層フレームのメタファーを導入してみよう。設計フレームは組み立てられた時間進行から世界を理解するフレームである。それは真実が明かされる未来の一点に視線を向け、その時間が到来することを期待する。ゆえに真実の到来を組み立てることが演劇になる。逆に地層フレームはいつでも足元に埋まっている複数の時間層から世界を理解するフレームである。それはわたしたちの依って立つ地面の下に視線を向け、堆積した時間が掘り起こされることを期待する。堆積した時間は地表上では触知不能な未知なる現象がそのまま保存されており、この現象を掘り起こす手続きが演劇になる。*4

つまり〈現象へのまなざし〉は、意識によって隠された無数の無意識を示す。カメラアイによって初めて〈まなざし〉を与えることが出来た無意識下の現象を〈未知なるもの〉として露出させる。ウジェーヌ・アジェが見慣れたパリの街頭を撮影し、実はあるのに「現実はこうあるものだ」式の観念が邪魔をして見えなくなってしまう視覚的無意識下の都市を、驚くべき〈他者〉の相貌を持って示してみせたように。

整理すると、次のような図式になる。

地層フレーム      設計フレーム

〈現象へのまなざし〉― 〈真実へのまなざし〉
堆積した時間    ― 到来する時間
時間を掘り起こす  ― 時間を組み立てる
瞬時性       ― 一回性
未知そのもの    ― 既知への変換
無意識       ― 意識
存在        ― 内面
不図        ― 意図
価値観の停止    ― 価値判断の介在
他者        ― 私

『Fools speak while wise men listen』再考
―不和から違和へ

とても長い寄り道になってしまったが、ここまで来て、次のような問いを投げかけることが出来る。

では、どうして本作にセットされたカメラアイは、日本人と中国人の対話を、他者の相貌を持った未知なる〈現象〉として開示できなかったのか(と筆者は思ったか)?

本作でも『ツァイトゲーバー』などなどと同じように、いつもの「マイク」が使われる。また、中国語での場内アナウンスやカセットテープを模したような長方形の土俵、展開を期待する観客の眼差しに肩透かしを食らわせるリフレイン構成は、舞台の諸要素を異物化し、作家の意図・出演者の意図=内面とは無関係な、そうであるようにそうである未知なる〈現象〉として〈日本人と中国人の対話〉を開示していくように思える。

特にリフレイン構成からは、〈現象への眼差し〉を支える地層フレームのパラダイムの本質が強く浮かび上がってくる。地層フレームは表面の地表を剥ぎ取るようにして、主観的な価値判断が介在しない時間の層を露出させるのであって、因果的な時間秩序を構成しないからだ。

(『ツァイトゲーバー』では、マイクが俳優を司会者に仕立て上げ、この場で実際に起こっている反復不能な行為に変換するとともに、言葉と行為は電気信号に置き換えられた編集可能な情報であること、つまりは何度でも反復可能な次元にあることを両義的に示す。マイクの持つ両義性が映写面ースクリーンーと同じ機能を果たしている。本作のリフレイン構成は、マイク装置が内包していた必然的な時間性である。納得できなければ、試しにマイクを使わない『ツァイトゲーバー』や、『Fools speak while wise men listen』を想像してみると良い。)

ここで、地表とは、観念化された〈日本人/中国人〉の層を指す。この観念は、ほぼ同一の対話が繰り返されることで剥ぎ取られていき、取るに足らないように見えて本当はそこに問題のすべてが集約されている無意識下の〈日本人/中国人〉の対立を露出させていく。確かに日本人と中国人の間には政治的に、経済的に、歴史的に、不和を起こしているとわたしたちは意識している。一方で、日常的な次元でふと沸き起こる〈中国語を喋る人間〉への無意識的なレベルでの違和を見なかったことにしてやり過ごす。本作にセットされたカメラアイは〈真実への眼差し〉が働く意識の位相では捉えることが出来ない〈中国を母国とする人間/日本を母国とする人間〉の無意識を現象させる。

ぼくが指摘した〈予定調和の不和〉は観念化された意識の層であり、その繰り返しから現れる〈身体的な違和〉は触知される無意識の層だったのだ。本作のタイトルが示す通り、観客は賢者の資格のもと観念化された〈不和〉予知し、愚者のように些末で感覚的な〈違和〉に四苦八苦する舞台上の彼らを見るのである。

カメラアイの二重性

しかし、これは本当だろうか? 意識上の〈不和〉だけではなく、無意識下の〈違和〉もまた無理矢理に作り出されてはいないだろうか? 作り出されている、つまりは設計されている。そして設計された〈違和〉は観客が受け止めきれない〈他者〉を隠蔽し、どこにでもありうる人間感情の一事例に矮小化してしまうのではないか?*5

リフレイン構成は到来する〈違和〉をも予定する。確かにこれは奇妙な事態である。本来は地層フレームに属するはずの無意識下で現象する〈違和〉が、設計フレームに属するはずの〈真実へのまなざし〉を期待している! 地層フレームはあくまでも〈未知〉を〈未知〉として掘り起こすはずであるのに、まるで設計フレームに属するかのように〈不和〉が実は〈違和〉であることを、本当はそうである〈真実〉として明かす。さらに、その違和を保証するのは、俳優の意図=内面であるほかない。ここで〈真実〉は俳優の内面によって独占され、観客はそれに疑問を挟む余地がない。

だからこそ、俳優の割り当てられた「役」は俳優自身の実体験であるかのように錯覚させられる必要がある。『ツァイトゲーバー』の際には俳優の工藤の行為が「劇の役割」であるのか「実体験」であるのかという視点それ自体がなかった(どっちでもよかった)。対照的に、本作ではまるでけいこ場で撮影されたフィルムを再生するかのように、俳優たちが「俳優の役」を演じ、結果的に舞台の「役=俳優」であるかのように同一視してしまう錯覚を起こす必要があった。そこで語られる言葉と行為が実体験であることを必要としたのだ、

象徴的だったのは最初の一組目、にこやかな笑顔で対話する二人の女性。彼女らは恋愛観と(たぶん)仕事の格差でもって違和を顕在化させていくのだが、日本人側の女性が最終的にはマイク無しで中国人側の女性に語りかける。内容的には、バイトの最中に中国人への差別意識をつぶやく男への怒り(など)といったものであるのだが、ぼくはその言葉を上手く受け止めることが出来なかった。彼女の怒りはよく分かる、と思ってしまう。彼女の悩みも。確かにわかると。しかし、それは受け止めきれない他者への違和を喚起しない。観客にセットされるのは、彼女の内面へ自分自身を同一化出来るかどうかだけが問題になる〈真実への眼差し〉である。

マイクの不使用は、彼女の言葉が彼女の〈パーソナルな真実〉であることを明かす効果を持つ。レコーディングされた言葉から逸脱した、編集することも反復することもかなわない一回的な感情であることが強調される(逆に言えば、マイクを使うことが出来なくなったとも言える)。*6

ドキュメンタリーの要請される意味が、ここでは微妙ではあるが、決定的にスライドしている。本作がドキュメンタリー的であらねばならないのは、いかなる意図=内面も介在しない未知なる〈現象〉を捉えるためではなく、対話を担う人間の内面に〈真実〉があることを証明しなければならなかったからである。

これが人間の意図=内面を介在させない無意識下の〈現象〉を捉えるカメラアイのもう一つの側面。パーソナルな〈真実〉に光を当てる側面である。何らかの行為/環境に向けられたカメラは、ライオンがシマウマを捕食したり、蟻が巣をつくったりするのと同じように、人間が行為しているさまを無感情に捉える。しかし一方でカメラアイが持つクローズアップ機能は、人間の「顔」から日常では意識されない「深遠なる内面」を喚起する。『ツァイトゲーバー』があくまでも「介護労働」の行為をロングショットで捉えたのとは反対に、『Fools speak while wise men listen』は〈中国/日本〉の観念的対立の底にある人間の内面にリフレイン構成をとることでピントを合わせようとした。

つまり、リフレイン構成とはマイクのスクリーン機能に投影された人間をクローズアップする技法であったと理解することが出来る。クローズアップにはカメラワークが必要になる。ここに〈違和〉を捉えようとする作家の意図が強く刻まれる。「日本を母国とする人間」と「中国を母国とする人間」の対話から生まれる無意識下の敵対は、人間の意図が介在しない未知なる〈現象〉から、人間の意図によって組み立てられ最終的な価値を俳優の実体験と錯覚させられる内面の〈真実〉へとスライドされる。このスライド効果は、「意図が介在してないことを装う意図」を「未知であるかのように提示される既知」を「現象のような真実」を奇妙に出現させる。

筆者が本作に覚えた違和感の正体は被写体にグッと寄ってピントを合わせようとする作家の作為であり、それはカメラアイが持つ二重性が必然的に用意した罠なのだ。

結論

多分、本作は敵対する日本人を加害者としてでも被害者としてでもなく、そういった価値判断抜きの〈現象〉へと還元してみせようとしていたと思う。しかし、カメラアイの二重性は〈現象へのまなざし〉を〈真実へのまなざし〉に置き換え、ユニークな他者のアイデンティティを露出させているようで隠蔽している構造へとスライドさせる。このことにぼくは苛立ったし、解明すべき謎があると思った。

では〈日本人/中国人〉の敵対意識が唯一的な「内面の真実」へと帰着してしまうのはなぜなのか? ここにはそのように帰着してしまう〈日本人/中国人〉の対話の必然があるのではないか? そういった問題はまだ残っている。残っているのだが、それを明らかにするのには、筆者の力量が足りない。本稿はひとまずこの地点で幕を下ろしたいと思う。

*1:「例の構図」の詳細は、非在の肯定/ヌトミック『ジュガドノッカペラテ』 - 渋々演劇論+αをご参照ください。以下、抜粋引用。「僕にとってはこれはちょっとしたショックであった。もう認めよう、肯定しよう。そういうことだと思ったからだ。これが《演劇》であるならば、僕達はもう《演劇》の場において、複層的な《現実》を幻想しようとする必要がない。なぜなら、ここでは音から現象を生産する機能だけを担ったマシーンさえいれば充分であり、世界に抗して多様な意味を背負った《私》の存在を開示する契機は何ひとつ与えられないのだから。つまり、私が機能するだけのマシーンであることを認め、気持ちよく整えられたリズムとハーモニーに音を合わせる与えられた快楽に充足せよ、そうした環境管理型権力がベタに運用されているかのような《現実》が批評されるのではない、アタリマエのように舞台上で展開されるのだ。」

*2:「対話」の強制力を露呈させる装置として、本作を読み解いているのが、高嶋慈の劇評(https://murakawa-theater.jimdo.com/劇評/)。「この白線で囲われた空間が、「日本人」「中国人」というナショナリスティックな枠組みにはめ込んで発言させる場であることを示す」と彼女は言う。本作では日本国において常に外部に置かれ、対話の場がセッティングされたとしても使用言語が「日本語」であるような不均衡さを受難する存在として〈中国人〉が示されていることを指摘している。それは、ナショナルアイデンティティの選択の狭間の躊躇を可視化すると。非常に明晰な批評である。彼女の論を敷衍するならば、筆者が感じた強制力は〈日本人〉なるもののナショナルな強制力である。


一応、誤解なきように留保しておくと、高嶋氏の批評が無効だとかそういうことは言ってないので、あしからず。しかし筆者は「対話」が強制するエンパワーメントよりも、リフレイン構成が強制する〈真実〉の構成に、本作の根深い問題があると理解する。なぜ四つに限定されない多数の対話を見せるのではなく、リフレインが必要とされたのか? 稽古場を見ているような錯覚を観客に体感させねばならなかったのか?

*3:シュルレアリスムというのは「もっとも現在たる現在」「現在中の現在」を、異化効果の方法によって求めた、きわめて時間的な運動だった。シュルレアリスム1920年代と1960年代の二度、反復されている。どちらにも共通して言えるのは、硬直化した現在を、流動的で即興的な誕生する「いま」へと送り返そうとしたことである。それは、永遠の一瞬、現れては消え去る「いま」の生き生きとした体験を取り戻そうとする運動だったといえる。それは、きわめて演劇的な運動だったのではないか。マルグリットの「書き割り」や、植田正治の砂漠の舞台性は、「いま」を捉えるために、現実の連関を一度停止させ、現実をオブジェ化する手続きとして求められたように思うのだが、ここでは実際の演劇側における「舞台」の機能が180度転換されている。演劇はいまだ、舞台を「現実の再現」として捉えている、というのは、つまり舞台がオブジェの領域たるシニフィアンではなく、解釈の領域たるシニフィエの次元で展開しているのであるが、シュルレアリスムはすでに「異物としての現実」に出会うための方法として「舞台」の機能を理解していた。

*4:これは余談だが、現象への眼差しを立ち上げる村川の手続きは、どう見てもフッサールがいう「現象学的還元」そのままである。素朴に客観的世界が実在しているという思い込みからなる自然的態度をエポケー(判断停止)して、対象へ向けられた意識のありよう(志向的体験)を分析するのがフッサールが言う現象学的還元である。ハイデガーと袂を分かつことになった運命的な著書『ブリタニカ草稿』では、自然的態度から世界を意味的に構成する「超越論的主観性」への態度変更が現象学の肝であると説かれるのだが、この超越論的主観性を観客にインプットするのが、村川のドキュメンタリー的手法であり、〈現象学的演劇〉とも言い得るものだ、と思う。しかし、それが〈映像的態度〉とどういう関係にあるのか、映像技術と深い関係を持つ精神分析とはどういう関係を持ち、ベンヤミンによれば機械技術が可能にした複製技術への先駆的な発露となったダダや、フロイト自由連想に着想を得たシュルレアリスム(というかブルトンの芸術?)との関係は・・・。これが20世紀という時代を特徴づける大きな潮流であることは間違いないし、村川をそうした視点から読み解くことは可能だが、いまのぼくの力では出来ない。

*5:その無理矢理に必死に〈違和〉を意識しようとする彼らを笑うのが賢者なのだ、というなら、むしろそう言う人こそが賢者である。というお前こそが・・・というお前こそが・・・この賢者のなすりつけ合いに終わりはない。しかし誰が賢者かをめぐる無限後退に陥ってしまうということ自体、メタシアターがシアターを意識しているだけの普通の演劇であるといった〈現象〉と〈真実〉の分割線を分かつ議論をなかったことにしてしまう。およそ演劇が直接性の場であると信じるならば、〈違和〉をいかに設計された真実ではなく、他者的な相貌を持った未知なる現象として顕在化させるかが問題のすべてである。

*6:長くなるので本文では割愛するが、四組目の「中国って言ったらパンダでしょ」という女性三人組と中国人の男性の対話も、ぼくには受け入れがたかった。というのも、この組の男性はリフレインの中でどんどん何も喋らなくなる。もちろん、彼は怒っている。パンダパンダ言う女性たちに怒りを覚えている。4週目のリフレインで男性はこれまでとは打って変わって自分自身の日本に対する想いを語るのだが、パンダパンダ言う女性たちの声にかき消されて、男性の言葉はよく聞こえない。それは確かに図式としてはとても明確に理解できる。例えば、3人の声のほうが1人の声よりも大きいのだ。日本国で少数者の立場に立たされる中国国籍の人々は、圧倒的に弱い立場に立たされている。もしくは大衆の思考停止した観念的な決めつけに対する男性の抵抗として読むことも出来る。とにかくそういう図式は出来上がっているのだが、ぼくは普通に男性の言葉を聞きたかった。むしろ、男性のパーソナルな真実が受け止めきれない他者への違和を現象させる瞬間をこそ見たかった。確かに明かされるべき内面がゴールに設定されると、それは同一化を迫る〈真実〉に姿を変える。しかし逆に内面がゴールのない言葉の奔流へと翻訳されることで、言葉は現象化する。彼の属している歴史・環境を照らし出す触媒となる。もしかしたら、演劇におけるカメラアイの限界といったものがあるのかもしれない。カメラアイはあらゆる要素を等価に還元する等価空間を要請し、歴史の触媒となる魔術的な〈いま〉を退ける。身体が俳優自らの力で無数の多様体を構成し、身体と空間を変容させていく触媒空間を。これは誤解かも知れないが、そういう風なことも考える。

C.T.T.vol.90 村川拓也+工藤修三『フジノハナ』

日時 2012年1月29日・30日
会場 アトリエ劇研

※このレビューは、『ツァイトゲーバー』の前身にあたる『フジノハナ』について書かれたものです。
  加筆修正を加えています。(2016年3月5日)

世界=時間の不気味な位相

社会的な生き物としての人間は、何らかの有用性によって計られる。最も分かりやすい文言は「働かざる者、食うべからず」だろう。有用でないものに価値はないというのが基本的な社会の仕組みである。しかしそれは本当だろうか? 本作はそんな疑問を喚起する。

本作を読み解く点で重要なのは、実際に上演されたバージョン(A)と―筆者が偶然リハーサルで目撃した―上演されなかったバージョン(B)があったという事実だ。両者ともその内容は変わらない。舞台にはイス(車椅子に見立てられる)とスピーカーと小さな机(?)が置かれている。介護者の男は被介護者に尿瓶を差出し、車いすに乗せ、ご飯を食べさせ、音楽をかける。ある介護現場の日常らしきものが淡々と進行する2つのバージョンでただひとつ違うのは、ver.Aが被介護者の役を観客がやるのに対し、ver.Bは無対象だったという点だ。

ver.Aでは村川が最初に「この劇は観客に参加してもらう劇だということを告げ、観客の中から無作為に一人の女性を選び出す。彼女は被介護者として、介護者の男から様々に介護を受ける。このやり方の面白い点は介護される人間がどんどんモノのように見えてくるということだ。

劇という状況において、人間を含めた全ての物事は機能するモノとして扱われる。それがゆえに「行為を奪われた観客」は舞台のネットワークから排除されモノとして浮かび上がってくる。それは社会において機能しない、つまり誤解を恐れず言えば役に立たない被介護者の比喩であり、想像力の上で「私たちもまたモノになりうる」ということを痛感させる。社会的存在であるわれわれは、常に機能不全への不安を抱えながら、なんとか社会のネットワークから排除されないように最新の注意を払って生きるモノなのだ。ver.Aはそうした「無用さ」への想像力を喚起する。ではver.Bはどうか。


普通に想像すると、ver.Bは失敗するように思える。観客が被介護者役としてあったからこそ、われわれはそこに想像力を働かせることができたからだ。だが、ver.Bの秀逸な点は介護者の男がドラマの演じ手として被介護者の場所に誰かがいることにしてしまうのと同時に、マイクを通じてセリフをしゃべることで、相手役との芝居の言葉を、劇全体を客観的に説明する言葉へと変貌させ、劇をドラマであると同時にドラマではなくした。つまり相手役を存在させるのと同時に消滅させたところだ。

このウルトラQによってソコへ何かを読み取ろうとする観客の想像力はすぐさま空転してしまう。ver.Aでは人間が「機能しないこと」によって観客の想像力とその時間は機能したが、ver.Bでは観客の想像力そのものが機能不全に陥る。ソコに何かをいくら見ようとしてもソコには何もないという〈無性〉が観客の想像力を空転させ、時間を不気味に吸い取ってしまう。この地点においてはあらゆる劇の時間の作為がバラバラに砕け散り内破することだろう。

機能しないことが問題提起になっているがゆえに意義深いver.Aと比べ、ver.Bは全くの無意義である。しかしだからこそ、それは社会的な価値を全く無化した単なる事実を、不気味さとともに現れる〈世界=時間〉を出現させる。

 

さて、わたしたちはこの不気味な時間をどう受け止めるだろうか?

光へ/情熱のフラミンゴ「ピンクなパッション」

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2017年3月3日(金)~5日(日)
東京都 小金井アートスポット シャトー2F

作・総合演出:島村和秀
作・振付:服部未来
作・映像:川本直人

作・出演:島村和秀、服部未来、川本直人、秋場清之、
                   岡部ナノカ、坂口天志、後藤ひかり、稲垣和俊


ゲスト:MARK、Y.I.M、山山山

 

オッティーリエの最期をめぐるゲーテの深い思いのうちにあったのは、この蝉のような生と死以外に何が考えられよう? (『ゲーテの「親和力」』ベンヤミンコレクションp168)


これが即興スケッチであることを断っておきたい。語るべきことは多々あるが、それに追いつくように何かを書くことは、残念ながらぼくの力の範囲を超えている。しかし、何らかのスケッチが必要とされているのかもしれないと妄想して、何かを書こう。

情熱のフラミンゴは、多摩美術大学の卒業生で2012年に結成された、演劇・ダンス・映像の壁を融解させるジャンルボーダレスな劇団である。

「ピンクなパッション」は武蔵小金井にあるギャラリー&カフェスペース「小金井アートスポットシャトー」にて上演された。11演目からなる「ピンクなパッション」は、わかりやすく言えばオムニバス形式のライブパフォーマンス・イベント。飲み食い自由で観客はビール片手に観劇する。演目一覧は次の通り。

第一部

①落語      坂口天志『落語とは(パッション落語)』
②パフォーマンス 後藤ひかり『現代口語演劇入門 ゼロ年代編』
③ダンス     服部未来『ふくろうは海を見たか』
④上映      川本直人『潮汐の窓』


第二部

①落語   坂口天志『落語とは(パッション落語)②』
②歌    秋場清之&服部未来『モグラップ』
③ゲスト  MARKライブ
④演劇的マイクパフォーマンス系私的儀礼
      稲垣和俊『サンシャインデイイズララバイフォーミー』
⑤歌    秋場清之『はじまりのうた』


第三部

①落語   坂口天志『落語とは(パッション落語)③』
②映画   川本直人「フェイクドキュメンタリー」
③演劇   島村和秀『頑張れ!アニマルガード』
④歌    『アダルトチルドレン

彼らの第一の特徴は、ジャンル・リミックスな境界性(リミナリティ)にある。2時間40分の上演時間にもボーダレスな彼らの特性が顕著に現れている。演劇として考えれば長く感じるかもしれないが、音楽ライブとして考えれば全然短い、といったように。

とは言うものの、演目一覧を見ればわかるように、舞台にあげられる表現は多岐にわたり、わたしたちはこのイベントをなんと形容して良いのか途方にくれる。

セミの詩学

途方に暮れて、ぼくはこう言う。

演劇は蝉に似ている。

演劇は、それが羽化するために充てられる製作の時間よりも、それが人々の前に現れて消費される時間の方が圧倒的に短い。蝉が7年もの時間を地中で過ごしながら、一週間という限られた時間を使って他の蝉を求めて鳴くように、演劇もまたいるかいないのかわからない誰かに向けて鳴いている。複数の演目からなるオムニバス的なレビュー形式は、たくさんの蝉たちが地中から這い出てきて、一斉に鳴き始める夏のひと時を思い起こさせる。

ところで、なぜぼくたちは、蝉の亡骸に「もののあわれ」的な感覚を覚えるのだろう? もしくは一夏の輝きを「蝉のけたたましい鳴き声」とともに思い出すのだろう? 蝉の亡骸と夏の終わりはセットで連想されるのだろう?

蝉が瞬間の生を燃焼していると感じられるからだ。まるで地中の膨大な時間が打ち上げ花火のように地上に現れた一瞬に凝縮されていると感じるからだ。蝉は出現と同時に「死」を予感させる。求愛する蝉の鳴き声の裏には常に「もう鳴いていない」が張り付く。存在=非在。これが蝉の詩学である。

そして、情熱のフラミンゴとは〈蝉の詩学〉を空間に定着させる活動である(と理解できる)。

光ある方へ

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左から川本直人・服部未来・岡部ナノカ・島村和秀・フラミンゴ

例えば、島村和秀「頑張れ!アニマルガード」動物愛護団体がチキンナゲット工場で「三日以内に肉を食べたものを死に至らしめる」毒ガスをばら撒こうと計画する物語であるが、「動物愛護」の光り輝く理念に反して彼らのサークルが瓦解するのは恋愛関係のいざこざといった身も蓋もない、ある意味でくだらないクソ現実が原因になる。それを「頑張れ!」と応援する島村のアイロニカルな態度は、理念に奉仕する欺瞞への皮肉ともとれるが、理念が燃焼される〈一瞬の輝き〉への挽歌を捧げているようでもある(切望のアイロニー)。*1

また、服部未来「ふくろうは海を見たか」では、名前を喪ったふくろうが、幻想の中で故郷を旅する(背景にはどこまでも続く森林が映写される)。そこに「見えないイメージ」とシャドーボクシングで戦う川本が加わり、服部は両手にふくろうのマペットをつけ、踊る。「わたしの右手にはイメージがあります」「わたしの左手にはイメージがありません」・・・と言われる両手はぶつかり、イメージは消滅する(ように見える)。呼応するように川本直人「潮汐の窓」のシークエンスが舞台に重ね焼きされ、海辺の家の窓から見える打ち上げ花火について語られる。窓から見える花火は本当にあるんだろうかと窓を開けると、花火の輝きが彼の目に飛び込む。炸裂。銃撃のような音を立てカラフルな図像が幼児の描く絵のように映写される。つまりは「窓」に映る。同時に、服部はふくろうのマペットを映写面=窓ヘ向けて何度も投げつける。夢に幼児退行的な無意識が反映されるように、映像とダンスが交差する夢幻的なコラボレーションは、わたしたちの始原的な記憶を呼び起こし、いつの日にか喪われた〈光〉を、言葉によって象徴化される以前の〈現実〉を描き出そうとする。

まだまだ、ある。

秋場清之「モグラップ/はじまりのうた」について触れよう。随所に挿入される秋場の歌/ラップのリリックの一節を引く。

もぐらー アンダグラウンドアンダグラウンド・・・ 衝動が突き動かしている 掘っているというよりもがいてる あこがれの見たことない危ない光にいま向かってる 掘り進めろ 掘り進めろ メロウな音楽かけんじゃねぇ 掘り進めろ 掘り進めろ 第六感を研ぎ澄ませろ (モグラップ)

もぐらはアンダーグラウンドで地上に出ようとするのではない。掘る。真下へ。吉本隆明は何かで「自分の真下に垂直の穴を掘れ」と言ったそうだ。川本が打ち上げ花火に〈光〉を見出そうとしたのとは反対に、秋場はマントルまで掘り進めることで逆説的にわたしだけに見える〈光〉へと到達しようとする。

二部のラストで、秋場=もぐらくんは「はじまりのうた」を歌う。観客の目の前ではない。ガラス窓越しに外を見ると、青いイルミネーションライトをまとって、もぐらくん。劇場の外からBluetoothを経由して劇場内のスピーカーに歌声を届かせる。しかし、声は宇宙無線がそうであるように途切れ途切れにしかわたしたちに届かない。もぐらは地球の裏側に突き抜けてしまったのか? 宇宙もぐらとなった彼の眼には何が見えているのか? わたしたちは地球のように青く光るもぐらを見ながら、掘り進めた先にある光景を思い浮かべる。*2*3

まだある。

後藤ひかり「現代口語演劇入門」は00年代を代表する記念碑的な戯曲・岡田利規『三月の5日間』のリーディング・パフォーマンス。小劇場の演劇人にはなじみ深いかもしれない「ミッフィーちゃん」と呼ばれる役のセリフを朗読する。彼女の隣には、スナックを食べながら棒立ちする秋葉。彼は戯曲通りの受け答えをしないので、必然、彼女らの会話はちぐはぐなディスコミュニケーションに終始する。そういう異化要素はあるものの、一見したところ単なる『三月の5日間』の紹介のようにも思える。しかし、朗読が終わった後、ミッフィーちゃんの日記が書かれた3月20日はブッシュが「サダムフセインが48時間以内にイラクを離れなければ、イラクを攻撃する」としたタイムリミットの迫っていた時だったことが明かされる。ぼくは、そのことを覚えていないことを思い出す。もしかしたら『三月の5日間』はただただ記念碑=モニュメントになってしまったのであり、そうすることで、わたしたちは何かを記憶しているふりをしているだけではないか? だから、忘却に抗ってみること。彼女のパフォーマンスは、ポッカリと空いた記憶の隙間を軽やかに逆なでする。

稲垣和俊「サンシャインデイイズララバイフォーミー」は、「だーれだ?」という目隠し遊びを換骨奪還することで、自らが何者であるのかを拡散的に膨張させていく。しかし、彼を「目隠ししているもの」の正体とはなんだろう? 心臓のビートを刻むように穿たれる単音に着目しよう。ハンナ・アレントによれば「誰(Who)」とは、同一なものに還元されないユニークな固有性である。一人として同じ場所を占めることは出来ない。ところが「ドッドッドッドッ」という単一のリズムは、「誰」を同一の「コレ」へと還元してしまう。彼がいくら「誰だ?」を唱えたとしても、すべては同一の「コレ」に变化してしまい、どう足掻いても〈誰〉へとたどり着くことが出来ない。タップダンスさながら右足・左足と交互に踏まれるマラソン的ステップをいくら踏んでも、彼が前に進むことはないのだ。すべての「誰」は同じ場所に滞留して「一」になる。彼を目隠ししているものの正体とは、すべてのものが等価値に均される「等価空間」なのである。*4

まだだ。

坂口天志「落語について」は第一部から第三部の前座を務める。彼の落語は人呼んで(というか自分で言うのだが)パッション落語。とにかくパッション、パッション、パッション! 3分間という制限時間内にお客さんからもらったお題を使って即興落語を作る(映像で、「まどか☆マギカ」に出てくる猫っぽいものが時計代わりになんか回ってる)。ぼくが見た会では、1回目のお題はナイキ、2回目のお題はナイキ、3回目のお題はトマトだった。これについては隠喩的な裏読みが出来ない。そんなことを言ってもしゃーないだろうと思う。ある意味、坂口天使は「これで良いのだ」を地でいく。ベタなパッションが、一服の清涼剤的な効果をあげている。

蝉は一斉に鳴く

さて、これですべてのパフォーマンスについて触れた。いや、プラスしてゲストライブがあるが、これはすみません、割愛する。とにかく、これでもか! という具合にてんこ盛りなイベントだったせいで、このレビューもすっかり長くなってしまった。読者の読みやすさを考慮すれば、パフォーマンスのいくつかをピックアップして紹介すれば良かったじゃないか、なんて思わないで欲しい。「ピンクなパッション」の本領発揮されるのは、ピックアップ的紹介の不可能性にこそあるからだ。

ピックアップ的紹介の不可能性は、なぜ彼らがソロで活動しないのか? という問題と直結している。演劇作家・映像作家・ダンサーとくれば、しかも彼らはそれぞれに特異な才能を持ち合わせているのだから、独自に活動したら良いし、活動することはできる。しかし、そうはしない。なぜ?

〈蝉〉が一人で鳴いているなんてオカシイよ、とぼくは言う。これだけ異なる音色を持つ蝉が、一斉に鳴くから美しいということを、彼らは知っているのではないだろうか。燃え盛る炎に投げ込まれたモノモノは分解されて炭と化すだろう。同時に、それらは気体となって混ざりあい、火花を散らし、強烈な〈光〉を放つだろう。*5

勇気(さよならなんて)

ここまで読んでくれた人がいたとしたら(ありがとう)、情熱のフラミンゴはえらく哲学的で実存的な思考を持った劇団なのだなと思うかもしれない。しかし、パフォーマンスの一般的な印象を語るならば、ポップにセンス良くまとめられ、その場の観客を楽しませることを忘れないエンターテイメント性にあふれた作品群であることは疑い得ない。ぼくのとても貧弱な語彙では、パリピ的なノリとして言いようがないのだけれど、全体の雰囲気はそういうハイテンションで貫かれている。

単にそのように、つまりは快快や革命アイドル暴走ちゃんに見られるような消費社会のめくるめくスピードを体現する、どころか追い越していく刺激と速度がハイパーリアルな現実をぶっちぎって見果てぬ「その先」を幻想させてみせる、未来派的戦略の潮流に彼らのコンテクストを編みこむことも出来るだろうし、そういう側面も確かにあると思う。

だが、情熱のフラミンゴは、消費社会的な生を浮き彫りにするような、そういう志向性を実は持っていないのではないかという気がしている。ぼくはレビューで決して誰も褒めないことを信条として3ヶ月ほど立つのだけれど、早速破るのだけれど、消費社会でんでん、じゃない、云々といったコンテクストとは別なところを情熱のフラミンゴはまさぐっていると思えて、端的にそれが好きだ。これはレビューではなく感想になるが、彼らの活動から、ぼくは〈一瞬〉であることを恐れない勇気をもらったように思う。ぼくはどうしても別れを惜しんでしまう。〈蝉の詩学〉のような〈一瞬〉を恐ろしく感じてしまう。オザケンは歌う。

左へカーブを曲がると
光る海が見えてくる

僕は思う!
この瞬間は続くと!
いつまでも

小沢健二「さよならなんて云えないよ(美しさ)」

同時に「本当はわかってる。2度と戻らない美しい日にいると」とも。確かにわかっている。これが2度と戻らない美しい日であると。しかし、これこそが生の実質的な意味であると。彼らのように一瞬へと跳躍してみることも悪くないのかもしれない。アレントの「勇気」とは別の意味で、パッションを奮い立たせ・・・はしないが、一瞬を楽しむ勇気を持ちたい、と思わされる。

*1:裏読みをするなら、これは平田オリザが『演劇のことば』で「劇団解散の理由は、大きく分けて金か女に尽きる」(44)と身も蓋もない指摘をした劇団論のパロディであるとみなすこともできる。しかし、そう読むことは面白くない。いや、端的にぼくの趣味ではない。

*2:一方で、二部最後のパフォーマンスは、こうした劇場の外部に〈外部〉はないことが、図らずも露呈する側面を持つ。現実なんてものは所詮、象徴体系のWEBネットワークにすぎない。象徴体系そのものを転覆させなければ〈外部〉へ到達することは出来ない。マニアックな話になるが、秋場(と服部)のパフォーマンスから〈外部〉がほのかに感知させられたのは、その伏線として二部の最初、秋場が外へと出て行く前に行われる秋場と服部によるLINEの通話が壁に反響し「ほりすすめろ」の言葉にエコーをかけることで、劇場内が地中に沈んだような体感をかすかに与えるからだろう。

*3:外部についての補足。〈外部〉とは、もちろん瞬間的に垣間見える〈光〉のことであるが、〈外部〉とか〈光〉とぼくがひとまず呼び名を与えたからと言って、それがどんな〈外部〉であるのかは、まったく多数的な出来事であり、むしろ〈外部〉とは記号的な一元化に抗する〈弧の現れ〉なのである。

*4:稲垣のアクションはアレントが『人間の条件』で描き出す活動と労働の相克をそのまま体現しているようにみえる。労働は生命の必要性を条件とする活動力であり、労働の生産物は生産された時間に比してあまりにも短い時間しか永らえることが出来ず、消費される。例えば、数ヶ月かけて生産されるパンは5分やそこらで消費されてしまう。そして、生命の消費過程には終わりがなく、にも関わらずいつも切迫した必要性に駆られている。そう考えると「ドッドッドッ」という単音が心臓のビートに聞こえたのは故なきことではないことがわかる。心臓の音は生命そのものであり、わたしの正体(誰?)は生命の終わりなき消費過程の胃袋にすっかり食い尽くされてしまい、ユニークな現れを示すことがついに出来ないのである。私たちが「誰?」を喪う契機となったそもそもの根本は、国家が巨大な胃袋と化し、生命を継続させるか否かのものさし(つまり金銭)だけが唯一の価値になってしまったからかもしれない。

*5:坂口天志のパフォーマンスが一服の清涼剤だと、本文中で語るまろんは間違っている。あれは着火剤だ。火種がなければ薪も燃えない。坂口天志はフラミンゴを着火する。

不可解な他者へ向けて/悪い芝居『らぶドロッドロ人間』

上演データ

2010年5月19日〜24日
@アートコンプレックス1928

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演出 山崎彬

出演
四宮章吾 きたまり(KIKIKIKIKIKI) 吉川莉早 仲里玲央
大川原瑞穂 西岡未央 植田順平 梅田眞千子 進野大輔 山崎彬

ART COMPLEX 1928 Power Push Company

芝居を観よう。芝居を観よう。どうせ観るなら悪い芝居を観よう。

愛によって生まれ、愛を注がれて生きる。
愛を注がれて生きて、愛を注ぎ返して生きる。
注ぎ返さず放っておけば、やがて容量オーバーになり、愛はドロッドロあふれだす!
あふれた愛は地面に落ちて、染み込んで染み込んで、地球の裏側へと行ってしまう!
愛はまわる!!世界に愛は一定量しかない!!
あるなら捨てる!!!ないなら奪う!!!

ある日、森の中、ハイガールちゃんに、出会った。
この世界にはハイ人とロウ人がいて、ジョウ人の僕は何だか、損だ。
ハイ&ロウでイカス非現実な逃避行。追いかけてくるのは、日常。
壮絶な世界あれど、その中にいれど、生活を大事にするしかない人間たちのらぶのお話。

らっぶドロドロ、らぶドロッドロ、悪い芝居vol.10めもりある本公演。
らぶドロッドロです。ご期待ください。

騙されるヤツがバカなんです、と思われたら、悲しい。

出典:悪い芝居vol.10『らぶドロッドロ人間』特設サイト 

不可解な他者へ向けて

www.youtube.com

悪い芝居vol.10『らぶドロッドロ人間』はさまざまなことを予感させる暴力的な雨によってはじまった。舞台は一階部分と二階部分に分かれており、二階部分にはリアルなワンルーム、一階部分は森という設定の場所として描かれる。ワンルームではどうやら三人の女性が一緒に(?)住んでいるらしく、その内の一人「愛」は元々その部屋に住んでいた「心」の彼氏と浮気している現場を目撃され、心は風呂の浴槽に頭をぶつけまくってこん睡状態、入院しているらしいことがわかってくる。同時に森の方ではオタクっぽい変人(口田口男)が「心ちゃん」という女を追って奔走する。これら関係があるんだかないんだかわからないドラマが並行して展開されていくのである。

これまでの悪い芝居でも心を追う「口田口男」のように、他者を求めるあまり他者にたどりつけない人間が執拗に描写されてきた。「心」を求めれば求めるほど、その溝は埋めがたく広がっていく。そして、この構造は舞台と観客の間でも同じように反復されるのである。

最も象徴的なのは同会場の初めての公演vol.7『東京はアイドル』で俳優が観客に殴りかかろうとするシーン*1。そこにある見えない壁を壊そうとするかのようなあの暴力は、「他者」へとつながろうとするあがきでなくてなんであろう。わかりあえない苛立ちは、暴力へと突き進むしかないのだ。しかし、殴ったところで結果は同じだったろう。なぜなら、観客の「他者性」は身体的接触によって解消される類のものではないからだ。その溝をパッションによって乗り越えようとすればするほど、観客は「よくわからないもの=不可解な他者」へと変質していくのである。他者を愛したい欲望の終着点である。だが、驚くべきことにvol.8・9の試行錯誤を経て、悪い芝居の舞台の質は大きな変容を遂げたのだ。

心がこん睡から回復し、大団円を迎えるラストシーンを見てみよう。ケーキを囲み心が退院したお祝いとして記念撮影がされる中、心は一人異様としか言いようのない暴力的身ぶりを繰り返す*2。ここで「心」のどんな意味にも回収されまいとする異質な身ぶりは、どんな想像をも投げかけることを可能にする不可解さとして立ち上がる。観客はその余白へ向けて、自らの想像力を投げ込むことになるのだ。つまり、ここで悪い芝居は観客に殴りかかるのではなく、観客が(想像力で)殴りかかれる余白を入れ込むことで、舞台の側を「不可解な他者」として提示したのである。

だから、ここでは舞台の側の想いをいかに伝えるか、ではなく、観客が舞台に何を欲望するのか・何を観たいのかが問われることになる。われわれは「心」の「背負えよ、一生」という言葉を背負い切れなかった口田の走り去る姿に何を観るのか。本当の彼について、われわれはなにもわからない。しかしだからこそ彼から目が離せないのだ。よくわからないあの子へ向かって、今日も走り続けている。私はそんな口田を想像するのである。

*1:この動画の2:05〜。とても〈好き〉なシーンだ、やはり。

www.youtube.com

*2:『らぶドロッドロ人間』youtubu映像の4:10〜

等価空間の出現/ヌトミック『Saturday Balloon』

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ヌトミック『Saturday Balloon』

日程:

2017年2月17日(金)〜19日(日)

会場
BankART Studio NYK 1F kawamata hall

脚本・演出:額田大志

出演:宇都有里紗、鈴木健太、平吹敦史、藤井祐希、藤倉めぐみ、深澤しほ

ヌトミック — English ・・・・・・・・・・・・・・・ Saturday Balloon...


早速だが、まずはおさらいをしよう。
(読むのが面倒であれば、飛ばしてもらってもかまわない)

前作『ジュガドノッカペラテ』は俳優の主体が徹底的に排除される剥き出しの環境管理型権力が前面化し、逆から言うと他者が徹底的に隠蔽される構造になっていた。「音の演劇」と標榜されていたように、最初から音楽が予定されているならば、わたしではないあなたはいらない。相手がいてもいなくても、相手が音を出すマシーンであったとしてもわたしに何の影響も与えないからだ。他者が予定されていないのだから、言葉はすべてモノローグになる。それどころか自らの身体も予定されていなければ、演劇的に言えば、言葉はすべて台本の棒読みと変わらない。にも関わらず、音の生み出すグルーヴは時間進行を管理統制し、あたかも時間が進行しているように見える。主体の現れが徹底的に排除されつつも音楽の時間に劇の進行が仮託されることで、あたかも管理するものはいないかのような表情で俳優の主体性がどこまでも管理され、表に出ないよう自然に抑えつけられる。これが前作『ジュガドノッカペラテ』に対する僕の分析だった。

そして今日、横浜にあるBankART Studioという劇場で、ヌトミック『Saturday Balloon』を見た。

戯曲はミキサーにかけられてグチャグチャ

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出典:Space | BankART1929

Bank Art Studioは折り重なるスノコ状の木枠が壁一面を覆っているせいか、中に入ると鳥の巣に入ったような気分になる。対して、床はコンクリート打ちっぱなしの硬質な表情で、外部が内部に織り込まれたように、中へ入ったのに外へ出たかのような体感を与える。こうしたフィジカルに強く作用するサイトスペシフィックな場所を活かして、舞台美術といえるようなものは置かれず、砂鉄の(だから黒い、爆薬の粉にも見えるような)砂で描かれたサークルが舞台に五つ描かれてあるだけ。サークルの大きさはそれぞれ違い、完全な円形ではなく少し歪んでいる。

暗転のような切断を置くことなく、男優と女優が一人ずつ右手の袖から出てくると、描かれたサークルの中に入り「おはよう」「おはようございます」のやりとりがリフレインされる。繰り返し繰り返し、多彩な声色や音域が使われ、まるでラジオのチューニングがされるように二人は「おはよう」を交わす。

パンフレットに掲載された「戯曲全文」を読むと、どうやら銀座に開店した100円ショップを舞台にしたお話らしい。お話といっても、オープン日・一ヶ月後・三ヶ月後、と切り取られた短い日常スケッチに近く、起承転結もない。しかしそんなことは上演にあまり影響なく、わずか二ページばかりのスケッチは見る影もなく引き裂かれミキサーで粉々にされたようにかき混ぜられる。戯曲の言葉は、短縮、置換、接木、反復、省略されることで語のフラグメントに解体されていく。言葉だけではない。リニアな時間を構成していたシークエンスも分解され、何度も反復されることもあれば、一瞬だけ姿を見せて消えることもある。そのままやれば五分で終わりそうな戯曲は、こうして1時間以上のヌトミック時間に変貌を遂げる。

この上演に立ち会っている最中、本当にいくつもの疑問がわいてきた。

この形式によってしか開示されないような現実はあるのか? 物語の時間どころでなくて、リニアな時間そのものが解体されているのは、なにか良い効果を生んでいるだろうか? なぜ解体されねばならないのか? その根拠はなんだろう。前作に比べて関係性が導入されたな、身体性も導入された。何故そう見えるのだろう。そのことで何かが確実に変わっている。何が変わっているのだろう。

こうしたことに思考を巡らせる時に、物語分析やキャラクター分析はまったく役に立たない。その役に立たなさに、なぜヌトミックが純粋な音楽形式にではなく演劇にこだわるのか、その理由が隠されているように思う。もちろん、上演形式がそのまま内容であるモダニズムのコンテクストを踏んでいるとはいえ、形式美学に還元されない次元が確かにある(逆にないなら大した作品じゃない)。

演劇だからできる音楽?


注目したいのは、キャッチコピーが変わったこと。些細なことのように思えるが、多分、ヌトミックのキャッチコピーはそのまま上演コンセプトを示している。前作では「演劇の音から音の演劇へ」を標榜していたのが、今回は「演劇だからできる音楽」を唱える。音で演劇を作るのではなくて、演劇という媒体によって可能な音楽を作るんだ、ということ。事情はちょうど逆さまになる。

20世紀初頭は諸ジャンルが音楽に憧れた時期だった。音楽のような絵画や音楽のような舞台を創出することに躍起となった。

しかし、カンディンスキーの絵画に僕たちは音楽を見るかもしれないが、だからといって実際に音を聞くわけではない。フルクサスのインストラクションのスコアから、僕たちは音楽を体験するかもしれないが、実際に音を聞く……こともあるかもしれないけれど、そうでないものもある。では、僕たちは何を音楽だと言っているのだろう。

その問いの答えを僕が用意することはできないし、その能力もないのだけど、「演劇だからできる音楽」を企てるヌトミックの作品が、実際に音を聞くわけではない音楽を聴く、あるいは見る、あるいは体験する音楽を志向しているとは言えると思う。それはどんな音楽だったのか。この問いには、答えることができる。

それは、生活の音楽である。
『Saturday Balloon』は、生活が鳴っていることをわたしたちに告げ知らせる。

等価空間の出現

100円ショップには(最近はそうでもないが)何でも100円で売っている。あらゆるものがと言ってもいいくらい、パンツも、ガムテープも、ハサミも、風呂桶も、洗剤も、ビニール傘も、自転車のライトだって売っている。見方を変えれば、100円ショップの棚に並べられた途端、すべてのものは100円に圧縮される。この圧縮の操作が100円ショップの可能性の条件であり、ヌトミックの俳優たちの言葉が、すべて音に圧縮されることとパラレルな関係にある。

抽象化されてはいるが、商品をスキャンして横に置くような身振りをしながら108円108円108円……と言い続ける女性の存在はとても象徴的だ。すべてのものは等価な108円として処理され続けるが、ヌトミックの音楽的アプローチも同じようにすべての言葉を等価な音として処理し続ける。ヌトミック変換器が間に挟まった途端、俳優の言葉はすべて等価な100円に圧縮されてしまう。

等価なものへの圧縮操作は、それだけではポジティブにもネガティブにも提示されるわけではない。しかし技法と物語の重ね合わせは、次のような問いかけを観客に投げかける。〈等価なものの積み重ね〉によって、〈非−等価な価値〉へ到達できるのだろうか?

この等価性を積み重ねるように、舞台には、社長と社員とアルバイトの価値はみんな同じであることが言われ、社員教育のようにみんなで一斉に「いらっしゃいませ」を復唱し、ある女は「わたしは○○さんのようになりたい」と、そのひとの真似をして(利き手じゃないのに)左手で領収書を書く。リミックスされ反復されるシークエンスも、まったく同じように反復される等価な日常を暗示する。この100円ショップでは、それぞれの人がまったく等価であり、商品もまったく等価であり、対応するように言葉の音もまったく等価値なものとして扱われ、結果、舞台には極限的な「等価空間」が出現する。

〈わたし/わたしたち〉

なぜ本作では「リニアな時間」が破産していたのか、その理由は「等価空間」の出現にある。リニアな時間は、過去と現在と未来が一応区別され、時にわたしたちは、もう戻れない過去を悔やんだり、まだ見ぬ未来に胸を膨らませたり出来る。しかし100円ショップの等価空間では、そうした意味付けが禁じられる。過去と未来の区別は融解し、それどころか、わたしとあなたの区別も、意味と非-意味(つまり音)もすべて同じように区別なく〈これ〉になる。〈これ〉はいくら集まっても〈これ〉としか言いようがない。劇の中盤で、「明日は良い日だと良いですね」という男の願望は絶対にかなわない。100円ショップには、昨日も今日も明日もないからだ。ここでは時間が流れない。

すると、とても興味深い現象が起こる。

例えば、ぼくたちが「主体」と名指している、〈わたし〉と〈あなた〉のあいだに境界線を引く「まとまり」。すべてが等価に〈これ〉へならされると、わたしは確かに身体を持ってここにいるにもかかわらず〈わたしたち〉と半分同一化してしまう。なぜなら、わたしもあなたも〈これ〉であることに変わりはなく、その意味では、同じ〈わたし/わたしたち〉であるのだから。

奇妙に思えるかもしれない。しかし出現する等価空間に触れることで、〈わたし/わたしたち〉であるような場面は、かなりオーソドックスで日常的な出来事であったことに、ぼくたちは気付かされる。確かに会社へ出社し朝礼をするさなか、ぼくたちは〈わたし/わたしたち〉であるし、コンビニのバイトで「いらっしゃいませー」と言うのは、別にわたしじゃなくても良い、それは〈わたしたち〉の一部が露出しているに過ぎないし、誰かがいじられキャラに認定されるようなごくありふれた場面でも、「いじる―いじられる」関係があるだけで〈わたし〉は〈わたしたち〉の思惑どおりに動かされる操り人形みたいなもの。政治的な場面でも、自民党の議員は自民党の「党是」を体現する〈わたし/わたしたち〉としてしか現れることが出来ない。

これら自身の生活を紐解けば幾千と出てくるであろうシチュエーションを根底で支えるのが、すべての異他性が圧縮され等価な〈これ〉へと還元する空間、等価空間である。ヌトミックはありふれた100円ショップという日常的空間を素材に、上演レベルの等価性を徹底的に突き詰めることで、実は知っているのに見えていない現実の様相を暴露する*1

演劇=音楽の魔術的位相

「等価空間」のどこが「生活の音楽」なのか、と人は訝しむだろうか。しかし、これこそが資本主義下の生活そのものであり、ポストモダンを土台にした都市的生の実質そのものであることに、疑問をはさむ余地はない。等価空間のもとで生活は確かにこのように鳴っている。あるいは、生活はそのように成ったのだ。

「おとづれる」「おとなふ」と言ふ語は、元は音を立てると言ふ義であつた。其が訪問するの意を経て、音信すると意義分化をして来た。音を立てるが訪問するとなつたのは、まれびとなる神が叩く戸の音にばかり聯想が偏倚した為で、まれびとのする「おとづれ」が常に繰り返されたのに由るのである。
折口信夫「まれびとの歴史」
青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47201_37074.html

見るものの変性意識を促すフィクショナルな場がセットアップされることで、なんでもない日常の意味(いらっしゃいませー)が、その意味を保持したまま体感的な音へと変容する。マレビトの音を立てるが訪れへと転移したとは、そのような演劇的事情のありかを示している。折口の考察は、非日常的なフィクションの場が起こること、何者かが出現すること、そして音が鳴ることは、同じ一つの事態の別なる側面だったことを明らかにしている。

ぼくが感じ取った「生活の音楽」は、等価空間というフィクショナルな場の出現とともにやってくる。日常の―私たちが日々過ごす生活の―意味は体感的な音の次元へと変質する。ここで課題は、通常のドラマ演劇のように「キャラクターの内面をいかにリアルに想起させるか」といったところにはなく、「言葉そのものをいかに触知可能な音へ変質させるか」に置かれる。大昔に「コトダマ」とも言われていたであろう演劇の言葉=音の魔術的な位相とはこうしたものだったのではないか。ヌトミックが目指すべきゴールを「音の演劇」ではなく「演劇だからできる音楽」へ置くことで、そもそも演劇に内在していた音楽=演劇の所在が浮き彫りになる。

〈関係性の演劇〉が抱える巨大な無性

ヌトミックの音楽性を、地点の発語が持つ音楽性と比べてみよう。(いまは変質しているだろうが)彼らの発語は、徹底的に戯曲を解釈することで逆説的に主体意識をフラグメントの集まりへと解体する作用を狙ったものだった。言葉を語のフラグメントに解体していくところに両者の共通点が見出せる。ところが、ヌトミックにおいては、地点の上演がとにもかくにも前提にしていた主体意識そのものが、ない*2

ところで一時期、三浦基は青年団に所属していた。平田オリザと三浦基が袂を分かつのは、人間を「関係性の産物」ととらえるのか、逆に「関係性を生産する主体」ととらえるのか、の違いにあった。三浦基は主体を断片化させる発語の形式を用いることで一旦は言葉の意味を分解しつつも、語と語の衝突から新たな意味を産出し、背後に控えているであろう無意識的な次元での主体を暴露する(彼が本当−嘘のフレームに囚われるのはそれが理由だ)。一方、平田オリザ別役実が〈孤〉と呼んだ関係性の中で役割を機能させるしかできない主体―みんなの意見がわたしの意見であるかのように錯覚する主体―を、だから非−在のわたし(内野儀)を前提としたリアリズムを企てた*3。「関係性を産出するような独立した主体」なんて日本にはいないのだから、そんな主体を前提とした演劇はリアルじゃないよ、と彼は言った(とみなせる)*4。平田は三浦が前提としているような主体意識を-つまり、わたしの存在を-否認するところから自らの方法を練り上げたと言える。

だから、平田オリザの流れをくむヌトミックの演技態に主体意識が欠如しているのは、日本の現代演劇史を念頭におけば当然の帰結だった*5。三浦基の視覚からは、語の等価なフラグメントへの解体が背後に予定されているはずの〈わたし〉を露出させるように思える。しかし、平田オリザが構想した「関係性の演劇」の背後には、予定されるはずの〈わたし〉が端的に存在しない(平田がアンドロイドで俳優は置き換えられると言うのは、字義通り受け取るべきだろう)。その系譜を引き継ぐヌトミックが〈わたし〉を露呈させろうとすると、現れてくるのは巨大な無である。何しろ〈わたし〉はゲル状に溶け出して〈わたしたち〉に融解してしまっている。等価空間ではわたしを確かめようとすればするほどゲル化した〈わたしたち〉だけが確かめられ、〈わたし〉が姿を現すことは、ついにできない。

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他者?

これは大変困った問いかけだと思う。90年代にプレゼンスを高めた平田オリザの〈関係性の演劇〉を前提に現実をうつしとってみても、実は巨大な無を抱え込み続けるしか出来ないんじゃないか? もちろん彼らはそんなこと言ってないけれど、〈関係性の演劇〉の土台をむき出しにしてみせる等価空間の出現は、そのようにしか演劇を立ち上げることが出来ない〈わたし〉と〈わたしたち〉の所在を問いただす。子が親を困らせるような〈子どもの問い〉をぬトミックは投げかける。

しかしこれは、演劇業界内部の特殊な演劇形式の話ではないことに注意したい。実際、舞台となるのは100円ショップだ。これは100円ショップ化したわたしたちの現実だ。わたしたちが、どうしても現実へのリアリティを欠いているように感じられた時、そこには等価空間を媒介にした巨大な無が広がっているのである。ヌトミックはそのことを教えてくれる。少なくとも、僕はこの舞台を、そのようにしか受け取れない。

劇の終盤、一人の女が「わたし/たち」と発語し、砂鉄のサークルの縁を手で払い除けて、その境界線を壊す。彼女はサークルから脱出し、どこかへ姿を消してしまう(カーテンコールにすら現れない)。これはほとんど説明に近い猫写であるが、本作の主題を端的に示している。では、それで彼女は等価な〈わたしたち〉を抜け出すことが出来ただろうか? 〈等価なものの積み重ね〉は〈非-等価な価値〉、つまりは〈他者〉を発見できたのだろうか? *6

*1:長くなるので本文では触れないが、等価空間の出現を誘発したいくつかの効果を分析しよう。例えば、言葉の意味が「音」へと退行することも、〈わたし〉を〈わたしたち〉の〈これ〉へと同一化させる装置として機能している。こんな風に考えてみよう。「火事」は「火事!」とすることで単語ではなく意味のまとまりを持った文になる。「!」とはなにかといえば、主体意識。つまり主体意識が単語を文にする。音への分解とは、この作業をちょうど逆回しにしたようなものなので、「!」で示された主体意識がフラグメントの集まりへと解体される。また、俳優たちの衣装も、等価空間の輪郭を際立たせる。役者たちは役を演じる時に、役であることを示すためレインコートのような衣装を着る。半透明に透けたそれの意味することは二つある。第一に役者と役が半透明に入り混じりどちらとも決められない半分フィクションの位相を示すため。第二に〈わたし〉の境界線が〈店員たち=わたしたち〉と半透明に入り混じり、どちらとも決められない半分主体を示すため。舞台美術も五つのサークルが役者を孤絶させることで、その等価性を強く示していた。

*2:その違いは戯曲を徹底的に解釈する身振りを介在させる地点に対して、戯曲のコノテーションを作成するように語をバラしていくヌトミックの手法の対比から理解できる。解釈は「意味付け」を付与する主体化の技法である。地点の場合は、語単位で妄想的とも言える解釈を差し挟むことで、逆説的に主体を解体する。この「逆説」がヌトミックにはない(これはネガティブな評価ではなく、単にそうなっている)。

*3:リアリズムが社会変革を促す対話からなる劇形式だとすれば、対話の概念が成り立たない非-在のわたしによるリアリズムとは語義矛盾なのだが

*4:それは語順の問題へ巧妙にすり替えられたことに注意せよ。ここで彼は演劇がリアルじゃない理由を単に語順のレベルだけで指摘していたのではない。語順の問題と人間の主体意識の在り処は同時にちゃぶ台返しにあったのだ。

*5:ヌトミックの側から見れば、事態は真逆かも知れないが。つまり、音楽を企てていた額田がたまたま偶然平田オリザの演劇論に触れたことで、演劇プロパーから見ると「主体のない主体」としか言いようのない主体が発見された。そのあたりの事情はよく知らないが、いま筆者が強引に歴史を創作していることには注意を促したい。

*6:前作では感じられなかったヌトミックの劇形式の意味がどうして今作では体感できたのか。そのために用いられた技術的な道具立てが確かにあるのだが、あまりにもマニアックに猥雑になるし長くなるので、このレビューでは触れない。また、例えば玉城企画『戎緑地』が企てていた「多数化された演技態」との比較も、ヌトミックの演技形式の輪郭線を明確にするには有用だし、そこには確かに意味があるのだけれど、これにも触れている余裕がない。即興スケッチのルールに則って、これ以上書く時間を費やすことが出来ないので、このあたりで筆(というかパソコン)を置こうと思う。

現代演劇の罠/mooncuproof#6『ワタシタチにとって十分な時間について』

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●日時
1/13(金)~1/15(日)

●会場
十色庵
東京都北区神谷2-48-16 カミヤホワイトハウス B1F

●脚本・演出:萩谷 至史

●キャスト:
奥 綾香
坂本 華江
篠原 沙織
田口 ともみ
丹澤 美緒

〈宇宙〉に重ねる

萩谷至史脚本・演出『ワタシタチにとって十分な時間について』を見に行った。

作品は、タイトルが示すとおり、「十分な時間」について、演劇的な時空間を設計することで、その意味と感触を確かめてみようとするものだった、と思う。

上演は、私の小さな「物語の断片」が、私とは無関係に進行する「社会の時間」と重ね合わされるように編まれ、いくつかのストーリーがコラージュ的に散りばめられていく。小学校を舞台にしたストーリー、少女が女教師に恋するストーリー、街に爆撃があった前後のストーリーなどなど。そうした断片のあいだで、宇宙に広がる星々に「星座」を発見するようにして、観客が自分なりのストーリーを紡ぎ出していくことが目論まれていたように思う。*1

そうした物語の断片の中でも中心となるのが「爆撃があった前後のストーリー」で、私たちにとって「十分な時間」とは、一つに、この爆撃を如何にして受け止めるのか、を自分なりに納得するために必要な時間という意味があるだろう。だから、この作品は戯曲のレベルにおいて、明らかに3.11後を意識させるものであった。急いで付け加えるなら、ポスト・クライシスへ対応していく物語は全て3.11に対するスタンス(政治性)を背負わされる。観客は、いつでも・どこでも「そのように」見てしまう。舞台で起こる現象が常に政治的な意味へと変換されてしまうがゆえに、逆に出来事性が捨象されて無害化する逆説が生まれてしまう。*2

しかし「少女が女教師に恋をする」という個人的で小さな物語が対になるようにコンポジションされていることも見逃してはならない。そこでは「爆撃を受け止める」とは違ったレベルで「意外な恋心を受け止めるまでの十分な時間」が提示される。「小さな時間」と「大きな時間」は「受け止める」という行為を介して重ね合わされる。

違った角度から、本作の「重ね合わせ」について分析してみよう。「爆撃」というタームには、20世紀の日本に起こった歴史的な〈危機の時間〉が刻まれている。生まれる前に起こった危機、経験された危機、これから起こるかもしれない危機。リニアな時間を放棄しフラジャイルする戦略*3は、過去・現在・未来にまたがるクライシスの時間を重ね合わせる想像力のトリガーを引く。

あらゆる時間・場所が舞台上の〈いま・ここ〉に重ねられていく。どうして、そのような重ね合わせができるのか? 〈わたし〉も〈社会/世界〉も〈過去・現在・未来〉も大きな宇宙の時間からすれば、同じ一つの時間だからだ(宇宙では、過去と未来は相対的なものなので、過去であり未来である時間が矛盾なく共存する)。だから、この舞台のコアは、全てが重ね合わされていく〈宇宙的時間〉をいかにして〈いま・ここ〉に立ち上げることが出来るのか? という課題に置かれることになる。

太田省吾と〈宇宙〉の制約

そうした視点からすると、〈宇宙的時間〉を舞台へと反映させるのに、俳優の身体を規定・限定する舞台装置は邪魔になる。宇宙とは無限の広がりと無限の時間を持つのだから、それに対応するためには無限の時間と無限の空間を暗示させねばならない。実際に、本作の俳優は時空間を無根拠に移動するし、環境からの規定・限定を受けずに自由に演技を謳歌する。彼らは無限定の〈宇宙的時間〉を介在させることで、文字通り世界を軽々と飛び越えて夢を見るように〈フィクションの時間〉を幻想する。

役者は、しかし地面に立っている。床の上に、わたしたちは立つことを強制されている。重力があるからだ。いくらフィクションへ飛び立とうとしても、必ずこの忌まわしき重力は働いている。いくら重力を振り切りあらゆる時間・空間へ飛翔しようとしても、なんてことのない単なる現実に引き戻されてしまう。

太田省吾の言葉を借りよう。

頽廃とは、自己を問えなくなった、あるいは問わなくなった自己の状態を指すと言ったが、まだ深い頽廃がある。それは自己を問題にする頽廃者のそれだ。ところで、こう述べるものこそ、さらにたちの悪い、いい気な頽廃者である。そうだ。こう述べるわたしはさらに、天空へ、天空へ、だれよりも高く上昇している。

失語。

発語するためには足に錘を装備しなければならない。地上を歩けるように。ひたひたと。(『飛翔と懸垂』p.28)

自分が埋め込まれた関係性から自由であるような立場、実際に問題の渦中に立たされていないような立場、そういう安全地帯から人はそのことについて何とでも言える。「おもり」とは「なんでも言える」とイイ気になることを禁じる制約である。*4自己を問題にする自己は、結局のところ自己を晒さない。人間関係の網の目の中でもがき苦しむようには、自己が何者であるかを問題にしない。

わたしではないものによってわたしが振り回され、制約される。太田省吾の傑作『水の駅』は、壊れた水道の蛇口から流れ出る水に制約され振り回される人間の姿を描いた。そうした具体的になにごとかと関係し、振り回され、現実とわたしが鋭い緊張関係に置かれたときにこそ、人間はその人自身が何者であるのか、その正体を開示する。

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出典:『太田省吾の世界』パンフレット(DVD,京都造形芸術大学舞台芸術研究センター)

太田省吾も確かに〈宇宙から見えるわたし〉の存在を問題にしたと言える。彼が繰り返し確認するように、この広大な宇宙の中で人間は塵芥に過ぎない。しかし彼は現実の時空間を飛び越えるために宇宙的時間を利用したのではなかった。それよりは宇宙的時間を具体的な「流れ落ちる一筋の水」に仮託することで、人間に襲いかかる〈宇宙の制約〉をこそ問題にした。彼の視覚からすると、〈演技〉が必要とされるのは日常では意識されない特異な制約を意識化する術だからである。

制約によって人間の存在が明かされていく―演技が必要とされる―事情を、本作は一足飛びに飛び越えてしまっているのではないか。重ね合わせの手法そのものには、一挙に人間の多数性を直感させるポテンシャルが備わっているのだが、重ね合わせが制約ではなく自由―なんでも出来る―のために用いられたとき、つねに人間を捉えて離さない〈重力〉が都合よく忘れ去られてしまうのではないか。そして、観客はそれを見抜くのではないか。なんだ、嘘じゃないか、という具合に。

スタニスラフスキーと床面

太田省吾の劇形式とはかけ離れているようにみえるリアリズムの巨匠・スタニスラフスキーの『芸術における我が生涯』から次の一節を引いてみたい。

実際問題として、私の後ろに、役者としての私の背後に最大の巨匠の筆になる後景がかかっていたとしても、俳優としての私に何の利益があろう。……彫刻家、そして一部は建築家も、前舞台にさまざまな物体や凹凸を与えてくれるので、私たちは、人間精神の生活を具象化するさいに、創造的・表現的な目的でそれらを利用することができる。……劇場の平らな床面、その何もない巨大な広場で、プロンプターボックスを前にして終始木偶のように突っ立っていなくともすむ。……彫刻家には、私たちが舞台上の生活をやる床面が必要である。(『芸術におけるわが生涯』(著:スタニスラフスキー、訳:蔵原惟人・江川卓岩波文庫、1926)下巻 p.208)

スタニスラフスキーはここで「床面」の必要を強調する。彼のリアリズムはそもそも「なんでも出来る」と思い込むナルシシズムを肥大化させた役者の演技に対抗する形で構想された。俳優が立つ「どこ」がなければ、劇場で観客に向かって己の自己表現欲求を見せびらかすしかなくなるじゃないか、という問題意識が、公開の孤独のうちに力技で「どこ」を確定させるリアリズムのジャンルを開拓した。

どうして私たちを、私たちのうちに作られるすべてのことを、私たちがそのなかに住み、人間の心理が実に強くそれに依存している、光と音と物の世界から、切りはなすことができよう? (同上、中巻p183)

太田省吾と同じようにスタニスラフスキーもまた、人間が逃れることの出来ない重力の制約を意識化するところから演劇を立ち上げていった。演劇様式の違いを超えて、20世紀の演劇は「神」から、もしくは「共同体」から切り離された人間たちが直面した〈無意味な宇宙〉にいかにして立つかを問題にしている。出力された舞台の結果は、問題に対する答え方の違いに過ぎないとも言える。

ここで詳論はできないが、宇宙的な孤独の場にいかに立つのか、という問いを震源地に、演劇は一大転換を迫られたのではないだろうか。場との関係から発展してきた演劇にとって驚異ともいうべきもので、その悪戦苦闘の軌跡が20世紀演劇の土台を形作ってきたように思う。宇宙は無限定であるがゆえに人間に〈重力〉のような制約を与えない。しかし現代演劇は「制約がないという制約」を具体的に可視化し関係することを要求されるという、とんでもない苦境に立たされた*5


そうした問題から生じた〈演技〉の形式が、単なる美学上の効果のようにみなされたとき、換言すると「宇宙的孤独」が問題ではなく単なる常態にスライドしたとき、「制約のなさ」はなんでも出来る全能空間を出現させる。宇宙の制約は、全能の宇宙に変質する。mooncuproofの舞台は、そうした現代演劇の罠の所在を体現している。

これはもちろん、批判である。批判であるが、彼らがはまっているようにみえる罠はくぐり抜けることが容易ではない、演劇の作り手であれば誰もがはまる罠である。「制約がないという制約」はすぐさま「制約がない全能感」へと反転する危うさを秘めている。そこからどう抜けていくのか(あるいは僕のパースペクティブではまったく捉えられない領域を突き進むのか)、次回作を待ちたい。

*1:僕が使う星座の比喩はベンヤミンに由来している。「星座を見つける」という喩/遊びが、とても好きなので、劇を見るときの物差しの一つになっている。

*2:90年代に流行した「PCアート」が、政治的正しさ(PC)を以て作品価値を担保しようとしていたのとは違って、「ポリティカル・ターン」以後の現代美術は、どのような内容であろうと、自動的に社会的、政治的メッセージに変換されることになる。そして、問答無用でポリティカル・コレクトネス・チェックを受けることになるのだ。http://school.genron.co.jp/gcls/

*3:「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。それは、繊細でこわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりをするような異質を秘め、大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである。その不可解な名状しがたい奇妙な消息を求めるうちに、私の内側でひとつの感覚的な言葉が、すなわち「フラジャイル」(fragile)とか「フラジリティ」(fragility)とよばれるべき微妙な概念が注目されてきたのであった。(松岡正剛『フラジャイル 弱さからの出発』)

*4:この「おもり」はのちに「身体の工作」と呼ばれ、演劇史に大きな足跡を残した沈黙劇『水の駅』へと結実した。その意味で、太田省吾は終始一貫して制約の芸術家だった。

*5:制約なき制約を原理的な意味で可視化したのはサミュエル・ベケットゴドーを待ちながら』に出てくる一本の木だろう。別役が非常に良く説明してくれるように、一本の木は同心円状の無限定な空間を予感させるように働く。まるで四方を壁に囲まれたリアリズム空間の箱がパカリと開いて、タブラ・ラサの場が開けてくるかのように。しかし素舞台ではないことに注意しよう。素舞台は結局のところ劇場の壁を感知させるように働く。それでは箱は開かないのだ。箱を開くためには仕掛けと戦略が不可欠である。