飛び地(渋々演劇論)

渋革まろんの「トマソン」活動・批評活動の記録。

演劇の問題の全て

誰の言葉であっても聞きたい。

あらゆる社会的な立場を超えて、聞きたい。

 

演劇は集まりを生むものであって、作品(出力された結果)を生むものではない。

演劇は「集まり」のあり方を構想することに全力を注ぐ。

それが「私の現れ」を強く強く、内包するものであればあるほど、「良い集まり」である。

 

しかし「私の現れ」と「集まる」ことは矛盾している。

これが、問題の全てである。

 

だから、様々な戦略で持って、演劇は集まりを組織する。

そうして、本来、「私の現れ」を集合させようとした演劇の試みは常に挫折する。

 

挫折するのだ。

これが、問題の全てだ。

仕事と自事―私的なものからなる公共圏

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1.自事≠趣味
 
仕事と自事、とは僕が考えたわけではなくて脚本・演出家の中野成樹氏が提起したフレームワード。藤原ちから氏が企画した「緊急ミーティング「政治、いや芸術の話をしよう」」の記録に出てくる中野成樹氏のメッセージで触れられた。
 
※以下、敬称略。
 
仕事と自事。これ、ものすごく優れた概念操作だと思う。
僕は、《私的なものからなる公共圏》と言い得る集まりのあり方を夢想しているわけなんだけど、その説明はちょっと置いておいて、中野成樹が何を言っているのか、引用します。
 

「今回のイベントと、ずれてしまっているかもですが。
なんか、この話をきいたときに、
こんなことを思い出したのです。

たとえば大学生。
就活にヘロヘロになっている学生に、
どうして就職するの? ときくと、
仕事してお金稼がないと生きていけないし、とこたえる。
ので、仕事って何?
ときくと、
お金を稼ぐこと、とこたえる。
お金って稼がなきゃだめ?
ときくと、
お金がないと何もできないし、とこたえる。

ので、おおよそ以下のことを伝えたり、やりとりをする。

仕事ってのは、字のごとく、仕える事だよねえ。
はい。
じゃあ、誰に仕えるの?
ときくと、
社長、企業、などとこたえる。
中にはカンのいい学生もいて、
社会に仕える、なんてこたえりもする。

そう、一般的な意味での仕事ってのは、
おそらく社会に仕える事なんだろうねえ。
そして、その対価として、
「社会のみで通用する」お金をもらえる。
みんなで社会に仕えて、
みんなで社会からお金もらって、まわして、
みんなで社会に生きていこう。

一方、じゃあ、お金がもらえなくてもやる事ってある?
ときくと、
寝ること、食べる、アイドルの追っかけ、などとこたえる。
さらには、
犬の散歩、とか、カラオケ、とか、ダンス、とか、
おたく、とか、芝居とか、瞑想、とか、ネット、
なんてこたえる学生もいる。
さらには、
お母さん、弟と遊ぶ、お年寄りに席を譲る、などなど。
そこで、僕は、
じゃあ、そういったことを
「お金もらえないならやらない」ってなったらどうなる?
妊婦さんに「500円で席譲りますけど、どうします?」
みたいになったら、
ときくと、
多くの人は「終わりだよねw」みたいなことをこたえる。

じゃあ、お金にならないけどやる事を、
仕事をもじって自事(じごと)とよんでみよう。

みずから行う事、おのずとやってしまう事。

自事は、それをどれだけやってもお金はまったくもらえない。
極端に言い換えれば、
自事は社会から報酬を、評価をまるでもらえない。
なぜなら、それは仕事ではないから。

でも、みんな知っている。
自事がなくなったら「終わり」だってことを。
自事は社会には認められないかもしれないけど、
自事は世界を根底から支えている。

 
社会に使える事が仕事で、自ずとやってしまうことが自事(じごと)であると、彼は言ってると思うのだけど、この概念操作によってはじめて趣味でくくられていた領域が、仕事の付属物の地位から脱出できる可能性が見えた。
 
私的なものの意味を理解する方途ってかなり限られていて、今までもなんとか、アレについて触れたいけれども言葉にできず、結局仕事でも趣味でもない領域みたいな形で、否定法によってしか言及できなかった。
 
ところが!
中野成樹氏が「仕事と自事」という概念を豊かに取り出してくれたことで、報酬を得られるわけではないがやっている私的なものの領域に「趣味である」以外の光の当て方が出現した。つまり、社会に仕えることー仕事ーと対比されるのは趣味ではなく、自ずとやってしまうことー自事であると。
 
趣味っていうのは社会が色んなものやサービスを生産していく合間の時間、再度、社会に仕えるための「リフレッシュタイム」すなわち「余暇」である。これでは仕事が《主》で趣味は《従》の関係を超えることが出来ない。〈私的なもの〉はいつまでたっても、社会に仕える従者の立場に据え置かれる。
 
しかし「自事」は、(中野が指摘するように)社会に使える「仕事」と全く同じ資格を持つことが出来る。私が社会に仕えるのではなく、むしろ社会のほうこそが私の「自事」に仕えるべきだ、とすら言える。もしくは、自事の集まりとして社会を再認識することも可能だ。つまり仕事の持つ意味領域から相対的に独立しているのだ、自事は。
 
だから、ひとまず次のように言えるようになる。僕にとって演劇活動は仕事ではなく自事であり、趣味はラブコメの漫画を読むことであると。
 
2.自事とパブリック事
 
中野成樹が的確に抉り出した「自事」こそ公共圏の土台なのだ、ということもできる。「緊急ミーティング」が公共の基礎概念と考えられる「自事」について言及していなかったのは不思議なことだ。なぜなら、自事がそのままパブリック事になるのが政治についてー大文字の政治であれマイクロポリティクスであれー語り得る条件になるからだ(ルソーの『社会契約論』そのままの意味で)。
 
問題は、自事がパブリック事に接続されない、もしくは、それぞれの自事を確認しあう場がー言い方を変えれば他者が開示される場が、だからパブリックな場がーそれほど必要とされていない、そういう関係性のメカニズムで私たちが社会を運営していることだ。*1

だから、自分のこと、自分はこうであるということが、政治的な要求である「権利の主張」として受け取られる場が用意されない。「私はこうである」が全て権利ではなく、利権の要求であるかのようにしか受け取られない。
 
そうなると、大文字の政治的イシューは「ある人たちの利権を拡大したいってことでしょ」と受け流され、マイクロポリティクスは「あなたの私的な感性の話でしょ」と黙殺される。どうやっても、自分のことが集まりの中で機能しないのだ。がゆえに、私たちは知らず知らず、対話をする必要性をそもそも感じることができない状況に埋め込まれていく。モヤモヤだけが個人の中に溜まっていく他ない。
 
どうもこのようなカラクリが、私たちの精神史の中に逃れ難く埋め込まれている。自事が問題にされる感性から、こうした議論が展開できるように思うのだ。
 
3.自事の二重性
 
しかし、仕事と対比される自事を”パブリック事"にそのまま対置させてしまっては、自事が持つ重要な含みが削がれてしまうとも思う。細かい話になっていくけど、自事は「自ずとやってしまうこと」と「自分がやりたいこと」「自分がやらなければならないこと」といった複数の位相を含む。
 
「お金もらえないならやらない」ってなったらどうなる?
妊婦さんに「500円で席譲りますけど、どうします?」
みたいになったら、
ときくと、
多くの人は「終わりだよねw」みたいなことをこたえる。
 
中野成樹は、「妊婦に500円で席を譲る」といった想定を上げて、こうやって全てが仕事になり報酬ありなしだけが行為の基準になったら、「世界は終わる」と言う。「自ずとやってしまうからやる」行為が実は世界を根底から支えている、と。その感覚は多くの人が共有するところだろう。
 
だが、例えばたまたま「自ずとネコを殺したくなってしまう」人がいたらどうだろう。もしくは自ずと「人をいじめたくなってしまう」人がいたら? その行為が世界を根底から支えていると言えるだろうか? この想定に、あまり多くの人の共感が得られないのだとしたら、世界を根底から支えているのは、「自ずとやってしまう自事」ではなく、「自ずとやってしまう自事」と「自分がやらなければならない自事」がたまたま一致しているからにすぎないということだろう。つまり「私は人をいじめないことをしなければならない」とか「私はネコを殺さないことをしなければならない」とか「私は妊婦に席を譲らなければならない」といった自事が「自ずと」されることで、世界の根底は支えられている。
 
自ずとなされることが、自ずとなさねばならないこととたまたま一致する、そういう前提からしか、パブリックな場を想定することはできず、それを一致させる理念が論理的な意味によってお互いを確かめ合うことができるような、つまり対話を成し得る理性を持った「主体」の概念である。主体は自ずとしてしまう自事を成し得る自由を有しており、なおかつ、別の主体の自事を自分の自事と同じように扱う平等の義務を負っている。
 
こうした主体のフィクション性によって支えられるのが、パブリックを内面化した民主主義社会であると、そのようにひとまず、確認することができる。《自事》が《パブリック事》に接続されるためには、自事の二重性が必ず要請されるのであって、主体の権利―自ずとなされること・自ずとせねばならないことが一致する私―が幻想されるところにしか、《パブリック》な場は成立していかない。
 
4.私的なもののうごめき
 
しかし、僕は(そしてもしかしたら、中野成樹も)「自事」をより純粋化して「ねばならない」との一致を差し引いてしまいたいのだ。自事を「自ずとやってしまう」という意味にだけ限定して「世界のあり方」を理解したい衝動にかられる。つまり、「自ずとネコを殺したくなる」ような自事が起こりうる可能性を含みこんだまま、「パブリック」な集まりを構想できないだろうか? と考えるのである。
 
本来、「自事」は制御不可能な「私のうごめき」のようなものであるはずだ。「ネコを殺したくなる」が過激すぎる想定だとしても、例えば「ひとつの机とふたつの椅子とシェイクスピア」で取り上げた羽鳥くんのポストパフォーマンストーク*2は、およそ「対話」によって理解可能な《意味》でもって確かめることが出来ない感覚的な余剰を含んでいたからこそ、異様なものに感じられた。「おのずとそうなってしまう」感覚が前面に出てくれば出てくるほど、人間は理解不能なものになっていく。しかし、それこそが世界の実質なのではないか? そうならないように、「主体」概念によって《自事》の最も根底的な意味を覆い隠しているのではないか?
 
このように、僕が少し入り組んだ事情を考えるのは、僕が擁護したいと思っている極私的なもの、それが集まりの中で現れ確かめられるような集まり方、つまりは《私的なものからなる公共圏》と名付ける集まり方が、こうした入り組んだ事情のうちに隠されてしまうからであり、こうした事情を考慮しないと、探り当てることが出来ない、と思うからだ。
 
僕が言う《私的なもの》は、二重に隠されている。第一に「仕事―趣味」の連合軍によって、第二にパブリックな場を形成する「主体」概念によって。報酬を得ない活動が全て「趣味(社会に再度仕えるためのリフレッシュタイム)」と名指されてしまうことについては指摘した。しかし、《自事》という概念を《仕事》に対置させることで、《私的なもの》は独立した領域を形成する可能性を見せるし、さらにはこうした《自事》と《パブリック事》が接続されることで、私たちの集まりにおいて《私》が集まりの中に現れる政治的可能性を担保できることが確認された。ところが、こうして現れた《私》は「自ずとなされること」と「自ずとせねばならないこと」が一致する《主体》概念によって支えられているのであって、自事が集まりの中に現れる可能性は、「あなたをわたしと同じようにあつかわねばならない」ことの条件をなす「論理的な対話によって行為の意味が確かめられる主体」の概念によって覆い隠されていくのである。
 
※「論理的な対話によって〜」の部分、平たく感覚的に言えば「ちゃんとした人間」です。
 
したがって、僕が言いたい意味での《私的なもの》をすくい取り、それら《私的なものからなる公共圏》を構想するためには、意味的に理解できない、感覚的なうごめきのようなものこそが、実は世界の実質であり世界を支える見えない原理であることを言わねばならないし、それを確かめあえるような場を設計してみせる必要がある。
 
これはかなり難しい作業だと思う。ここまでの説明が難しい話に見えると思うし。
ところで、《トマソンのマツリ》という実践は、実はそうした《私的なものからなる公共圏》を構想する実践である(ということに、この文章を書いていて気づいた)ので、《トマソンのマツリ》と言葉を用いた批評活動を両輪に、なんとか、このあたりをまさぐっていきたいものだ、と思う。

*1:僕が理解する《公共》の概念については、下記の記事をご参照ください。

「トマソンのマツリ」赤裸々稽古場レポート

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2017年1月某日。
By 稲垣和俊
 
1月28・29日に仙台で上演する《トマソンのマツリ》の稽古レポート。
 
**************
 
渋革 とりあえず最初にかなり前に出したインストラクションの中からなんかしよう。(ノートを見る)どれがいいかな。
稲垣 これでしょこれ。
 
①稲垣、口にブラックホールというインストラクションでぶらんこを読む。
途中で止める。

 

稲垣 なんやこれ。
渋革 想像以上にダメやな、なんでこれ、使えるかも表記にしてんの?もしかしたら、このノートに書いてるの全部使えやんかったりして。
稲垣 いや、そんなことないでしょ、愛の周波数を奏でなさい、とか使えるでしょ。
渋革 顔にサランラップを巻いてしゃべりなさい、やってみたいわ~。
稲垣 いや死ぬ死ぬ、死ぬから本当に。
渋革 よし、これしよう。ちょっと、怖いけど
 
② 稲垣、ぶらんこのセリフの一つ一つの単語が違う意味をするように発語する。
例 昨夜はね素敵な夢を見たよ。→裂く、矢、輪、根、捨て、来な、有名、oh、みた 、YO。
 
渋革 いいね。まさかの。
稲垣 えっ、いいんですか?
渋革 距離があるよ、とてつもなく、セリフとの間に。二十世紀演劇史を感じるよ。
稲垣 大げさだな。
渋革 いやマジで。前からやってるボルタンスキー(稲垣が行ってきたボルタンスキー展の展示の質感+自分の気持ち悪いタイミングでしゃべるというインストラクション)にもこの雰囲気ありますよ。
稲垣 ほうほう。
渋革 ちょっと、これで途切れ途切れの発話をつなげて、しかし今の感覚維持してやろう。
 
③稲垣、やる。
 
渋革 オッケイ。オッケイ。
 
休憩中。
 
渋革 鏡を見ながらボルタンスキーやりたいね。
稲垣 何でやねん、どういうことなんすか!
渋革 いや実はこれの影響やねん。
 
渋革、ラカンの本を見せびらかす。
 
渋革 夢やし、そしたらなんか色々影響されましてね。鏡とかまさに、この本からだし、最近稽古場で発する突拍子もない言葉もこの本からですねん。
稲垣 まじかよ。
渋革 それで、こういう話があると、赤ちゃんは鏡を見るまで、自分の身体の感覚がないと、こう自分がウニャウニャ~て存在してるような感じらしい。そして、鏡を見た時、自分が形としているのを見て、喜ぶらしいよ。
稲垣 へえ。
渋革 トマソンも自分の身体がなくなって感覚だけになってく感じあるくない?
稲垣 なるほど。
渋革 てことでこれを踏まえてなんかやってよ。
稲垣 ええ~、具体的アイデアのなさがひどい。
 
④稲垣、セリフの俺と言う部分でタメたり、何かを吐き出す様に言う。
最初の方は、自分を指すという意味で胸をポンとたたく仕草から、話が夢に入っていくと、俺が膨らんでいく、足を差して俺と言ったり、上を差して俺と言ったり、ていうようなことをする。

 

稲垣 ベストパフォーマンス賞、受賞ですわ。
渋革 いや、良かったけどね、良かったけどね、かなりブランコの上演としては的を得ているが、祀りではないなあ、今のを祀りとしてやってみてよ。
稲垣 だからどうすればいいんだよ、プリーズ具体的アイデア
 
⑤稲垣、机の上に顔を乗せて、指人形がしゃべる感じを、後ろの顔が見てる。という感じ。

 

渋革 なんか、おしい。
稲垣 おしいの、これ。
渋革 捧げてる感があるね、顔に。
稲垣 そうそう、この机が能舞台って感じでね。
渋革 でもこれに飛び込む勇気はないっ。もっとないかな。もっと宙に浮いてる感じ出ないかな、根無し草的な。
 
⑥稲垣、登場して、机の前に礼儀正しく靴を置き、机に座る。
指人形ならぬ、足指人形さながら足をしゃべらせる。 そして、夢の話に入るとどんどん足が高くなり、最終的に寝そべりながら、足を高々と掲げる。
 
渋革 かすってるね。
稲垣 かすってるんですか?
渋革 まず、最初に姿勢を整えてるのが良かった。
稲垣 えっ、そこ?
渋革 演劇で姿勢を整えるやつ、おる?始めるまえとかしゃべる前に舞台上で。
稲垣 まず、リアリズムならできないですやん。
渋革 リアリズムでなくてもしないよ。
稲垣 確かに。
渋革 そして1人遊び感が儀礼て感じがする。この人にとってこれをやることで何か変化してくみたいな。
稲垣 なるほど。
渋革 今まで見つけたトマソンもそれぞれの動きとかが、儀礼て感じがするよ。
稲垣 ブランコをすること自体が儀礼にならなければってことですよね、例えば、今まで見つけたトマソンの例えば、きれいな左手=ぶらんこ的な。
渋革 これをやってみよう。
 
⑦稲垣、フロイトに出てくるらしい糸巻き遊びをする赤ちゃんのように、言葉をポンと投げるように発話し、それを聞いて喜ぶ、という無邪気な赤子のようにしゃべる。
 
渋革 かすってるね。
稲垣 かすってるの、ただの赤ちゃんプレイやん
渋革 しかし、どれも飛び込む勇気はない。
稲垣 決断力ですね。
 
渋革、悩む
 
渋革 さっきの俺のとこでためるやつをもっと演説じゃなくやってよ。演説てエンターテイメントやん、
 
⑧稲垣、やる。
稽古場の放送アナウンス

 

渋革 とりあえず宿題、ぶらんこの中からトマソン的身振りをあと5個抜き出してきて
稲垣 へい。

2016年を振り返る

2016年を振返ります。
 
1〜3月 働く。デッサンの勉強をする。
5月 tana+kari『孤独の光』/フライヤーなどデザイン・音響オペ
6月 『トマソンのマツリ(準備)』ーから研ダンスフェスに出品/演出
7月 『トマソンのマツリ(準備)』ーせんがわ劇場演劇コンクールに出品/演出
8月 村川さんのWSを受ける
         「じゃんがら念仏踊り」に参加
10月 『トマソンのシェア会』ー"情熱のフラミンゴ"のアトリエ「浮ク基地」で開催/演出
10月 小学生相手に初ワークショップ
11月 「熱血!生田萬が行く!」助手
12月 250km圏内『妻とともに』/フライヤーデザイン・コンセプトブック作成
12月 ユバチ『点と線』/フライヤーデザイン
12月 ハチス企画インタビュー連載「アプローチ」を開始
 
今年の特筆すべきことは、「トマソンのマツリ」が死なずに持続したことと、デザイン関連のワークを幾つかこなしていったことだろう。ここ数年の編集・デザインの集大成は小嶋一郎(250km圏内)コンセプトブックに結実したと思う。それはもちろん、250km圏内がその活動に関わらせてくれつつも、僕を本当に自由に放し飼いにしてくれた、その結果だと思う。良い距離感で、僕が一番力を発揮できる距離感で付き合ってくれたことに、感謝している。
 
もともと、僕は、「とまる。」のような批評・編集の活動から手を切ろうとして東京に行った。そういうところがあった。だけど、なんだかんだ過去に培ったものは僕を離さないし、そこで蓄えたものを今年は使っている気がするし、僕もそれが嫌じゃないと思っている。元「とまる。」編集長としてインタビューを受けたことも、京都時代と「今」が切れていないことを感じさせてくれた。
 
来年は意識的に少し、批評活動に力を傾けてみたい、と思う。
 
そして、当然、トマソンのマツリである。
僕の中心はこれだ。「トマソン」というタームに出会えたことは、幸運だった。そして、から研ダンスフェスやせんがわ劇場演劇コンクールで、多くの人に「トマソンのマツリ」の活動を知ってもらえたのは、大きな推進力になった。
 
来年は、定期的なリズムを作ること、そして、戯曲にチャレンジすること、具体的には岸田國士の初期戯曲を「トマソンのマツリ」として解釈して上演すること。また、10月に「トマソンのシェア会」を開催して、小さく小さくやっている、その成果を発表できれば、来年はOKって思う。
 
とにかく、ゆっくりと、やろう。
もう、僕は世間的に・業界的に承認されるステップを目指していない。僕の中にも残っている、こういう欲望はなんとかして完全に断ち切りたい。同時に、そうした《私的な活動》が持つ意味の基盤を、批評的に確定させてみたい。
 
今後の僕の演劇活動の全ては、そうしたことだけに費やされる。それがわかる。
 
最後に、僕が受けたインタビュー記事のURLを、記録として載せる。こうして、多少なりとも、世に発信できる場を設けてくれた柏木さん・神田くんに感謝したい。
 

レビュー企画 第3回 高田斉ーーー『とまる。』書き留めの先人
http://kyotostudentstheaterfestival2016.blogspot.jp/…/blog-…

 

コンクール直前インタビュー!(6)<トマソンの祀り>のための集まり
http://sengawagekijo.tamaliver.jp/e426164.html

 
稲垣くんにも、まふみさんにも、よっしーにも、ゆかりさんにも、前田さんにも、島村さんにも、直人さんにも、みきさんにも、感謝したい。
 
 

プリズマン『プリズマンの奇妙な冒険』/観劇スケッチ

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2016年12月10日〜11日
@十色庵
 
プリズマンは宮尾昌宏、竹田茂生による演劇ユニットである。処女作はクライスト『地震の話』を原作にした『ハピネス・イン・ザ・トゥルース』。これを2014年に発表。続く15年には観客席が取り払われ、茶会記というアートスペースの三つの部屋を用いた同時多発的パフォーマンス『脱出の時代』を発表。そして、今回は新たに笑いに焦点を当てた短編集『プリズマンの奇妙な冒険』のお披露目となった。僕はなんと、この三作品すべてをきちっと見ている。年に一度のペースで作品を発表しているプリズマンの作風は安定せず、一作ごとに全く別のテイストになっていくのが、何となく面白い。
 
しかし、プリズマンの脚本・演出を務める宮尾の視点は常に一貫している。視点というか、何だろう、「わからない」という感覚をとにかくなんでもかまわない、手法なんてどうでもいい、そのときたまたま興味を持った手法でもって観客とこの「わからなさ」を共有しようとする姿勢は、作風の違いを超えてプリズマンの通奏低音となる。
 
ちょっと取り急ぎなんで、あまり細かいことに言及しないけど、今回の三つの短編のうち、多分メインであろう最後の「シン・テトリス」は非常に不思議な質感を持った作品だった。この40分程度の短編のあらすじは単純で、なぜかある狭い場所に囚われた男が、なぜだかわからないけど落ちてくるテトリスをなんとか消していき、最後には解放されたと思いきや、なぜだかわからないけれどもう一度囚われて宇宙空間にロケットで飛ばされる、というもの。
 
まぁ、なんだかわからない。なぜ囚われたのか、そしてなぜ途中で落語調で俳優が話すのか、なぜ途中でいきなりラップを歌い出すのか、なぜ女子高生らしき女がやってくるのか、なぜ宇宙に飛ばされるのか・・・。脈絡が、ないのだ。そして、僕はドゥルーズガタリが唱える「リゾーム」の概念を思い起こす。
 
リゾームないし多様体としての操り人形の糸は芸人ないし人形遣いの、一なるものと仮想された意図にかかわるのではなくて、神経繊維の多様体にかかわるのであり、この神経繊維が今度は、はじめの諸次元に接続された別の諸次元にしたがってもう一つ別の操り人形を形作るのである。
 
ツリー的な一つの超越的価値によって組織していく有機体に対して、リゾーム的なうごめきが対置される。宮尾は、その劇団名(プリズマンー乱反射する男)からしても、活動の最初に(ドゥルーズガタリリゾームの最もたるものとして言及する)クライストを選択したところからしても、そして、脈絡なく複数の劇形式が串刺しにされていく時間の構成の仕方にしても、何かしら、リゾーム的な神経繊維の多様体を思わせる。というのはつまり、その劇があまりにも《私的》なものであるということを意味する。テクストを執筆した宮尾の「わからない、わからない」というつぶやきに、なぜ僕は囚われているのか、男はなぜテトリスを積み上げては消しているのか、テトリスが天井まで積み上がるとどうなるのか、男が抱えるテトリスを消していかなければならない言い知れぬ不安は何なのか、なぜ男は何らかの形式の力を借りて喋り続けなければいけないのか、一切答えがないこれらのわからなさに観客は延々と付き合わされる。
 
普通は、だ。一定の古典的なドラマトゥルギーを理解しているものからしたら、主人公は葛藤を生み出す問題に対して何らかの行動を起こしたり、そしてその問題の意味の解像度をあげてみせたりするだろう。この何ら答えの出ない、というかそもそも答えの仮設も立てられない、かといって不条理劇のような構造的に示される無意味さー例えば「ゴドーを待つ」構造から、その無意味さを暴いていくベケットのような―があるわけでもない、ただ「わからない」と言われ続ける体験は異常だ。しかしここには擁護されるべき《私的価値》があるのだと、僕は言いたくなる。
 
観客は、こうした一連の脈絡のない、そして答えのない「わからない」があの手この手で示唆されていく時間と付き合う内に、宮尾が抱える神経系に触れていくことになる。神経系は統御できない。とにかく信号があらゆる領域へと拡散し、例えば何かの危険を知らせる。まとまった意味が生じる以前の神経繊維に広がる危険信号。この、ビビビと走る信号を、観客は共有させられる。意味はわからない。しかし宮尾のカラダの内に広がる統御不能なイマージュのうごめきが、まるで自分自身が宮尾に同一化してしまったかのように察知させられるのである。
 
プリズマンは、もしかしたら公共的な、演劇の言説空間に位置付けられるようなポジショニングを持てないかもしれない。その《私的なもの》を客観的な表現に変換してもらわないと、どうにもならないよ、と思われるかもしれない。だが、そうした客観性の欠如を要件とした《私性》こそを、僕は興味深いと思ったし、何か非常に重要なことだとも、思った。

《公共性》は単に必要とされていないのでは? 250km圏内京都公演で思ったこと。

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この冬、小嶋一郎・黒田真史による劇団「250km圏内」の京都公演『妻とともに』に同伴し、主にコンセプトブックの製作作業を担った。そのなかで、《公共》について、自分なりに腑に落ちることがあったので、書き留めておきたい。

※ただし、小嶋一郎の唱える劇場論・対話論とは重なりつつ無関係である。
 
 
 
 
 

「私たちが一緒に食事をとるたびに自由は食席に招かれている。椅子は空いたままだが席はもうけてある」

(ハンナ・アレント『過去と未来の間』)

 
ハンナ・アレントはそう言う。椅子は空いたままだが、席はもうけてある。「自由」の座る席が、というのを「あなたの座る席が」もうけてある、と理解するならば、これは端的に《公共》の輪郭を言い当てている(と思った)。つまり、「あなた」の存在が認められていること、そして食卓を囲んで言葉を交わす用意があること。こうした事態を指して《公共の場》と言うのだろう。
 
一般論としてはそれで納得なんだけど、だが「あなたの席がある」「あなたと言葉を交わす用意がある」と、ことさらに言わなければならないとは、一体どんな状況なのか? これってかなり特殊な状況なんじゃないか。なぜなら、僕らは僕らの席がそこにあるのは普通のことだと思っているし(居酒屋で友達とテーブルを囲む)、言葉を交わすことに何か困難があるとも思えないからだ。
 
そんなことはない、この社会に席を持たない人はいるし、彼らと言葉を交わす場を設えることは常に課題なんだ、とは言える。しかし僕が指摘したいのは、日常的に実感できるレベルで「あなたの席はある。あなたと言葉を交わす用意は出来ている」なんて意識することがどれほどあるだろうか? 飛躍させて、こうも言える。観客席に座るときに「わたしはここに座らざるをえない」または「わたしの席がついに用意された」なんて特別な感じを持つことなんてあるか?  そりゃチケット予約してお金を払ったんだから座れるでしょ、って思うんじゃないか。
 
しかし、その席に何か特別な必要性を感じられる空間が《公共空間》なんじゃないでしょうか。
岸井大輔が『東京の条件』で次のように書いていた。
 
去年の十二月に、フィンランドの友人とした会話
 
「会議をしないで、大勢でどうやって問題を解決するんだい?」
「・・・スープをシェアするんだよ。・・・三時間くらいシェアスープ(つまり、鍋)をすると、問題が解決しているのさ」
・・・
「それで本当に問題は解決するのか?」
「賭けてもいいけど、ここに日本人が十人いたとして、問題の解決に、ディスカッションとシェア・スープのどちらが有効か、と聞いたら、まあ、八人くらいは、鍋と答えると思う」
 
※『東京の条件』は「公共という芝居を演じるのが上手くない日本という劇団にあてがきした、公共を演じるための戯曲」ということのようです。
 
小嶋さんもまた、似たような対比を出している。居酒屋で話せればそれでいいのだけれど、僕はそれが出来ないから対話する劇場の場を必要としているんだ、と。居酒屋が「シェアスープ」であり、対話する場が「ディスカッション」である。岸井が言う「日本という劇団は公共を演じるのが上手くない」というのを、小嶋の語り口で言い直すと「役割や立場からでなくて《個》として問われる経験、それはとても困るけど非常にスリリングなものです。そういうほんとうの意味での《他者》に出会いたいんです。」になる。
 
つまるところ、日本は居酒屋談義/シェアスープで《みんな》の席を用意しているんだから、難しく考えないで楽しく飲もう、そしたら同じ釜の飯を食った仲間、まぁお互い大変だけれども頑張っていきましょうで万事解決OKと思える国なのであって、わざわざ「あなたの席を設ける」必要なんてどこにもない。しかし、こうして用意された《みんなの席》とアレントが「席は設けてある」という席の間には、埋めがたい溝が広がっているように思える。
 
僕たちが巨大なシェアスープを囲んでいると想像しよう。
スープの具材は、わたしたちが抱えている様々な問題である。これは巨大な鍋なので、僕の目の前にある具材に手を付ければ、他の具材は他の人が手を付けてくれるだろう。いや、そもそも、この具材は鍋のスープに溶け込んでしまっているかもしれない。それを僕の見えないところで誰かがお玉ですくっているかもしれない。ワイワイ楽しくやっている内に、どうせいつか鍋は食べきられるのだから《わたし》がそれに手をつけなくても誰かが手を付けてくれるだろう。鍋は《みんな》で楽しむものなのだ。
 
しかし、スープが全て飲み干されたとき、実はまだまだ具材が底に沈んで転がっているのかもしれない。それは果たして具材だろうか? もしかしたら、人間の姿をしていないだろうか? いつの間にか《みんな》で楽しむ宴会からスープの中に突き落とされてしまった、席を持たない人間がこちらを見つめてはいないだろうか? 僕たちは彼/女に対して、どのような言葉をかけるのだろうか? 
 
こうした想像力が働くときに、《他者》が開示されるのだろうと僕には思われる。この時、わたしが見ないようにしていたソレ、スープを囲んで楽しく一杯やるための肴にはなっていたのだが、実は見たことも聞いたこともなかったソレ、と向き合うことは大変しんどい。出来ることなら対面したくはないだろう。しかしそれでもなお宴会の賑わいを切断する声が聞こえたならば、もしくは《わたし》がいつの間にか宴会の席から転げ落ちていたのであれば、そんな切羽詰まった状況があってしまったなら、「席はもうけられねばならない」。こうして他者が招かれた《公共空間》が設えられる。ここでも食事は行われるだろうが、それはあくまであなたを歓待するために用意された食事である。
 
こうした《公共空間》はもちろんどこにでも出現しうる。公共ホールと《公共空間》が等号で結ばれないのは、周知の通り(民間劇場でも《公共空間》は可能だ)。しかし、僕たちが公共ホール・公共を自認する小劇場がよく言う「公共は広場だ」との主張に実質のなさを覚えるのは、広場の機能はわかった、だが、なぜ他者が開示され、わざわざ自分のアイデンティティが揺さぶられなければならないのか、反対になぜわたしを他者として開示せねばならないのか、を理解できない=必要としていないからではないか。
 
250km圏内の上演の後に用意される《対話の場》は、馬鹿みたいに字義通り、《公共空間》を設える試みだった。その賛否(企画のクオリティ)は置くとしても、その意味が理解できないというのであれば、劇場の《公共》的な役割が単に必要とされていないからじゃないか? 逆に言えば、他者が開示され、他者と対話することの切羽詰った必要性が生じなければ、劇場が《公共空間》の性質を帯びることはついにないんじゃないか? 僕たちは居酒屋・カラオケ・カルチャーセンターがあれば、まぁOKなのだから。
 
※250km圏内の京都公演で思ったことではあるが、小嶋一郎は僕のようには考えていない。なぜなら小嶋一郎は僕やあるいは岸井のように、公共は演じられる=公共は倫理的な「ねばならない」から生じる、とは考えないからだ。逆に小嶋は「公共は欲望されている」という。わたしは話したい、「わたしはこう思う」を話したいし、「あなたがこう思う」を聞きたいんだ、それはスリリングで楽しいことだ、みたいなふうに。というかここで想定されている《対話》は常識的なそれではなくて、わたし固有の声=音、わたし固有の身体=エロスを介在させた動物的なコミュニケーションの次元であって、演じられた公共の「ねばならない」が剥ぎ取られた後でなお現れる特異な《公共空間》である。ヨーロッパ思想の伝統からいって厳密な意味での《公共性》ではないかもしれないけれど、それでも僕には何か好ましいものに感じられる。岸井と小嶋のこの違いは大きな違いだと思うけど・・・これは余談ですね。

〈公共空間〉を仮設する―小嶋一郎/250km圏内

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※小嶋一郎コンセプトブック「コミュニケーション原論〜あるいは剥き出しの劇場へ」(2016年発行)より転載します。
 
〈公共空間〉を仮設する Ⅰ
 小嶋一郎は劇団250km圏内の演出家である。近畿大学演劇専攻に入学。西堂行人に師事した小嶋は、その過程の中でいわゆる「演劇とはこういうものだ」の固定観念を払拭させていったという。その後、杉並区の公共劇場「座・高円寺」が開設した養成所「劇場創造アカデミー」において佐藤信らに師事。社会批判と観客の意識変革を促すブレヒト的な背景を持った教育をまともに受け止めた小嶋は、小劇場演劇に散見される〈若さ〉の奔放なエネルギーやルールを犯すヤンチャさの表現へ進むことなく、社会へ介入するための創造的な手段として〈演劇を使う〉ことを学ぶ。つまり、小嶋一郎は限りなく真っ当に演劇の社会的役割を考え・表明し・実践するアクティビストたらんとしたのである。そして、あまりにも真っ当なことを発言し実践するがゆえに日本では異端者の位置に据え置かれる矛盾を体現する存在となった。
 彼が欲しているのはたったひとつのシンプルなこと、劇場を理想的な対話の場にすることだ。換言するならば、私たちにとっての他者を開示し、他者と対話をするための椅子が用意されている空間、〈公共空間〉を劇場にインストールすることである。 
 
〈公共空間〉を仮設する Ⅱ
 〈公共空間〉を劇場にインストールする理念を体現するように、京都芸術センター舞台芸術賞大賞を受賞した《日本国憲法*1は、客席が設定されず出入りは自由、「日本国憲法」を単なる音として発話する俳優たちを間近でまたは遠巻きに体験する空間を設計し、「憲法」と私たちの物理的な/意味的な距離感を可視化した。私たちの無意識に沈んでいる「日本国憲法」をもう一度〈私〉の価値観を揺るがせる他者として開示してみせること、そうすることで〈私〉にとっての憲法とは何かを問い直し、その新しい意味へ自由にアクセスできる〈公共空間〉を仮設したのである。翌年には、3.11後に生じた受け止めきれない経験に「対処できるようになるまでの時間」を〈圏内〉と名付け、俳優自身が経験した〈圏内〉での出来事を語る作品《250km圏内》*2を発表する。これもまた、3.11から生じた時空間を〈他者〉として開示する〈公共空間〉の仮設が目指されたものだった。
 つまり小嶋にとって演劇の本質は、何らかのメッセージを表現することでは決してなく、〈他者〉を開示することからなる〈公共空間〉の仮設であり、そこに小嶋の舞台芸術家としての特異性を見て取ることが出来る。
 ところで、〈公共空間〉が成立する条件は二つある。〈他者〉が開示されていること、〈対話〉の意味(方法)を知っていること、である。ここで小嶋は一つの、しかし超え難い壁にぶつかったという。〈公共空間〉の前提となる〈対話〉の思想・方法・環境を僕たちは手にすることが出来ているだろうか? この日本に〈対話〉を成立させる社会的・精神的条件はプリセットされているのだろうか? もしかしたら、端的に存在していないのではないか。
 この問題意識に対する悪戦苦闘の軌跡が、第二期とも言える小嶋の活動を特徴づける。俳優二人がただ力強く押し合う行為から演劇でもダンスでも日常のしぐさでもない身体行為を提示する《No Pushing》*3、不協和音の調和をコンセプトにした《250km圏内の三人姉妹》*4、そしてデタラメ語を方法に純粋な意図によるコミュニケーションを目指した《Love&Peace1・2》*5と、作品のポイントが社会問題を〈他者〉として開示する試みから、コミュニケーションのあり方の理想形を提示する試みへシフトするのである。ここから、小嶋の作品では「いかに対話するか?」が焦点となり、そのための身体・関係・発話の仕方が模索されていく。こうした模索から得られた対話の方法は、俳優に強い負荷をかけるもので、およそ日常的なコミュニケーションからはかけ離れているように見える。だが、それは大江健三郎が「あいまいな日本の私」と言ってみせたように、まわりの空気を過剰に読み込み、それを〈私の言葉〉と取り違えてしまう日本固有の未分化な主体意識に「わたしはみんなである」ではない「わたしはわたしである」をセットアップするために必要な過酷さであり、その負荷はそのまま〈対話〉を成立させる条件を明らかにする。観客は舞台で展開されるコミュニケーションから〈対話〉の方法を学ぶのだ。
 しかし小嶋はここからさらに一転する(だから小嶋作品の同伴者は困惑する)。彼はここから演技論を純粋化していく(アートにしていく)方向性をとらず、さらに第三期とも言いうる活動への移行を告げる。各作品を通じて模索された〈対話の条件〉を用いたコミュニケーションは、何らかのテーマ(語り継ぐもの・幸せ・老後etc)をめぐるコミュニケーションのモデルケースとして提示され、その上で実際に観客とそのテーマについて〈対話〉する〈ゲキジョウはゲンロンのバ〉プロジェクトがはじまったのだ。
 劇場の機能を宣言するマニフェストのような役割を担うこのプロジェクトは、作品によって〈他者〉が開示され、方法によって〈対話〉の条件が示され、実際に観客との〈対話〉の場が設えられる、三段階のステップによって、制度として押し付けられた見せかけだけの〈公共空間〉ではなく、その場で経験される具体的な〈公共空間〉を押し開く。《日本国憲法》にはじまった〈公共空間〉の仮設という課題は、螺旋状に深まり回帰した。それはもう舞台上で完結される象徴的な空間に留まることなく、〈他者〉と〈対話〉を両輪に公共が実装された現実の空間を構想するプロジェクトに結実したのである。
 
文:渋革まろん
 
250km圏内
2013年に演出家の小嶋一郎と女優・ダンサーの黒田真史が立ち上げた劇団。二人とも座・高円寺「劇場創造アカデミー」修了( 1 期生)。2015年からアトリエ劇研「創造サポートカンパニー」。「コミュニケートのあり方の理想形」を舞台上で表す作品を上演。同時に、観劇文化をつくる活動を各地で行っている。

 

*1:2009年初演

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*2:その一部は10分ほどの短編《地震の話》としてレパートリー化され、各地で上演。

www.youtube.com

*3:2012年初演

www.youtube.com

*4:2013年初演

nearfukushima.blogspot.jp

*5:2014年初演

nearfukushima.blogspot.jp